備え
【クルシス神殿長代理 カナメ・モリモト】
王国の廃領宣言から数日が経ち、辺境の人々は混乱の極致にあった。……というわけでは、実はない。
情報の入手経路を明かしにくいことや、こちらが情報を持っているということを王国や帝国に知られたくない理由もあり、公には何も知らせていないからだ。
もちろん、辺境が戦場になる前に逃げ出したいという人はいるだろうし、永久に情報を秘匿しておくつもりはない。王都から辺境まで情報が届くには、だいたい二十日から一月かかるため、そのタイミングで公表する予定にしていた。
そして、それまでにやっておきたい用事をすませるために、俺はとある人物の家を訪れていた。
「ここだよな?」
目の前に建っているのは、なかなか大きい家だった。二世帯くらいなら普通に過ごせそうな広さがあるだろう。
「うん、そのはずよ。……ほら、そこの表札に名前が書いてあるもの」
「ふむ……この家では、三世帯が一緒に暮らしているようだね。最初は比較的大きな家だと思ったけど、こうなるとむしろ手狭に見える」
俺の問いかけに、同行していたクルネとリカルドが口々に答える。
家のノッカーを鳴らすと、少しの間をおいてガチャリ、と扉が開いた。そして、その扉から姿を現した青年こそが、俺たちが会いに来た人物だった。
「はい、どちら様です……あれ、神子様?」
こちらに視線をやった青年は、俺の顔を見ると不思議そうな顔を見せた。
「久しぶりだな、ウォルフ。少し話があって来たんだが、時間をもらえないか?」
そう、俺たちが会いに来たのは、盗賊の固有職を持つ青年ウォルフだった。
内密の話があると小声で伝えると、彼は何も言わず、素直に俺たちに付いてきてくれた。ラウルスさんの一件以来、俺たちとウォルフの間には仲間意識が芽生えているように感じられるから、そのおかげかもしれない。
「……それで、話なんだが……」
やがて人気のない場所へ出ると、俺は立ち止まってウォルフに用件を切り出した。辺境が戦火に包まれるかもしれないと伝えると、彼の顔色はみるみるうちに蒼白になる。
今までにこの話をした相手は、大なり小なり似たような反応を示したものだが、彼の反応はその中でも特に大きいものだった。
「ウォルフ、大丈夫か?」
「……え? は、はい、大丈夫です……」
ウォルフはそう答えたものの、あまり大丈夫そうには見えない。今日はこれ以上の話はやめておこう。そう判断して口を開こうとした時だった。
「……その話を僕に教えてくれたということは、何か仕事があるんですよね?」
「ああ、その通りだが……。調子が悪いなら日を改めるよ」
そう伝えると、意外なことにウォルフは激しい勢いで首を横に振った。
「いえ! むしろ今教えてください!」
「……まあ、ウォルフがいいならこっちは全然構わないが……」
そう前置きをして、俺は本題に入る。
「――ウォルフ、しばらくリビエールの街にいてくれないか」
「リビエールに?」
鸚鵡返しの問いに黙って頷くと、俺は詳しい話を始めた。
◆◆◆
「――神子様たちが考えていることはよく分かりました。ですが……うまくいくものでしょうか?」
俺がウォルフへの頼み事を説明し終えると、彼は不安そうに口を開いた。
「失敗したって、現状が悪化する可能性は低いからな。試してみる価値はあるだろう。ただ、ウォルフ自身は命がけになってしまうが……」
「いえ、それで辺境が戦場にならずにすむのなら……」
そう答えるウォルフの表情は相変わらず暗いものだった。そんな彼を気遣ったのか、リカルドが口を開く。
「ウォルフ君。もしこの計画が成功した暁には、それなりの報酬を出すつもりだよ。……餌で釣るようなつもりはないが、せめてそれくらいはさせてもらう」
「報酬……ですか……?」
その言葉を聞いて、なぜかウォルフは後ろを振り返った。それは、さっき俺たちが歩いてきた道であり、彼が住んでいる家がある方角でもあった。そちらを見ながらウォルフは口を開く。
「……僕には姉がいます」
突然始まった独白に、俺たちは戸惑いながらも耳を傾けた。
