諍い
【クルシス神殿長代理 カナメ・モリモト】
クルシス神殿が行っている業務の一つに、生誕の祝祷というものがある。その名の通り、誕生した子供を対象とするもので、その子が幸せな人生を送ることができるよう、祈りを捧げるのだ。
そして今。ルノール分神殿の神像の間では、当神殿で初めてとなる祝祷の儀式が行われていた。
「――アレックス・セルラン。汝の生が輝かしいものとならんことを。世の災厄に打ち勝つ強靭な意思を、そして高みを目指す真摯な心を育まんことを。……クルシス神よ、彼の者の生に寄り添い、守り導きたまえ」
そんな声とともに、俺は子供の額に軽く触れた。俺の指先に塗られていた染料が子供に付着し、辺りのうっすらとした光を受けて七色に輝く。この染料は儀式用の特殊なもので、儀式後も拭きとらずに、自然に消えるのを待つという習わしになっていた。
そして、しばらくその輝きを黙って見つめた後、俺はふっと表情を緩めた。
「……これで、アレックス君の生誕の祝祷は完了だ。二人……いや、三人ともお疲れさま」
そう声をかけると、儀式の主役を抱いていたジークフリートとメリルが揃って頭を下げる。
「カナメ兄ちゃん、ありがとな!」
「本当にありがとうございました」
「……アレックス君もよく頑張ったな。偉いぞ」
そう言って俺は一歳くらいの子供に笑顔を向ける。
生誕の祝祷は幼い子供を対象とするため、儀式の時間も他のものに比べてだいぶ短い。だが、そんなことが子供に分かるはずもない。
そのため、オーギュスト副神殿長から「ほとんどの子供は途中で泣き出しますからな。動じないように」と言われていたのだが、さすがジークフリートの子供と言うべきか、ほとんど泣くこともなく儀式は完了したのだった。
「それにしても、カナメ兄ちゃんすげえな! 結局、一回も祝詞噛まなかったもんな」
「さすがに儀式でそれはシャレにならないからな」
和気藹々と会話をしながら、俺たちは神像の間を出る。すると、そこにはオーギュスト副神殿長が待ち構えていた。ひょっとしてあれかな、俺がちゃんと儀式をできたか心配してたんだろうか。
儀式的なことに関して言えば、オーギュスト副神殿長は俺の師匠ということになるわけで、弟子の初舞台が気になったということかもしれない。
「皆様方、祝祷の儀式お疲れ様でした」
どう見ても俺より格上の雰囲気がにじみ出ている副神殿長に声をかけられて、ジークフリートたちが少し固くなる。
だが、そこは年の功と言うべきか、オーギュスト副神殿長が穏やかな笑みを浮かべると、二人の緊張はさっと溶けていった。……あんな微笑み、俺たち神官に見せてくれたことあったっけな。
そんなジークフリートたちの様子を見て、副神殿長はそのままどこかへと去って行く。案外、本当に俺のことを心配してたのかもしれない。
「……なんか、偉い感じの人だったな。この神殿って、カナメ兄ちゃんが一番偉いんじゃなかったっけ?」
「序列は俺のほうが上だな。あの人は副神殿長だよ」
そう答えると、ジークフリートとメリルが夫婦そろって意外そうな表情を浮かべた。いやまあ、気持ちは分かるけどさ……。
「どう見ても逆に見えるぜ」
「ほっといてくれ。……あ、そうだ。ジークフリート、一つ訊きたいことというか、頼みたいことがあるんだが」
ジークフリートの失礼かつ説得力のある台詞を受け流すと、俺は話題を変えた。突然の話題転換にジークフリートが首を傾げる。
「ん? どうかした?」
「実は、この神殿で人を雇うことにしたんだ。掃除や軽い案内のような雑務がメインなんだが、辺境民と移住民を一人ずつ雇用したい。
独り立ちできるほどの給金を出せるわけじゃないから、十歳から十五歳くらいで、家を出る予定のない子を探しているんだが、心当たりはないか?」
