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Alice.dat  作者: 稀葉
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File.04 うさぎはかわらずはねまわる

 彼女の部屋に盗聴器を仕掛けたのは部下だった為、自身で訪れたのはその夜が初めてだった。全戸で六部屋しかない三階建の小さなマンション。彼女の部屋は二階の真ん中の部屋だ。住人は単身者ばかりだが身元はしっかりしており、彼女の部屋の隣も保険会社に勤める女性と男子学生が住んでいた。セキュリティーが充分とまでは言えないもののエントランスには管理人室もあり、駅から歩いて五分ほど、その道のりも商店や街灯も点在し、女性が一人暮らしするには立地的に治安もいい。防犯上、かなり好物件といえた。

 今日、彼女と遭遇してしまったのは想定外のことだった。一目惚れしたなどと言ってきた男が、女と仲睦まじく寄り添って歩いていたなどさぞや心象が悪いに違いない。とはいえ、居合わせた女は最近網にかかった組織に繋がる相手で、途中で放り出すわけにもいかない。買い物に付き合い、仕事を理由に夜の相手を免れたその足で香水臭いスーツだけは着替えて彼女のもとを訪れた。事前に連絡をせずに訪れた時の反応も見たくて予告をせずに訪ねてみれば、拍子抜けするほどあっさりと部屋へと招き入れられた。

 玄関を入ってすぐが冷蔵庫とその上に電子レンジのある小さな台所。シンクに置かれた使用済みの食器はひとり分。置いておかないですぐ洗えと思いつつそれとなく視線を巡らせば、シンクの横には電気ポットと炊飯器が並ぶ。食器などの調度はシンクの上下にある棚にでも収めているのか、食器棚は見当たらない。台所にある扉の向こうにはトイレと脱衣所、風呂場があるはずだ。硝子の引き戸の奥は八畳ほどのフローリングの部屋が続く。白いカラーボックスと、折りたたみ式の小さなローテーブル、シングルベッド。家具はそれだけだ。ベージュのアーガイル柄のラグの上には丸い濃茶のクッション座布団が二つ。植物や小物を飾るでなく、壁にカレンダーやポストカードがあるわけでもない。目に付くのはデジタル式のアラーム時計と、モバイルパソコンだけ。室内を見渡しても、住人が男か女かも判断が出来ないほどにすっきりとした部屋だった。もっとも、壁の一面には備え付けのクローゼットがあり、その中にはあれこれと詰め込まれているのか、もしくは長く一緒に住んでいたという従兄宅に彼女の私物が多く置いてあるのかもしれない。

 瀬谷透子が一人暮らしを開始したのは、高校を卒業して半年ほど経った頃のはずだ。そんな年代の子が初めての一人暮らしを始めるともなればあれもこれもと自分のこだわりの部屋を作りこみたくなりそうなものだが、そういうタチでもないらしい。休日にはひたすら籠もっているくらいだから、彼女の好みのものが溢れているかと思いきや、そのシンプルさは自身のセーフハウスを思わせた。

 セーフハウスとは、偽名で生活する際の仮の自宅であり、潜入捜査中の避難所ともなる住まいだ。そこに住んでいるという説得力を持たせるだけの家具や家電、着替えなどを備え、不要になればいつでも簡単に引き払うことが出来る部屋。彼女の住まいはそんなセーフハウスを思わせるほど最低限のものしかないように見えた。

「誰か来る予定だったのかな?」

 ローテーブルには小さなホールケーキがひとつ。小振りとはいえ一人で食べるには多いだろう。部屋にはあっさり入れて貰えたけれど、来客の予定でもあったかもしれない。こんな夜に訪ねてくるなどよほど親しい相手に違いない。そう思って訊けば、彼女は笑って頭を振った。

「別に誰も。子どもの頃、やってみたいって思ったことありませんか? ひとりでホールケーキを食べるとか、スイカ半分をスプーンですくっておなかいっぱい食べちゃうとか」

「ああ、なるほど。一種の大人買いってことかな」

 それにしても、これをひとりで食べる気なのか。シンクに食器があったくらいだから夕飯も食べただろうに。

「まあ……あ、お茶入れますね。適当に座ってください」

「いや、冷たい物が飲みたくて下の自販機で買って来たから僕はいいよ」

 クッションに腰を下ろしながら手にしていたペットボトルのウーロン茶を軽く掲げて見せると、彼女は頷いて台所へと足を向けた。

「何も訊かないの? 昼間のあれは誰だ、とか」

 夜、こんな風に突然訪ねてきたにも関わらずあっさり家に上げてくれたあたり、一応は親しい男友達、もしくは付き合っていると考えてもいいのかもしれない。ならば尚更、昼のあれは誤解なのだときちんと釈明しておかなければ、今後の捜査に支障が出かねない。

