武芸者
【クルシス神殿助祭 カナメ・モリモト】
「はい、変わっていません」
唐突に「辺境に神殿を開きたい気持ちに変わりはないか」と尋ねられた俺は、とっさにそう答えていた。
その言葉に嘘はない。何がなんでも辺境に戻りたい、というほどの強い思いがあるかと言えば悩むところだが、突然現れた不審者を受け入れてくれたのは辺境の地だ。愛着があることに変わりはなかった。
「それがどうかしましたか?」
「なに、先日の臨時会議で、辺境の話が軽く話題になっていたのでな。辺境の外から来た住民が増え始めたこともあって、各宗派がその動向に注目しているようだ。
もっとも、未だ辺境を蛮族の地と見る考え方は根強く、今までの布教活動の失敗もある。教会が今回の一件で大人しくなった今、積極的に動く宗派はないだろうが」
事もなげに答える神殿長に対して、驚いた声を上げたのはアルバート司祭だった。
「神殿長、それはつまりカナメ助祭を主軸に据えて、辺境に神殿第一号を建ててみようと、そういうことですかい?」
「そう分の悪い話ではない。カナメ助祭は辺境の出身であるし、転職能力を活用すれば、場所が不便になることを差し引いても、充分黒字化することができるだろうからな」
「……もし神殿の常設に成功したなら、統督教内でのアドバンテージは確実ですわね」
神殿長の言葉に続けて、ミレニア司祭が口を開いた。少し言いにくそうにしているのは、似たようなことをアステリオス枢機卿が企んでいたからだろうか。
「ですが、いいんですかい? 『今後の転職事業は辺境で行います』なんて言った日にゃ、方々から苦情が出ませんかね」
そう懸念を口にしたのは、意外と心配性な面を見せたアルバート司祭だった。たしかに司祭の言うことには一理ある。王都と辺境では、交通アクセスの利便性に天と地ほどの差があるため、不満が出ないはずはなかった。個人的には、その方がお客さんが絞られて楽な気もするんだけど……それは言っちゃ駄目だろうな、さすがに。
「その点については、少し考えていることがある。……まあ、杞憂に終わればそれが一番だがな」
「はぁ、そうですか……」
そんな力の抜けた声が神殿長室に響いた。うーん、神殿長の言葉の意味が気になるんだけど、ああいう表現をする時はいくら聞いても教えてくれないからなぁ。
それはアルバート司祭もよく分かっているため、それ以上食い下がるつもりはないようだった。
「とはいえ、全てはまだ先の話だ。現地への打診もしていないし、人員も建物もまったくもって未定だ。今後、この案件について話をする時もあるだろうが、今は目の前の神殿業務に励んでくれたまえ」
「分かりました」
「……ああ、それとカナメ助祭。転職絡みでしばらく神殿派の来客が増えるかもしれん。転職儀式の日には当たらないよう調整するが、よろしく頼む。
事に当たっては、できるだけ多くの宗派を味方につけておいた方がいいだろうからな」
「了解しました」
俺はそう答えると、神殿長室を後にした。
◆◆◆
「え? 辺境に帰るの!?」
「まだ計画段階でどうなるか分からないし、実行するにしてもすぐってことはないだろうけどな」
辺境への神殿建立計画をクルネに話したところ、彼女は目を丸くして驚いた。
「てっきり、このまま王都に居着くのかと思っていたわ」
「別に王都にこだわる理由もないしなぁ。転職事業のアピールはできたから、辺境に戻っても客足が途絶えることはないだろうし」
「そうなんだ……」
そう答えると、クルネは明らかに嬉しそうな様子を見せた。すっかり王都に適応しているように見えていたけど、ひょっとしてずっと辺境に帰りたがっていたんだろうか。だとしたら、護衛として拘束して申し訳なかったな。
「計画が順調なら、そのうち辺境へ行くことになると思う。クルネなら護衛と案内役を兼ねられるし、経費で里帰りできるんじゃないか?」
