死の淵
男は絶望していた。
月が隠れると木々は闇に溶け、自分の身体さえ見えなくなる。何か怪しげな物音がする度に、彼の心は悲鳴を上げ、張りつめた精神は削られていった。
身体を動かせば、強烈な痛みが全身を襲う。痛みと疲労、そして精神の消耗により、彼は心身ともに限界を迎えていた。それでも発狂しそうになるたび、彼は自らの背にかかる重みを感じて、失われつつある自我を取り戻す。
その過程をいったい何度繰り返しただろうか。突然、彼の視界が開けた。森を抜けたのだ。
その事実に安堵した瞬間、彼の意識は闇に沈んだ。
――――――――――
【転職屋店主 カナメ・モリモト】
「行き倒れ?」
エリンを転職させてから数日後の朝。転職屋に出勤してくるなり、クルネはルノール村の最新ニュースを俺に教えてくれた。
「うん、森の外れで倒れてたらしいよ。こっちじゃ見かけない服装だったから、辺境の住人じゃないだろうって」
店の掃除を始めながら、クルネが追加情報を教えてくれる。人口二百人ほどの小さな村だけあって、村内の情報は光速で伝達されているようだ。現在は宿屋で寝かせられているらしい。
「なあ、クルネ――」
「カナメ、ひょっとして転職させられる資質があるかどうか、確認しにいこうと思ってる?」
まさに口にしようとしていた言葉を先取りされ、俺は苦笑いを浮かべた。まあ、ここ最近の俺の行動原理はずっとそれだから、予想されて当然かもしれない。
「森の調査人員は多い方がいいからな。少なくとも、治癒師が見つかるまでは頑張るつもりだ」
開店までには戻る、と言い残して、俺は店の扉を開けた。
宿屋の一室に足を踏み入れると、部屋には血の匂いが充満していた。あまり血の匂いに慣れていない俺は、思わず顔をしかめる。
「迂闊に動かすと危険だと思ってな。あまり綺麗にはできなかったんだ」
俺の表情に気が付いたのだろう。宿屋の主人、ボーザムさんは苦々しい顔で説明してくれた。
いくら宿屋以外に余分なベッドがないとはいえ、この人も大変だな。後ろにいる奥さんもいささか疲れた表情だった。
この村、というか辺境には医者というものがおらず、たまにくる旅商人の販売する薬か、民間療法的な薬草を使って、各自で治すしかない。そのため、急患が出たからといって、担ぎこむ先の病院はないのだ。
「そうでしょうね……」
俺はベッドに寝かせられている二人の様子を観察した。一人はまだ二十歳にもなっていないだろう青年だ。見えている顔と上半身だけを見ても、満身創痍である事がうかがえた。
次に、俺は奥に寝かせられているもう一人に視線をやった。こちらは女性だ。さきほどの青年とあまり変わらない年頃だろう。
本来は美しい金髪をしているのだろうが、その髪には血や泥、草がまとわりつき、一つの塊のようになっていた。
「どっちも重傷だ。兄ちゃんの方は運次第だが……」
そこで、ボーザムさんは言葉を切った。
「女性の方は無理でしょうね……」
ろくに医学知識のない俺だが、それでも彼女が長くないことは分かった。全身傷だらけなところは青年と同じだが、それとは別に、彼女の肩口から喉元にかけて抉られたような跡があったのだ。おそらく噛みちぎられたのだろう。
どう見ても致命傷だ。彼女がまだ息を引き取っていない方が不思議なくらいだった。
「……」
俺は一瞬悩むと、青年が寝ているベッドへと近寄った。そして、彼を起こそうと手を伸ばす。
「おいカナメ、何するんだ! 動かしちゃ危ないって言っただろ!」
びっくりしたボーザムさんが叫ぶのも構わず、俺は彼を叩き起こした。大声で彼を呼び、顔をぺちぺち叩く。それでも起きないため、俺は彼の傷口を上から叩いてやろうかと、本気で思案した。
すると、さすがに見ていられなかったのか、ボーザムさんが俺の腕をつかんだ。
「いい加減にしろカナメ! そんなことをするなら出て行ってくれ!」
俺は腕を掴まれたまま、物凄い音量で一喝された。
だが、それがよかったのだろう。青年が目を開いたのだ。まだ意識が混乱しているようで、焦点の合わない眼差しでこちらを見る。
「ここは……どこだ?」
「その質問に答えている暇はない。左のベッドを見てくれ」
俺は彼のごく当然な質問を無視すると、彼の奥で寝ている女性を指差した。俺につられて、首を左側に向けた青年の顔がこわばった。
