証明
【盗賊 ウォルフ・レギンストン】
「ウォルフ! ウォルフ・レギンストン!」
「は、はい!」
ざわめきを圧して鋭い声が響き渡る。突然その名を呼ばれ、ウォルフは思わず飛び上がった。
「……ウォーゼン将軍がお呼びだ。付いてこい」
「わ、分かりました」
ウォルフが素直に頷くと、彼を呼びに来た将校はくるりと身を翻した。速足で歩く将校に置いていかれないよう、ウォルフは少し歩く速度を速める。
そうしてどれほど歩いただろうか。彼がたどり着いた先にあったのは、王国軍の本陣だった。
――シュルト大森林の案内役として、王国軍に潜り込んでほしい。
転職の神子の言葉が脳裏に甦る。
彼らの手引きにより、ウォルフが王国軍に潜入したのは十日ほど前のことだ。もちろん、潜入したと言っても、こっそり紛れ込んだわけではない。
発端は一月ほど前に遡る。神子たちの指示通りにリビエールの街へ赴いたウォルフは、そこで村長補佐リカルドの知り合いだという老人の手引きにより、シュルト大森林をよく知る者として王国軍へ推薦されたのだ。
後で知った話だが、辺境へ進軍するにあたって、王国軍はリビエールの街の上層部に、シュルト大森林の案内人を手配するよう要請していたらしい。
あの老人は街の実力者であったようで、その中にウォルフを紛れ込ませるのは造作もないことだった。
ただ、盗賊の固有職を得たとはいえ、移住組のウォルフはあまりシュルト大森林に詳しくない。そのため、彼は王国軍に推薦されるまで色々と勉強させられていたのだが……。
「入れ」
将校が早くしろ、とばかりに天幕を指す。その声に従って天幕に入ると、そこにいたのは巨大な体躯を持つ、存在感のある将軍だった。
「ふむ……お主か、帝国軍の居場所を察知できるというのは」
「は、はい……!」
その迫力ある眼光に緊張しながら、ウォルフは言葉を肯定する。固有職持ちとなって以来、『辺境の守護者』という英雄に接する機会を多く得た彼だったが、目の前の将軍からは、また違った凄みを感じた。
「……ちょっとした情報が入った。それが、奇しくもお主の主張と一致しておったのでな」
その言葉を聞いて、ウォルフは気を引き締めた。
転職の神子と『辺境の守護者』が、先程この王国軍を訪れたことは知っている。そして、その話し合いがどういう方向に向かうかも。
「お主は、帝国軍がシュルト大森林の中を行軍し、現在この地の北東に位置していると言ったそうだな。そのことについて、確認したいことがある」
「なんでしょうか……?」
探るような視線をなんとか受け止め、ウォルフは口を開いた。大物貴族との会話なんて僕には無理だ、と胸中でぼやくが、その言葉を受け止める者は誰もいない。
「お主は、いったいどうやって帝国軍の位置を知ったのだ? いくら目がいいと言っても限界があるだろう。にもかかわらず、遥か先の帝国軍の位置が分かるという。その根拠はなんだ?」
「それは……その、なんとなく分かるんです。シュルト大森林を見ていると、異物が混ざっているような印象を受ける方向があって……」
鋭い眼光を前にしてつまりながらも、ウォルフは準備していた理由を並べる。
その言葉は嘘だ。ウォルフが帝国軍の位置を把握しているのは、魔獣使いクリストフが定期的に情報をくれるからだ。
彼は、超高高度を飛行し、急降下して獲物を狙う鳥型モンスター、流星隼の凄まじい知覚能力をさらに強化し、驚異的な偵察能力を持つ魔物として使役していたのだった。
もちろん、その流星隼と直接接触していては怪しまれるため、ウォルフは盗賊の固有職補正で強化された視力をもって、高高度にいる流星隼からメッセージを受け取っていた。
「つまり、勘ということか」
「えっと、そうなります……ね」
将軍の口調に失望した響きを感じ取り、ウォルフはいっそう委縮した。
「明確な理由があれば、侯爵を説得する材料にもなっただろうが……」
「……!」
ウォルフは、その言葉にぴくりと反応した。
計画通りであれば、ウォーゼン将軍はシュルト大森林へ分け入り、魔の森を行軍中の帝国軍を急襲するつもりでいるはずだ。
つまり、自分の言葉一つで、辺境が戦場になるかどうかが決まる可能性がある。その事実にウォルフの頭の中は真っ白になった。将軍をなんとか説得しなければ。そんな焦燥感だけが空回りする。
