黒飛竜・上
【クルシス神殿長代理 カナメ・モリモト】
セイヴェルンの上空に浮かぶシルエットは、どう見ても飛竜のものだった。
以前、王国軍を騙す時に、クリストフが幻影雀を使って見せた姿形とそっくりだったし、まず間違いないだろう。それに、この街へ来る途中で見かけた飛竜にも――ん?
「あの時の飛竜か……!?」
遠くてよく分からないが、その全長は二十メートル近いだろう。下位竜では通常あり得ないサイズだ。
そして、空に穿たれた黒点のように黒い体表。見れば見るほど、あの時の飛竜であるように思えた。
「その可能性は充分ありそうだね。あんなに巨大な飛竜がそういるとは思えないよ」
同じく空を見上げながら、クリストフが同意する。しかし、そうなると気にかかることは……。
「まさか、上位竜か?」
「どうかな……この街で巨大な黒い飛竜の噂は幾つか耳にしたけど、ただ巨大なだけで、上位竜ほど絶望的な強さは持っていなかったはずなんだ。たまに撃退した例があるようだからね」
「そうか……それなら、まだマシだが……」
魔獣使いと言う仕事柄、そう言った情報には詳しいクリストフの言葉だ。少しは光明が見えるか。
そう希望を持った矢先に、クリストフは嫌な追加情報を付け加える。
「……ただ、最近はかなりの猛威を振るっているようだね。それまでも小さな村が全滅させられることはあったそうだけど、それなりの防衛戦力が整っている街もいくつかやられたそうだよ」
「詳細な情報をありがとう……」
俺は小さく嘆息して天を仰ぐ。
「お兄ちゃん! カナメ君! のんびり話してる場合じゃないでしょ、逃げるわよ!」
そこへ、アニスの焦った声が響いた。彼女もれっきとした固有職持ちではあるが、さすがに全長二十メートルの怪物とやり合うつもりはないのだろう。
「それもそうだな……あれ?」
アニスの言葉に同意して、避難先を探し始めた時だった。俺は、上空の飛竜の様子にふと疑問を覚える。
「カナメ、どうしたの?」
すでに抜身の剣を構えたクルネが、俺につられて空を見上げる。
「いや……あの飛竜、なんで襲ってこないんだ?」
相手は竜とは言え、モンスターの一種だ。基本的に知性は低く、獲物を見つけると本能的に襲い掛かることが多い。上位竜クラスだと分からないが、下位竜については、原則そう考えて間違いないだろう。
だが、あの黒飛竜の様子は、まるでこちらの出方を窺っているようだった。先程からずっと同じ位置に浮かんでおり、少しずつ首の角度を変えて街を見回しているように見える。
「――バリスタ部隊! 構え!」
そう訝しんでいた時だった。いつの間に移動していたのか、さっきの巨大なバリスタが広場に並べられ、一斉に照準をつけた。指揮を執っているのはさっきのリーベルトさんだろう。
何基も並んだ超大型の弩は、その規模に相応しい巨大な矢を装填され、力を解放する時を待ち続ける。
今にも破裂しそうな静寂の中、リーベルト隊長が号令をかけた。
「撃てええええええ!」
その大音声とともに、大気を振るわせてバリスタの矢弾が黒飛竜へと向かう。その圧倒的な光景は、黒飛竜が串刺しになる未来を幻視させるに充分なものだった。
「ギュオオオオオオオオ!」
黒飛竜の咆哮と共に、その巨体が淡く輝く。その直後、バリスタから放たれた巨大な質量が殺到した。だが――。
「全然効いてへんやんけ……」
バリスタの攻撃力に期待していたのだろう、コルネリオが意気消沈したように呟いた。それもそのはず、バリスタから放たれた巨大な矢は、一つとして黒飛竜に突き刺さっていなかったのだ。
慣性を失った矢が、バラバラと地上へ落ちていく。あの真下に誰もいなければいいんだが……。