 ティーバッグを入れたマグカップを手に戻った彼女は、なみなみと入ったお湯に注意を向けながら慎重に腰を下ろした。

「訊かないのと言われても……何から訊けばいいんでしょう」

「昼間のあれは仕事だったんだ」

「はあ」

 ティーバッグを泳がせる様子を見つめながら、動かさない方がいいのにとひっそり思う。そのまま触らず、なんならカップに蓋でもして置く方が香りいい紅茶を入れることが出来る。しかし、状況的にそんな指摘を出来るはずもなく、感情の読めない表情をそっと窺う。

「怒ってる、かな」

「え?」

「そうですか、としか……」

「ん?」

「それが仕事なんだと言われたら、はあそうですかとしか言えないですし。そもそも私たち、別にそういう関係なわけじゃないですし」

 仕事という点に嘘はない。それを、そうですかの一言で流してくれるのは、正直言って都合がいい。それなのに、なんとなく面白くない。これはもう理解ある発言というよりも、単に興味がないだけなのではと思える。その上、そういう関係じゃないときた。だったらこんな風にあっさり男を部屋に上げるなんて一人暮らししている女性としてはあまりに無防備で考えなしの行動といえる。

「……君は、そういう関係じゃない男もこんな夜に部屋に上げるの?」

「は?」

「だとしたら警戒心がないにもほどがあるよ」

 呆れ混じりに言えば、カップにばかり向けられていた視線がきっと睨むように向けられる。接客用の笑顔や、照れや困惑を誤魔化すような愛想笑いばかりを目にしていたから、はっきりとした強い感情の透ける表情は初めてのものだった。

「追い返せばよかったですか? だいたい、だったら川村さんだって非常識じゃないですか。事前に連絡もなく訪ねてきて、こうして部屋に上がってるんですから」

 毛を逆立てた子猫が精一杯の威嚇でもしているような尖った声でいい放ち、フォークをケーキに突き立てる。大きめなそれを大口を開けて頬張る様を無言で見つめていると、ほんの今まで苛立ちが浮かんでいた表情はゆるゆるとほどけ、口角を上げてケーキを凝視している。よほどおいしかったらしい。

 不機嫌など綺麗さっぱり霧散したような彼女は、こちらの視線に気付くと気まずさか、羞恥ゆえか、フォーク手にしたまま軽く目を伏せた。

 あっという間に機嫌をなおした様が可愛らしく、こちらもささくれ立った感情が凪いでいくのを感じた。

「……ごめん。君の言う通りだ。部屋に上がり込んだ僕が言う台詞じゃなかった」

「いいです。心配してくれたんですよね。でも川村さんなら大丈夫って思っただけだし、そもそもここに訪ねてくる男の人なんてそんなに……」

「そんなにってことは僕以外にもいるってこと?」

「親族とかそういう人もカウントします? 従兄みたいな……保護者というか」

「保護者って……ご両親でなく?」

 保護者と同率に信頼されているというのは、男としてフクザツだ。信頼関係を築き、情報を聞き出すということを考えればいい傾向だと言えなくもないが、これは単に異性として意識されていないだけだろう。

 調査済みのプロフィールをなぞるような彼女の言葉に耳を傾けながらも、友達などと悠長なことを言っていないで、もう少し踏み込むべきなのではと思考を巡らす。

「じゃあご両親が亡くなってからはその従兄くんと?」

「そうですね。ちーちゃ、……千彰さんが兄代わりにいろいろと気に掛けてくれたので」

「ちーちゃんって呼んでるの?」

「はい……子どもみたいで恥ずかしいんですけど、もうクセになってしまって」

 瀬野千彰。フリーランスのデザイナーをしており、彼女に最も近しい人物として一度は捜査線上に浮上したが、それもまた一時の捜査と監視の後に排除された。瀬谷透子同様両親は他界、実質的に互いが唯一の親類だ。確か彼女の九才上。彼女を引き取ったのは二十四、五才の時だったはずだ。親を亡くしたばかりの少女に寄り添い養育するというのは、それなりに苦労もあっただろう。それでも、今も彼女が『ちーちゃん』などと呼んで慕っているのだから、よき保護者だったのだろうと思う。そんな保護者にしてみれば、彼女に疑いの目を向け、情報を訊きだす為に近づく輩など許しがたい相手に映るに違いない。