「――シュルト大森林は魔の森じゃからのぅ。かの森の加護を受けた者であれば、例え遠く離れた地でも異常の察知程度はたやすいこと。まして、それが数千数万という大軍であれば……な」
そんなウォルフを救ったのは、新たに天幕へ入って来た男の声だった。もうかなりの高齢だと聞いているが、その動作に衰えは見られない。
「カイさん……!」」
ウォルフは思わず声を上げた。彼こそは、ウォルフと共に王国軍に潜入した辺境民であり、そしてあの弓使いエリンを育てた熟練の狩人でもある。
ここ最近の付き合いではあるが、ウォルフはすっかり彼に懐いていた。
「ウォルフよ、お主はもう少し自分に自信を持ってもよいと思うぞ」
そう語るカイにウォーゼン将軍が視線を向ける。
「お主が、誰よりもシュルト大森林を熟知しているという狩人か。……遠く離れた地でも、異常を感じられるというのはまことか?」
「ワシには無理じゃが、そこのウォルフにはできる。シュルト大森林をただの森と一緒にせんことじゃな。数十年に一人しか生まれぬが、辺境にはシュルト大森林の加護を受ける人間が存在するのじゃよ」
「ふむ……」
ウォーゼン将軍が自らの思考に入り込む。もちろん、カイの言葉とて完全なデタラメだ。森の加護なんて聞いたこともないし、そもそもウォルフは辺境の生まれですらない。
だが、それでも年の功と言うべきか、ほとんどウォルフと同じことを述べたに過ぎないカイの言葉は、真剣に受け止められたようだった。
「……なるほど、興味深い話だった。またお主たちに話を聞くことがあるかもしれん。今後は本陣近くに待機しておけ。部下には儂から言っておく」
その言葉を合図にして、ウォルフをここへ連れてきた将校が彼を天幕から追い立てる。これ幸いと足早に天幕を出たウォルフは、ふぅ、と深いため息をもらした。
「ウォルフ、ずいぶんと緊張しておったようじゃな」
「ええ……。カイさん、ありがとうございました」
「気にするな、そのためにワシがおるんじゃからな」
穏やかに語るカイを見て、ウォルフはさらに暗い心境に陥った。
同じように辺境から派遣されたのに、なぜ自分は眼前の老人のように事に当たることができないのだろうか。
もちろん、カイは人生の先達であり、その人生経験はウォルフとは比較にならない。そんな彼と同じレベルでありたいと願うほど、ウォルフは傲慢ではない。
だが、ウォルフが移住した辺境のルノール村には、彼と似たような年齢でありながらも、重責を担い活躍している人物が大勢存在する。
クルシス神殿の神殿長代理として、また転職の神子として大きな存在感を持つカナメや、百人単位の村人を率いて辺境へ移住し、瞬く間に影響力を持ったマデール兄妹。
一から自分の商会を立ち上げて、どんな相手にも物怖じせず、精力的に儲け話を探して回るコルネリオや、若くして魔法研究所の支部を任された才媛ミルティ。数え始めるとキリがない。
ウォルフも固有職を授かった時には、「これで、みんなのように堂々と社会と渡り合える」と、そう思った。
だが、時間が経つにつれ、盗賊の固有職が与えてくれたものは、あくまで身体的な能力でしかないということを理解せざるを得なかった。
とどのつまり、彼らと自分自身の間には、固有職をもってしても埋められない差異があるのだろう。
そんな自虐的なことを考えていると、カイがぼそっと口を開いた。
「それにしても、奴らは本当に辺境のことを知らんようじゃな」
「カ、カイさん……!」
ウォルフは慌てて周囲を見回す。幸いなことに、誰にも気づかれた気配はなかった。だが、よく考えれば、この老人が周りの気配も確認せずにそんなことを言い出すはずはない。
「……じゃがまあ、今回はあの飛竜がおるからの。どのみち王国軍に選択肢はなかったじゃろう」
「そうでしょうか?」
「全長数十メートルの飛竜じゃぞ? そのように巨大な竜は上位竜しかおらぬし、そんな天災級と戦えばこの軍の全滅は必至。
侯爵はともかく、ウォーゼン将軍のほうは冷静に戦力分析ができる人間のようじゃからな。飛竜が陣取るゼニエル山脈を越えることなく、帝国軍とぶつかりたいはずじゃ。
上位竜と戦って無駄死にするくらいなら、魔の森へ分け入ったほうがまだマシというものよ」