そんなことを考えていると、黒飛竜の動きに変化があった。黒飛竜は少し上昇すると、バリスタ目がけて突進したのだ。
「逃げろ!」
そう叫んだのは誰だったか。その声が聞こえた次の瞬間には、耳をつんざくような破壊音と衝撃波が俺たちを襲った。距離がだいぶ離れていたにもかかわらず、俺たちは地面に転がされる。
「なによ、あれ……」
呆然とした様子のアニスの声を聞いて、俺はもうもうと上がる土煙の先を見つめた。
そこには、クレーターとしか言いようのない大穴が開いていた。もちろん、バリスタの形を保っているものなど残ってはいない。
そのクレーターの中央で、何事もなかったように鎮座している黒飛竜は、評議場のほうへ首を向けた。それ以上目立った動きはないものの、全長二十メートルの飛竜がそこにいるというだけで、圧倒的な存在感が場を塗り潰す。
「クリストフ、あの飛竜が操られている可能性はあるか?」
俺の質問に、クリストフは首を横に振って答えた。
「ないと思う」
「魔獣操作や一体化の特技は?」
「……残念ながら、相手が強大すぎるよ」
「そうだよなぁ。……魔道具の影響にも見えないし、不思議な動きをする飛竜だな」
遠目ではあるものの、洗脳された雰囲気はない。魔力の流れを見ても、洗脳用の魔道具が取り付けられているようには見えない。その割に、行動がどこか引っ掛かる。
「攻撃開始!」
飛竜の様子を窺っていると、勇ましい掛け声とともに、二十人ほどの集団が現れた。……ん? あれって、オリバさんか?
指揮官なのだろう。オリバさんの指示の下、彼らは一斉に攻撃を仕掛ける。
十数人が黒飛竜へと向かう中、残った八人が矢や魔法を放つ。弓使いが四人、魔術師が三人。残る一人は治癒師のようだった。
破壊力を伴った矢が黒飛竜の身体に突き刺さり、同時に放たれた火炎球が体躯を焦がす。……ように見えた。
だが、よく見れば矢はほとんど刺さっておらず、鏃が僅かにめり込んでいるだけだった。火炎球も、鱗に阻まれて満足なダメージを与えたとは考えにくい。
しかし、彼らは固有職持ちの集団だ。下位竜であれば、それなりのダメージが入ってもおかしくないはずだった。
飛ぶことを優先した飛竜の鱗は軽くて薄いため、他の竜鱗に比べて防御力に劣る。そんな飛竜の鱗が下位竜の鱗よりも頑強となると、敵に対する認識を改める必要がありそうだった。
選手交代と言わんばかりに、黒飛竜目がけて近接戦闘系の固有職持ちが殺到する。彼らは傍目にも分かる特技の輝きを纏わせて、多種多様な攻撃を浴びせようとしていた。
だが、黒飛竜は煩わしそうに彼らを睥睨すると、飛竜の武器の一つである長い尾を振り回した。
凄まじい質量が轟音と共に彼らに迫る。その攻撃を回避できず、数人の固有職持ちが吹き飛ばされた。しかし、その尾の攻撃は、揃って盾を構えた複数の騎士によって無効化に成功する。
そして、その隙をついて騎士の陰にいた破砕者が、手に持った巨大な戦槌を黒飛竜の脚部に叩きつけた。
「ギュオオオオ!」
一瞬、黒飛竜の姿勢を揺らがせたその一撃は強力なものだったのだろう。強靭な鱗とは無関係に衝撃を与える戦槌での攻撃であったことも幸いしたのか、初めて黒飛竜にダメージを与えられたようだった。
「おお! さすがはヴォルフレック殿!」
初めてダメージが通った手応えを感じたのか、周囲から歓声が上がる。戦槌を担いだ破砕者はその歓声を気にすることなく、再び自らの得物を振り抜いた。
「ん? あの人って……」
第二撃を叩き込む破砕者は、他の面々よりもだいぶ背が低かった。それでいて、まるで樽のように分厚いどっしりとした体格。神学校で何人か見たことはあったが、彼は――。
