神殿と神子
【クルシス神殿長代理 カナメ・モリモト】
商人の聖地とすら言われるセイヴェルンの街では、利に敏い商人たちが生き馬の目を抜く争いを繰り広げている。
そのこと自体は想像に難くない話だし、むしろそうでなくては、と思わなくもない。
……だが、その当事者となれば話は別だ。
「――そこをなんとか! 神子様には、わたくし共でご用意できる最高の護衛をお付けします!」
「マネージメントは私にお任せを! 新たな英雄の登場には、それに見合うプロデュースが必要です!」
試合を終え、クルネが表彰された頃には、辺りはすっかり夕方になっていた。トレアスさんのアドバイスに従ってこっそり闘技場から出た俺たちだったが、どこをどう嗅ぎ付けたのか、気がつけば商人の群れに囲まれていたのだ。
理由はもちろん、『五覇』の一人を破った女剣士をスカウトするためだ。『五覇』はセイヴェルンで圧倒的な人気を誇っており、彼らのスポンサーは様々な形で莫大な収益を上げていると聞く。
まして、その実力者が容姿端麗な若い女性であるとなれば、『五覇』以上の商材になることは火を見るよりも明らかだった。
しかも、彼らの中には、『ルノール選手』の正体が転職の神子の護衛であることを突き止めている者もいたため、あまり邪険に扱うこともできない。
……まあ、それにしても調べが早すぎるし、多分トレアスさんあたりが意図的に情報をリークしたんだろうなぁ。
彼の目的は「辺境の固有職持ちの力を知らしめる」ことなのだから、『ルノール選手』の正体はバレたほうが都合がいいはずだ。
「すみません、カナ……神子様の護衛を辞めるつもりはありませんし、辺境を離れるつもりもありませんから……」
あまり冷たい態度を取るわけにもいかず、クルネは困ったような笑みを浮かべる。その言葉を聞くのもすでに十数回目だ。そして、俺も他人事ではいられない。
スカウトを断られた商人が、目に強い光を宿してこちらへ踏み出す。
「神子様! どうか彼女との契約にご許可を!」
「彼女は私の所有物ではありませんからね……なんとも言い難いところです」
俺もまた、本日何度目になるか分からない回答を口にする。
「ならばいっそのこと、神子様もご一緒に自治都市で暮らされてはいかがですかな!? セイヴェルンにもクルシス神殿はございますし、神子様の活動に支障が出ることもないのでは!?」
「勿体ないお言葉ですが、これまでお世話になった辺境の方々を裏切るわけにも参りませんからね」
そんな調子で、俺たちはのらりくらりと会話をはぐらかす。結局、彼らを撒いて宿へと帰り着いた頃には、時刻はすっかり夜になっていた。
◆◆◆
「それにしても、クルネ人気は凄かったな」
「本当だね。クルネさんがその気なら、『六覇』として闘技場に君臨できるんじゃないかな」
食事を終えて部屋へと戻った俺たちは、思い思いの場所に腰かけながら、今日という日の総ざらいをする。
「……そんなに人気が出ていたのなら、僕も見たかったな」
「私も、クルネちゃんが活躍するところを見たかったわ」
そう口を挟んできたのは、別行動を取っているマデール兄妹だ。別行動とは言え、宿屋はまとめて手配してあるため、一日の終わりには必ず顔を合わせることになっていた。
「たぶん、その戦闘を記録しとった魔法球は破格の値で取引されるやろうな……。くそ、知っとったら、金借りてでも魔法球を準備しといたのに」
さらに、コルネリオが地団駄を踏んで悔しがる。彼も商売の話があるからと、俺たちと別れて行動していたのだが、その間に商機を逃したとあってなかなか悲壮な顔つきになっていた。
「けど、クルネとのパイプ役になれるという利点は今もあるだろ?」
「もちろんや。今や『ルノール選手』の情報には万金の価値があるからな。色々利用させてもらうわ。……クルネちゃん、ありがとうな!」
「コルネリオ君、変な情報を流したりしたら怒るからね」
「もちろんや! それに、辺境が自治都市になったら、その誼でちょくちょくセイヴェルンに来るようになるかもしれへん、とか宣伝しとくで。少しくらい後押しになるかもしれへんし」
そんなコルネリオの言葉に、クルネは一応納得したようだった。と、ここで静かだったリカルドが口を開く。