「カナメの護衛をしながら辺境に帰れるんでしょ? それならお金くらいちゃんと払うよ」
俺の言葉にクルネは機嫌よく応じた。これで計画が早期に潰れたらぬか喜びになるが……その時は、クルネが帰省休暇を取れるよう掛け合ってみようかな。そんなことを考えながら、俺はさらに口を開く。
「そう言えば、ミルティも似たような立場だったよな?」
「うん。ミルティのところは、時々家族が遊びに来てるみたいだけどね。フォレノさんは仕事でたまに王都に来るから、そのついでに、って」
そういえば、彼女はルノール村の村長フォレノさんの娘だったな。となれば、心強い味方になってくれるかもしれない。もし神殿長の許可が出たら彼女も誘ってみよう。
そんなことを考えながら、俺は業務に戻るのだった。
―――――――――――――――――――
周囲を見渡せば、そこかしこに破壊の爪跡が見て取れる。その破壊のされ方は多種多様で、この王都クローヴィスがモンスターの集団に襲われたという噂を裏付けるものだった。
放浪の武芸者ベルタスは、そんな様子を観察しながら近くの露天商に近寄った。そこには、種類こそ少ないものの、瑞々しい果実が並んでいる。
「……そこの果物はいくらだ?」
「おやいらっしゃい! ロワナの実なら三セレルだよ!」
だがその割に、街には暗く翳った様子が見られなかった。帝国との戦争が終結したというプラス材料はあるだろうが、大量のモンスターに襲われたにしては、どうにもあっけらかんとしているように思えたのだ。
銅貨と引き換えに果実を受け取ったベルタスは、この街に到着してからの疑問を女将にぶつけることにした。
「女将、不躾な質問で申し訳ないが、一つ教えてもらえぬだろうか?……この街は、少し前にモンスターの襲撃を受けたばかりだと聞く。だが、その割には人々の表情が明るいように見えるのが不思議でな」
彼が疑問を口にすると、女将は考え込むように腕を組んだ。
「うーん、そうだね……。たしかにあの晩は恐ろしい思いをしたんだけどね。ありがたいことに、あんまり犠牲者が出なかったのさ。だからかねぇ?」
「なるほどな。……ということは、さぞかし腕の立つ戦士たちがいたのだろう?」
ベルタスは相槌の後に、彼がもっとも気になっている質問を混ぜ込んだ。そんな彼の意図に気付いた様子もなく、女将は機嫌よく口を開いた。
「そりゃねえ、教会の『聖女』様を始めとして、たくさんの固有職持ちがモンスターを倒していたからね。あたしもこっそり見物してたんだけど、そりゃあ格好良かったもんさ」
そう言うと、女将は豪快な笑い声を上げた。ベルタスもつられて笑顔を浮かべたが、その脳裏を一つの疑問がよぎる。
「だが、固有職持ちは戦争で出払っていたのではないか? それとも王国は今回の戦争を軽く見て、戦力の多くを王都に留め置いていたのか?」
「偉い人の考えることは分からないけど、この街に固有職持ちが多いのは、クルシス神殿にいる神子様のおかげだろうさ」
「神子……?」
「なんだいアンタ、知らないのかい? いいかい、神子様ってのは――」
女将が浮かべた楽しそうな表情を見て、ベルタスは少し後悔した。これは話が長引きそうだ、という彼の勘は当たり、尾ひれが四、五枚付いていそうな女将の話を聞き終わるのには、実に四半刻の時が必要だった。
◆◆◆
「モンスターの襲撃か……どうせなら、我も居合わせたかったものだ」
ベルタスは誰にともなく呟くと、女将に教えられた通りに王都の大通りを歩く。武芸者として各地を放浪し腕を磨いてきた彼にとって、王都のモンスター発生事件は非常に興味深いものだ。
といっても、それは自分でモンスターを討伐したかっただとか、発生原因や背後関係を探りたい、という類の興味ではない。彼の頭にあるのは、どのような者たちがモンスター討伐を成し遂げたのか、ということだった。