「五覇の一人、ヴォルフレックさんやな。山妖精で、昔っから闘技場を根城にしとる変わりもんや。腕力だけで言うたら最強やろな」
俺の視線に気付いたのか、コルネリオが丁寧に解説してくれる。どことなく嬉しそうな表情が浮かんでいるあたり、こいつが子供の頃から闘技場に名を馳せていたヒーローなのかもしれないな。
それにしても、やっぱり山妖精だったのか。山妖精が闘技場の古参とはイメージに合わないが、そういう変わり者もいるのだろう。
「ヴォルフレック殿に続けえええ!」
その戦いぶりに触発されたのか、勢いを得た戦士たちが再び黒飛竜に得物を振り上げる。尾や爪、牙を用いた猛攻に傷を負いながらも、彼らの攻撃は少しずつ黒飛竜に傷を負わせていた。だが――。
「このままじゃ危険だね」
いつの間にか隣に来ていたリカルドが、険しい顔で戦況を見つめている。たしかに黒飛竜はいくつか傷を負っている。だが、それは軽傷と言うのもおこがましいレベルでしかない。
ヴォルフレックの攻撃は多少こたえているようだが、その分、黒飛竜も彼を警戒しており、意外に俊敏な動きで戦槌の攻撃を避け続けていた。
弓使いと魔術師の混成部隊も攻撃を仕掛けているが、これと言ったダメージは与えられていないようだった。もっと近づけば話は別だろうが、それは彼らが黒飛竜の攻撃圏内に入ることを意味していた。
「あ……!」
クルネの声と同時に、黒飛竜の牙に引っ掛けられた戦士が宙を舞う。
黒飛竜に近接攻撃を仕掛けている固有職持ちが一人、また一人と戦線から離脱していく。三人の騎士が息の合ったコンビネーションで薙ぎ払い攻撃を受け流しており、そのおかげで今はなんとかなっているが、このままではジリ貧だ。全滅は時間の問題だった。
「カナメ……」
クルネが複雑な表情で俺を見つめる。俺たちの安全を確保しなければという思いと、彼らに加勢したいという思いで葛藤しているのだろう。それが分かるくらいには長い付き合いだ。
本来なら大人しく逃げ場所を探すべきなのだろうが、三人の固有職持ちを含む俺たちが、この場で逃げ出してもいいのだろうか、という引っ掛かりがあるのは事実だ。
だが、俺たちが参戦しただけで勝てるのだろうか。すでに防衛部隊の陣形は崩れている。こんなことなら、最初から加勢しておくべきだったと後悔を覚えるが、もはやどうしようもない話だった。
地竜に比べれば、まだダメージは通るようだし、今のクルネなら戦力になる可能性は高い。ただ、五覇のヴォルフレックが与えているダメージも、黒飛竜にとって深刻な負傷であるとは到底思えなかった。
俺が思い悩んでいると、評議場からさらに四名の固有職持ちが姿を現す。そして、そのうちの二人には見覚えがあった。
一人は先だってクルネと戦った剣士アズライト。そして、もう一人はアルティエロさんの護衛でもある魔法剣士バイアランだ。
「と言うことは、他の二人も……」
「おおおお! 五覇が揃ったぞ!」
俺の予想を裏付けるように、防衛部隊から歓声が上がる。やはり、残る二人も五覇のようだ。あれは、騎士と……。
「妖盗か……珍しいな」
妖盗は盗賊系の特殊職だが、幻惑系の魔法やら特技を得意とする固有職だ。
盗賊系のジョブが堂々と闘技場で戦うことには違和感があるが……まあ、固有職は固有職でしかないもんな。
ともあれ、これで特殊職二人を含む固有職持ちが四人が加わったことになる。それも五覇と呼ばれている面々だ。戦力は増強されたと見ていいだろう。
最初から出て来いよ、と思わなくもないが、二十人以上の固有職持ちを揃えていたのだ。それで充分勝てると思っていたのだろう。
そして、加勢するなら今だ。同じことを考えているはずのクルネに、俺は小さく頷いた。
「もし何かあれば、無理やり空間転移するからな」