「ところで、明日はエチレア家と会うんだったよね?」
「正確には、セイヴェルンのクルシス神殿を通じて、エチレア家を紹介してもらう、だな」
「そうだったね。カナメは、この街のクルシス神殿に知り合いはいるのかい?」
「まったく心当りがないな」
それどころか、セイヴェルンに知り合いがいるクルシス神官は稀だろうけどな。だが、その辺はクルシス神殿の機密情報だ。いくら辺境運命共同体とは言え、統督教と関係のないリカルドたちに教えるのは躊躇われた。
「となると、行き当たりばったりだね。軽く情報を集めてからにしようか?」
「そんなん、『我は転職の神子なるぞ!』とか言うたら、なんとでもなるんちゃうか?」
「反感しか買わない気がするんだが……」
半ば話が脱線するが、わざわざ元に戻す必要もない。俺はみんなとの会話に加わりながらも、頭の片隅でセイヴェルンのクルシス神殿について思いを巡らせていた。
◆◆◆
自治都市セイヴェルンの、中心部から少し離れたエリア。高級地というわけではないが、決して安い土地ではない。そんな界隈に、セイヴェルンのクルシス神殿は建っていた。
見た目は、クルシス本神殿やルノール分神殿とあまり変わっているようには思えない。どことなく古めかしさを感じるものの、あくまでそういった建て方なのだろうと、そう思う程度だった。
そんなクルシス神殿の正門をくぐり、本殿の中へ歩を進める。王都の本神殿のように、まず受付が目に入るのかと思っていたのだが、最初に目に映ったのは巨大なクルシス神の石像だった。
どこか生真面目な表情をした神像に対して、俺は聖印を切り丁重に頭を下げる。なんせ、ここは正体不明のクルシス神殿だ。どこで誰が見ているか分からないわけで、後で難癖をつけられない程度には敬意を示しておくべきだろう。
「待たせたな、二人とも」
そう言って振り返ると、クルネとリカルドが似通った表情を浮かべていた。
「ルノールの神殿だと慣れて麻痺してたけど、カナメってちゃんと神官なのよね」
「君のことだ、周囲の目を警戒しての行動なんだろうけど、敬虔な神官に見えたよ」
「見た目も大切だからな」
「見た目『は』じゃないのかい?」
「ノーコメントだ」
小さな声で会話をしつつ、俺たちは受付と思われるほうへと移動する。やがて、それらしきカウンターを見つけた俺は、いつもの営業スマイルを浮かべて近づいていく。
すると、俺の姿を認めた受付の男女が不思議そうに俺の顔を見つめる。多少デザインは違うものの、セイヴェルンの法服も同じような形をしている。そのため、俺がどこかしらのクルシス神官であることは分かっているのだろう。
「初めまして。突然の訪問で申し訳ありません。私は辺境のクルシス神殿ルノール分神殿にて神殿長代理を務めております、カナメ・モリモトと申します。
実は、評議会の関係でお願いしたいことがございまして……その辺りの事情をご存知の方にお目通り願えませんでしょうか?」
「え? 他のクルシス神殿の人が来るのは珍しいですね」
「たしかに……珍しいことです」
そして、俺の言葉を聞いた二人の反応にはかなりの温度差があった。
女性のほうは素直に驚きを表したが、男性の反応からは少し警戒心が感じられたのだ。俺の気のせいであればいいのだが……。
「ご用件は評議会に関係することだと仰いましたが、具体的にはどのようなことですか?」
「正直に申し上げますと、評議員であるエチレア家の方をご紹介願いたいのです」
「エチレア家を……?」
男性は胡散臭そうな表情を浮かべると、探るような視線を俺に向けた。……まあ、いきなり他国のクルシス神殿の人間がやって来て、「この国の偉い奴を紹介しろ」と言っているのだ。胡散臭いのは仕方がない。
「統督教の神官が評議員と接触したいと……? 失礼ですが、セイヴェルンの政治に関わるつもりですか?」
対して、相手の言葉は否定的なものだった。早々に政治の話へ持っていくあたりに、彼のはっきりした拒絶意識が感じられる。
「とんでもない。こちらの神殿と同じく、教義に反しない程度のお願い事があるだけですよ」
「む……」
自分の神殿と同程度、と言われては反論しづらいのだろう。男性は言葉を探すようにおし黙った。