固有職持ちが強いのは当然だが、中にはベルタスと同じ『村人』の身でありながらモンスターを狩る者も存在する。彼が求めているのは、そういった『村人』としての強者だ。
彼らを相手に修練を積み、いつかは固有職持ちをも超える強さを手に入れる。それが、ベルタスの人生の目標だった。
大通りを曲がり、さらに少し歩く。やがてベルタスが立ち止まったのは、巨大で荘厳な建物の入り口だった。そこが神殿であることを確認すると、彼は一人頷いて足を踏み出した。
「クルシス神殿へようこそ! ご用件はどのようなものでしょうか?」
「転職の話を聞きたいのだが、まだ可能だろうか」
「転職ですか……そうですね……」
用件を聞いた受付嬢が、少し困ったように呟いた。その様子を見て、ベルタスは露店の女将が言っていた言葉を思い出す。
「……すまぬ。そう言えば、少し前に暮れ五つの鐘が鳴っていたな。時間外とあれば致し方ない、引き上げるとしよう」
ベルタスがそう口にした矢先だった。受付嬢の視線が彼から逸れる。その動きが気になった彼は、彼女の視線を追いかけて後ろを振り向いた。
そこに立っていたのは、黒髪の若い神官だった。
―――――――――――――――――
【クルシス神殿助祭 カナメ・モリモト】
「あれ? 揉め事かな?」
受付フロアを歩いていた俺は、マイアさんが少し困った表情を浮かべていることに気付いた。だが、冷静に考えてみれば、彼女の困り顔は半分がた意図的に作り上げられているものだ。あまり心配することはないだろう。
俺がそんな結論を出した時だった。マイアさんと、彼女と話していた男性の二人分の視線が俺へと向けられる。
「……どうかなさいましたか?」
さすがに、この場面で無視するわけにはいかない。そう判断した俺は、神官らしい穏やかで思慮深い表情……だと自分では思っている笑顔を浮かべた。
「それが、転職についてお話を聞きたいとのことなんです」
「あー……もう時間終わってますもんね……」
マイアさんの話を聞いた俺は、改めて受付の前に立っている男性を観察した。髪を短く刈られた頭に、盛り上がった筋肉。まだ三十歳に届いてはいないだろうが、もっと年上だと言われてもおかしくない雰囲気を持っていた。
「我はベルタスという。武芸者として各国を放浪し、腕を磨いている者だ」
ベルタスと名乗った男は、そう自己紹介をすると軽く一礼する。その動作は実に様になっていた。
さて、どうしようか。転職業務に限らず、神殿業務の取り扱い時間はけっこう適当だ。転職業務はまだしも、「神に祈りを捧げに来ました」という人を、僅かな時間の差で邪険に追い返すわけにはいかないしね。……よし。
「助祭を務めておりますカナメ・モリモトと申します。よろしければお話をお伺いしましょう」
転職の話なら他の神官に手伝ってもらう必要はないし、武芸者という存在に興味もある。そんな理由から、俺はベルタスさんを個別ブースへと招いたのだった。
◆◆◆
「神官殿、時間外にかたじけない」
ベルタスさんは個別ブースの椅子に腰を下ろすと、開口一番に謝意を示した。そんな彼に対して、俺は笑顔を浮かべて応対する。
「いえいえ、お気になさらないでください。……ところで、当神殿にお越しになった理由は転職ということでよろしいでしょうか?」
「もちろん転職にも興味はあるが、他にも訊きたいことがあるのだ」
「訊きたいことですか? どのようなことでしょう」
おや、転職以外の用事とは珍しいな。予想外の返答に興味を引かれて、俺は少し身を乗り出した。
「少し前に、この街でモンスターが大量発生したと聞いた。そして、その時現れたS級モンスターを倒したのはクルシス神殿の関係者だとも。……それはまことだろうか?」
「ええ、そうですが……」
