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Alice.dat  作者: 稀葉
7/13

File.07 うさぎはおうちにかえれない

 兄は一回り上──十二才年上だった。年が離れている割に、それとも年が離れていたからなのか。優しい兄のことが、大好きだった。

 朝、寝坊してしまうと部屋まで起こしにきてくれるのは大抵兄だった。私は朝が苦手でスマホのアラーム以外に目覚ましを二個もかけてるのに、いつもいつの間にか全部勝手に止まってしまい、ともすれば遅刻しそうになる。もっとも、兄に言わせれば「ちゃんと鳴ってたよ。こっちの部屋まで響いてた」だそうで、呆れたように「いいから早く着替えて下においで」と頭をひと撫でするとそのまま先に温かな朝食が並んでいるはずのリビングへと行ってしまうのだけれど。

 

 体に与えられるささやかな振動に、眠りへと沈み込んでいた意識が浮上する。

 目を覚ましてしまえば、このほっこりあたたかなお布団を抜けださなければいけない。

 アラームはまだ鳴っていない。はず。たぶん。だから、もう少しくらい大丈夫だ。

 昨日は部活がハードだったんだっけ? なんだかあちこち痛い気がするし、疲れだって取れていない。いっそ兄が起こしにくるギリギリまでこうしていようと心に決めて、再び心地よい淵へと沈みかけた途端。


 トントン。


 肩を軽く叩かれている。珍しく控えめな起こし方だ。いつもならお布団をばさっと奪われて、「これ以上寝ると朝ご飯食べ損ねるぞ」と、柔らかな、でも有無を言わせぬ笑みを浮かべて、ぐいと腕をひっぱって起こされて。

 

 ああ、あの笑顔はそういえば誰かに似ている気がする。


 トントン。

 

「おにぃちゃ……あと五、やっぱ十ぷん……」

「寝かせておいてあげたいところだけど。検温だって」

 無理矢理瞼を押し上げると、ぼやけた視界の中、淡いクリーム色のカーテンを背景に苦笑を浮かべているのは兄ではない。

「……?」

 ああ、そうか。彼は『川村さん』だ。

 川村さん。

 ……。

 …………。

 ……?

 ……なんで川村さん?

「おはよう」

 ぱちりぱちりとゆっくり瞬きをしても、クリアになっていく視界にあるのは相変わらず彼の少し困ったような笑顔だ。

 えーと。

 ここは家ではなくて。

 私は……。

「瀬谷さーん、おやすみのところすみません。検温失礼しますね」

 瀬谷さん。

 瀬谷──そうか瀬谷透子。

 足元側からの声に視線をやれば、看護師さんも苦笑を浮かべながらベッドの横までやってきた。

 身を起こしかけて思わず呻く。体のあちこちが痛い。関節もきしむようで、錆びかけのロボットにでもなった心地だ。

 そうしてようやく昨日のことを思い出す。

 線路に落ちて。

 帰れなくて。

 だからこんなにあちこち痛いのか。昨日は痛みを感じなかったところまで痛い気がする。

「あ、横になられたままで大丈夫ですよ。辛そうですね。もう痛み止めも切れてしまってるでしょうから、この後、先生に言って貰ってきますね」

 気遣いの滲む声音とは裏腹に、看護師さんはてきぱきと体温計を脇に挟んでくれる。そのまま右手をとられ、脈を取られた。

「ずっとついててくれるなんて、優しいお兄さんですね」

「え?」

 なんのことかと看護師さんの顔を見上げると、その背後に立つ川村さんは『内緒』と言うように人差し指を立てて、己の口元に当てている。

「状況が状況でしたし身内の方でしたから特例で付き添いの許可が出ましたけど、今日は面会時間のみでお願いしますね」

 なるほど、普通ならば許されないはずの深夜から今朝までの付き添いは身内と称して乗り切ったらしい。

 本当に身内かどうか、身分証くらいは確認しないんだろうか。そういうセキュリティーはどうなっているんだろうと頭の片隅で考えつつも、看護師さんにそんなことを訊けるはずもなく、ただ誤魔化すように笑ってやり過ごした。

 

 昨夜、真夜中の病室に川村さんが現れた時には本当に驚いた。面会時間などとうに過ぎた時刻。部屋を訪れるとしたら、看護師さんかお医者さんくらいのものだ。それなのに、静かに扉が開いたかと思うとグレーのスーツと黒い革靴が視界の端に入り文字通り飛び起きた。誰かが殺しに来たのかと思ったからだ。

