あなたに贈るわたしの物語
人間の寿命は年々更新され続けている。
人間が200年生きることが当たり前となってしまった今の世の中では、食料問題や土地不足、そのほか様々な面で人口増加における諸問題が深刻化してきている。
わたしはもうそろそろ眠りたいのよ。
彼女はそう言ってベッドから視線を投げかけた。鉛色に濁った、重々しい瞳であった。
今までたくさんの勉強をしてきた。いろんな国の歴史を頭に詰め込んできて、その知識は今になっても頭の中にこびりついてる。
でもね…、と彼女は言った。
自分自身の記憶が、日に日に抜け落ちていっている気がするの。
それはどういうこと?自分の昔の記憶がなくなっていってるってこと?
そうよ。
認知症になったの?記憶維持装置を脳に埋め込んでないの?
埋め込んでいるわ。…埋め込まれたの。今の世の中、死にたくても簡単には死なせてくれないでしょ。家族の考えもむげに出来ないし…。もうわたしも今年で186歳。何歳まで生きれば、普通に「寿命」を全うした人って呼ばれるようになるのかしら。わからないの。
たしかにね。家族や周りの期待は大きいよね。まだ生きていられるでしょ?死ぬわけないよね、延命装置があるんだからっていう期待だよね。でも、どうして記憶が抜け落ちてるなんて感じるの?装置をつけているのにさ。
物心ついた頃からの記憶、もちろんあるわ。だけどね、装置じゃ回復しきれないものってあると思うの。こういうところに行った、とか、とても楽しかった、とか、そういう記憶は残るのよ。だけど、本当に自分が感じてた気持ち…感動とか、匂いとか、雰囲気とか…うまく言い表すことができないけど、そう言った曖昧な気持ちを日に日に忘れてしまっているような気がするの。昔ならふとした時に思い出せていたこととか、なんともいえない記憶がなくなってしまっているように感じるのよ。
ははあ、まあ、言われてみればなんとなく、わからなくはないなとも思うことだけどね。
僕はそう返事をした。
彼女はもう身体の更新は止めていて、あとはただ体の寿命が自然と来るのを待つだけの状態だそうだ。
ベッドから細い手を伸ばして、彼女は僕の膝に触れた。
だから、ね、お願いがあるの。
なんだい?
いつにもなく真剣な眼差しで彼女は言った。
わたしの記憶を、あなたに贈らせて欲しいの。
記憶を?
そう。忘れていってしまう大切な気持ち。あの時どう感じたかとか、そんな抽象的な記憶をあなたに覚えていて欲しい。わたしが完全に忘れる前に。
喜んでお聞きしますよ。
…ありがとう。
彼女は微笑む。
わたしが生きていたこと、わたしが歩んできた道、わたしが体験してきたこと、その全てが文字に残る「思い出」で作られているわけじゃない。きっと、話すことで伝えられないものがあるから、わたしの中でその思い出が大切なものと化しているの。わたしがこの世界にいたという証拠を、あなたに分かち合いたい。知って欲しい。逝く前に、若い人へ知らない世界のことを教えてあげたいの。記憶として、贈りたいの。
これがわたしの最後の願い、そう言って、彼女は僕に贈ってくれた、彼女の記憶を。
生きることの意味とは、長生きすることの意味とは、深い人生を生きる意味とは、なんだろうか。僕は彼女の記憶から、なんとも言えない大切な感情に気づくことができた気がする。
これは次の世代への、素敵な贈り物だ。