俺としてはこれが最大限の譲歩だった。クルネが重傷を負うようなことがあれば、即座に時空魔導師に自己転職して、空間転移で彼女を回収、逃亡する。
だが、それも即死してしまえば意味がない。
「うん……!」
クルネは覚悟した表情で頷く。言うまでもなく、その辺りのことは分かっているのだろう。
「クルネちゃん、私も行くから」
そこへ、槍を構え直したアニスが加勢を申し出る。だが、クルネは首を横に振ると、アニスの肩に手を置いた。
「ありがとう。でも、カナメたちをお願い。キャロちゃんも付いてるけど、万が一あの飛竜がこっちを狙って来たら、さすがに守り切れないかもしれないから」
断られるとは思っていなかったのか、アニスがきょとんとした表情を浮かべる。だが、クルネの言葉は正論だった。
それに、万が一の時に空間転移を使おうにも、注意を払う相手が二人いるのはさすがに辛いものがあった。
「……アニス、加勢が必要なら僕がするよ。だから、僕たちの安全はアニスに任せる」
そんな事情を察したのか、クリストフが口添えする。もちろんクリストフ自身が突撃するはずはないから、近くの動物なりを使役するつもりなのだろう。
「リカルドとコルネリオは避難していてくれ」
「だが……いや、分かった」
異を唱えようとしたリカルドは、思い直したように頭を振ると、素直に頷きを返してきた。正直なところ、固有職持ち以外のメンバーはここにいるべきではなかった。
気掛かりな様子ながらも場を離れる二人に別れを告げると、俺は懐から護符の形をした魔道具を取り出した。ミレニア司祭が作ってくれた物理障壁を展開する魔道具だ。黒飛竜の攻撃をまともにくらえば何の役にも立たないだろうが、使い方によっては充分有用なはずだ。
「カナメ、行ってくるね!」
俺に一声かけると、クルネは黒飛竜へ向かって駆け出す。防衛部隊は突然現れた援軍に驚いた様子だったが、アズライトが何事かを宣言すると、彼らの口から歓声が上がった。彼女があの『ルノール選手』だと知ったのだろう。
クルネは黒飛竜との距離を詰めると、咄嗟に横に跳んだ。直後、彼女のいた空間を黒飛竜の爪が引き裂く。そこへ間髪入れず、クルネは特技を発動させた。
「「光剣!」」
その声は一人分ではなかった。綺麗に唱和した発声と同時に、巨大な二本の光剣が黒飛竜に襲い掛かる。
もう一本の光剣はアズライトのものだ。クルネに攻撃をかわされ、生じた黒飛竜の隙を的確につくあたりは、さすがは五覇の一角といったところだろう。
光の双剣を胴体部分に受けた黒飛竜がのけ反ったことを好機と見て、今度はバイアランが剣を振るう。闇色の輝きに覆われた剣にはどんな効果があったのか、彼の黒い斬撃は黒飛竜の鱗の上で蠢き、まるで身体を蝕もうとしているようだった。
「集圧撃!」
さらに、ヴォルフレックの戦槌が黒飛竜の脚部を襲う。打撃エネルギーを一点に集束した一撃を受け、ぐらりと黒飛竜がバランスを崩す。
「今だ!」
再び、前線の戦士たちが黒飛竜に総攻撃をかける。だが、その瞬間、再び黒飛竜の体躯を淡い光が覆った。
「ギュアアアアア!」
そして、燐光を纏った黒飛竜は、彼らの攻撃をあっさり弾いていた。
「なんだ!?」
「固い……!」
そんな動揺が伝わってくる。彼らの渾身の特技がまったく効かなかったのだ。黒飛竜の特殊能力なのか、燐光を纏った状態では大幅に防御力が上昇するようだった。
だが、そんな中でも黒飛竜が嫌がる攻撃があった。それはクルネ、バイアラン、アズライト、そしてヴォルフレックの四人が繰り出す攻撃だ。
クルネは剣気の特技で攻撃を強化しているため、通常の斬撃でも多少はダメージが通っているようだったし、バイアランの魔法剣も同様だ。アズライトは光剣のみ効いているようだが、これは得意な特技だからだろうか。