ジークフリートにこの話を持ちかけたのは、彼が辺境民と移住民の双方に信頼されている中立的な存在だからだ。意外と兄貴肌でもあるため、人脈という意味でも申し分ない。
「うーん……ちょっと考えてもいいか?」
「ああ、突然すまないな。よろしく頼む」
俺がそう答えると、今度はメリルが口を開く。
「でもカナメさん、ジークでいいんですか? 村長さんあたりにお話ししたほうが早いと思うのですけど……」
「それはそうなんだが、ちょっと気になることがあってね」
周囲に誰もいないことを確認すると、俺は辺境民と移住民の対立について抱いている懸念を説明した。ジークフリートはあまりピンと来なかったようだが、メリルは納得したように頷きを返してきた。
「……その対立は私も気になっていました。ジークはこういう人ですから、本能的に二派の間でバランスをとっているようですけど……」
「なんだよ、その言い方じゃ俺が馬鹿みたいじゃん」
「いや、自然に対処できるってのは凄いことだと思うぞ」
「へへ、そうかな」
「ああ、お世辞抜きでそう思うぞ。それにしても……」
そこで俺は、あっさり機嫌の直ったジークフリートから、メリルへと会話の主体を移す。
「メリルも感じていたとなれば、対立は俺たちだけの杞憂ということはなさそうだな」
「ええ。なんというか、うまくいかないことを相手のせいにしてしまう空気が流れている気がするんです。
特に最近は、どんどん雰囲気が悪くなっているような……」
心配そうな顔で、メリルはアレックスを抱く腕に力を込めた。この子の未来のためにもなんとかしたい。そんな彼女の心の声が聞こえてくるようだった。
◆◆◆
「その算定はおかしいと言っているんだ」
「……まるで俺が不正をしてるような物言いだな」
それは、フォレノ村長と今後の打ち合わせをした帰り道のことだった。道端の男性二人から漂ってくる剣呑な雰囲気に、俺とクルネは顔を見合わせた。
「他のところで交換した時にはもう少し多かった。なら、疑うのは当然だろう」
「そいつがサービスしてくれたんじゃないのか? 俺はこの仕事に誇りを持っている。そんなしょうもない騙しなんざしねえよ」
「クルネ、あれって……」
「うん、物々交換ね。あっちのゼルクさんは、よく森に入って果実なんかを採ってくるから」
そう言われてクルネが目で示したのは、辺境民らしい逞しい身体つきの男だった。たしかに、彼の後ろには見覚えのある果実がごろごろと転がっていた。
対して、もう一人の移住民らしき男が持っているのは衣類のようだった。おそらく前の村から持ってきたものだろう。そういえば、辺境では珍しい凝った作りの衣類なんかは、そこそこの値段で取引されていると聞いたな。
そして、この辺境では王都と違って貨幣を介さない取引も多かった。いちいち役に立たない金属片に換算していられるか、という主義の辺境民は少なくないのだ。
「そんな言葉が信用できるものか。口ではなんとでも言える」
「ああ? てめえ、侮辱するのも大概にしやがれ!」
「なんだと!? どいつもこいつも俺たちの足元を見やがって……!」
男の目に昏い光が宿る。胸騒ぎを覚えて俺が一歩踏み出した時には、すでにクルネが二人のすぐ傍まで移動していた。
「二人とも、どうしたの?」
突然の闖入者に、二人の男は驚いた表情でクルネを見つめる。先に反応を返したのは、クルネがゼルクと呼んでいた辺境の男だ。彼はクルネの姿を見ると、表情を一変させて笑顔を浮かべた。
「おお、クルネちゃんじゃないか。……いやな、こいつが衣服と森の収穫物を交換してほしいって言うから、交換比率を決めてたんだがよ。暴利だなんて言いやがる」
「この服がそれだけの量で釣り合うわけがないだろう」
クルネの登場で一瞬緩んだ空気が、再び険悪なものに戻った。そんな二人を見て、クルネは困ったように俺を見つめる。……いやいや、俺だってどうしようもないぞ。ここでみんなを笑顔にするような、そんな名奉行の才能はない。