そのことについては、クルシス神殿の宣伝の意味もあって隠す必要はなかった。俺が問いを肯定してみせると、ベルタスさんは瞳を輝かせた。
「そうか!……して、S級モンスターを屠った者ともなれば、やはり固有職持ちなのだろうか?」
「そうだと聞いています」
「む、そうか……」
俺の返事を聞いて、ベルタスさんの表情が残念そうなものに変わった。いや、自分で聞いておいて落ち込まれても困るんだが……。
「それがどうかなさいましたか?」
そう尋ねると、彼はしばらく沈黙した後で、ゆっくりと口を開いた。
「我は武芸者だ。各国を巡り、武名高き者たちと拳を交えお互いを高め合っている。この街へ来たのもそれが理由だ」
その答えは、まさに俺の想像する武芸者そのものだった。なるほど、それでこの王都までやって来たと。……ん? この王都で一番武名が高いのって……
「ひょっとして『聖騎士』と戦うつもりなんですか?」
俺が知っている限り、この王都で一番強いのは上級職持ちの『聖騎士』メルティナだ。噂では、王国の近衛騎士団長も暗黒騎士の上級職持ちらしいが、ありがたいことに出会ったことはない。
「……いや、そうではない。『村人』が固有職持ちに挑んでも、得られるものは少ない。いつかは固有職持ちを超えるつもりだが、まずは『村人』の中で最強になるべきだと我は考えている」
ベルタスさんはどこか悔しそうにそう呟いた。たしかに、実力差があり過ぎると参考にならない、という意見は分からないでもない。特にこの世界では、固有職持ちの何の工夫もない剣の一撃が、修業を重ね、技巧を凝らした一撃に勝ることは珍しくない。そういう意味では、彼は堅実と言えるのかもしれなかった。
「そのため、我はこの王国のみならず、近隣諸国にも名高い『戦闘司教』ガライオス殿に立ち合いを頼んだのだが、断られてしまってな」
「あー……」
懐かしい名前を耳にして、筋骨隆々の大男が俺の脳裏を駆け巡った。……なるほどなぁ。ガライオス先生なら、たしかに『村人』最強と言えるかもしれない。というか、生半可な固有職持ちより強い気がして仕方がない。
「神官殿、この王都には他に腕の立つ『村人』はおらぬか?」
「そうですね……」
その言葉に、俺は少し悩んだ。クルネの元冒険者仲間の一人、ガライオス先生の弟子で衝撃強化の特技持ちであるグラムなら、けっこういい勝負をする気がするけど……あの人、あんまりそういうの好きじゃなさそうな気がするなぁ。黙っておこう。
「強い人と言うと、どうしても固有職持ちが目立ってしまいますからね。私には心当たりがありません」
「む、そうか……」
俺の言葉を聞いて、ベルタスさんは明らかに落ち込んだ様子を見せた。彼は小さく溜息をつきながら言葉を吐き出す。
「やはり固有職持ちが席巻してしまうか。それが世の理とは言え、なかなか割り切れぬものよ」
そう言って彼は苦笑を浮かべて見せた。それは、この世界では当たり前のように存在する諦念だ。……だが、なんだろう。俺はベルタスさんの表情がどうにも引っ掛かって仕方なかった。
「……ちなみに、ベルタスさんはどんな戦い方をするんですか? 見たところ、武器をお持ちではないようですが」
「我にはこの鍛えぬいた拳がある。それに、この荷物の中には金属製の籠手も入っておるしな」
彼はそう答えると、足元に置いている大きな背負い袋をポンと叩いた。かすかに聞こえたガシャンという音は、その籠手が立てたものだろうか。
「ということは、固有職で言うと格闘家ですね。私も間近で波動撃の特技を見たことがありますが、あれはインパクトがありますよね」
まあ、使ってたのは人間じゃなくて兎だけどな。そんな声を心の中にしまい込んで、俺はいつもの笑顔を浮かべる。
「まあ、そうだな……。もちろん、『村人』の中にも波動撃を使える者は僅かながら存在するが」