セイヴェルンのクルシス神殿はエチレア家と関わりを持っている。その情報は評議員であり、大商人であるアルティエロさんからもたらされたものだ。その彼が断言する以上、クルシス神殿とエチレア家に繋がりがないはずがない。
「残念ですが、エチレア家のフレーゼ様は評議員としてお忙しくしている身。そう簡単にお約束は取れないでしょう」
「なるほど。そう仰るということは、貴方がこのクルシス神殿を代表して、エチレア家と接触しているのですね?」
「……いえ、そうは言っていませんが」
「ということは、先程のお言葉は一般論ということですね。いやぁ、ほっとしました。危うく門前払いされたかと思いましたよ。
威厳がないのは自覚していますが、それでは神殿長代理としてあまりにも立場がありませんからね」
あくまでにこやかに、俺はちくりと釘を刺す。あんまり使いたくはないが、俺の職責は神殿長代理だ。おそらく侍祭、助祭クラスであろう若い神官が追い払うには、多少重たい肩書だろう。
いくら鎖国気味の神殿だとは言え、こうして自治都市、それも商業都市に居を構えている以上、その辺の不文律に無関心というわけにはいかないはずだった。
「むぐ……」
その読みは正解だったのか、男性神官は変な唸り声を上げる。
と、そんなやり取りをしている俺たちの間に、さっと人影が割り込んできた。
乱入者は少女だった。年齢は十五、六といったところだろうか。意思の強そうな瞳が怪訝そうにこちらを見ている。
そして、その法服は、彼女が眼前の男性神官よりも上の位階にあることを示していた。
「――ウィール、どうしたの?」
「いえ、他国のクルシス神殿の方がお見えになっていまして、フレーゼ様を紹介してほしいと……」
「……そう」
その説明を聞いて、彼女の瞳にも警戒の色が灯る。だが、それにいちいち萎縮していてはキリがない。男性神官よりは位階が上であろう彼女に対して、俺はもう一度自己紹介を口にする。
「初めまして。私はクルシス神殿ルノール分神殿で神殿長代理を務めているカナメ・モリモトと申します」
「ふーん、神殿長代理ね……。まあ、それはいいとして、ルノール分神殿……? そんな神殿があったかしら?」
彼女は問いかけるように、ウィールと呼ばれた神官に視線を向ける。だが、彼もルノール村のことは知らないようだった。
「けど、最近どこかで聞いた記憶があるのよね……ルノール、ルノール……あっ!」
と、突然彼女は大声を上げる。他の来殿者の注目が集まるのも気にならないようだった。
「思い出した……! たしか、二日前の闘技大会で優勝した選手の名前よね? 噂が本当なら、転職の神子の護衛が、自分の村の名前を名乗っていたとか……」
その言葉と同時に、彼らの視線がクルネに吸い寄せられる。どんな噂が流れているのかは知らないが、女剣士であることや、その容貌くらいは出回っているだろう。ひょっとしたら髪色や背格好まで知られているかもしれない。
そして、噂の出所なのだから当然だが、クルネはそういった条件をすべて満たしているはずだった。
「じゃあ、あなたは……」
彼女の視線に、俺は静かに頷く。
「……ご賢察の通り、私は転職の神子とも呼ばれています。私などには過ぎた名ですので、あまり名乗らないようにしているのですが……」
そう答えると、彼女はじっと俺を見つめてくる。その視線は、先程までのものに比べると幾分和らいでいるように思えた。だが、その様子を見て、俺は脳裏に疑問符を浮かべた。
これまでも、俺が転職の神子であると知った途端、相手の態度が友好的になったという例はたくさんあった。だが、そういった反応とは違う何かを感じたのだ。
「さっきはごめんなさい。私は、このクルシス神殿で司祭を務めるジュネ・クロシアです。転職の神子とはお話をしてみたいと思っていたの」
この年齢で司祭とは、なかなか驚異的だな。受付の男性神官は司祭よりは下のようだから、この神殿全体で昇格が早い、というわけでもなさそうだが……まあ、なんであれ司祭位を持っているわけだし、さっきの男性と押し問答をするよりは建設的だろう。
そんなことを考えていると、ジュネは悪戯っぽく微笑んだ。
「それに、評議員のフレーゼ様とのやり取りは私たちが担当しているから、あなたにとっても悪い話じゃないはずよ」
◆◆◆