ウォルフの疑問にそう答えた後、カイはニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべる。
「困った飛竜が現れたものよのう……」
その笑みの理由を知っているウォルフは、なんとも困った表情を浮かべた。この王国軍の中で、それを知るのは彼ら二人だけだ。
『ゼニエル山脈を、上位竜に守ってもらいましょう』
かつてカナメがそう言った時、ウォルフは自分の耳を疑ったものだった。彼が噂通りの竜殺しであり、その隣に魔獣使いがいるとしても、上位竜を手懐けるなど聞いたことがない。
それどころか、上位竜を観測すること自体が稀だ。そう都合よく竜が現れるとは思えなかった。
しかし、彼が提示した案は言葉通りのものではなかった。その計画に必要なのは、竜ではなく……雀だった。
辺境に棲息している、幻影雀と呼ばれるその小さな鳥は、幻を生み出す特殊能力を持っており、その力で身を守っているらしい。
もちろん、その一羽一羽は大した力を持たないが、群れを率いる優秀な個体がいた場合には、巨大な幻を作り上げるという。
そんな幻影雀の群れを魔獣使いの力で強化して、上位竜の幻覚を作り上げる。それがカナメの提案だった。
モデルを飛竜にしたのは、空を飛んでいれば遠くからでも目撃できることや、あまり近付かれないという点を重視した結果であり、その存在を信じ込ませるために、カナメとミルティがゼニエル山脈の北端に大規模な破壊跡を刻みに行ったという念の入れようだ。
それにより、リビエールの街との交易路が完全に途絶してしまうことは痛手だが、それでも辺境が戦場になるよりはマシだ。それに、王国軍がリビエールに近づいてしまえば、どのみち辺境へ運べる物資はなくなってしまうのだから同じことだった。
そんな無茶な計画を考えるカナメも、その無茶に応えるクリストフも、ウォルフには眩しく見えたことを覚えている。
「さて……ウォルフよ、ワシの予想が正しければ、直にこの軍はシュルト大森林へ突入するじゃろう」
「だといいのですが……」
自分がもっと上手く受け答えしていれば、あの将軍をもっと乗り気にさせられたのではないか。そんな考えが脳裏に浮かぶ。
「もともと、あの将軍はお主の言葉だけで動くような人間ではない。シュルト大森林へ入るまでの帝国軍の足取りは掴んでおるじゃろうし、帝国に間諜を放っているフシもある。
それらの情報や『辺境の守護者』の話と併せて、森へ行軍するための肯定材料にしたいのじゃろう」
その言葉に、ウォルフは少しだけほっとする。嘘偽りのない情報を提供しているとは言え、自分が大軍の動向に影響を与えるという事実は大きなプレッシャーだったからだ。
「……となれば、森の案内人としての務めを果たさねばのぅ。ウォルフよ、森の知識は頭に残っておるか?」
「も、もちろんです!……たぶん」
ウォルフは少し自信なさげに答える。この一月の間、ずっと彼にシュルト大森林のあれこれを教えてもらっていたウォルフだったが、やはり付け焼刃の知識は身につかない。
「どうやら、少しばかりおさらいをしたほうがよさそうじゃのう」
「……すみません、お願いします」
ウォルフは素直に頭を下げる。
王国軍がシュルト大森林へ突入したのは、それから数日後のことだった。
◆◆◆
シュルト大森林はモンスターの巣窟だ。一般的に、その危険性は南へ行くほど高まると言われており、その点においては、彼らは比較的楽なゾーンにいるはずだった。
だが、それはあくまで相対的な話であって、森の行軍が楽であるわけではない。大軍を恐れて手出しをしないモンスターも多いが、それを気にしない、もしくはものともしないモンスターも当然ながら存在する。
ウォルフが屠ったモンスターも、そのうちの一体だった。
「……見事な一撃じゃった。気配の殺し方は一流じゃな」
「ありがとうございます。けど、気配隠しの特技を使っていますからね」
カイの労いの言葉に答えると、ウォルフは血の付いた短剣をぬぐった。もともと、森の案内役として王国軍に雇われた身であり、本来なら戦う必要はないのだが、人目がないところでは、それなりの数のモンスターを屠っていた。
固有職持ちを優遇する王国のことだ。ウォルフが固有職を明かせば待遇も一気によくなるのだろうが、色々と面倒なことになるのが目に見えていたため、あくまで森の狩人であるという体にしていたのだ。