「そうですね、羨ましい話です」
そう答えながら、俺はベルタスさんの様子を探り、また質問を投げかけるということを繰り返す。そうこうしているうちに、俺は違和感の正体に気付いた。
「ところでベルタスさん、この小部屋はクルシス神殿の転職部門のフロアにあるのですが……」
「む、申し訳ない。そう言えば、ずっと関係ない話ばかりしていたな」
そう切り出すと、ベルタスさんは素直に謝ってきた。いや、別に責めるつもりじゃなかったんだけどな。けど、ちょうどいいか。そう判断すると俺は口を開く。
「ベルタスさん、もし格闘家に転職できるとしたら、どうなさいますか?」
「そのようなこと、あるはずがない」
「ですから、もし、の話です」
取り合わない彼に対して俺はもう一度繰り返した。そして、言葉を付け加える。
「……ベルタスさんの目標は、『強くなること』ですか? それとも『固有職持ちよりも強い『村人』になること』ですか?」
「……!」
その問いかけに、ベルタスさんの目が見開かれた。その様子からすると、俺が挙げた二つの到達点を分けて考えたことはなかったのだろう。たしかに、転職ができないことを前提にすれば、『強くなること』と『村人であること』は相反しない。
「お気を悪くされたら申し訳ありませんが、転職部門の担当神官として一つだけ言わせてください。
……ベルタスさんは、ひょっとして固有職持ちが嫌いなのではありませんか?」
「ぬ……」
俺の指摘を受けて、ベルタスさんが低く重い声を漏らした。その表情からすると、やはり正解だったようだ。
と、表情が翳り始めたベルタスさんを見て、俺は慌てて口を開く。
「好き嫌いは個人の自由です。たしかに私は転職部門の担当ですが、固有職持ちを尊ばなければならない、とは思っていません。彼らの中にも問題を起こす方は大勢いらっしゃいますしね」
「……別段、嫌っているというわけではない。ただ、固有職持ちのことを考えると、どうしても平静でいられなくなるのだ」
彼の心境はなんとなく分かる気がした。この世界で強さを目指そうとすれば、固有職持ちの存在から目を背けるわけにはいかない。その彼らに対する感情は、一言で言い表せるほど単純なものではないはずだ。そして、そんな感情もまた、彼を修業へと駆り立てる原動力の一つなのだろう。
すぐに固有職資質の有無を聞いてこなかったのも、その辺りが理由だったのかもしれない。
「そんな人間に、固有職資質があるはずがない」
どこか乾いた口調でベルタスさんはそう呟いた。だが、その表情にあるものは諦念だけではない。それは――
俺は腰掛けていた椅子から立ち上がると、彼に向かって話しかける。
「ベルタスさん、固有職資質の有無を判定しに行きませんか?」
彼の内に宿る資質を感じ取りながら、俺はそう提案したのだった。
―――――――――――――――――――
【武芸者 ベルタス・ローン】
「いまだに信じられぬ……」
クルシス神殿を後にして、近くの酒場に腰を落ち着けたベルタスは、誰にともなくそう呟いた。神殿で資質があると言われた時には詐欺を疑ったものだが、その身体に宿っている格闘家の力については、疑いの余地はなかった。
彼は日々鍛錬を行い、身体の隅々にまで意識を張り巡らせている。そのため、自分の肉体の性能については熟知しているといっていい。だからこそ、彼は自分の身体能力が異常なレベルで引き上げられたことに確信を持っていた。
ベルタスは床に転がっていた小石を拾うと、その手に握りしめた。その感覚は今までと何も変わらない。だが、そこに力を込めると、手中の小石はあっさり砕けた。少しだけ心配していた、力が強くなりすぎて繊細な動きができなくなるのではないかという懸念は無用だったようだ。
考えてみれば、固有職持ちが力を制御できなくて生活に苦労しているなど、聞いたことがない。そんなことに思考を巡らせていると、不意にクルシス神殿の神官の言葉が胸に浮かぶ。
