黒飛竜・下
【剣士 クルネ・ロゼスタール】
――戦況はあまりよくなかった。……いや、悪いと言っていい。
猛烈な勢いで地面を転がりながら、クルネは現状を再確認した。
黒飛竜は強い。あの地竜と同等ではないにしても、それに次ぐ強さを感じる。その防御力は信じられないほどに高く、自分の剣撃がほとんど効いていないと感じたのは久しぶりのことだった。
だからこそ、クルネは防御が手薄な眼球を狙ったのであり、彼女の剣はその意図に応えてくれた。左目を完全に潰したとは思えないが、それでも出血するほどの傷を与えたのは快挙と言える。
しかし、そのことが原因で、黒飛竜の標的が自分自身に集中するとまでは読めていなかった。
回転の勢いが弱まったところで、クルネは身を捻って立ち上がる。すぐ攻撃が来ても対処できるよう身体のバネをためながら、彼女は黒飛竜の様子を窺った。
「……っ!」
その視界に入ったのは迫りくる黒飛竜だ。どうやらクルネを諦めるつもりはないらしい。牙か、爪か、尾か。疲労で重くなった身体を叱咤しながら、彼女は愛剣を構える。
――カナメ、ごめんね。
あの時、自分たちの身を最優先にして逃げていれば、こんなことにはならなかった。そんな弱気な思いがクルネの心を捉える。
だが、そう簡単に諦めるわけにはいかない。彼女は自分に檄を飛ばすと、キッと黒飛竜を睨みつけた。
最悪、刺し違えてでも――。
そんなことを考えた瞬間だった。クルネは、自分の身体が内側から作り変えられていくような感覚を覚えた。
「これって……!」
それは、彼女以外であれば戸惑って隙を見せてしまうであろう感覚。だが、騎士に盗賊にと頻繁に転職していたクルネにとっては、馴染み深いものだった。
カナメが何をどう判断して、戦闘中の自分を転職させたのかは分からない。ただ、彼がクルネを不利にするような真似は絶対にしない。それはクルネにとって確信だった。
肉薄した黒飛竜は、全身を使った体当たりを敢行するつもりのようだった。なんの変哲もない攻撃手段だが、巨体が伴えば凄まじい威力を発揮する。直撃すればよくて重傷、悪ければ死が待っている。
――あれ?
だが、クルネは内心で首を傾げた。黒飛竜の動きがよく見えるのだ。動きが遅くなったわけではないが、その行動が細部に至るまではっきりと分かるし、何よりこんなことを考えている時点で、思考に余裕ができている。
と言うことは、盗賊に転職したのだろうか。頭の片隅でそう考えながら、クルネはその場を跳び退く。
だが、なんと言っても全長二十メートルの巨体であり、疲労で動きの鈍った身では完全にかわしきることは難しい。クルネは襲い来るであろう衝撃に備えながら、衝突の時を待った。だが――。
「え? 何これ!?」
クルネは思わず声を上げる。ふと右方に視線をやれば、ちょうど黒飛竜が通り過ぎていくところだった。どうやら、思っていたよりも遠くまで跳び退いていたらしい。おかげで、余裕を持って突進を避けることはできたが……。
かなりの速度で突進してきただけに、黒飛竜はすぐには戻ってこれないようだった。その隙にと、クルネは自分の身体を再確認した。
身体におかしなところはない。むしろ、異常に調子がいいとすら言えた。身体中にみなぎる力は、誰かが補助呪文をかけたのかと思うくらいだ。
何度も転職を繰り返したクルネは、身体の具合で自分がどの固有職を宿したのか、見当をつけることができる。
だが、今の身体は盗賊でもなければ騎士でもない。そして、もちろん剣士でもない。それでは、一体なんの固有職なのか。
クルネが黒飛竜に視線をやると、方向転換をしている様子が目に入ってきた。これなら間に合う、とクルネは懐のステータスプレートを急いで引っ張り出す。
そして、驚きに息を飲んだ。
――剣匠
彼女のステータスプレートには、確かにそう記載されていた。
「どうして……!?」