俺たちが通されたのは、小さな応接室だった。年季は入っているが、ちゃんと掃除も行き届いていて、邪険に扱われたという気はしない。
この小さな部屋を選んだことには、それなりにメッセージ性があるのだろうが、素直に受け取るつもりはなかった。
「……それじゃ辺境を自治都市にするために、わざわざこの街まで来たの?」
「辺境の未来がかかっていますからね」
「けど、それって統督教が手を出す範囲を超えてるんじゃない?」
「人々の安寧と幸福のためです。現状のままであれば、辺境が再び戦場となる可能性は高いでしょう。それを回避するための努力を、クルシス神が否定なさるとは思えませんが」
「そのためなら教義違反も辞さないと、そう聞こえるわよ」
「解釈の形は人それぞれですからね。それに、過干渉こそ禁じられていますが、私たちは政治と無縁ではいられません。こちらの神殿と同じく、程度の問題かと思いますが」
俺がそう答えると、ジュネは小さく溜息をついた。その様子は年相応のかわいらしいものだったが、中身のほうは意外としっかりしている。
「まさか、転職の神子がこんなに口の回る人だとは思わなかったわ……。噂話だと、聖人君子を地で行く人物に思えたのに」
彼女は少しげんなりした様子だった。それを言うなら、俺だって十五歳前後の少女が舌鋒鋭くあれこれ訊いてくるなんて思いもしなかったわけで、お互い様だと思うんだが……。
「ご期待に沿えず申し訳ありません」
「もう、謝らないでよ。私が悪者みたいじゃない。……けど、少しほっとしたわ。てっきり、ウチのあり方を否定する気なんじゃないかと思っていたから」
あり方、というのは評議員と繋がっているということだろうか。別に、クルシス本神殿だってアイゼン王子やら何やらと繋がっているし、教会に至ってはもっと親密な関係を幾らでも築いているのだから、別段非難するようなことではないと思うのだが……。
そんな内心を口に出したところ、ジュネは不思議なものを見るような目で俺を見た。
「うわぁ……あなたって、統督教で問題児扱いされてるんじゃない?」
「……問題児の定義によります」
そう答えると、クルネとリカルドが笑いを堪えている雰囲気が伝わってきた。人がせっかく澄ました顔で答えてるのに台無しだ。
「……あははっ、やっぱり面白い人ね。他の人にも好かれてるみたいだし」
と、何が良かったのか、ジュネは屈託のない笑顔を見せる。そして、彼女は本題を切り出した。
「ところで、フレーゼ様と面会したいのよね?」
「ええ、辺境を自治都市連合に加盟させるため、お力添えを頂ければと思いまして」
うーん、と悩んだ素振りを見せた後、ジュネは首を傾げながら口を開く。
「フレーゼ様は、嫌な顔はなさらないと思うけど……」
ということは、嫌な顔をするのはこの神殿の内部の人間ということか。
そう長く話をしたわけではないが、目の前の少女は俺を毛嫌いしている様子もないし、その態度には好感が持てる。
だが、受付の男性神官の態度を思い起こせば、ジュネこそが例外であり、他の人間は敵愾心に満ちている可能性は充分あった。
「ジュネ司祭、一つお伺いしたいのですが……」
「どんなこと?」
「先程、司祭はエチレア家との接触は『私たち』が担当していると仰いましたが、それは外交担当部門のような部署があるということですか?」
クルシス本神殿だって色々な部門に分かれているし、ここもそういった分業をしている可能性は充分にある。ならば、せめて外交担当だけでも、彼女のように話を聞く態度を持っていてくれたなら――。
……と、思っていたのだが、彼女のきょとんとした表情は、俺の予想が外れていることを示していた。
「え? 違うわよ? フレーゼ様と面会できるのは、私たちクロシア家直系の神官だけだもの」
……ん? 直系の神官? 予想外の言葉に俺は首を傾げた。
「重ねての質問で恐縮ですが……この神殿におけるクロシア家とは、どのような存在なのでしょうか」
そう尋ねると、彼女はしまった、と言わんばかりの表情を浮かべた。
「べ、別にどうということはないわよ。……ほら、どこの宗派にもあるでしょ? 代々神殿長を輩出しやすい家系って」
「たしかに、そうですね」