そして、一番有効に思えるのはヴォルフレックの集圧撃だ。スピードに欠ける彼の攻撃はかわされやすいため、同じ五覇の妖盗がフォローしているようで、山妖精の周囲では不思議な光がたびたび瞬いていた。
しかし、それらの攻撃も、燐光を纏う前と比べると大した傷にはなっていない。まるで様子見をしていたと言わんばかりの黒飛竜の余裕を前にして、防衛部隊に焦りの色が見えた。
「厳しいね……」
クリストフがぼそりと呟く。その声からは危機感が強く感じられた。
「現状ですらこれだからな」
「……そうか、そうだったね」
きっと今の俺は苦い表情を浮かべていることだろう。なんせ、黒飛竜は得意なカードをまだ切っていないのだ。現状で攻めあぐねているということは、ほぼ勝ち目がないと言えた。
そしてしばらくの攻防の後、俺が懸念していた瞬間がついに訪れた。……黒飛竜が空へ舞い上がったのだ。
「ちょっと! あんなの反則じゃない! どうやって攻撃したらいいのよ!」
アニスの声は、その場にいた全員の思いを代弁していた。五覇は闘技場で腕を磨いていた関係で、全員が近接戦闘型だ。クルネも同系統と言ってよく、曲がりなりにも黒飛竜に傷をつけられるメンバーは、皆強力な遠距離攻撃手段を持っていなかった。
クルネとアズライトが真空波を放つが、距離が遠いため威力も減衰しているのだろう。黒飛竜が気にした様子は微塵もない。バイアランも剣から雷を迸らせたが、やはり効いていないようだった。
後衛部隊の加重撃や氷槍も通用しておらず、もはや打つ手はない。こうなれば、奴が攻撃するために俺たちと接触する瞬間。そこに賭けるしかない。
ここにいる皆が同じ結論に達したのだろう。全員が、空に浮く黒飛竜の一挙手一投足に注目する。だが、黒飛竜は予想外の行動を取った。
その口元に光が集まったかと思うと、光弾を発射したのだ。思いがけない攻撃を避けきれず、幾人かの固有職持ちが直撃を受ける。飛竜がブレスを吐くとは予想していなかったのだろう。
同時に黒飛竜を覆っていた燐光が消滅するが、誰も手を出すことはできなかった。そして、二撃、三撃と光弾が立て続けに飛来し――。
「「光剣!」」
だが、光弾はクルネたちの光剣と激突して消滅する。完全には相殺できず、それなりの爆風が彼らを襲うが、その程度であれば固有職持ちには影響がない。
その後も襲い来る光弾を、光剣が連続して迎撃し続ける。その攻防に焦れたのか、黒飛竜は一旦上昇すると、前衛部隊目がけて急降下攻撃を仕掛ける。そして、そのターゲットがクルネとアズライトであることは明らかだった。
「クルネ!」
俺は思わず声を上げた。全長二十メートルの大質量が急降下するということは、それだけで凄まじい破壊力を持っている。直撃すれば、固有職持ちといえども命を失う危険があった。
「金剛!」
だが、そんなクルネたちの前に立ち塞がる人影があった。今まで目立っていなかった五覇最後の一人だ。金剛と言えば守護戦士の特技だと思っていたが、彼は騎士であるにもかかわらず、防御力を跳ね上げる上級特技を習得しているようだった。
一際巨大な盾を構えると、騎士はぐっと腰を落とす。威嚇も併用しているのか、黒飛竜はまっすぐに騎士を目指しているようだった。
そして、黒飛竜と騎士が激突する――。
耳をつんざく激突音と共に衝撃波が撒き散らされ、近くの建造物が倒壊する。そんな中、圧倒的な質量差にもかかわらず騎士が踏みとどまっているのは、なんらかの特技を使ったためだろう。