そんなことを思いながら、俺はクルネの隣に立つ。俺を、というよりは法服を見て、移住民の男は少し目を見開いた。
「あんたは、最近できた神殿の……?」
「ええ、クルシス神殿の神官です」
俺がそう答えると、男の警戒心が少しだけ和らいだように見えた。見知らぬ人間であることに変わりはないだろうが、それでも聖職者という名札は効力を発揮するようだった。
「不作法で申し訳ありませんが、お話は大体聞こえていました。物々交換のレートで折り合いがつかないのですよね?」
俺がそう確認すると、二人は同時に頷いた。そして、彼らがまた喋り出そうとするのを制して言葉を続ける。
「それなら、他の人を当たればいいのではありませんか?」
それは、実に当たり前の言葉だった。かなり規模の大きくなったルノール村に、ゼルクさんと同じ職種の人間が皆無ということはないだろう。なら、納得できる取引先を見つければいいだけの話だ。
「どうせ、他のやつらも同じことを言うに決まっている。俺たち移住民の生活基盤が貧弱なのをいいことに、足元を見ているんだ……!」
「つまり、移住してきた人にだけ高値で売りつけていると、そういうことですか?」
「そうだ」
俺の確認に、男は間髪を入れず頷いた。
「ふざけんな! てめえらこそ、毎回屁理屈をこねて多めに品物を手に入れてるくせに何言ってやがる! 他のところじゃもっと多くもらえたってのも、どうせそうやってゴネてせしめたんだろ」
すると、今度はゼルクさんが額に青筋を浮かべて怒鳴り声を上げた。今にも男の胸倉を掴みそうな彼を、クルネが慌てて押し止める。
そんな様子を見て、俺は内心で溜息をついた。なんというか、ちゃんとした話し合いになる気配が微塵もない。
「……参考までにお伺いしたのですが、そちらの衣服は金額に換算すると何セレルくらいだと見積もっておられるのですか?」
移住民の男にそう問いかけると、彼は持っている服を俺たちに見えるよう掲げてみせた。それは女物の服で、この辺りではあまり見ないお洒落なデザインだった。
「最低でも七十五セレルは下らないだろう。これは王都から仕入れた特別な衣服だと言っていたからな」
移住民の男が胸を張ってそう語ると、今度はゼルクさんが鼻を鳴らした。
「はっ、せいぜい五十といったところだろう。最近、その手の服を交換に出してくる人間が多いからな。女房には似合わんし、欲しがりそうな連中は全員一着以上持っている」
そんな説明をするゼルクさんに対しても、俺は同じ質問を投げかけた。
「そちらで取り分けていた果実は、何セレルに相当しますか?」
「当然、五十セレルだ」
「……せいぜい三十五セレルだろう」
ゼルクさんの答えを聞いて、男が不本意そうに言葉を被せる。すると、ゼルクさんがやれやれ、というように首を振った。
「いいか、最近は森の恵みを欲しがるやつが増えたから、シュルト大森林の浅い所じゃ満足な量は見つからねえんだよ。となりゃ奥まで行くしかないが、距離も遠くなるし危険も増す。収穫量は減る一方だ。値が上がって当然だろうが」
なるほど、そんなことになっていたのか。覚えておこう。食糧問題は重要だし、場合によっては神殿としても手を打つ必要がありそうだからなぁ。
鳥獣の肉や森から採れる果実山菜等が多いとはいえ、狩猟採集だけで増え続ける人口を支えられるのか。それは、密かに俺が懸念していることでもあった。
「だが、それにしても五十セレルはないだろう。五十セレルと言えば穀物でも――」
「穀物は森に入って収獲するわけじゃねえ。天候や虫害の影響はあるが、それを基準にするよりは肉の値段を基準にして――」
と、俺がそんなことを考えているうちに、ゼルクさんたちの交渉は進んでいたようだった。打ち解けた様子は皆無だが、それでも前向きに客観的な価額を示そうとしているあたりは、さっきまでよりよっぽど建設的だ。