その言葉自体はおかしくない。神学校時代の友人、フレディの実家なんかは、ダール神殿の神殿長をぽんぽん輩出してたって聞くし。
だが、それはあくまで傾向の話だ。彼女の口ぶりでは、クロシア家とやらに特別な権限が与えられているように思えた。
「ということは、こちらの神殿の神殿長はクロシア家の方なのでしょうか?」
「……ええ、そうよ。隠してもしょうがないから言うけど、私の祖父よ」
「ちなみに、副神殿長や筆頭司祭の方のお名前はなんと仰るのですか?」
「それ、何か関係あるの?」
「こうして他のクルシス神殿にお伺いした以上、ご挨拶するのが筋かと思いまして。一応、私の肩書は神殿長代理ですしね」
にこやかに説明すると、ジュネは少し嫌そうに口を開く。
「別にいいわよ。私だってそれなりの立場にいるから、他の人に挨拶する必要はないわ」
十五歳くらいの女の子がそれなりの立場を得ている時点で、すでにクロシア家の特殊性が浮き彫りになっていると思うんだが……。この様子だと、この神殿の要職は彼女の一族が独占していそうだな。
同じ一族が神職を独占するというのは珍しい話ではないが、その多くは小規模な宗派だ。まさか、クルシス神殿という全国規模の組織の中で、一神殿だけとは言え、そんな状況になっているとは驚きだった。
目の前の少女には悪いが、もう少し情報を引き出してみよう。俺がそう考えた時だった。
「――ジュネ様」
ノックの音とともに応接室の扉が開かれる。そこから少しだけ顔を覗かせた神官は、ジュネを手招きすると、何事かを小さな声で囁く。
やがて、戻って来たジュネの表情は、どこか神妙なものへ変わっていた。
「神殿長が会いたいって。ついて来てくれる?」
「もちろんです。ご挨拶の一つもしておかなければ、後で本神殿の神殿長に怒られてしまいますからね」
願ってもない話だ。エチレア家への口利きを頼むには、ここの神殿長は避けて通れないようだしな。
軽口を返すと、俺はソファーから立ち上がった。
◆◆◆
「しばらく、ここで待っていてくれる? 準備ができてるか見てくるね」
そう言って通されたのは、とても小さな部屋だった。真っ白な部屋に小さなクルシス神の神像が置いてあるのだが、それがさらにスペースを圧迫しているため、俺とリカルド、クルネの三人が入ると、もはやぎゅうぎゅう詰めだ。
周囲を見回すと、部屋が歪な形をしていることも窺い知れた。それに、なんというか、屋根裏の隠し部屋のような雰囲気を感じる。いったいなんのつもりでこんな間取りにしたのか、建築家を問い詰めたいくらいだ。
しかも、壁が薄いのか、ざわざわと壁の向こうのざわめきが聞こえてくる。その声はだんだんと大きくなって――。
よろめいた俺は、思わず壁に手をついた。
「カナメ!?」
異変に気付いたクルネが、俺の顔を覗き込んでくる。その様子からすると、彼女はなんともないのか? リカルドも戸惑った様子で俺を見ている。
「二人とも、何も感じないのか?」
「え……何もって、何を?」
心配そうな表情で、クルネが俺の背中に手を当てる。別に吐きそうなわけではないが、彼女の手の感触は俺に落ち着きを与えてくれていた。
しばらくして、奔流が緩やかになったことを確認すると、俺は屈めていた背筋を伸ばした。
「なんというか……ざわめきが俺に纏わりついたような、不思議な感覚に襲われた」
そんな抽象的な表現は、二人には上手く伝わらなかったようだった。
「よく分からないけど……毒を吸わされたとか、そういうわけじゃないんだね?」
「分からないが……少なくとも身体に異常は感じない」
「よかった……」
そんなやり取りをかわしていると、やがて部屋の扉が開かれる。そして、そこから顔を覗かせたのは俺たちを案内したジュネ……ではなく、まだ七、八歳くらいの子供たちだった。
男の子と女の子が一人ずつ。まさか中に人がいるとは思っていなかったのだろう、彼らは俺たちの姿を見ると、びっくりしたように硬直していた。
「ねえ、どうしたの? 二人とも大丈夫?」
そんな彼らに、真っ先に反応したのはクルネだった。彼女がしゃがみ込むと、子供たちは怯えたように一歩下がる。
クルネで駄目となると、俺やリカルドは問題外だな。ここはあまり刺激しないようにしよう。そう思いながら彼らを観察していると、ふいに男の子のほうと目が合った。