実を言えば、クルネは自らに剣匠の資質が現れたことを知っていた。そして、今朝の段階ではまだ転職できない状態であることも聞いている。
それがなぜこのタイミングで、と思わなくはない。だが、そんなことは眼前の敵を倒してから悩むべきものだった。
「えっと……次元斬は使えるのかな」
クルネが最初に考えたのはそこだった。剣匠の固有職、そして次元斬の特技は、カナメが最もよく使う組み合わせだ。その特性はよく分かっている。
だが、クルネはすぐにその可能性を諦めた。
通常、固有職を得た時には幾つかの特技を同時に習得する。しかし、それは本人と相性のいい特技だけで、それ以外は固有職持ちとして修練を積む必要があった。
そして、自らが使用できる特技は、直感的なレベルで理解できる。そのため、現在のクルネの特技に次元斬がないことは本能的に分かっていたのだ。
次元斬が使用できるのなら、あの黒飛竜に攻撃が届くのに――。そんな思いが脳裏をかすめるが、そもそも剣匠に転職できただけでも奇跡のようなものだ。贅沢を言っている場合ではなかった。
クルネは愛剣に剣気を纏わせると、再び空から襲い来る黒飛竜を待ち受けた。残念なことに、その身体は今も燐光に包まれており、その防御力は並大抵のものではない。
だが、クルネは気負わず相手との距離を測ると、黒飛竜の巨体が接触する寸前に飛び上がった。
凄まじい風圧を伴って、黒飛竜の太い首が彼女のすぐ横を通過する。それと同時に、クルネは肉を断つ確かな手ごたえを感じていた。すれ違いざまに黒飛竜の首を切り裂いたのだ。
「これなら……!」
成果を確認したクルネの口から、ひとりでに声が漏れる。剣匠の剣気が黒飛竜の燐光に打ち勝ったからだ。易々と切り裂けたわけではないが、今までの手応えとは比べ物にならない。
「ギュルルルアアアア!!」
首から盛大に血を噴き出した黒飛竜が怒りの咆哮を上げる。さすがは全長二十メートルを誇る巨体だけあってか、首筋を多少切り裂いただけでは致命傷にはならないようだった。
空に浮かんだ黒飛竜は、再び燐光を集めると、口から立て続けに光弾を吐き出した。それを余裕を持ってかわしながら、クルネは真空波を放つ。
剣士時の数倍の規模を誇る斬撃が黒飛竜へと飛んでいき、脚部に赤い華を咲かせる。燐光が切れた隙を突いた一撃は、狙い通りにダメージを与えたようだった。
そして、クルネと上空の黒飛竜が睨み合う。いくら剣匠の真空波でも、燐光を纏った防御を貫くことはできない。
だが、黒飛竜のほうも、燐光を光弾として撃ち出してしまっては、その間に襲い来る真空波に耐えられない。
両者ともに手詰まりだった。クルネのカウンターを恐れたのか、黒飛竜が突進してくる様子はない。それなら、いっそ逃げてくれればいいのに。クルネは心中でそう呟くが、黒飛竜から去ろうとする気配は感じ取れなかった。
「クルネさん!」
二者の睨み合いに割って入ったのは、かすかに聞こえるクリストフの声だった。その方向へちらりと視線をやると、クルネは納得したように頷く。
そして、クルネはタイミングを合わせると宙へ飛び上がった。なんの攻撃にも繋がらない、ただの跳躍。だが、彼女の身体は地面へ落下することなく、とあるモンスターの背に受け止められた。
「クリストフさん、よね?」
クルネがそう確認すると、鷲に似た鳥型モンスターは猛々しく一声鳴いた。おそらく、これがクリストフの言っていた一人乗り用の飛行モンスターなのだろう。たしか、風切鷲とかいう名前だったはずだ。
そして、クルネの言葉に答えたということは、このモンスターはクリストフが特技を使って一体化しているということだ。それなら、振り落とされる心配はないだろう。
クルネを背に乗せたまま、風切鷲はその高度を一気に上げる。彼女は、鳥に乗っての空中戦などしたことがない。そもそも、そんな経験があるのは『辺境の守護者』ただ一人だ。