 ホームから落ちたのか、落とされたのか正直自分でもよくわからない。

 もしも悪意によるものだとすれば徐々にホームの端へと追いやられたあれは、誰かひとりの仕業とも思えなかった。人波に紛れた数人がじわじわと死の淵へと押しやった。そんな感覚だ。ひどい混雑だったから事故と思えなくもないのだけれど、落ちる直前、腰に固いものが強く当てられ、ぐいっと最後に一押しされてバランスを崩した。あれも偶然だろうか。そんな不安があったから、治療が終わった後に刑事さんがやって来て、事故と事件の両方の可能性があると言われても、『故意だったのでは』という疑念が深まるばかりだった。

 翌日いっぱいは検査、最短で翌々日の退院になるらしく、その前にまたお話をお伺いに来ますと言い残して刑事さんは帰って行った。

 看護師さんにご家族に連絡しましょうかと訊かれ、真っ先に浮かんだのはちーちゃんだ。血のつながりはなくても、現状家族と呼べるのはちーちゃんしかいない。でも、事故のどさくさでスマホが行方不明という状況ではすぐには連絡の取りようがないし、国内に居るかもアヤシイところだ。もっとも、こちらから連絡せずとも深夜になって部屋に帰らなければ、監視しているあの人たちが私を探し始めるだろうし、遠からずちーちゃんにも知らされるだろう。

 他に連絡が必要なのはバイト先だけれど、それも明日明後日はシフトに入っていないから明日の様子を見て考えよう。休まないで大丈夫そうならそれがベストだ。

 川村さんのことも過ぎった。スマホがなくても、手帳に挟んだままの彼の名刺には会社の電話番号も携帯番号も載っていたはずだから連絡しようと思えば出来ないこともない。でも、私との関係は終わらせる方向に向かっているとしか思えない最近の様子を考えれば、彼には連絡しないほうがいいように思えた。電話したって繋がらない可能性が高い気がするし、電話して報告をして、その先が思い浮かばない。こんな時、本当の恋人だったらどうするんだろう。忙しい中、逢いに来て欲しいと呼びつけるのも違う気がするし、来て貰っても私のケガがすぐに治るわけでもない。

 本音を言うなら、逢いたい。逢って少しでも話せたらいいなと思う。ただ、スマホにあんなアプリを仕込んでまでこちらを探っていたのだから、まだ私の動向を注視しているならすぐにでも病院に駆けつけてきそうなものなのに、未だ姿を現さないあたり、やっぱりもう用は済んだに違いない

 まさか、用済みだから消しちゃえ……なんてね。

 浮かんだ考えに、お腹の奥がずんと重くなった。

 川村さんが探りたかったのは脱兎か三月ウサギか、それとも私自身のことか。

 目的は相変わらず不明だけれど、探るために近づいたのはアプリの件で明らかだ。

 彼のことが好きならば全部に目を瞑って受け入れてしまえと思った。そうすれば、彼と会うことも出来るし、言葉を交わすことも出来る。好きだと言ってくれるなら、信じればいいと幾度も言い聞かせた。そうやって頭で割りきると決めたって、心はいつも揺れてしまう。

 少しずつフェイドアウトが始まって、探ってもわからなかったでしょ? と内心舌を出す私と、本当に探ることだけが目的だったんだなと落胆する私と。そしてここに来て、何かしらの確証を得た彼が私を殺そうとしたなんて考えまで出てきた。

 とはいえ彼が私に害なす可能性は限りなく低いとも思っている。それは川村さんへの信頼ではなく、この十年、私を監視し続けた彼ら故だ。もしも川村さんが危害を加えるほどの害意を持って近づいて来た相手かそれに準ずる経歴の持ち主ならば、さすがにちーちゃんから釘を刺されたはずだ。彼には近づくな、と。 

 時折廊下を誰かが歩く足音。空調の音。深夜の病室で聞こえてくるのはそんな音ばかりだ。川村さんが現れたのは、僅かな音に時折気を向けながら冴えた意識と緊張感とを大概持て余し始めた頃のことだった。