「あれ……?」
男の子はきょとんとした様子で俺を見つめる。その瞳から警戒心が薄れていることを読み取った俺は、遅まきながらその理由に気付いた。
「大丈夫ですよ。私はクルシス神に仕える神官ですからね」
そう告げると、子供たちの顔に安堵の表情が浮かんだ。よしよし、どうやら仲間だと思ってくれたみたいだな。大人たちはあんな態度だが、子供はそこまで影響されていないのかもしれない。
ならば、これはチャンスだ。俺は全力で優しそうな表情を作り上げると、これまた穏やかな声で彼らに話しかける。
「ところで、君たちはどうしてここにいるのかな?」
「あのね、クルシスさまにおいのりをしにきたんだ」
そう答える少年の視線の先には、クルシス神の神像があった。なるほど、ここは祈りを捧げる部屋だったのか。それにしては何かと不便だが……。
「そっか、偉いねぇ」
そんな内心をおくびにも出さず、俺はにこやかに少年を褒める。彼は満更でもなさそうだったが、隣の少女が口を挟んでくる。
「そんなの、とうぜんのことだわ。クルシスさまにしんのいのりをささげられるのは、わたしたちだけなんだもの」
口調はツンとしたものだったが、そこには年齢特有のかわいらしさがあった。だが、そんな様子を微笑ましく眺めるわけにはいかない。なぜなら、彼女の言葉には引っかかる部分があったからだ。
「真の祈り……?」
俺はつい言葉を繰り返す。
『真の祈り』
『私たちだけ』
彼らの年代に特有の、持って回った言い回しだと片付けるのは簡単だ。しかし、それで本当にいいのだろうか。思考がぐるぐると回り始める。
そして、ふと気が付くと、少女が怪訝そうに俺を見つめていた。……あれ? 何かやらかしたっけな。
自分の行動を振り返っていると、少女は意を決したように口を開く。
「あなた、だれ? しんのいのりをしらないなんて……」
ジュネによく似た少女の瞳は、いつしか俺への猜疑心で満たされていた。
言い訳をしようにも、俺はこの神殿の勝手をよく知らない。迂闊に話しても怪しまれるだけだろう。ここまで来たら、正直に話すしかないか。
「お兄さんは、遠くの国から来たクルシス神の神官だよ。ジュネ司祭に連れてこられて、ここで待っているように言われたんだ」
「あら、ジュネ姉さまのおきゃくさまなの?」
ジュネの名前が出た途端、彼らの間に弛緩した空気が流れる。実の兄弟姉妹かどうかは分からないが、彼女を慕っていることは間違いなさそうだ。
「うん、ジュネ司祭とさっきまで楽しくお話をしていたんだよ。そしたら、神殿長さんに会わせてくれるって言うから、ここで待ってたんだ」
「そうだったのね! お爺さまにあえるなんてよかったわね!」
「うん、そうだね……」
本音を言えば、会わずに退散したいくらいなんだけど、さすがにそうは言えないよなぁ。
ともあれ、ジュネのおかげで、彼らとは友好的な関係を築くことができたようだった。
「――ねえ」
と、少女と俺の会話が途切れたタイミングで、少年が俺の袖を引っ張った。なんだろうとそちらを見れば、彼は期待に満ちた視線を俺に向けている。
「お兄ちゃん、とおいくにからきたんでしょ?」
「そうだよ」
俺はにこやかに答える。ひょっとして、遠い国の話や冒険譚を聞きたいのだろうか。彼のキラキラした眼差しは、そう思わせるに充分なものだった。
だが、次いで彼の口から飛び出した言葉は、俺の予想を木端微塵に打ち砕いた。
「それじゃ、ベルゼットおじちゃんのことしってる? まじっくないとでとてもつよいんだ! とおいくににいるから、しばらくあってないけど」
「なんだって!?」
「ベルゼットって……まさか……」
俺とクルネは、ほぼ同時に口を開いた。ベルゼット・ノヴァーラク。忘れもしない、クルシス本神殿の元副神殿長だ。俺は無意識のうちに、奴に斬られた腹部に手を当てた。
見れば、クルネも思い詰めた表情を浮かべている。彼女にとっても、ベルゼットの名前はトラウマのようなものなのだろう。
「……カナメ。クルネさん。子供たちが怖がっているよ?」
当時の記憶を思い起こしていた俺は、リカルドに肩を叩かれたことで我に返った。
見れば、怯えた表情で少年たちが様子を窺っている。俺はリカルドに感謝すると、子供たちに笑顔を見せた。
