お奈良漬け
今は昔の物語。
小さなお殿様が治める小さな所領に、すずという娘がいた。
年は十三。彫り物師の父親と、漬物を漬けるのが上手な母親と仲良く暮らしていた。
ある時、長らくお殿様の厨で働いていた祖母が、ついに隠居することになった。母が代わりにお殿様のところで働くことになり、すずもまた手伝いとして一緒に行くことにした。母もまた、子供の頃にここで祖母の手伝いをしていたという。
家で料理を作るのとはわけが違い、大人数分の準備はとても大変で、母とすずは毎日忙しかった。
そんなすずが井戸で水汲みをしていると、不意に後ろから声をかけらた。男の声だ。
誰だろうと振り返ると、そこには凛々しい若武者が立っていた。お殿様のところに仕えている男だろう。彼女は何か用かと首を傾げた。
すると不思議なことに、男は「覚えていないか」と苦笑いを浮かべるではないか。どこかで会ったことがあったかと、すずは一生懸命思い出そうとしたが駄目だった。よくよく話を聞いてみると、すずは驚きながらも思い出すことが出来た。
「梅干しの木」のお兄ちゃんだった。
すずが幼かった頃、「梅干しのなる木」があると、人のからかわれたのを真に受けて、一生懸命探し回っていた。そこで知り合ったのが、この若武者だった。
彼もまだ若く、すずは梅の木に登っていたのをひどく怒られた。その後、彫り物師の父のおかげで、すずは梅の木のことを許された上に、おいしい梅干しにありつくことが出来た。
「まだ梅干しの木を信じているか?」と聞かれて、すずはすっかり恥ずかしくなってなりながら、「梅干しの漬け方は、ちゃんと覚えました」と答えると、そうかと彼は笑った。
梅干しの木のお兄ちゃんは、梅千代と名乗った。父親の後を継ぐために代替わりしたばかりのお殿様に仕えていると聞き、すずは知り合いがいることを心強く思った。
その日は、お殿様と梅千代が一緒に食事をすることになったので、母と二人で膳を運んだ。お殿様の前に膳を置くのは、最初からすずの仕事だった。
すずの母は昔、若いお殿様によからぬことをしでかしたことがあり、いまだにお殿様に根に持たれているという。
そのせいかお殿様も何かある時は、母ではなくてすずに申し付けるようになった。
「すずや」と、その日も膳を置いた時に、お殿さまに呼び止められた。
「すずや、この漬物は初めて見る。何という漬物だ?」
お殿様は、膳の上の漬物を指してこうすずに聞いた。
それは、瓜を酒粕に漬けたものだった。すずは、どうしてこの漬物をお殿様が食べたことがないのか分からなかった。
いままでここでは、ずっと祖母が漬物を漬けてお殿様に供していた。酒にからきし弱かった祖母は、その漬物を漬けるのを避けていたのだと、後からすずは母から聞いて分かった。
この時は分からないながらに、すずは質問に答えなければならないと思った。緊張して胸がどきどきした。
お殿様に声をかけられたら、丁寧に返事をしなさいと教えられていたからだ。もし粗相があれば、大変なことになる。
「は、はい」と、畳に手をついて平伏しながら、すずはこう答えた。
「はい、お殿様。これは、な…えっと…おなら漬けと申します」
すずは、精一杯丁寧に言葉を探し出した。これまでずっと親元で暮らしていたので、丁寧な言葉はとても難しかった。
お殿様が「そうか、あい分かった」と返してくれたので、すずは心底ほっとして顔を上げた。
すると、すずの目に不思議なものが見えた。
お殿様の近くに座っていた梅千代は、あらぬ方を見て笑いをこらえているし、隣の母もまた隣で平伏したまま笑いに肩を震わせているではないか。
何かおかしなことを言ったかと心配になるが、二人ともその場では何も口を挟むことはない。
震えたままの母に連れられて部屋を出たすずは、自分が大きな失敗をしでかしたことを知る。
漬物を丁寧に言う時、「お」はつけなくても良いのだと。
厨に戻った母はそれから、すこし間を空けては笑い、また間を空けては笑った。家に帰って、それをまた母が父に話して聞かせるものだから、今度は父まで思い出し笑いをするようになった。
奈良漬けをぽりぽりと食べながら、すずはずっと小さくなっていなければならなかった。
後日、梅千代に「お殿様には、きちんとご説明差し上げたので心配するな」とまたも苦笑いされた。
結局──すずは母ともども、親子二代でお殿様に根に持たれることになったのだった。
『終』