「……固有職持ちを嫌っている、か」
『村人』だった彼が、持たざる者として固有職持ちに特別な感情を抱いていたのはたしかだ。そしてその気持ちは、一般的な人々のそれよりも強い思いだっただろう。だが、今では自分がその固有職持ちだ。
嫌っているとは言わないが、固有職持ちに屈折した思いを抱いていることは事実だろう。彼らのようになりたいと願うほど素直ではなく、かと言って仕方がないと納得できるほど諦めがよくもない。
強くなりたいとの願いに、いつの間にかそんな思いが積み重なっていたのだ。
そんな思索にふけっていたからか、いつもは心地いい酒場の喧騒が、今はどうにも落ち着かない。今日は早めに宿をとって寝てしまおう。そう決めたベルタスは、酒場を出るべく立ち上がった。
◆◆◆
「――あれが標的か。若いな」
「だが、間違いないはずだ。生け捕りというのが面倒だが」
通りを歩いていたベルタスは、そんな不穏な言葉を耳にして足を止めた。声が聞こえた方をさりげなく確認してみれば、建物の陰に潜むようにして、二人の男がどこかを窺っていた。
「む……?」
彼らの視線を追うように首を動かしたベルタスは、そこに見知った顔を見つけて思わず驚きの声をもらした。それもそのはず、彼らの視線の先には、先ほどまで話をしていたクルシス神殿の神官が立っていたのだ。
彼は隣の女性と親しそうに会話をしていたが、二人組に気付いている様子はない。距離を考えればそれは当然のことだ。
そこまで考えたところで、ベルタスは周囲の様子を訝しく思った。怪しい二人組の男とベルタスの近くには、他にも通行人が何人かいる。だが、彼らには二人組の声が聞こえていないようなのだ。
ひょっとすると、これも固有職の力なのだろうか。そんなことを考えながらベルタスは二人組の様子を窺う。
「隣の女はなんだ? 剣や鎧を身に着けていることからすると、護衛か?」
「ふん、見せかけだけだろう。どうせ、神子がお気に入りの女を権力で侍らせているんだろうさ。生臭い神官サマだぜ」
その言葉を聞いて、ベルタスは二つのことに驚いた。一つは、神殿で話をしていた若い神官が転職の神子であったという事実。
転職の儀式では、布や簾に遮られて神子の姿を直接見ることができず、その正体を窺い知ることはできなかったのだが、あの神官が神子だったという事実にベルタスは驚く。
そしてもう一つの驚きは、隣の女剣士の技量を見抜くことのできない二人組の程度の低さだ。修練を積んできたベルタスの目からしても、あの女剣士の身のこなしはなかなかのものだ。
だが、男たちの目には、彼女の整った容姿という外面的な要素しか見えていないようだった。
「神子の方しか話は聞いてないが、あの女もまとめて頂くとするか」
「おう、楽しめそうだな」
そう言って卑しい顔で笑い合った二人組は、のっそりと立ち上がった。そして、彼らのうちの片方が、壁に立てかけていた巨大な剣を手に取る。
その光景を見て、ベルタスの顔から血の気が引いた。なぜなら、男が手にしている剣は、どう見積もっても人の膂力で振り回せるような代物ではなかった。にも関わらず、彼はその大剣を苦労した様子もなく肩に担いだのだ。
「固有職持ちか……!」
ベルタスは、事態を軽く見ていたことを後悔した。たしかに彼らは女剣士の技量も見抜けない程度の人間ではあるが、固有職持ちの力はそれを補って余りある。そのことは、自らも固有職を得た今であれば、より強く実感できた。
しかし幸いなことに、位置関係で言えばベルタスは神官と二人組の中間に立っている。そのため、彼らはベルタスを越えなければ、彼に辿り着くことはできない。
転職の礼というわけではないが、神官が逃げるまでの足止めくらいはしてみよう。固有職持ちに対する憤りも手伝って、ベルタスはとっさにそう判断した。