「僕のことは?」

「川村さんのこと?」

「啓士さんって最初に呼んでくれたけど」

「あー、あれは、つい……」

「僕としてはそのくらい親密になりたいんだけどね。でも、こんなにあっさり部屋に入れて貰えるあたり、まずは友達以前に、男として見て貰う必要があるのかな」

 少しだけ色素の薄い彼女の瞳をじっと正面から覗き込む。

 店にいる時も営業スマイルだけとも言い切れない活き活きとした表情で仕事をするのを、店の外からも何度か窺い見たことがある。客として来店してみても、無駄のない動きで業務をこなし、快活な声音で『ありがとうございました。いってらっしゃいませ』と送り出されるのは心地よかった。

 いざ食事に誘ってみれば、男慣れしているのかいないのか、誘い文句をさらりと躱して見せたかと思えば、些細なことで顔を赤くする。そんな彼女をおとすことに罪悪感がある反面、この子が本気で恋に落ちたならどんな表情をするのか見てみたいような気もする。

 ふたつほど瞬きをした彼女は困ったように視線を逃がした後、「そういえば」と口を開いた。

「今日のあれがお仕事というのは? 私、てっきりデート中なのかと思いました」

「デート中、か。透子さんは、それで少しは妬いてくれたりしないの?」

「は?」

「いいや、うん、デート中に見えたなら上々かな。ストーカー対策でね。ちょっといろいろ……まあ詳しいことは言えないんだけど」

 あまり突っ込まれて訊かれても困る。手にしたまま止まったフォークをそっと奪い、切り分けたケーキを彼女の唇の前へと差し出す。

「ほら。口開けてくれないと」

 戸惑いながらもおずおずと開いた唇にのせてやると、ぱくりと彼女の口の中へと消えていく。すると、戸惑っていたはずの瞳が弧を描き、顔いっぱいでおいしいですと告げてくる。

 覗く舌に色気などは微塵も感じることなく、これは雛鳥にえさを運ぶ親鳥の気持ちに近いようにも思えた。

「ふっ、可愛い」

 思わず漏れた呟きに、たった今、口にしたケーキを喉に詰まらせそうになった雛鳥は、せっかく入れた紅茶を味わうこともなくごくごくと飲む。

 フォークを返して欲しそうな視線になど気付かぬふりで給餌のような行為を繰り返す。そのたびに、結局は口を開き、幸せそうにケーキを味わうのだから見ていて飽きない。恋愛対象としては体つきも精神年齢も少々幼い気がしたけれど、庇護欲がそそられるのは確かだ。あまりに無防備な顔を晒されると、騙している身としては多少なりとも胸が痛む。

 もっとも、この手の罪悪感は今更すぎる感情だった。

 ウサギが野放図に情報社会を荒らし回れば、いつか一般市民に大きな害をもたらす。実際、あの宗教施設では犯罪に関わっている可能性が高かった者たちとはいえ、多くの死傷者を出す結果となった。

 フォークへと伸びてきた彼女の手をそれとなく制しながら「妙なことを言うようなんだけど」と口を開く。

「外で見かけても、僕から声を掛けない限りは今日みたいに気付かないふりをして欲しいんだ。仕事中に見えなくても実際は業務中ということもあってね。契約内容によっては君まで危険に晒しかねない」

 今日は彼女が話しかけてくることがなかったから辛くも難は逃れたが、もしもあの場でどういうことかと詰め寄られていたら、まったく知らない相手を演じてこの子をあの場に置き去りにしたに違いない。

 あの女自身はまだしも、あの女が愛人として長く繋がりのある男は裏社会に広く知られている。彼女から得られる情報は多いが、行動を共にすることでのリスクも高く、目の前で平和そうな顔でケーキを頬張る女を間違っても関わらせたくはなかった。