そんな彼らを見て、俺はそっとその場を離れる。
「カナメ、放っておいていいの?」
俺と一緒に彼らから離れたクルネが心配そうな目で尋ねてきた。そんな彼女に、俺は首を振って答える。
「そもそも、俺が口を出して解決するような話じゃないしな」
「でも、最後のほうはいい感じだったよ?」
「あれは偶然だよ。物々交換なんて、価値観が近い相手じゃないと軋轢の元だからな。元々辺境に住んでいた人と移住してきた人じゃ、貨幣を挟まない価値のすり合わせは大変だろう。……ということに、二人とも気が付いたんじゃないかな」
とは言え、普通に話し合えば、お互いにどの辺りに認識のズレがあるか分かるだろうし、あそこまで揉めるほどのことじゃないと思うんだが……みんなが変な先入観を持っているせいで、話がそこまで進まないというのは困ったものだ。
俺とクルネは顔を見合わせると、複雑な表情で溜息をついたのだった。
◆◆◆
「なあ、カナメ。忙しいところ悪いけど、ちょっと頼み聞いてくれへんか」
コルネリオがそう話しかけてきたのは、神殿業務も終わり、外が暗くなってきた頃だった。
「どうかしたのか? ……あ、金を貸すのはなしだぞ」
「そない警戒せんでも……。ってまあ、それはともかくとして、実は人を紹介してほしいねん。辺境ならではの特産品を売ってくれる人間に心当たりないか? できれば希少なやつで」
俺の言葉に苦笑を浮かべながら、コルネリオは依頼内容を口にした。……特産品か。なら、やっぱりアレだろうな。
「心当たりがないことはないが……どうしたんだ?」
「自分らの食糧確保の一環や。とりあえずリビエールの街で買い付けしようと思うとるんやけど、似たようなことを考える商人が多いから、あっちでも食料品は品薄なんや」
「そうなのか……」
王都から辺境へ来る途中でリビエールの街にも寄ったのだが、コルネリオのように市場調査をしたりはしてなかったからなぁ。気が付いてなかった。
「そこでや。普通やったら駆け出しの商人に貴重な食料品を売ってくれる物好きはおらんやろうけど、そいつが辺境でしか手に入らん希少な特産品を持ってたら、多少は融通を利かせてくれるんちゃうかと思うてな」
つまり、カナメたちのためでもあるんやで、とコルネリオは言葉を結ぶ。その言葉に俺は頷いた。
「話は分かった。今からその人物がいる家へ行こうと思うんだが、時間は大丈夫か?」
「今の俺にとって、一番の重要事項は特産品の確保やからな。そのためやったら、いつでもどこへでも行くで」
「ねえ、カナメ。それって……」
どうやら、クルネも想像はついているようだった。俺は頷いて口を開く。
「ああ、エリンに会いに行こう。今の時間なら狩りから帰って来ているかもしれない」
◆◆◆
「それであたしの所に来たってわけかい?」
エリンの家を訪ねた俺とクルネ、そしてコルネリオの三人は、彼女の言葉にこくりと頷いた。
弓使いの固有職持ちであり、転職前からシュルト大森林を根城として狩りをしていたエリンの技量は相当なものだ。
実際、エリンが狩ってくる大型モンスターの肉などは、人口が増えて食糧不足気味の辺境にとって貴重な蛋白源となっていた。
そんな彼女であれば、辺境の特産品……つまり高ランクモンスターの素材を譲り受けるのは容易なはずだった。
「たしかに、モンスターの素材なら貯蔵庫に放り込んであるよ。狩りで忙しくて、ほとんど売る暇がないのさ。ありふれた素材は狩人仲間に売却を頼んでるけど、希少なやつはそうもいかないからね」
そんなエリンの言葉を聞いて、コルネリオが目を輝かせた。彼は揉み手をせんばかりの勢いで前に進み出る。
「エリンさん! ぜひ! ぜひそれを売ってもらえませんか!?」
「……コルネリオさん、あんたもカナメのダチなんだろ? 普通に話してくれていいよ。同い年くらいの人間に敬語を使われるのは落ち着かないんだ」