だが。
「なぜだ……!」
こちらへ向かって駆けてくる男たちに立ちはだかろうとしたベルタスは、自分の身体が動かないことに気付く。まさか、自分の存在に気付かれていて、なんらかの対処をされたのだろうか。そう考えた。
しかし、迫りくる男たちは進路上に立つベルタスに注意を払うことなく、その横をすり抜けていく。そのためらいのない動きは、彼らがベルタスの存在を路傍の石程度にしか認識していないことを示していた。
なんたる屈辱。いつものベルタスであればそう思うところだろう。だが、そこで彼は気付いてしまった。今の彼の胸中にあるのは、二人組に歯牙にもかけられなかった憤りではない。……それは安堵感だった。
その事実に気が付いた瞬間、彼は膝から崩れ落ちそうになるほどの衝撃を受けた。
今まで自分を突き動かしていた固有職持ちに対する思い。それは敵愾心でもなければ、憤りでも、妬みですらもない。
――ただの怯懦だったというのか。
あの二人組は、ベルタスの戦闘力を軽く見て無視したのではない。固有職持ちを前に萎縮してしまったベルタスからは、立ちはだかる意思が感じられなかったのだろう。だから、相手にされなかったのだ。
「ぬおおおぉぉぉぉ!」
ベルタスは弾かれたように身体を動かした。雄叫びを上げながら、自らを嘲笑うようにすり抜けて行った二人組の後を追う。無理やり身体を動かしたせいだろう、その動作にはいつものキレがなかった。
だが、今動かなければ、何かが決定的に壊れてしまう。それは予感ではなく確信だった。
見れば、二人組は神官たちのすぐ近くまで迫っていた。彼らの襲撃に気が付いた女剣士は剣を抜き、神官は少しだけ後ろへと下がった。その様子は実に慣れたものであり、彼らの関係が一朝一夕のものではないことを窺わせた。
「間に合わぬか……!?」
すぐに後を追ったとはいえ、襲撃者たちとベルタスの間にはだいぶ距離があった。遠目に、大剣を持った男が剣を振り下ろすのが見える。狙いがズレているように見えるのは、女剣士の得物を狙ったためだろう。
大剣の重量を考えればあり得ない速さで振り下される剣撃を見て、ベルタスは舌打ちをした。いくら技量があるとはいえ、そう簡単に捌けるような甘い攻撃ではない。せめて武器を弾かれるだけですめばよいが……。
そう考えた矢先だった。
女剣士は襲いかかる大剣をあっさり避けてみせると、神官を捕まえようと回り込んだもう一人の男に対して、衝撃波を叩きつけた。狙われた男は衝撃波を辛うじて回避したものの、その隙に神官との距離を離されていた。
その身のこなしに、ベルタスは唖然とした。どうやら、彼女を甘く見ていたのはベルタスも同じであるようだった。
衝撃波を放った女剣士は、そのまま流れるような動きで剣を斜めにはね上げる。襲撃者は大剣でその攻撃を受け止めてニヤリとするが、彼女の攻撃はそれだけで終わってはいなかった。
女剣士が斬り上げた軌道を追いかけるように、一拍遅れて黒い刃が男に襲いかかった。それに気付いた男は、そのまま大剣を構えて彼女の追撃を弾いてみせる。
だが、それは彼女の狙い通りだった。男が黒い刃を防御している隙に、女剣士はその側面に回り込む。
「……!」
男が驚愕した表情を浮かべたが、もう遅い。彼女は男の左腕を斬りつけると、返す刀で左足を狙う。その斬撃は、男の腱を見事に断ち切っていた。瞬く間に戦闘能力を奪われた男が悲鳴を上げる。
「あれは追尾刃……!」
彼女が使用した特技には見覚えがあった。数年前に仕合った特技持ちの『村人』が使用していた技だ。本来の剣撃から一拍遅れて、似た軌道を描いて襲ってくる闘気の刃には、ベルタスも苦労した記憶がある。
モンスター退治よりも対人戦闘に向いた特技であり、彼女がこの場面で使用したことも頷けた。