この森へ入ってから身についた特技のおかげもあって、彼が辺境出身の狩人であることを疑うものはいない。
「それにしても……妙じゃな」
カイはそう呟くと、森のとある方向を見つめた。その方角には、彼らが目指す帝国軍がいるはずだった。
「帝国軍の足取りが遅い件ですか?」
「うむ……地形を考えれば、帝国軍は必ずこの辺りを通過するはずなのじゃが……」
そう言ってカイは首を傾げる。辺境外のシュルト大森林にも通じている彼は、帝国軍の現在位置から、その後に通るであろうルートを予測していた。
一日一回は来るクリストフの流星隼の位置情報からすると、彼の予測は外れてはいない。だが、行軍速度があまりにも遅いのだ。
「たとえ森に不慣れとは言え、この王国軍とそう行軍速度に差があるとは思えませんよね……」
「どこかに寄り道でもしているのか、それとも帝国お得意の魔道具絡みの事情なのか……」
「延々とシュルト大森林の中を行軍しているわけですものね。魔物避けの魔道具があるけど、巨大で運ぶのに時間がかかるとか……?」
「その可能性もありそうじゃのう」
そんな会話をしながら、彼らは本陣へと戻るのだった。
◆◆◆
「ようウォルフ、今日も帝国軍はのんびりやってんのかい?」
そう声をかけてきたのは、もはや顔馴染になった王国兵の一人だった。
「はい、相変わらずです」
「そっか……この森はおっかねえし、さっさと帝国軍を潰して帰りたいもんだな」
そう言って肩を叩いてくる兵士に、ウォルフは笑顔を見せる。
「そうですね。……けど、帝国軍と戦うのも怖いですよね」
その言葉を聞いて、兵士はちっちっ、と指を振った。
「うちにはザナック団長がいるからな。戦争であの人より強い人間なんていねえし、大丈夫だろ」
ザナック近衛騎士団長。この軍の総司令官であるロンバート第一王子の護衛として軍を率いている、王国の切り札だ。上級職である暗黒騎士の固有職持ちだと聞いているが……。
「大丈夫だって、そんな顔すんなよ。ちょっと……いや、かなり女好きがひどいけど、本気になったら強いんだぜ?」
その言葉にウォルフは苦笑を浮かべる。この王国軍には、普通ではありえない部隊が存在していた。それは近衛騎士団長のために用意された、軍には似つかわしくない女性たちを守る部隊だ。
「女のいない所へは行かない」「どうしてもというなら女を連れていく」などと主張した近衛騎士団長に折れて、王国が彼のために人を集めた結果がそれだ。
ウォルフの価値観からするとあり得ない話だが、固有職持ちを優遇する王国で上級職を授かると、そんな無茶苦茶も通るようだった。
「ザナック団長は上級職なんですよね? 王国教会の『聖騎士』と戦ったら、どっちか勝つんでしょうね」
ウォルフはふと思ったことを尋ねた。同じ上級職、しかも聖騎士と暗黒騎士が王国に揃っているとなれば、同じことを考える人間は多いだろう。
「ま、『聖騎士』が勝つだろうな。団長は美人にはすぐデレデレになるし、剣を向ける気があるとは思えねえ。一晩どうだ、とか言って『聖騎士』に張り倒される未来しか見えねえな」
「あ、そうなんですか……」
兵士が即答したことに拍子抜けしながら、ウォルフは相槌を打った。理由が固有職能力とは別の次元だということが悲しい。
「団長の能力にはクセがあるからなぁ……」
そんな会話をしながら、彼らは暗黒騎士がいる方角を見やった。
◆◆◆
「いくらなんでも遅すぎる! まさか、帝国軍はもう辺境へ入ってしまったのではないのか!? だとすれば大失態だぞ!」
カイが予測した帝国の行軍ルートに基づいて、王国軍が襲撃に最適なポイントに潜んでから数日後。呼び出されたウォルフたちを待っていたのは、二人の副司令官だった。
「侯爵、まだそうと決まったわけではありません。帝国軍の行軍速度が遅いことは、初期の段階から分かっていたではありませんか」
「そもそも、それが間違いだったのではないか!? こやつらは帝国の回し者で、意図的に儂を欺こうとしているのでは……?」
まるで八つ当たりされている気分だった。いきなり何を言いだすのかと、ウォルフは半ば呆れた。
「彼らを紹介してきたのはリビエールの街の幹部です。そのようなことはないかと」