「それから、忙しくなると昼夜関係なく電話に出られないし、メールもあまり出来ない。貰っても、返信がかなり遅くなることもあると思う」

「わかりました。今日みたいに知らんふりしますね。あと、メールも電話も別に気にしないでください」

 なんでもないことのように頷かれ、フォークを動かす手が止まる。彼女はといえば「何か変なこと言いましたか?」と小首を傾げて不思議そうな顔だ。

 付き合おうと言った男がこんなことを言い出したら、自分が女なら関係を切る。間違いなく切る。怪しいことこの上ない。それだけのことを言っている自覚はあった。後々揉めることがないように、今のうちにきちんと話しておかなければと思いはしたが、こうもあっさりと、まるで明日の天気を告げたくらいの気軽さで頷かれるとは思わなかった。

「まいったな。君は本当に僕に興味がないんだね」

「え? 今のってそういう流れでしたか? っていうか、川村さんは知らんぷりして欲しいんですよね?」

「いや……ああ、そう、いいんだ」

 悪いことはない。納得してくれるならそれでいいのだ。でも。

「いいんです、か?」

「笑ってくれていいんだけど。……告白した後の誘いにも応じて貰えたし、もしかしたら僕は少しは君の好みの男の範疇に入れているんじゃないかってね、期待してた」

 男として警戒すらされないのかと思ったはずなのに、それでもなお彼女には多少なりとも意識されているようにも感じていた。そう感じていたのだと、彼女のこの受け答えから改めて思い知らされた。

 これまでの態度──時折照れたように視線を逸らしたり、頬を赤らめるのも、こちらが考えているほどには意識されていないんじゃないのか? なんなら一目惚れしたというあの告白すら、そもそも相手にされていないという可能性もある。

 正直、これまで恋愛面で不自由したことはない。学生時代も、やたらと告白されて鬱陶しい思いをしたことはあれど、それとなく誘いかければ付き合うのは簡単だった。それはこの仕事についてからも良くも悪くもいかされ、相手との距離を詰めるのは恋愛関係が一番てっとり早かった。だからこそ、今回もその手段を講じたのだが。

「まさか男の数にすら入ってないとは思わなかったよ。これから地道に口説くからいいけど」

 じっと見つめればこうして顔を赤くして見せるのに。

 フォークを取り返しにきた手を掴み、そのまま握りこむと、今度は耳まで赤くなる。

 さりげなく手首に指をまわせば脈拍も早く、視線は逸らしながらも全身でこちらに意識を向けてくるのがわかった。

「離してくれないと、ケーキが食べられないです」

 頬を染めたまま、少し唇を尖らせて拗ねたように言う姿に、思わず笑いがこみ上げてきた。

 これはやはり、男として意識くらいはされているはずだ。

「まったくの脈なしでもない……くらいには思ってもいいかな?」

「川村さんって自意識過剰なんですね」

「はは、手厳しいな。でもそのくらいのほうが口説き甲斐があるよ」

 はい、どうぞ、と再び口元にケーキが運べば真っ赤な顔で、それでもやっぱり口を開く。もっと揶揄いたい衝動にかられたものの、やり過ぎるのも得策ではない。

「透子さんは休みの日は何をしてるの?」

「何って……普通ですよ。掃除したり洗濯したり。ご飯作ったり」

「遊びに行ったりは?」

「あんまり行かないです。家でのんびりするのが好きなので」

 東の『おひとりさまが好きってやつじゃないですか?』という台詞が耳に蘇る。交友関係のなさは、単に彼女の気質がそうなのか。でも、この部屋を見渡す限りひとりで何か趣味に興じている様子もなく、かといってスマホやパソコンの挙動を見ても、ひとりの時間を満喫しているというのとも少し違うように思う。明らかな不審さはない。だから自分が何にそこまで引っかかっているのかもよくわからない。彼女に感じる違和感は、勘としか言えない程度の曖昧なものに過ぎない。だが、その勘が案外侮れないことも、これまでの経験でわかっていた。

