第93話 深呼吸
秋季関東地区大会は、東京都を除く関東の7県が参加する。群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県、千葉県、山梨県の6県は各県大会の2位以上が、今年の開催県である神奈川県は3位以上が出場することになる。
この関東大会で、ベスト4以上なら選抜甲子園への出場がほぼ確定する。当然、どこの高校も春の甲子園は狙っているので、道のりは簡単なものじゃない。3位通過だから、各県の1位通過と2回当たる可能性も高いし。
今までもプレッシャーというか、重圧を感じる場面はあったと思う。それでも、あと1つで甲子園に行けるという状況で最終回、1点リード時に守備へ就く時の重圧は半端な物ではない。そうでなくても、試合前から緊張をしてしまうかもしれない。
「ということで、メンタルトレーニングをするよ。特に全国大会行きがかかった試合とか、経験していない人の方が……多いのかな?」
「私と詩野さん、本城先輩が全国出場経験者ですが、残りの5人は経験が無いはずなので、経験の無い人の方が多いかと」
よく甲子園とかで劇的な逆転が多いのも、このプレッシャーによるものだから、その対策を教えたい。久美ちゃんや詩野ちゃん、本城さんとかは経験済みだから、要らないかもしれないけど。
「緊張をする時に考えるな、というアドバイスをしてきたと思うけど、実際に考えずプレイすることは出来ないよね。だからこれから行なう訓練は、考えないでいられるようにする訓練だよ」
「……どうして、初めからそういうことを教えないのよ」
「行き詰まってからの方が、トレーニングの効き目は感じやすいからね。それに、一気に教えても逆効果だし。まずは、ゆっくりと深呼吸をするよ」
真凡ちゃんは、早く教えてくれたら良かったのに、という顔になっているけど、一気に教えると対応することも出来ずに結果、打席で考えすぎるようになったり、いざという時に動けなくなる。このやり取り、短いスイングを教える時にもしたっけ。
緊張をほぐす手段としては、深呼吸をするのが一般的なものだと思う。実際に深呼吸を緊張への対策にするトップアスリートは、一定数いる。深呼吸による精神への安定力、みたいなものはそれなりに高い。
今回教える深呼吸は、鼻から吸って口から吐き出す普通の深呼吸だ。ただし、息を吸う5秒と息を吐く5秒を頭の中で数えさせる。そして日常的に、リラックスしている状況でも深呼吸を行なうよう徹底させる。
日常的に深呼吸を行なわせることで、深呼吸するのは落ち着くことだと身体に覚えさせる。深呼吸の、トレーニングを行なおうということだ。
「これは練習中に、球を打つ前や投げる前にやるべきなのですか?」
「ううん、お風呂に入っている時や、布団に入って寝る前とかにした方が効果は高いかも。関東大会まで2週間の猶予はあるから、そこまでにある程度の訓練はしておいてね」
「なるほど。わかりました!」
智賀ちゃんが深呼吸をするタイミングについて質問をして来たので、布団に入っている時や起きた時、心が休まっている時に行なうよう教える。朝昼晩と1日に3回ぐらいすれば、打席に立つまでの2回の深呼吸で、平常心を取り戻せるようになる。
……まあ、私はもう緊張とかあまり感じないんだけど。慣れるのは慣れるので問題があると思うけど、この中に慣れるほど全国大会に出ている人は居なさそうだし、大丈夫かな。
どんな状況でもその時の状況を忘れて、投手との勝負を楽しめるような、そんなバッターにみんなを成長させたい。だけど、人それぞれ性格や好みが違うから難しいなぁ。
「深呼吸はええな。よく言われる方法やけど、それを鍛えるという発想がカノンらしいわ」
「そうですか?結構、深呼吸のトレーニングは、見かける気がしますけどね」
「実際、チームに取り入れている高校は少ないんとちゃうか?近年はメントレが重要視されとるけど、瞑想とか自己分析程度やろ」
「瞑想も自己分析も、馬鹿に出来ないぐらいの効果はありますけどね……。まあ、関東大会は平常心で戦えるよう、今日から深呼吸の特訓はしておいてね」
関東大会で優勝すると、明治神宮大会にも出ることが出来る。神宮大会は各地区大会と東京都大会を勝ち抜いた10校で行われる大会で、優勝校が誕生した地区からは選抜甲子園に選ばれる高校が1校増える。
いわゆる、神宮枠と呼ばれる枠だ。もしも関東地区大会で優勝したチームが神宮大会でも優勝すると、ベスト8の高校から1校が選出される。神宮大会は東京代表が強いから、基本的に神宮枠は東京が掻っ攫うと思って良いけど。
……東京代表が神宮大会で強いのは、単独で出場枠を貰っているのとホームだからだと思う。秋季東京都大会は東西が合わさって激突するから、かなりの激戦区だ。
秋季大会に出た東京都の高校は268校あるから、神奈川の184校よりかは多い。だけど、どちらが大変かは比べられないぐらいだ。神奈川の方が、野球のレベルは高いとすら言われている。
そんな神奈川で3位だったんだから、関東大会も勝ち上がれる可能性は十分にある。選抜を目指して身体を鍛えるだけではなく、この2週間は意識のトレーニングもしていこう。