「ほな、そうさせてもらうわ」
その切り替えの早さはさすがと言うべきだろうか。コルネリオはさっと口調を元に戻すと、言葉を続ける。
「エリン、貯蔵庫にはどんなのがあるんや? もし銀毛狼あたりの素材があったらベストなんやけど」
「ああ、あるよ」
そんなコルネリオの言葉に、エリンは事もなげに答えた。辺境に住むモンスターから取れる素材は高値で取引されることが多いが、その中でも非常に高い人気を誇っているのが銀毛狼の素材だ。
そんな、人によっては垂涎の的であろう銀毛狼の素材がごろごろ眠っていそうなあたりは、さすがエリンと言うべきだろうか。
「ちなみに値段のことやけど……」
「下手に市場価格を荒らしたくはないからね。いくらカナメのダチとは言っても、あまり安く売るわけにはいかない」
けど、とエリンは言葉を続ける。
「あんたはこの村の食糧確保のために走り回るつもりなんだろ? なら、最初だけはサービスしとくよ。この村の食糧供給を担当する仲間としてね」
「おおきに! ありがとうな!」
思わぬエリンの発言に、コルネリオは満面の笑みを浮かべた。それなりに資金を貯めているとは聞いていたが、何が起きるか分からないのが商売だ。支出を抑えるに越したことはない。
「ほな、早速やけど見せてもらってええか?」
「ああ、構わないよ」
そう言って立ち上がるエリンと一緒に、俺たちは貯蔵庫へと向かう。
辺境の狩人は、一人前と認められて初めて自分の家を持つことができる。そして、辺境一の狩人との呼び声も高いエリンの家ともなれば、それに付属する貯蔵庫はかなりの規模を誇っていた。
「うおおおお……! これはテンション上がるで……!」
そんな、下手な家より広い貯蔵庫を目の前にして、コルネリオが謎の気炎を上げた。宝物庫に案内された気分なのだろう。
「ほな、失礼するで!」
そう言ってコルネリオが貯蔵庫の扉に手をかけようとした瞬間だった。「うぉっ!?」という言葉とともに、コルネリオが盛大にすっ転んだ。その勢いで頭を扉にぶつけたらしく、彼は頭を押さえながらよろよろと立ち上がる。
「だ、誰や!?」
コルネリオはそう言って辺りを辺りをキョロキョロと見回す。そんな学友の様子を眺めていた俺は、その近くに別の人影があることに気付いた。まだ十歳前後の少女のように見えるが……。
「イリス! 何やってるんだい!」
そんな彼女に対して、咎めるような声を上げたのはエリンだ。その言葉に、イリスと呼ばれた少女はびくっと身をすくめる。
「……ここ、師匠の」
まだ幼さの残る声で、彼女は自らの正当性を主張する。それを聞いたエリンが、やれやれ、と首を振るのが見えた。
「つまり、エリンの貯蔵庫に不審な男が近づいたから、足を引っかけて転ばせたということか?」
「……」
そう尋ねてみると、イリスは無言で頷く。そして、そのままエリンの陰に隠れてしまった。どうやら、あまり饒舌なタイプではないらしい。
「あたしが後ろにいたことは分かってただろ?」
「……師匠以外は、ケガする」
「だからって、転ばせて怪我をさせちゃ意味ないさね。ちゃんと姿を見せて声をかければすむ話だよ」
そう言うと、エリンはイリスの頭に拳骨を落とした。ゴツンという音が俺たちにまで聞こえてくる。……あれ、結構痛そうだな。実際、イリスが涙目になっているし。
「ねえ、エリンちゃん。その子って、ひょっとしてエリンちゃんの弟子なの?」
そんな一幕を見ていると、クルネが疑問を口にした。エリンのことを師匠と呼んでいるからには、たぶん間違いないだろうが……。
「そうだよ。二、三か月前に移住してきた子でね。森で出会ったんだけど、やけに気配を殺すのが上手い子でさ。この子はいい狩人になるかもしれないよ」
そう言うエリンは楽しそうだった。だが、俺が気になったのは彼女の将来のほうではない。