「ごめんね、噂を聞いたことがあって、びっくりしちゃったんだ」
「そ、そうなの! こんな遠いところで名前を聞くなんて思ってなかったから」
そんなこんなで、なんとか子供たちのご機嫌をとる。ベルゼットがどうであれ、この子たちに思うところはない。怯えさせてしまったのはこっちのミスだった。
そして、ようやく彼らが笑顔を見せるようになったころ、彼らの後ろに人影が現れた。
「マレーネ、アルノー、何をしてるの!?」
その声はジュネのものだった。
「お姉ちゃん!」
「ジュネお姉さま!」
二人は後ろを振り返ると、そのままジュネに抱き着く。二人分の体重によろめきながらも、ジュネはなんとか彼らを受け止めた。
「ちょっと、お客様の前よ? あの人たちをお爺様の所へ案内するから、それまでここでいい子にしててね?」
「「はーい」」
意外と聞き分けのいい子供たちは、ジュネの言葉に素直に頷く。そして、彼らを下がらせたジュネは、改めて俺たちを見て……なぜか驚愕の表情を浮かべた。
「ジュネ司祭、私たちの顔に何かついていますか?」
そう尋ねると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「そ、そんなことないわ! ……それよりも、準備ができたから来て」
まるで会話を打ち切るかのように、彼女はくるりと踵を返す。付いてこいということだろう。ここで話を蒸し返して機嫌を損ねるのは得策じゃないか。
そう判断すると、俺は大人しく彼女の後ろに付き従う。
そして今度こそ、俺はセイヴェルンのクルシス神殿長と顔を合わせることになったのだった。
◆◆◆
「君が転職の神子か。……噂は聞いておる」
自治都市セイヴェルンのクルシス神殿長、カストル・クロシアは、思っていたよりも齢を重ねているようだった。出産年齢の低いこの世界のことだ、ジュネの祖父であればまだ五十代だろうと予想していたのだが、それよりも十歳は年上に見える。
それが実年齢のためなのか、それともそう見えるだけなのかは分からないが、その瞳だけは強い光を放っていた。
「率直に言おう。儂は君たちを信用しておらぬ。お主が転職師でなければ、こうして会うことはなかったじゃろう」
「……理由をお伺いしても?」
「お主たちと我々では、立ち位置が違う。それだけのことじゃ」
カストル神殿長は淡々とそう述べる。だが、その言葉は強力な圧力を伴っており、そのアンバランスさは俺の興味を掻き立てるに充分なものだった。
「言葉の定義についてお伺いしたいのですが……。『我々』はクロシア家の方々を差すとして、『君たち』というのは『クルシス神殿』のことでしょうか? それとも『統督教』のことでしょうか?」
「……」
彼は何も答えない。ただ、じっと俺を見つめるだけだ。
「こちらの神殿が、クルシス神殿の中でも特別な存在であることは、本神殿のプロメト神殿長からも聞いています」
そう切り出すと、カストル神殿長の表情がぴくりと動いた。
「ですが、それ以上の理由は知りません。……一体、なぜ私たちは信用に値しないのでしょうか?」
「……それは、儂から話すべきことではない」
「では、誰から話すべき事柄であると?」
そう問いかけるが、彼に答えようとする意思は見られなかった。あれこれ質問を重ねてみたが、一向に答えを引き出すことができない。
そんな時、ふと脳裏をよぎった言葉があった。
「――クルシス神は不当に扱われている」
俺の口からそんな言葉がもれた。
特に深いことを考えていたわけではない。単にさっき思い出しただけだ。少年たちと言葉を交わし、彼の名を聞くことがなければ、この言葉を思い出すことは決してなかっただろう。
――そう、ベルゼット元副神殿長の名前を聞くことさえなければ。
その言葉を聞いて、カストル神殿長の顔色が明らかに変わる。その視線がジュネに向けられたのは、彼女がもらしたのだと、そう疑っているからだろうか。
「とある魔法剣士が仰っていた言葉です」
その言葉で察したのだろう。カストル神殿長は、再び視線を俺に固定した。そんな彼に対して、俺は手に入れたばかりのカードを切る。
「先程、神殿で子供たちに会いました。……ベルゼット元副神殿長はこちらの出身だったのですね。人的交流はないと聞いていましたが」