だが、風切鷲こそが黒飛竜へ至る唯一の手段であることは間違いなかった。
同じ高度まで飛翔した風切鷲の背中で、クルネは牽制代わりに真空波を放つ。距離が近くなったことで警戒したのか、攻撃を回避する黒飛竜に対して、今度は本命の攻撃を叩き込む。
「光剣!」
彼女と黒飛竜との距離は急激に縮まっており、彼我の距離は二十メートルもない。そして、クルネの予測通り、右手から伸びた光剣の大きさは今までの倍近いものになっていた。
一気に伸長した光剣に対して、黒飛竜は慌てたように尾を振るう。力を集中させたのか、その尾は煌煌とした輝きを纏っていた。
お互いのエネルギーが激突し、轟音を立てる。衝撃で風切鷲から振り落とされそうになったクルネだが、クリストフが上手くコントロールしてくれたおかげで、無事その背に戻ることができた。
「器用な飛竜ね……」
クルネの呟きに同意するように、風切鷲が鳴き声を上げる。それがクリストフの声だと思えば、上空にただ一人というこの状況も多少は気楽だった。
黒飛竜の攻撃をかいくぐり、時には迎撃する。黒飛竜との空中戦を繰り広げてどれほど経っただろうか。お互いに有効打を与えられないまま、クルネと黒飛竜は攻防を繰り返していた。
もしこれが地上戦であれば、クルネはもっと優位に立ち回れただろう。剣匠の卓越した能力は地上でこそ生かされる。
だが、これが空中戦となれば、その機動力は騎乗している生物に依存する。風切鷲は高速で空を飛ぶと言うが、背に人間を乗せていてはその力を十分に発揮させることもできないだろう。
「――っ!」
クルネは、眼前に迫った鉤爪を衝撃波で弾き返した。そして、軽い焦燥に駆られる。
クルネはともかく、風切鷲を操っているクリストフは戦闘系の固有職持ちではない。いくら風切鷲の動体視力を借りているとは言え、黒飛竜の高速攻撃を見切るのは難しく、大きな負担となっているはずだった。その証拠に、先程から黒飛竜の攻撃をクルネが迎撃する場面が増えている。
だが、風切鷲の協力なしでは、有効な決定打は与えられそうもなかった。
と、悩むクルネの視界がさっと変わった。風切鷲が向きを変えたのだ。まさか一体化が解けてしまったのだろうか。そう心配するクルネの瞳に、とある光景が映る。
「……分かったわ、私たちは囮になればいいのね。クリストフさん、もう少しだけお願い」
その言葉に、再び風切鷲が鳴き声を上げた。絶対に注意を引き続けてみせる。そう決意すると、クルネは愛剣を構え直した。
――――――――――――――――
【クルシス神殿長代理 カナメ・モリモト】
「よし、通じたみたいだな」
クルネと、彼女が騎乗している風切鷲の動きが変わったことに気付いて、俺は満足そうに笑顔を浮かべた。
魔獣使いの特技『一体化』は、その名の通り魔獣使いと魔物の五感を共有するものだ。
だが、それは一体化している間、魔獣使い自身とコンタクトが取れないということではない。二重音声のようになってしまうが、言葉を届けることはできるのだ。
その特性を利用して、俺はクリストフにとある伝言を頼んでいたのだった。
「――しかし、本気なのですか? これが通用しなかったのは、私がこの目で確認していますが」
上空を見上げる俺に向かって、真面目そうな声が疑問を投げかける。その声の主は、固有職持ちの防衛部隊を指揮していたオリバさんだ。クルネと黒飛竜の空中戦が始まり、手が出せない状態の彼を無理やりここに連れてきたのだ。
「ええ。これなら、あの飛竜を地上に叩き落とすことができるかもしれません」
そう言って俺が見上げたのは、オリバさんが準備してくれている巨大なバリスタだ。黒飛竜の突撃ですべて壊れてしまったように見えたが、すぐに直せるものが一基だけあったのだ。
「もちろん、神子様を疑うわけではないのですが……」
「やって損はないでしょう? このまま決め手に欠けた空中戦が続けば、先にやられるのはクルネたちですからね」