「なんだアイツは!」
と、すっかり観戦者と化していたベルタスは、もう一人の襲撃者の声で我に返った。見れば、簡単に仲間が倒されたことにすっかり動揺している。だが、そこからの男の決断は早かった。くるりと身を翻すと、一目散に逃げ出したのだ。……つまり、ベルタスのいるこちら側へ。
――ここで退くわけにはいかない。その意思だけが、ベルタスを支配していた。
「てめえ、どけっ! 殺すぞ!」
ベルタスが明確な意思を持って道を阻んでいることが分かったのだろう。逃げてきた男は、手に青白い光を集めながらそう叫んだ。皮肉なことに、相手の男もまた格闘家であるようだった。
男の怒声を聞いても、ベルタスは動かない。いつものように構えをとると、彼もまたその手に青白い燐光を纏わせた。
「ふざけやがって! 消えろ!」
格闘家の男は走りながら青白い光弾を撃ち出してきた。有名な格闘家の特技、波動撃だ。無理な姿勢で遠距離攻撃を仕掛けてきたあたりに、男の焦りが見てとれた。
「当たらぬ!」
ベルタスは自分目がけて飛来する光弾を身をひねって避けると、目の前に迫った男の身体に拳を叩きつける。右拳、左肘、そして右回し蹴り。流れるような連続技は、彼が今まで磨き続けてきたものだ。だが、その威力はベルタスが纏った『闘気』により底上げされている。
ベルタスが最後に放った回し蹴りによって、男が数メートル先まで吹き飛ぶ。彼には、攻撃が相手の急所を捉えたという自信があった。
固有職持ちは『村人』よりはるかに頑丈な身体をしているが、攻撃したベルタスもまた固有職持ちだ。となれば、男が無事で済まないのは明らかだった。
ベルタスはしばらく男を確認していたが、格闘家の男は気絶しているようだった。それを確信すると、彼はこちらを見ていた神官と女剣士に向かって頷いてみせる。
頷き返して近づいてきた神官は、ベルタスの顔を見るとはっとした表情を浮かべた。
「……ベルタスさん、でしたよね? 助けてくださってありがとうございました」
「気にすることはない。我こそ礼を言いたいくらいだ」
「はぁ……」
ベルタスの答えを聞いて、神官は目を瞬かせた。その様子にどこか微笑ましいものを感じながら、ベルタスは言葉を続ける。
「それに剣士殿。貴殿にとっては、余計な手伝いだったのかもしれぬ。そのことを先に詫びておきたい」
「そんな、お詫びだなんて……。この人たちを逃がすわけにはいきませんでしたし、助かりました。こちらこそありがとうございます」
「う、うむ……」
素直な感謝の言葉を向けられて戸惑ったベルタスは、話題を逸らすことにした。彼は気絶している男に視線をやって口を開く。
「……この者たちはどうする? 衛兵に突き出すなら付き合うが」
「クルシス神殿でお預かりします。……固有職持ちは、良くも悪くも犯罪行為に手を染めたがりませんからねぇ。そんな彼らを二人も動員するとは、背後関係が非常に気になるところです」
ベルタスの問いに答えたのは神官の男だった。場にそぐわない満面の笑顔が、なぜか恐ろしく感じられる。その表情を見て、彼が転職の神子だったのだな、とベルタスは今更ながらに思い出す。
転職の神子に手を出したとあれば、クルシス神殿が黙っているはずがない。
「統督教の恐ろしさを思い知らせてくれる……」
「ちょっとカナメ、ここで悪ノリしないでよ。ベルタスさんの顔が引き攣ってるわよ」
そんな二人の会話を聞きながら、ベルタスは生涯忘れ得ぬであろう一日を振り返った。固有職を得たことはもちろんだが、気付きもしなかった自身の心と向き合えたこともまた、それに匹敵する重大な収獲だった。固有職持ちに思いを巡らせたところで、今ではもう、心にさざ波すら立つことはない。
これからは、どうやって己を磨いていくべきだろうか。そんなことを考えるベルタスの心は晴れやかだった。