彼の姉が移住に際してモンスターに襲われ、現在では寝込んでしまっていること。外傷はジークフリートの治癒魔法で治ったものの、負傷を起因とする病気までは治せなかったこと。そして、辺境からもう一度どこかへ移住するだけの体力は残っておらず、戦場となるこの地から避難できないこと。
彼の家の事情をあまり知らない俺は、驚きをもって彼の言葉を受け止めた。
たしかに、治癒魔法で病気を治すことは難しい。対象者の身体と同時に、病気にまで力を与えてしまうことが原因だとミルティに聞いたことがある。
そのため、よほど才能のある治癒師でなければ、病気を治すことはできないのだ。
俺自身も自己転職して試したことがあるのだが、十秒という短い時間ではろくに効果が出ないようだった。ミルティの話では、どれだけ短くても数分間は術をかけ続けるものらしい。
「ということは、ウォルフの望む報酬は……」
「姉さんの病気を治してください」
俺の問いかけにウォルフは大きく頷いた。隣のリカルドが、俺にちらりと視線を向けたのが感じられる。当てはあるのか、という意味だろう。
だが、残念ながら当てはない。ジークフリートにもミルティにも、病気を治すほどの技量はない。辺境には、他にも二人ほど治癒師がいるはずだが、どちらもそこまでの域には達していないはずだった。
「……クルネ、マイセンなら治せるかな?」
そこで俺が思い出したのは、クルネの元パーティーメンバーだった。彼の薬師の力があれば治せるかもしれない。だが――。
「病気次第だと思うわ。薬師の力は薬の効果を引き上げるものであって、効かない薬に効き目を与えることはできないって、マイセンが言ってたもの」
「姉の病気に特効薬はありません……」
そんな俺たちのやり取りを聞いて、ウォルフが沈んだ顔で言葉を挟む。重苦しい沈黙に覆われる中、俺は心を決めて口を開いた。
「……正直に言えば、病気を治せるような人間に心当たりはない。だが、それができる人間を全力で探して連れてくる。もちろん費用もこちら持ちだ。それでどうかな?」
いくら固有職持ちとは言え、組織立った情報網を持っていないウォルフが集められる情報には限界がある。
その点では、クルシス神殿の情報網を使える俺や、独自の情報網を持っているリカルドのほうが尋ね人を見つけられる可能性は高かった。
ちなみに、費用負担についてはリカルドの担当になるのだが、彼にも異論はないようだった。
そんな俺の提案にウォルフは頷く。
「分かりました。よろしくお願いします」
「こちらこそ、苦労をかけるがよろしく頼む。……さっきも言った通り、他にも人を手配するつもりだから、あまり一人で思い悩まないでくれ」
差し出した手をウォルフが握り返す。彼の弱みに付け込んだようでなんだか気が引けるが、そんなことを言っている場合ではない。
詳細は追って連絡すると言い残して、俺たちは次の人物の下へと向かうのだった。
◆◆◆
「それで、食糧の備蓄を増やさなあかんわけか」
「ここの地下室には余裕があるからな。それに、一番破壊される確率が低いのもこの神殿だ」
「そらまあ、れっきとした統督教の宗教施設やからなぁ。……ただ、統率の取れてへん部隊やったらどこまで当てになるか知らんけどな」
クルシス神殿の神殿長室に、コルネリオの真剣な声が響く。いつもおちゃらけた声色の彼だけに、事態をどれだけ深刻に受け止めているかが分かる。
「……くそう、セイヴェルンの食糧品に高値がついとったんはそういうわけか。帝国が遠征用にこっそり備蓄を進めとったんなら納得いくわ。……親父も兄貴も、知ってて教えよらんかったな……」
コルネリオは悔しそうにそう呟いた。どうやら、彼の実家は肉親だからといって情報を簡単に提供してくれるわけではないらしい。ミルトン家の教育方針が窺える。
「それで、仕入れはできそうか?」
「セイヴェルンの商人は抜け目があらへんからな……俺が買い付けに行った頃には、値が高騰しとるやろ。もう少し足を伸ばして、ミスティム公国まで行ったほうがええかもな。
あそこは有数の食糧輸出国やし、ほとんどが教会派の信徒やから、おかしな値にまで吊り上がる可能性は少ないはずや」
「リビエールはどうなんだ?」
そう尋ねると、コルネリオは首をすくめてみせた。
「王国が事前に手を打ってるんちゃうか。元々、あそこはそこまで食糧に余裕がある街やないしなぁ……」