まあ、セイヴェルンのクルシス神殿と違って、他のクルシス神殿は門戸を広く開放しているからなぁ。俺たちがこの神殿に入り込むのは至難の業だが、彼らが他のクルシス神殿に潜り込むのは容易なはずだ。
この様子だと、他にもいるのかもしれないな。……ただ、そんなことをしても彼らに得があるようには思えないが……。
「――クロシアの名を捨てた人間のことは知らぬ」
それは、はっきりとした肯定だった。誤魔化してくると思っていただけに、その反応は意外なものだ。現在の彼らとベルゼットが繋がっていないことは事実なのだろう。
それにしても、彼らが隠しているものとはなんなのか……。
と、俺が思考に沈んでいると、ジュネの声が聞こえてきた。
「ねえ、神子……ええと、カナメ司祭だっけ? 話が脱線しているみたいだけど、いいの? 元々、あなたは自治都市の話をしに来たんじゃなかった?」
……あ、本当だ。元々は、カストル神殿長が俺たちに対して抱いている不信の理由を探って、相互理解に持っていくつもりだったんだけど、手段が目的になってたな。危ない危ない。
「ジュネ司祭のおっしゃる通りですね。申し訳ありませんでした」
俺は素直に頭を下げた。そして、気持ちを切り替えて口を開く。
「大本の話に戻ります。……カストル神殿長。辺境の自治都市連合加盟のため、エチレア家の方を紹介して頂けないでしょうか。辺境が再び戦禍に遭うかどうかは、今度の評議会にかかっているのです」
そう言って、再び深々と頭を下げる。最悪、直接エチレア家に乗り込むことも考えてはいるんだけど、正規のルートを踏んだ方が、相手に足下を見られにくい。
そのため、できることなら説得したいところではあった。
「――クロシア家には特殊な力がある」
やがてカストル神殿長の口から語られたのは、まったく関係のなさそうな話だった。
「今や血も薄れ、その力も微々たるものになってしもうたが、我々の祖先はクルシスの巫女を代々輩出していたと聞く」
クルシスの巫女? あまり聞かない単語だな。もし教会の『転職の聖女』がクルシス神殿に所属していれば、そう呼ばれたかもしれないが……。
「じゃから、儂には分かる。……ジュネよ、お主も確認したのじゃな?」
「はい、お爺様……いえ、神殿長。あの部屋の密度は、もう他の部屋と大差ありません。そして……」
ジュネは俺に視線を向ける。俺を見ているようで、見ていない。そんな不思議な視線だった。
「うむ……ゼルツとユーリにも確認させたいところじゃが……儂とお主だけでも間違いはあるまい」
そんな謎の会話を経て、彼らの視線が俺へ戻ってくる。思わず身構える俺だったが、もたらされた言葉は意外なものだった。
「……神子よ、エチレア家のフレーゼ様に向けた紹介状をしたためる。それを持って、エチレア家を訪ねるがよい」
「……は?」
あまりにも突然な展開に、俺は間抜けな声を上げた。
「なんじゃ、いらぬのか?」
「……いえ、頂戴致します」
一体何が起こったというのか。突然、こちらの目的は達成されたようだった。だが、それが相手になんの利益をもたらすのか、それがまったく分からない。
そんな内心を読み取ったのか、カストル神殿長は言葉を付け加える。
「先程も言った通り、儂らは統督教を信用しておらぬ。……だが神子よ。お主だけは別じゃ。統督教の構成員ではなく、転職の神子としてのお主はな」
それは、商材として転職能力を捉えているということだろうか。それにしては、あまりにも欲の色が見えないが……。
「騙りではなく、真正な神子となれば、我々が協力しない道理はないからの。お主の思想は統督教らしくないとジュネも言うておったしな」
そう言って、カストル神殿長はニヤリと笑顔を見せる。
「神子が望むのであれば、セイヴェルンで転職の儀式を行うために、この神殿を使ってもよい。その能力を使うことについては、儂らは神子を応援しよう」
「ありがとうございます……」
カストル神殿長の真意が読めないが、結果だけ聞けば、話は最上の結果で纏まっていた。ここで水を差すべきではないし、質問は辺境が自治都市になってから、改めてするとしよう。
そう結論付けながらも、俺は彼らの言葉の意味を考え続けていた。