ウォーゼン将軍がなんとか宥めようとするが、疑心暗鬼に陥った侯爵の耳には入らないようだった。
「一刻も早く引き返さなければ、辺境が帝国に占領されてしまう……! そうなれば私の立場が……子爵、やはり軍を引き返すべきだ」
その言葉にウォーゼン将軍が黙り込む。どう対処したものか決めかねているのだろう。
「……ですが、ゼニエル山脈には飛竜がいます」
「ならばこのまま森を抜けていけばよい。王国の兵は優秀なのだろう? 帝国兵にできて王国兵にできぬはずはない」
なおも言いつのる侯爵に対して、将軍が口を開こうとした瞬間だった。一人の兵士が駆け込んでくる。
「失礼します! 大変です、展開している部隊がモンスターの群れに襲われています! 将軍、ご指示を!」
「なんだと!? どこの部隊だ! モンスターの種類と数は!」
「分かりません! 複数の部隊が襲われているようです! 身を隠すことに長けているのか、モンスターの詳細は不明です!」
「現状を各部隊に伝令! 予備伝令兵を状況把握にあてろ!」
言うなり、ウォーゼン将軍は立ち上がった。指揮を執るべく場を去ろうとしたのだろう。だが、それを妨げる人物がここにはいた。
「それ見たことか! これは帝国の仕業に違いない! モンスターを我々にけしかけて、自分たちは辺境を占領するつもりだ!」
「何を……」
この緊急時に、と歯噛みせんばかりの表情で将軍が呟く。だが、ヴェスタ侯爵の主張を否定する材料が存在しないのも事実だった。
「襲われている部隊を除いて、森を離脱させるぞ! 早急に辺境を目指す!」
「な……」
その言葉に、会話の部外者となっていたウォルフは思わず声を上げた。そんな彼をよそに、ウォーゼン将軍が異を唱える。
「こうして帝国軍を迎え撃つために潜伏しているというのに、無駄になってしまいますぞ! ……それに、辺境へ至る要所には人員を配置しています。もし帝国軍が現れるようなら報せがあるはずです。今は襲われている部隊を援護するべきでしょう」
「黙れ! モンスターの群れが襲ってきたのだぞ! つまり、帝国軍は辺境へ近づいているということだ!」
モンスターの襲撃によって冷静さを失ったのか、侯爵の瞳にあるのはもはや妄念に近い。そして、その瞳がウォルフを捉えた。
「そもそも、こやつが怪しいのだ! 遥か離れた帝国軍の位置が分かるなど、儂は最初から信用できなかったのだ!」
そして「この者を捕らえよ!」と怒鳴る侯爵の言葉に、兵たちが戸惑いながらも近づいてくる。
――このままでは辺境が戦場候補地に逆戻りしてしまう。
自らを取り囲む兵士たちを見て、ウォルフは青ざめた。盗賊の固有職を持つウォルフがこの場から逃げ出すことは容易だ。
だが、それではなんの解決にもならない。ウォルフはぐっと奥歯を噛み締めた。
「――つまり、僕が離れた敵の位置を把握できることを証明すればいいのですね」
ウォルフは侯爵を睨みつけるように口を開いた。そして、懐から自分のステータスプレートを取り出すと、近くの兵士の鼻先に突き付ける。
「シ、盗賊!? 固有職持ちだったのか!?」
触れられる距離まで近づいていた兵士が驚きの声を上げると、その動揺が周りへと伝播していく。
そんな彼らを無視して手近な木に登ると、ウォルフは盗賊ならではの身軽さで木の頂上近くに陣取り、周りの景色に目を凝らした。
「どこだ……?」
盗賊として格段に知覚能力が向上しているウォルフは、王国兵たちがバタバタと動いている様子を観察した。だが、肝心のモンスターが見つからない。その事実にウォルフは焦った。
盗賊の知覚を駆使して、詳細不明だというモンスターの全容を暴いてみせることで、帝国軍の位置情報に対する信用を高めようという考えだったのだが、甘い見通しだったのかもしれない。
だが、ここで諦めるわけにはいかない。ウォルフはこの森に入ってから得た特技を発動させた。
特技の名称は『広域察知』。毎日、高高度にいる流星隼を探し続けたおかげか、彼には数キロ先まで、どの辺りにどんな存在がいるかが把握できるようになっていたのだ。
ただし、分かるのは種族レベルの差異であり、人間の存在を察知したとしても、それが誰であるかまでは分からない。人里では、後ろ暗いことにしか使い道のなさそうな特技だが、シュルト大森林では非常に有用な特技と言えた。
「あれか……!」