「そうか……。じゃあ、ミスティム公国まで行ってもらえるか?」
「了解や。……ところでカナメ、非常時にこんなこと言うんはなんやけど、手数料はどれくらいや? 遠くまで買い付けに行くわけやし、多少は色がつくと思うてもええか?」
さすがコルネリオ、その辺りはしっかりしてるな。俺は感心しながら答えを返す。
「ああ、もちろんだ。今回はちゃんとクルシス神殿の財布を使えるから気が楽だな」
「戦争終結後の食糧不足による混乱を鎮めるためか。たしかに言い訳は立ちそうやな。……巨大怪鳥はまた使わしてもらえるんやな?」
「ああ、クリストフから了解をもらってる」
「分かった、ほなすぐに準備するわ。……で、カナメ。一つ訊いときたいんやけど……」
そう言うと、コルネリオは少し身を乗り出した。その表情がさらに真剣なものへと変わるのを見て、俺も気を引き締める。
「自分、今回の戦争にどこまで関わるつもりなんや?」
「どこまで、とは?」
「言うまでもあらへんやろ。統督教は政治や領土争いに関する過干渉を禁じとる。もし自分が竜やら三頭獣やらを倒した力を使うんやったら……」
その言葉を聞いて、俺は首を横に振る。
「そのつもりはないさ。それだけで片が付くなら考えるが、俺の力じゃ足りないのは明らかだ。クルシス神殿を窮地に立たせる割にメリットが少なすぎる」
一瞬で片が付く神々の遊戯のような試合形式ならともかく、戦争は継続戦闘が基本だ。いくら俺が上級職の力を行使したところで、十秒で倒せる敵の数は全体の一部でしかない。
「さよか。ほな、カナメは戦争にはノータッチか?」
「戦闘行為そのものについては、関わるべきじゃないと思ってる。ただ、それ以外の部分についてはできるだけのことをやるつもりだ」
「それ以外の部分?」
「とりあえず、辺境に唯一存在する宗教施設の長として、両軍と話をしてみるつもりだ。戦争を中止するよう求めるのは教義違反じゃないからな。
それに、万が一に備えて、辺境民の中で固有職資質がある人間を転職させようかとも考えている。費用は村が負担する体でね」
他にも、クルシス本神殿を通じての働きかけは行っていくつもりだ。王国にせよ帝国にせよ、巨大な組織である以上、一枚岩のはずはない。
今回の出兵を主導する貴族等を突き止め、対立派閥を援助するなどして、政治的な面で圧力をかけられればいいな、と期待していた。
「ま、なんにせよベストなんは……」
「戦争を起こさないことだな」
おそらく不可能であろう解決策を口にすると、俺たちは同時に溜息をついた。
◆◆◆
俺が廃領の話を知ってから二十日後。廃領の事実と、この地が戦場になるだろうという推測とを公表した辺境は、騒然とした雰囲気に包まれていた。
そして、その雰囲気の変化は神殿にも露骨に影響を与える。今のルノール分神殿の様子は、かつての王国‐帝国戦争時のクルシス本神殿を彷彿とさせた。
「神官様、私たちはどうすれば……!」
「やっとの思いでこの地まで来たのに、戦場になるなんてあんまりです……」
廃領の報を受けて、クルシス神殿を訪れた人は意外と多かった。もちろん敬虔なクルシス神の信徒の数は僅少で、そのほとんどは相談所を求めてここへ来た人たちだ。
フォレノ村長やリカルドのほうへも人が押しかけているはずだが、彼らのほうでは、確認された事実と、辺境から避難する場合の手続きの説明しか行っていない。
そのため、彼らの不安や悩みを聞いてくれるのは、友人・知人を除けばこのクルシス神殿くらいしかないのだ。
ある程度この事態を予想していた俺たちは、できる限り彼らの対応に時間を割くことにしていた。
まだ十六歳と若いシュレッド侍祭は、中身の問題というよりは外見の問題で相談対応から外していたのだが、そんな彼もしょっちゅう来殿者に捕まっているようで、訪れる人を案内しているのは専らフィロンとマリエラの十歳コンビだった。
そして、本来なら来殿者の整理にクルネも協力してくれるはずだったのだが、どうやらクルネもクルシス神殿の人間と見なされているようで、彼女もなし崩しで相談を受けることになってしまっている。
救いは、ルノール分神殿の神官全員がこの地に残ると言ってくれたことだろうか。もし彼らが一人でも欠けていたら、それだけで忙しさは跳ね上がっていたはずだ。