その盾は上半分が砕け、鎧も醜くひしゃげている。だが、それを気遣う声は一つもない。黒飛竜を倒す好機が今しかないことを、その場の誰もが理解していた。
前衛部隊の様々な特技が、これで最後とばかりに黒飛竜に吸い込まれていく。そこへ、後衛部隊の矢と魔法が雨のように降り注ぎ、辺りは爆炎と土煙に覆われた。普通に考えれば、下位竜すら何度も葬ることができる破壊力だ。しかし――。
「ギェアアアアアアアア!」
その健在ぶりを示すように、黒飛竜は雄叫びを上げた。誤算があるとすれば、相手は下位竜の域に収まるような存在ではなかったということだろう。再び燐光を纏った黒飛竜は、怒り狂った目をなぜかクルネに向けた。
黒飛竜はほぼ無傷に思えたが、よく見ると左側の目から血が流れている。狙いがよかったのか、燐光を纏う前だったのか。なんであれ、その目を傷つけたのはクルネで間違いなさそうだった。
「まずい……!」
それは誇るべきことだろう。場にいる誰よりも的確に動き、そしてダメージを与えたのだから。しかし、それは彼女の身に危険が迫ることと同義だった。
怒り狂った黒飛竜の尾が、爪が、牙がクルネに襲い掛かる。ミダスさんとの修練のおかげか、クルネは上手く回避し続けているが、それがいつまでもつかは分からない。固有職持ちであっても、無尽蔵に体力があるわけではない。疲れで彼女の動きが鈍ってしまえば、それが命取りになる。
最初は攻撃に合わせてカウンターを入れていたクルネだったが、次第に攻撃の回数が減り始め、やがて防戦一方になっていく。アズライトをはじめとして何人かが加勢しようとしていたが、とても入り込めるような状況ではなかった。
この状況では、空間転移で連れ出そうにも、俺がクルネの下へ空間転移した瞬間に黒飛竜の攻撃を受けてアウトだ。魔法職の身体能力では確実に致命傷を受けるだろう。
「あっ!」
アニスが悲鳴を上げる。変則的な動きを見せた黒飛竜の尾が、クルネの背をかすめたのだ。かすめただけとは言え、凄まじい力を秘めた一撃だ。その勢いに巻き込まれて、クルネの身体が地表を転がっていく。
その様子を見て、俺の全身に冷や汗が滲んだ。クルネを行かせたのは間違いだったのか。打開策が見つからない現状に苛立ちを覚えながら、俺は一つ一つ選択肢を潰していく。
空間転移は問題外だ。かと言って、俺が自己転職しても致命傷を与えることは難しい。地竜戦のように魔力に満ちている空間なら話は別だが、周囲の魔力は通常レベルでしかない。後衛部隊の魔術師から魔力を供給してもらっても、奴を仕留められるレベルには到底足りないだろう。
かと言って、周囲の『村人』の中に、固有職資質を発現させている者も見当たらない。それに、クルネや五覇が苦戦している中で、固有職持ちが一人や二人増えたところで、あまり効果は見込めなかった。
――どうする。
俺は藁にも縋る思いでクルネの固有職資質を確認した。現在宿している剣士に加えて、騎士、盗賊が発現している。そして、彼女の中で芽吹いている上級職の資質も視えるが……その輝きの大きさからすると、転職できるレベルには僅かに届いていなかった。
クルネがミダスさんの指導を受けるようになって以来、急激な勢いで成長していた資質だが、さすがに一朝一夕というわけにはいかないようだった。
「なんでだよ……後少しなのに……!」
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。このままではクルネが死ぬかもしれない。そんな予感を打ち消すように、俺はその資質に意識を集中する。
「え……?」
その結果、自分の口から迸ったのは戸惑いの言葉だった。だが、混乱している暇はない。ざわざわとした感覚に後押しされながら――。
俺は、彼女を転職させた。