「移住してきた子なのか」
そう呟くと、エリンが不満げな表情を浮かべて俺のほうを見た。
「カナメ、あんたはそういうのを気にしないやつだと思ってたんだけどね。移住民を弟子にしちゃ悪いのかい?」
その台詞を聞いて、言葉が足りなかったことに気付いた俺は慌てて口を開いた。
「いや、むしろ逆だ。ここのところ、辺境民と移住民の対立の話ばかりで食傷気味だったからな。いいニュースを聞けて嬉しかったよ」
それは正真正銘の本音だった。それが通じたのか、エリンは今日一番の笑顔を見せる。
「それならよかった。……狩人仲間にも『移住民に狩人の仕事をさせるべきじゃない』って言うやつが多くて、少し神経質になってたよ。悪かったね」
そう言うと、エリンはイリスをコルネリオの前まで連れて行って、頭を下げさせた。
「ごめん……なさい」
「別に気にしてへんで。今の口ぶりやと、エリン以外が貯蔵庫を開けようとしたら痛い目に遭うんやろ? 止めてくれてありがとうな」
コルネリオはそんな殊勝な台詞を吐くと、にかっと笑った。なかなかの好青年っぷりを見せつけたわけだが、多分あいつの目には未来の取引先が映ってるんだろうな。エリンのお墨付きなら将来は有望だし。
「ちなみに、エリンちゃん以外が扉を開けるとどうなるの?」
「ちゃんとした手順を踏まずに開けようとすると、麻痺毒やマンドラゴラの悲鳴なんかが降り注ぐことになるよ。致死性はないけど、半日は動けないだろうね」
「うわぁ……」
予想外に凶悪なトラップだな。子供が悪戯で開けようとしたら大惨事だ。俺がそう感想を呟くと、エリンは豪快に笑い声を上げる。
「ま、子供でも死ぬことはないよ。それに、仕掛けが発動するのは鍵をどうにかして開けて中に入った時だからね。そこまでやらかすような子供にはいい薬ってもんさ」
そう説明しながら、エリンは複雑な手順で扉の罠を解除していく。貯蔵庫の扉を開いたエリンに促され、俺たちはその中へと足を踏み入れた。どうやら半地下の構造になっているようで、外見よりも広大なスペースが眼前に現れる。
「うわぁ、これは凄いな……」
そこに無造作に積み上げられている素材群を見て、俺は思わず声を上げた。様々な形状の爪や牙らしきもの。巨大な骨や不思議な色合いの鱗、そして意味ありげな謎の結晶。関係者が見れば涙を流して喜びそうな品揃えだった。
毛皮や肉が見当たらないのは、傷みやすいため優先して処分しているからだろうか。まあ、肉なんかは引く手数多だろうしなぁ。
「……あ」
と、彼女の貯蔵庫を見て回っていた俺は、あることに気が付いた。そんな俺の様子に目を留めたのか、エリンが俺の傍へやってくる。
「気付いたかい? ……正直、あたしもこれを預かるのは落ち着かなくてね。神殿は広いんだし、せめて主だったものだけでも引き取ってほしいんだけど……」
珍しく気弱な台詞を吐いたエリンだったが、その言葉を笑い飛ばすことは誰にもできないだろう。なぜなら、俺たちの視線の先にあったのは、かつて彼女たちと共に倒した天災級モンスター、地竜の素材だったからだ。
どうやら、ここに置いてあるのはその中でも主要な部位であるようで、漂う魔力量は尋常なものではなかった。……というか、ここから洩れ出してる魔力だけでも、モンスターが湧くレべルなんじゃないだろうか。これは早急にミルティに相談したほうがよさそうだな。
「……師匠」
俺がそんなことを考えていると、イリスがエリンの袖を引っ張った。彼女はなぜか俺を見ながら口を開く。
「この竜……倒した人?」
「ああ、そうだよ。何度か話して聞かせたことがあったろ? こいつがカナメだよ」
エリンがそう答えると、イリスは目を見開いて俺を見つめてきた。基本的に無表情な少女だけに、その驚きようが伝わってきて複雑な気分だ。
「……弱そう?」
その言葉が疑問形だっただけでも良しとするべきだろうか。少女の正直な感想に、クルネとエリンが大笑いした。