「――モンスターに襲われる覚悟なら、俺たちはいつでもできてる。それが辺境の人間ってもんだ。……けどよ、同じ人間が攻めて来るってのはどうにも心がざわざわしてよ……」
「そうですよね、落ち着きませんよね……」
私も同じ気持ちですよ、と言わんばかりの表情を浮かべて、俺は相槌を打った。今、話をしている相手は生粋の辺境民だ。これまで話したことはなかったが、顔にはなんとなく見覚えがある。
来殿者は移住民が多いようだが、辺境育ちの人間も少なくはなかった。目の前の男性のように、モンスターの脅威は気にならないが、人の軍勢が攻めてくることには動揺を覚える人も少なくないようだった。
人の悪意には、モンスターからもたらされる恐怖とは別種の怖さがある。それが原因なのかもしれないな、と俺は密かに考える。
「どこかへ避難するって言ってるやつもいるが、そう簡単に生きてきた土地を離れられるわけがねえ。第一、どこへ逃げようってんだか……」
そうぼやく男性の声は苦悩に満ちていた。そうしてぽつり、ぽつり、と心境を言葉にして吐き出していくが、不安が堂々巡りしているのか、同じような言葉が繰り返される。
だが、それでも話をしているうちに心が整理できたのか、彼はゆっくりと落ち着きを取り戻しつつあるようだった。……よし、もう大丈夫かな。
そう判断した俺は、適度なところで話を切り上げた。そして、去っていく彼の姿を見送っていると、すぐに次の相談者が現れる。
「一体どうすればいいのでしょう……。他の土地へ避難しようにも、もう蓄えがありません。この地への移住に全てを使ってしまいました」
眼前の人物は、移住してきた人のようだった。この人のように、辺境への移住のために私財の大半を消費してしまった移住民は多い。
そして、ウォルフの家族のような身体的理由がなかったとしても、安住の地を求めて再び旅立つことは難しいのだ。故郷を捨ててなんとか辺境にたどり着き、さあこれからだ、と気合を入れた矢先にこの騒ぎだ。彼らの落胆ぶりは一際大きかったことだろう。
それからの数日間、ルノール分神殿は開殿初日のような忙しさの中にあり、俺たち神官は一日中来殿者の悩みを聞き続けることになったのだった。
◆◆◆
「クリストフ、本当にいいんだな?」
「……うん、心配なことに変わりはないけど、これは僕のエゴだからね。アニスの意思を尊重するよ」
ごく小さな声で耳打ちすると、クリストフは同じくらい小さな囁き声を返してきた。
場所はクルシス神殿の転職の間……の入り口。中ではアニスが待機しているはずだ。その扉のほうを見やって、クリストフは小さく溜息をついた。
「これが戦争直前じゃなければ、素直に喜べたかもしれないけど……」
現在、俺はルノール村を初めとする辺境幹部の依頼により、辺境に住む人間のうち固有職資質がある人間を積極的に転職させていた。
ちなみに、転職費用に関しては、少なくとも頭金は村持ちだ。それ以上の部分については個別に交渉しているらしいが、今回の事態への対応はもちろんとして、その後も一定期間、辺境で防衛を担うのであれば、かなりの金額を村が負担するつもりだと聞いた。
……まあ、こっちもだいぶ頭金の額を低めに設定しているし、返済プランもだいぶ気が長いものを認めているんだけど、それにしても太っ腹だ。どこにそんな財源があったんだろうか。
ともかく、今後も対人・対モンスターの両面で固有職持ちが必要となるのは間違いないため、そちらへの投資も兼ねようという判断のようだった。
そしてその対象者だが、もちろん誰彼構わずというわけではない。信頼できる人物であるか、そしていざという時に辺境を守る気概があるかどうかが重要なポイントになるのだが、そうして選ばれた人物の一人こそ、クリストフの妹アニス・マデールだったのだ。
「僕抜きでもやっていけるだけの力がアニスにあるとなれば、やっぱり安心だからね」
そう言いながらも彼の表情は晴れない。今回の転職を受けるということは、戦争に参加するということとほぼ同義だ。
マデール商会の資金をもってすれば、村の補助を受けずとも転職費用の捻出はできるだろうが、そもそもアニスの性格からして、戦禍を被る村を黙って見ているとは思えなかった。