そう説得しながら、俺はバリスタの発射装置に取り付いた。面倒な装填なんかはオリバさんがやってくれている。俺がやることは、照準を合わせて発射すること。それだけだ。
オリバさんの助けを借りて、俺はゆっくりとバリスタの照準を定める。相手は全長二十メートルの巨体だ。当たらないはずはない。だが、どこに当たってもいいわけではない。狙うは翼だ。頭部を狙うより当たりやすいし、地上に叩き落としてしまえば、黒飛竜の最大の優位性は失われる。
「なんとか動きが止まればいいんだが……」
照準器を覗き込みながら一人呻く。クルネたちの攻防は激しく、狙った部位に攻撃を当てることは難しそうだった。それどころか、クルネたちに当たるとも限らない。
そう悩んでいた時だった。
「フフフ、面白そうなことをしていますね!」
必死で照準を覗いていた俺は、突然背後から湧いた声に身をすくませた。ちらりとそちらを見ると、そこに立っていたのは五覇の一人、妖盗の固有職を持つ男だった。
「セ、セルリアン殿!? 一体どうなされたのです!?」
「どうも何も、見せ場は空の上。手持無沙汰になって周囲を見れば、怪しげにごそごそしている人影。興味を引かれるに決まっています!」
どこか芝居がかった喋り方で、セルリアンは堂々と答える。なんだか変わった人っぽいな。
「そうですが、五覇の一人がこんなところにいては……」
と、渋面を浮かべるオリバさんの言葉を遮って、俺はセルリアンに話を持ち掛けた。
「いえ、ちょうどよかった。……セルリアンさん、あの黒飛竜を撃ち落とす手伝いをしてもらえませんか?」
「ほう!? 興味深い提案ですが、そもそも君は何者ですか?」
彼は提案に乗り気なようだった。こんな非常時にもかかわらず、楽しそうに目を輝かせている。
「この方が、あの転職の神子ですよ」
俺が答えるよりも早く、オリバさんが口を開く。それを聞いて、セルリアンはさらに楽しそうな表情を浮かべた。
「なんと、あれだけの護衛を従えているだけあって、貴方もユニークな方のようですね! まさか、ただバリスタを撃ち込むだけではないのでしょう?」
「ええ、仰る通りです。ただ、確実に当てるためにどうすればいいか、そこを悩んでいたのですが……」
そう説明すると、セルリアンはニンマリと笑顔を浮かべる。どうやら秘策があるようだった。
「それなら、私にお任せあれ! 神子様、用意はできていますか?」
「はい。……それでは、カウントダウンをお願いできますか?」
「分かりましたとも! それでは、三、二、一……幻惑光!」
カウントとともに、セルリアンが何らかの幻惑魔法を放った。すると、刻々と色を変える不思議な色合いの光が黒飛竜の頭部を包み込む。
光に驚いているのか、なんらかの精神作用があるのか分からないが、彼の魔法は宣言通りに黒飛竜の動きを止めてくれていた。
そして俺はと言えば、彼のゼロカウントと同時に、天穿へと転職していた。
天穿は弓使い系統の上級職だ。弓使いでは相性次第で上手く扱えないこともあるバリスタだが、天穿ともなればその心配はない。
黒飛竜に纏わりつく謎の光を見て、俺が攻撃することを察知したのだろう。クルネたちが少し距離を取る。
それを確認するや否や、俺はありったけの力を特技に込めてバリスタを放った。
「破壊の曙光」
その瞬間、辺りがカッと光り輝いた。破壊エネルギーと共に射出されたバリスタの矢は、まるでレーザーのような太い光条となって黒飛竜を襲う。
まだ昼間であるにもかかわらず、その光ははっきりと視認できるほど桁違いの光量を抱えていた。
そして一瞬の後。光と化した破壊の矢は、狙い違わず標的の右翼を撃ち抜いた。
「ギュオオオオオオッ!」
苦悶の叫びを上げながら、翼に穴の開いた黒飛竜が落下していく。大きな地響きと共に地面に激突した黒飛竜は、再び怒りの咆哮を上げた。