 顔を見てホッと肩の力を抜きかけて、駄目だ駄目だと霧散しかけた緊張をかき集める。

「スマホにメッセージを送ったんだけど、いつまでも既読にならなかったから心配になって。仕事柄、警察にちょっとした伝手があってね。それで聞いて来たんだ」

 ベッド脇の椅子を引き寄せて腰を下ろす彼は、どこか申し訳なさそうに口にした。

 警戒を解いて大丈夫な相手なのか判断できないのに、穏やかなテノールに心がゆるゆるほどけてつい本音を口にした。痛かった、怖かったと零れた泣き言を残らず受け止めるように、柔らかく抱き締められると、全部嘘でもいいかと思ってしまうのだから我ながら本当に情けない。

「眠っても大丈夫。今日はもう全部片付けてきたから、起きるまで僕がここについてるよ」

 小さな子どもに言って聞かせるような声音で告げられて「なら、安心ですね」と確かめるようにその目を見つめた。まだ眠れないと駄々をこねたらいつまでも付き合ってくれそうな眼差しに、少し安堵したら眠気が訪れた。

 

 

 それにしたって、あんなことがあった翌日にもかかわらず、川村さんに起こされてようやく起きるなんて気が緩み過ぎなんじゃないかと自分でも思うんだけど。

「……はありそうですか?」

「え、はいっ」

 条件反射で返事をして、なんのことかと体温計を覗き込んで書き留めている看護師さんへと視線を向ける。

「昨夜は結局ほとんど何も食べてないですよね」

「はい、あ、と……食事ですか?」

「会話は普通に聞こえてます?」

「はい。大丈夫です。すみません。まだ寝ぼけてるみたいで」

 えへへと誤魔化すように笑っても、看護師さんは心配そうに私の顔を覗き込んで眉を寄せている。その背後では、川村さんが探るように鋭い視線を向けている。私の眼差しに気付くと鋭さはするりと仕舞い込んで、「本当に大丈夫? どこも痛くない?」と優しい兄の顔を貼り付けて尋ねてきた。

「は、……うん。大丈夫。お兄ちゃんもお仕事でしょ?」

「あ、あぁ」

「あとで朝食の配膳が回ってきますが、ベッドからは降りないでください。トイレに行きたくなったらナースコールで知らせてくださいね。それから、お兄様はいったんお帰り頂けますか? 面会は十四時から十九時までになりますので」

「わかりました。無理を言って申し訳ありませんでした」

「いえいえ、ご心配なのはわかりますので」

 朝食後の検査の予定をざっと説明した看護師さんが部屋を出て行くのを見送る。閉まった扉にホッとして息を吐くと、川村さんも同じタイミングで息を吐いた。

「本当に大丈夫? 食欲は?」

「大丈夫ですよ。『お兄ちゃん』」

 笑いながら言えば、片眉をあげ苦笑を浮かべた川村さんは窘めるように横になったままの私の髪をくしゃりと撫でた。

「敬語に戻っちゃうんだな」

「はい?」

「いや……後でまた様子を見に来るよ。今度はちゃんと面会時間に」

「いえいえ、そこまでは。忙しいでしょうし、本当にもう大丈夫ですから」

「昨日は怖いって泣いてたのに」

「な、泣いてませんよ」

「ふふ、そうだったかな。あ、透子さん。家の鍵を借りてもいいかな?」

「鍵? なんでですか?」

「うん。着替えとか何もなくて困るだろう? よかったら適当に見繕って持って来ようと思うんだけど」

 いやいや、鍵なんてなくても普通に入れるじゃないですか。盗聴器仕掛けましたよね?

 などと言えるはずもない。

 線路に落ちた時に着ていた服は、警察に預けられてしまったらしいし、今着ている検査着は病院から借りているもので、薄手すぎて心もとない。でも、下着まで持って来て下さいなんてお願いするのはさすがに抵抗がある。

「やっぱり嫌だよね。サイズを教えてくれたらそれに合わせて買ってくるよ。病院の売店だけじゃ退院する時に着る物までは揃わないだろうし。取り急ぎは下着とパジャマと羽織るものがあればいいかな?」

「サイズ……」

 掃除も片付けもおろそかにしている部屋に入って欲しくはないけれど、サイズを自己申告するのはもっと嫌だ。だって好きな人に言いたくない。バストはBカップです、なんてこと。