クリストフはそれが心配なのだろう。アニスが『村人』なら「下がっていろ」「避難しろ」などと言うこともできただろうけど、固有職持ちとなればそうもいかないからなぁ。
「……ねえ、まだなの?」
と、俺がクリストフと密談を交わしていると、待ちきれない、とでも言うように転職の間からアニスが顔を出した。
「ああ、今行く」
催促された俺は、小走りで彼女が顔を出している扉へと急いだ。転職の間の定位置に陣取ると、俺は改めてアニスを見る。
すると、彼女は普段らしからぬ神妙な様子で小さくなっていた。その様子を見て、俺は軽く吹き出しそうになるのを堪えた。
「……なんだか緊張するね」
「皆さんそう仰いますね。けど、転職自体はあっという間に終わりますから、あまり期待なさらないでくださいね」
アニスの言葉に、俺は仕事モードで応じた。一応儀式っぽくやるので、あんまり砕けた感じだとやりにくいのだ。そんな俺の反応に気を悪くした様子もなく、アニスは黙って頷く。
そして、俺は転職の力を行使した。
◆◆◆
「お兄ちゃん! この力、凄いよ!」
転職の間で新たな固有職持ちとなり、その力に目を丸くしていたアニスは、やがて弾かれたように兄の待つ待合室へと向かった。
「そうか、よかったね」
喜色満面の妹に対して、兄の表情にはどこか翳りがあった。彼の心の内を考えれば、それも無理はないだろう。
「うん! これでお兄ちゃんの護衛ができるね!」
「……いや、僕はこれでも魔獣使いなんだけど……」
そんな至極もっともなクリストフの呟きを、アニスは笑顔で一刀両断する。
「だってお兄ちゃん自身は強くないじゃない。レイはどこにでも連れていけるわけじゃないんだから、私がいたほうがいいでしょ?」
栗色の髪を揺らして熱弁を振るうアニスに対して、クリストフはなんとも情けない顔をしていた。それは戦争どうこうという話ではなく、純粋に兄としてのプライドの問題なのかもしれない。
「カナメ君にとってのクルネちゃんみたいに、お兄ちゃんにも護衛が必要でしょ? 村のみんなもそう言ってたもの」
「いや、カナメ君たちの距離感は護衛というか……」
「――あれ? アニスちゃん、もう転職したの?」
そんな二人の会話を聞いていると、廊下の角からクルネがひょこっと顔を出した。その姿を見て、アニスが嬉しそうに声を上げる。
「クルネちゃん! うん、ちゃんと転職できたよ。……カナメ君って、本当に転職能力があったんだね……ちょっとびっくりしちゃった」
「今まで俺をなんだと思ってたんだ……」
そんな俺のぼやきは誰にも取り上げられず、クルネとアニスの会話は続く。
「それで、固有職はやっぱり……」
「ええ、槍使いだったわ」
そう言ってアニスが取り出したステータスプレートを見て、クルネが感心したように呟く。
「本当だ……すごいね、兄妹そろって固有職持ちなんて初めて聞いたわ」
あ、言われてみればそうだな。なんてエリート兄妹だ。そんなことを考えていると、目を輝かせたアニスがこちらへ飛び込んでくる。
「カナメ君、本当にありがとう! これで、お兄ちゃんと一緒に戦えるわ!」
そう言って、心から嬉しそうな表情で俺の手を握る。……のはいいんだけど、固有職の力にまだ慣れていないのか、そろそろ俺の手の骨が悲鳴を上げそうで――。
「アニスちゃん、よかったね」
すると、さっとクルネが俺とアニスの間に割って入ってくれた。おかげでアニスの凶悪な握力から俺の手が解放される。さすがはクルネ、頼りになるなぁ。俺は彼女に感謝しながら、赤くなった手をこっそりさする。
「護衛……かなぁ……」
「ん? クリストフ、何か言ったか?」
そう尋ねると、クリストフは笑いながら肩をすくめた。
「なんでもないよ。……ところでカナメ君、アニスは槍使いに転職したんだよね?」
「ああ、それがどうかしたか?」
「アニスは今まで、ほとんど槍を使ったことがないんだ。それがちょっと心配で……」
その言葉に俺は驚く。ということは、槍使いとしての資質がそれだけ強かったということか。アデリーナあたりが聞いたら悔しがりそうだな。……ん? そうか、それなら――。
「アデリーナに槍術を教えてもらったらどうだ?」