「川村さんは休みの日は遊びに行ったりするんですか?」

「そうだね。家でゆっくりすることも多いけど……なんとなく車を走らせたりすることもあるよ」

「ドライブですか。ひとりでも楽しめそうでいいですね」

「君と一緒だともっと楽しいと思うんだけど」

 黙り込む彼女にケーキを差し出せば、やはりぱくりと口にした。

「透子さんは、ひとりでいる方が好き?」

「……そうですね。どちらかといえば」

「そっか。……ねえ。透子さんは甘い物好きだね」

「そうですね」

「特にケーキが好き?」

「はい」

「僕のことも好き?」

「そ……」

 素直に頷きかけた彼女は、はたと口を噤んでむぅと少しも迫力のない顔で睨んでくる。

「川村さん。おいしいものをこういうことに利用しないでください」

「残念。そうですねとはいかなかったか。……それにしてもホールケーキなんてまるでお祝いみたいだね」

 ホールケーキもそろそろ半分を越える。これは本当にひとりで丸々食べきってしまいそうな勢いだ。よくいえばスレンダーな、悪く言えば肉付きの悪い彼女のどこにこれだけ入っていくんだろうか。一緒に食事をしていても、よく食べる子だなとは思っていた。それもおいしそうに食べるから見ていて気持ちがよいものだけれど、それにしてもこんなに食べて大丈夫なんだろうか。

「お祝いというか……」

「ん?」

「いえ。そうですね。ホールケーキなんて食べるの、普通なら誕生日やクリスマスくらいかも」

 子どもの頃にやってみたかったことだと彼女は言った。でもそれは本当だろうか。一人暮らしなど今に始まったことでもない。ホールケーキを食べる機会なんてとっくにあっただろうし、一度やれば満足しそうなものだ。

「そういえば、透子さんの誕生日はいつ?」

「二月十四日です。……川村さんと一緒ですね」

「え、言ってくれたらよかったのに」

 驚いて見せたものの、それはとっくに知っていたことだ。敢えて訊く必要がなかったから尋ねなかったが、『川村啓士』の誕生日をバレンタインに設定したのはその為だ。誕生日が同じだから趣味が合う、気が合うという話のタネにも出来そうだし、一緒に食事に行く口実にもなる。そんな安易な理由で設定した。

 ならば今日はなんの日だろう。桃の節句は昨日だ。確か従兄の誕生日でも両親の誕生日でもなければ命日でもないはずだ。

 この食べっぷりを見れば単純にホールケーキを食べたくてという理由も信じられる話ではあるけれど……。

「タイミングもなくて。それに、あの日もこないだも結局私がご馳走になっちゃいましたし。祝って貰ったも同然じゃないですか」

「それでも、だよ。大切な相手の特別な日ならば、ちゃんとおめでとうが言いたいだろ。そのぶんいいことがある、だっけ?」

「ええ、まあ、そうですけど」

「誕生日おめでとう」

「ありがとう、ございます」

 彼女が小さく息を呑んだ。頼りない子どものような目をしたかと思うと、無理に口角を上げたのがわかった。一瞬泣くのかと思った彼女は、嬉しいです。本当に、と微笑んだ。どこか儚くも見えたその笑みに、何かが彼女の琴線に触れたことはわかった。

 考えてみれば、彼女の従兄は誕生日当日には海の向こうだった。祝いのメールがきた様子もないし、メッセージアプリにも彼女の友達からそういった言葉が送られてきた様子もなかった。

『誕生日に貰えたおめでとうの数だけ、この一年でいいことが増えるそうですよ。これでプラス一個間違いなしです』

 あの日、単なる客でしかない男にそう言って笑いかけた彼女に、誰がおめでとうと伝えただろうか。

「来年は当日にちゃんと言うよ」

「そう、ですね。楽しみにしています」

 喜ばせるつもりで言ったのに、彼女は言葉とは裏腹に少しだけ眉を下げた。

「どうかした?」

「いえ、このケーキ屋さんは大当たりだったなあって」

 何かを誤魔化された。それだけはわかった。でも、そこに切り込む手札が足りない。やはりもっと親しくなって、気を許してもらうほかなさそうだ。

「今度ケーキビュッフェでも行ってみる?」

「川村さん、甘い物好きじゃないじゃないですか」

「そうだね。なら、……遊園地と水族館、どっちがいい?」

 単なるプライベートの秘密なのか。それとも犯罪に関わっているのか。案外手強そうな雛鳥の口元に、敢えて大きめに切り分けたケーキを差し出した。

 

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