「まあ、カナメは特殊だから……」
「……イリス、人を見かけで判断するもんじゃないよ。……ま、『地竜を倒せるようには見えない』って意味なら間違っちゃいないだろうけどさ」
クルネとエリンが、微妙なフォローを入れてくれる。まあ、俺にラウルスさんのような存在感を期待するほうが間違っているというものだ。イリスが申し訳なさそうな表情を浮かべていることに気付いて、俺は軽く笑ってみせた。
照れたのか、再びエリンの後ろに隠れたイリスを眺めていると、それまで蚊帳の外だった人物が口を開いた。
「……なあ、カナメ? さっき地竜を倒したとか聞こえたんやけど……」
そんなコルネリオの言葉を聞いて、俺は彼になんの説明もしていなかったことに気付いた。辺境に帰ってきた関係で、そのあたりの話はみんな知ってるように錯覚してたな。
「紆余曲折あってな。死ぬかと思った」
「当たり前や。どんな人生を送ったら上位竜を倒す羽目になんねん……そら三頭獣も倒せるわけや」
コルネリオが呆れたように呟く。そんな彼の顔を見ているうちに、ふといいアイデアが浮かんだ。
「そうだ、商売用に地竜の素材を持って行くか? それならエリンにも迷惑がかからないだろうし」
そう提案すると、コルネリオは悟りを開いたような顔で肩をすくめた。
「やめとくわ。上位竜の素材なんてヤバすぎて扱われへん。詐欺師扱いされるくらいならまだええけど、下手したら生命の危機やで。そんなモンを商えるとしたら、超一流の大商人だけや」
「あー……」
彼の言葉に、思わず声がもれる。そう言えば、地竜の素材が換金できないのってそういう事情があったんだよなぁ。すっかり忘れてた。となると、いつまでもエリンの貯蔵庫を圧迫し続けるわけで、さすがに預けっぱなしは気が引けるな。
「……とりあえず、ここにある地竜の素材はあらかた引き取るよ」
俺は覚悟を決めると、エリンにそう宣言した。ルノール分神殿の地下室はほとんど空きスペースだからな。あそこなら管理も楽だし、こっそり運びこんでしまおう。ちょっと……いや、だいぶ職権濫用な気がするけど致し方ない。
「――そしたら、この牙とあっちの結晶頼めるか?」
「牙はいいけど、その結晶はカナメに聞きなよ」
「ん? ちゅうことは、つまり……」
「それは地竜の魔力の結晶だと思うよ。アデリーナが青い顔してたからね。ま、竜玉に比べればマシな代物さ」
「そんな物騒なモンいるかい!」
そんな賑やかな会話を聞きながら、俺はいかにオーギュスト副神殿長の目をごまかすかを考えていた。
◆◆◆
「カナメ君、非常にまずい事態だ」
ルノール分神殿が正式に業務を開始してから五日目の昼。人目をはばかるようにして現れたフォレノ村長は、神殿長室に入るなり穏やかな表情をかなぐり捨てた。
「どうしたんですか?」
初めて見るフォレノさんの表情に、俺は嫌な予感を覚えた。それは隣のクルネも同じようで、俺たちは緊張した面持ちで彼の言葉を待つ。
そんな俺たちの前で、フォレノさんは懐から一枚の紙を取り出した。その紙は皺だらけで、とても細かく折り畳まれていたであろうことを窺わせた。
そして、その折られ方からすると、おそらくあの紙は伝書鳩が運んで来たものだろう。
距離が遠い割に、何かとやり取りをすることが多いルノール村とトールス村には、二つの村を行き来する伝書鳩がいるのだ。普通の伝書鳩は一方通行しかできないはずだが、特殊な訓練を行った鳩たちは、貴重な連絡手段として活躍していた。
とは言え、伝書鳩が飛行モンスターに襲われる危険性もあるため、かなりの緊急事態にしか使用しないはずなのだが……。
だが、そんな俺の疑問は悪い形で解消されることになる。フォレノさんはゆっくり息を吸い込むと、一息に悪い報せを口にした。
「――『辺境の守護者』が行方不明になった」