転職する前から、アデリーナは槍の名手として辺境で名を知られていた身だ。身体能力だけで言えば魔槍戦士より槍使いのほうが優れているはずだが、アデリーナの技量があれば、魔法なしでも素人のアニスに後れを取ることはないだろう。
それに、先天的な槍使いと異なり、自らも血の滲むような努力をしていた彼女なら、人に教えることも向いているだろう。
アデリーナの負担は増えるが、辺境南部は固有職持ちの数が少ないため、そう悪い話ではないはずだった。
クリストフにそう説明していると、横合いから栗色の髪が割って入ってきた。
「それはとても嬉しいんだけど……アデリーナさんって、辺境の南の端にいる人でしょ?」
どうやら、アニスもアデリーナのことを知っているようだった。まあ、辺境では結構な有名人だからなぁ。特に辺境南部では人気が高いと聞く。
「ああ、そうだな。もう少し南に下れば海に出るくらいのところだ。……断崖絶壁らしいから、海で遊ぶことはできないだろうが」
「そうじゃなくて! そんなに遠かったらお兄ちゃんを守れないじゃない」
「そ、そうだな……」
本当に優先順位がはっきりしている妹だなぁ。なんとなくそう感心していると、クリストフが口を開く。
「アニス、僕のことは気にせず行っておいで。ここが戦場になる可能性が高い以上、実力をつけるに越したことはないからね」
「けど……!」
「僕の力だけじゃ、村を守りきることはできない。だから、アニスが優秀な槍使いになって僕を助けてくれたら嬉しいな。
巨大怪鳥を使えばそう遠くはないし、もちろん、情勢が緊迫してきたら帰ってきてもらうから」
「うん……」
その言葉にアニスは頷く。クリストフの本音は、戦争に巻き込まれた時のために、アニスが生き残る確率を少しでも上げたいというところだろうなぁ。その気持ちは分かる。
「カナメ、悪いけどアデリーナさんを紹介してもらえるかな?」
「ああ、分かった」
アニスがアデリーナの村へ向かったのは、それから数日後のことだった。
◆◆◆
『カナメ君、ついに王国軍が動き出したわ』
ついに来たか――。そんな思いと共に、俺はミレニア司祭の念話を受け止めた。
『王国軍の総司令官はロンバート第一王子のようね。そして、彼の護衛という名目で近衛騎士団長が出陣しているのも確認できたわ』
『近衛騎士団長というと、たしか……』
『ええ、暗黒騎士の固有職持ちよ。あの『聖騎士』と並ぶ、王国屈指の実力者ね。王国も本気ということかしら』
やっぱりか。この前の王国‐帝国間戦争では王城で国王の警護をしていたそうだが、ついに動くのか。
……まあ、王国軍が帝国軍に圧勝してくれるなら、それはそれでアリだと思うけどね。王国に不信感を抱いている辺境民は多いけど、王国領に逆戻りしたところで、現状維持とあまり変わらないだろうし。
『そして帝国軍だけれど、こちらもすでに動き出しているとの情報があるわ。王国領のどこにも姿を現していないところを見ると、シュルト大森林を突っ切っているのかもしれないわね。……信じられない話だけど、帝国ならやりかねないわ』
『そうですか……どんな感じの遠征軍なんでしょうね』
『あまり詳しいことは分かっていないわ。ただ、今回の遠征軍については、魔道具の戦争利用を推し進める一派が中核になっているようだから、装備もそれなりのものが与えられているでしょうね』
嬉しくない情報を聞いて、俺は思わず溜息をもらした。リカルドから、帝国が戦争で使った火球を飛ばす魔道具の話は聞いていたが、たしかにアレは厄介だ。鉄砲と異なり、弾速はそこまで速くないのが唯一の救いだろうか。
『辺境へ到着するのはまだ先の話でしょうけれど……カナメ君、気を付けてね。送った魔道具も出し惜しみしないで使うのよ?』
『ええ、ありがとうございます』
そうして、今後の方針や予定について話を詰めると、俺たちは念話を終了した。
「カナメ、どうだったの?」
神殿長室の扉を開けると、クルネが真剣な面持ちで尋ねてきた。両軍が動き出したという説明を聞いて、彼女の表情が曇る。
「まあ、俺たちができることをやらなきゃな」
「うん、そうだね……」
今後の予定を頭に浮かべながら、俺たちは頷き合うのだった。