 渋々鍵を差し出したこの選択を、午後にはひどく後悔する羽目になった。

 面会時間になるやいなや病室へと早足でやってきた川村さんは、ひどく険しい顔をして開口一番「あの部屋に君を帰すわけにはいかなそうなんだ」と言い出した。

「ごめん、君が不安そうだったからストーカーとかその線も考えて部屋に盗聴器がないかだけざっと調べてみたんだけどね」

 盗聴器。そりゃあるだろう。だってそれ仕掛けたの川村さんもですよね? とはさすがに言えないけれど。川村さんが仕掛けた物と、元々あったあれこれと。つまりは全部見つかってしまったんだろう。

「君の部屋の中から監視カメラと盗聴器が見つかった」

 えぇ、怖い、本当ですか、と。口にはしたものの、ちゃんと驚いたように見えただろうか。自信がない。

 ああ、知ってます。そうなんです、私、監視されてまして。でもベッドの上は死角なんでまあ大丈夫です。と言えない以上、ひたすら知らなかった態を貫くしかない。

 私の心中など知るはずもない川村さんは、捻挫していない方の右手を取ると、「ケガが治るまでは不便もあるだろう? ちょうど少し仕事の方もゆとりが出来そうなんだ。とりあえずの避難と思って、僕の家に一緒に住んでほしい」と否を言わせぬ笑みを浮かべた。

 ああ、そうか。川村さんのこの笑顔は兄に似ているのだ。兄は私にすごく甘かったけれど、この笑みを浮かべた兄には勝てたためしがない。

 ひくりと引き攣る頬を感じながら「いえ、そこまでは大丈夫じゃないかなって」と言い訳を連ねても、案の定退院後は川村さん宅への直行がその場で決まってしまった。


 翌日の退院時。車で迎えに来てくれた川村さんにお願いして、携帯電話のショップへと立ち寄って貰った。

 スマホは結局行方知れずのまま。友達はいなくても、だからといってスマホがなくていいということにもならない。

 盗難紛失の手続きは電話連絡で済んでいたので、代替機を購入して初期設定をしてもらう。パールホワイトの真新しいこのスマホもちょっと目を離せば、すぐに川村さんが監視アプリを入れてしまうに違いない。

 ショップを出る間際。鞄に入れたばかりのスマホが震えた気がして「トイレに行ってきます」と川村さんに告げた。

「先に車に行ってて貰って大丈夫ですよ。すぐに行きます」

「ん、わかった」

 トイレの個室に入って買ったばかりのスマホを確認する。

 まだメール設定すら済んでいないのに、狙い定めたようなタイミングで電話番号を使ったSMSメールが届いている。

「ちーちゃんめ。このタイミングでメールとか……やっぱり見張ってるんじゃない」

 小さくひとりごちながら画面のメッセージに視線を走らせる。

 

『元気か? 久しぶりにひと狩りやろうぜ。近いうちに鯖寿司買って会いに行くから楽しみにしているように』


 ひと狩りやろうぜ、は誰かに見られても言い訳がたつ文面。でもその実これは仕事の用件。脱兎への依頼メールだ。

 狩る──それは何かの情報を取ってきて欲しいということ。鯖寿司買ってなんてわざわざ言ってきたのは、元々のサーバーを増強して臨む必要がある面倒くさい相手ということだろう。

 監視アプリどころか当の監視者とケガが治るまでとはいえ同居を開始するというのに、このタイミングで依頼してくるなんてどういうつもりだろう。


『了解♪ 楽しみにしてるね。前に食べたアイスもおいしかったからあれもよろしく』


 サーバーだけ増強されて、冷房がポンコツだと最悪作業中にシステムごとダウンしてしまいかねない。ぬかりはないとは思うけれど、一応はリクエストしておく。

 川村さんが知りたいのはきっとこういうコトだろう。

 私が、脱兎だということ。それとも、それ以上のことも疑われているんだろうか。

 調査の為に本来は恋愛対象でもない『女』相手に恋人を演じるだなんてどれだけ社畜なんだと呆れてしまう。でもそのお陰で、ちょっとだけでも恋人の気分を味わせて貰っているのだから、ヨシとしておくべきなんだろう。それにしたって、同居までは望んでいなかったのだけれど。

 送信ボタンをタップして、受信メールも送信メールもスマホから消し去った。



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