その怒り狂った視線は、明らかに俺へと向けられている。たとえ翼に大穴が開いたところで、奴の理不尽な戦闘能力は健在だ。もし黒飛竜が俺に攻撃してこようものなら、一般人レベルの防御力しかない俺は即死だろう。
黒飛竜の剣幕に、隣にいたオリバさんとセルリアンが鼻白む。だが、俺はそこまで心配していなかった。奴を地上に叩き落とした以上、彼女が黙って見ているはずはない。
黒飛竜は身を起こすと、その強靭な脚で大地を蹴る。たとえ翼がなくても、そのスピードは充分驚異的だ。
だが、突進してきた黒飛竜は、途中でぐらりとバランスを崩すと、重い音を立てて横倒しに転倒した。その足元にあるのは、いつの間にか現れたクルネの姿だ。見れば、黒飛竜の右脚部に大きな傷が刻まれている。
彼女はちらりとこちらを見ると、再び黒飛竜と向き合った。
「……あれ?」
その右手がぼやけて見える気がして、俺は何度も瞬きを繰り返す。右手がと言うよりも、彼女の剣を中心として、空間が歪んで見えるようだった。
「おお! あの剣の揺らぎはなんですか!? 私の幻惑魔法と違って、本当に危険な雰囲気ですね!」
そして、それは俺の見間違いではなかったらしい。セルリアンの言葉は、俺の見立てとまったく同じものだった。彼は盗賊系の特殊職だ。その感知能力は俺の比ではないだろう。
そして、黒飛竜がクルネに襲い掛かる。大質量の尾が彼女目がけて振るわれたその時。
「斬れぬものなし」
静かながらも、芯のある声が響く。同時に振るわれた彼女の剣は、いともたやすく黒飛竜の尾を切断した。次いで返す刀で斬りつけると、一瞬遅れて黒飛竜の頭部からバッと血液が噴き出す。
それは致命傷だったのだろう。信じられないほどあっさりと頭を割られ、黒飛竜はゆっくりと崩れ落ちるように倒れ伏した。
「なんという……信じられん」
倒れ伏した黒飛竜を目の当たりにして、オリバさんが唖然とした様子で呟く。固有職持ち二十名強と五覇が総掛かりで倒せなかった相手だ。信じられないのも無理はない。
「本当に彼女はいい腕をしていますね! 一度、闘技場で戦ってみたいくらいですよ。いやいや、強者は思いがけないところにいるものですね!」
そこへ、興奮気味にセルリアンが話しかけてくる。どこか道化師のようなイメージを抱いてしまう青年だが、彼もまた闘技場の英雄であるようだった。
そんな彼に相槌を打つように、オリバさんが大きく頷く。
「……同感です。そして、それは貴方にも言えることでしょうね。転職の神子様」
「……はい?」
突然話の矛先を向けられて、俺は目をぱちくりさせる。
「あれだけ強力な特技を使っておいて、知らないとは言わせませんよ?」
あー、やっぱりそうなったか。だが、俺にはこういう時に役立つ魔法の呪文があった。
「クルシス神のご加護です」
「……え?」
「今までも、クルシス様は私が窮地に陥ると力を貸してくださいました。神の恩寵に感謝しなければなりませんね」
「はぁ……」
オリバさんが狐につままれたような表情を浮かべるが、俺は聖印を切るとさっと場を引き上げる。俺の能力は十秒限定なんだから、戦力カウントされると困るんだよね。
俺はキャロを肩に乗せると、黒飛竜を見下ろしているクルネの下へ向かった。
彼女との距離を縮めながら、その向こうに横たわる黒飛竜を見やる。地竜の時にも苦労したが、ここまで巨大だと色々と大変だろうな。あの時はエリンがいてくれたけど、今回はどうしたものだろうか。
黒飛竜の周囲には十数人の固有職持ちが集まっており、その戦果を讃え合っているが、彼らと素材の分配の話なんかをする必要がありそうだ。
そんなことを考えていた時だった。倒れ伏している黒飛竜の口元が光り輝いて――。
「みんな、竜から離れろ!」
俺は咄嗟に叫び声を上げた。
だが、その声に反応したのは、俺の声をよく知っているクルネと、他に数名だけだった。