やがて、森の広範囲において、俊敏に動き回る特異な気配を感知したウォルフは、一番近い気配のある方向へ目を凝らした。
すると、彼の目にきらりと不思議な光が飛び込んできた。それは、盗賊でなければ気付かないような僅かな光だ。ちらちらと漏れ出てくるその光に注視するうち、ウォルフはとあるモンスターの名前に思い至る。
「無形……」
それは、カイの狩人講義の中で出てきたモンスターの一種だ。特殊能力によりその姿を視認することができず、時折漏れ出る光だけが目印となるため、視覚を知覚手段の主とする人間にとっては非常に相性の悪い種族と言えた。
しかも性質が悪いことに、この森は不可視能力だけで生き抜けるほど甘い世界ではないらしく、無形はモンスターとしての基礎スペックも非常に高い生き物だった。
だが、相手の正体さえ分かってしまえば、対策の取りようはある。ウォルフはもう一度全体を把握すると、するすると木から降りた。地面に降り立った彼を、再び兵士たちが包囲する。
「……襲撃してきたモンスターは無形。数は、たぶん十四体です。姿が見えないせいで混乱しているのでしょうが、数自体は少ないです」
兵士の包囲網を意識の外に追いやって、ウォルフはそう口にした。言葉の内容に、カイを除くすべての人間が目を見開く。
「南の部隊の中ほどに六体、北の部隊の南端に四体、東の部隊の北端に四体……だと思います。ただ、奴らは凄い速度で移動していますから、いつまでもそこにいるとは限りません。注意してください」
「……伝令!」
やがて、ウォーゼン将軍の鋭い声が響き渡る。
「敵モンスターは無形と思われる。北部、東部に四体。南部に六体。各部隊の魔術師に光球を大量に生み出すよう伝えろ」
「はっ!」
無形の透明化は、塗料を投げつけたくらいで対処できるようなものではない。その塗料ごと透明化してしまうためだ。もちろん、滴り落ちる雫までは隠せないが、そもそも塗料を当てることが難しい。
だが、不自然に明るい光球を大量に生み出すと、無形の身体がチカチカと瞬くため、その発見が容易になるのだ。
その事実を把握しており、なおかつ的確な指示を出すことができるウォーゼン将軍は、やはり優秀な将であるようだった。
無形によるモンスター襲撃騒ぎが静まったのは、それから一刻ほどしてのことだった。
◆◆◆
「ウォルフよ、ご苦労じゃったな」
本陣から解放されたウォルフたちは、陽気な表情を浮かべていた。無形の討伐により、ウォルフの察知能力が本物であると証明されたおかげで、侯爵が撤退論を取り下げたのだ。
そこには、固有職持ちという事実を明かしたことにより、ウォルフの発言力が一気に上がったことも大きく影響していたはずだ。
正確には、それらの情報を引っ提げて、ウォーゼン将軍が総司令官たる第一王子に直訴した結果なのだが、ウォルフたちからすればどちらでもいい話だった。
なぜ最初から固有職を明かさなかったのかと問われたものの、「辺境の狩人は人には仕えないんです」と意味ありげに言えば、それ以上追及されることはなかった。
「色んなモンスターの特徴をカイさんが教えてくれたからです。本当にありがとうございます」
「そっちの話ではないんじゃが……」
そう言いながらも、カイは満更でもなさそうだった。だが、その好々爺然とした表情をふと引き締める。
「じゃがウォルフ、お主は王国軍から離脱しにくくなってしもうたな。今後、王国軍はお主の能力を帝国軍との戦いに使おうとするはずじゃ」
「……ええ、覚悟の上です」
そのことについては、ステータスプレートを取り出した時から腹を括っている。
もちろん、馬鹿正直に従軍するつもりはない。あくまで契約は森の案内だからだ。開戦し、盗賊のウォルフが逃げに徹した時、彼に追いつける者は同じ盗賊くらいなものだろう。暗黒騎士のポテンシャルは底知れないが、逃げ出した案内役と追いかけっこをする余裕はないはずだ。
そんなことを考えていると、カイが驚いた表情でこちらを見ていることに気付く。不思議そうに首を傾げるウォルフを見て、彼はなぜか嬉しそうに笑い声を上げた。
「なに、弟子の成長を見るのは何よりの楽しみじゃからな」
「はぁ……」
そう言われても、なんのことだかさっぱり分からない。そんなウォルフを見て、カイは楽しそうに笑い続けた。