その直後、黒飛竜の全身が青白く輝き、近くにいた固有職持ちたちを吹き飛ばした。予想外の展開に、俺たちは呆然と立ち尽くす。
「カナメ!」
そんな中、クルネが俺の下へと駆け寄ってくる。彼女は鞘に納めていた剣をもう一度抜き放って……。
「え……?」
彼女が長年使ってきた愛剣。その刀身の上半分が落下して、澄んだ音を響かせた。
「剣が……折れた……?」
信じられないものを見るような目で、クルネが呆然と愛剣の片割れを見つめる。ひょっとすると、黒飛竜を仕留めきれなかったのは、これが原因だったのかもしれない。
俺も次元斬で何度かやらかしたことだが、強力な特技は剣の寿命を縮める。俺は頑丈な剣を使うことで対処していたが、クルネの剣はそういった造りではない。
あれだけ防御力の高い竜鱗を斬り続け、最後には剣匠の上級特技の発動だ。剣に凄まじい負荷がかかっていたことは間違いなかった。
「オリバさん。申し訳ありませんが、その剣を貸してもらえませんか?」
呆然とするクルネをよそに、俺は近くのオリバさんに武器を無心した。今、この場で最強の戦力は間違いなくクルネだ。その彼女が剣を失うということの意味はあまりに大きい。
「あ、ああ……」
それは説明するまでもなかったのだろう。オリバさんは躊躇いなく剣を差し出してくれる。それを受け取ってクルネに渡そうとした時、再び黒飛竜の身体が光り輝いた。
次の瞬間。青白い光が炸裂したかと思うと、黒飛竜の巨体が宙を舞った。なんらかのエネルギーを地面に叩きつけ、その反動で空へ舞い上がったのだ。
穴の開いた翼で羽ばたくことはできないが、片翼で滑空することはできるらしい。瀕死の黒飛竜が遠ざかるのを、誰もが信じられない面持ちで見つめていた。
「追跡を!」
はっと我に返った俺は、その場で大声を上げる。その言葉に応えるように、クルネや妖盗のセルリアンをはじめ、幾人かが飛竜を追いかけていく。
あれだけ巨大な飛竜だ。しかも、奴は滑空するのが精いっぱいでそう遠くへは行けないはず。発見は時間の問題だと思われた。
ならば、あちらはクルネたちに任せておこう。俺には俺のやるべきことがある。
そう自分に言い聞かせると、俺は隣にいるオリバさんに向き直った。不思議そうにこちらを見る警備隊長の目をまっすぐ見据えて、俺はきっぱり言い放つ。
「オリバさん。貴方がたは、あの黒飛竜の襲来を知っていましたね?」
「……!」
油断していたのか、オリバさんの表情が驚きに染まる。
「いくらなんでも、手回しが良すぎます。たまたま本来の警備隊長がバリスタを広場に設置し、たまたま二十名を超える固有職持ちを防衛部隊として組織していた。この街出身の仲間に聞きましたが、普段はそんなことはないようですね?」
「む、それは――」
「評議員のお三方が『評議会の日まではセイヴェルンに留まってほしい』と仰っていたのも、私たちを黒飛竜との戦いにかり出すつもりだったと邪推してしまいそうです」
「そんなことは……」
オリバさんは困った様子で答える。その表情から察するに、彼は命令を受けただけなのだろう。飛竜が襲来するから防衛せよ、とだけ言われていたのかもしれない。
だが、あの黒飛竜には知性があった。と言うことは、今回の襲撃には目的があった可能性が高い。そして、このような備えをしていた以上、評議会はあの黒飛竜に関するなんらかの情報を持っているはずだった。
相手が評議員となれば、一筋縄ではいかないかもしれない。どう聞き出したものか考えていると、俺の背後から声がかけられる。
「――神子様。その点については、私からご説明させて頂きます」
その言葉に振り向くと、いつの間にか俺の後ろにはフレーゼ評議員が立っていた。彼女は穏やかな微笑みのまま、評議場を指し示す。
詳しくは評議場で説明するということだろうか。俺は静かに頷くと、評議員の牙城へ足を踏み込んだのだった。