「メリル! ……ぐっ……!」
突然起き上がろうとした青年だったが、呻き声を上げて再びベッドへ倒れこんでしまう。
それもそのはず、傍らの女性ほどじゃないとはいえ、彼も充分重傷を負っているのだ。運が悪ければ死に至る可能性も充分あった。
だが、それでも俺は彼に動いてもらう必要があった。ベッドで苦しむ青年に向かって、俺は一方的に話しかける。
「俺と契約をしないか。あの女性が助かったら、俺の言う事を二つ聞いてもらう」
それは、契約というにはあまりにもいい加減なものだった。俺は詳しい対価を伝えていないし、彼は契約書を書くことのできるような状態ではない。
だが、彼がそれに縋るしかないことは明らかだった。人の弱みにつけこむ悪魔みたいで申し訳ないが、これが俺の妥協点だ。
「メリルを助けてくれるのか……!? 頼む! どんな契約でもする! メリルを助けてくれ!」
彼の理解は、半分正解で半分不正解だった。
「彼女を治すのは、君自身だよ」
俺はそう言うと、青年に転職の力を行使した。
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【ジークフリート・セルラン】
ジークフリートの寝覚めは最悪だった。
意識が覚醒した瞬間、全身を猛烈な痛みが貫いたのだ。それだけでも最悪だというのに、見知らぬ男の言葉に従い、痛みに耐えて隣のベッドを見ると、そこには今にも命の炎が消えそうなメリルの姿があったのだ。
しかも、衝撃を受けているジークフリートに対し、男は契約を迫ってきた。
――彼女を助けたくば契約しろ。
それは悪魔の囁きのようだった。この辺りでは滅多に目にしない、黒目黒髪の容貌も相まって、ジークフリートは悪魔と話をしている錯覚に陥りそうになる。
……だが。もし目の前の男が本当に悪魔だったとしても、こんなろくでもない世界の神と大差ないのではないか。
彼が決断するまでに、時間は一秒とかからなかった。
全身が作り変えられたような違和感があった。腕が太くなったわけでもなければ、背が伸びた訳でもない。だが、彼の身体の細胞一つ一つに変化があったことだけは、はっきり分かった。
自分の変化に戸惑った彼だったが、やらなければならない事だけは、しっかり理解している。
「治癒」
自身の身体の悲鳴を無視してメリルの傍へ寄ると、彼は治癒魔法を行使した。不思議なもので、何をどうすれば癒しの力が集まり、そして行使できるかが、当たり前のように分かっていた。
「治癒……治癒……治癒」
だが、治癒師になって間もない彼に、死の淵の女性を一気に引き戻す治癒魔法など使えるはずがない。だから、彼はひたすら自分が使える治癒魔法を使い続けた。
「おい、もう大丈夫だぞ!」
いったい何度治癒を唱えたのだろう。ジークフリートは、中年の男性にその腕を掴まれた。半ば機械のように治癒魔術を使い続けていた彼は、その感触で我に返る。
「……兄ちゃん、よく頑張ったな。ここまでくれば嬢ちゃんが死ぬことはないだろう」
その言葉を聞いて、ジークフリートはメリルに目をやった。たしかに、いつの間にか死相はなりを潜めているし、肩から首筋にかけての致命傷も、完全にではないが塞がっていた。
「よかっ……」
それを確認したジークフリートは、ほっとした表情のまま意識を手放した。
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【転職屋店主 カナメ・モリモト】
「……これで貴方が死んだら、私は働き損になるところでしたよ」
治癒魔法を行使し過ぎた青年が目を覚ましたと聞いて、俺はすぐ宿屋に駆け付けた。彼は、随分と顔色がよくなったように見えた。
さっき目を覚ました時に、自分にも治癒魔法をかけたのだという。
「う……。メリルが死にそうなのは分かってたから、そっちの事しか考えてなかったんだよ」
「まあ、その気持ちは分からなくもありませんが……。月並みな台詞で恐縮ですが、それで貴方が死んで自分だけ助かった時のメリルさんの気持ちも考えていただきたいものです」
「……悪かったよ」
そう言うと、彼は何か言いたげに俺の顔を凝視した。何かを確認しているような表情だ。
「なあ、あんた、本当にさっき俺に力をくれた人か?俺の記憶では、もっと、なんというか……」
「悪魔みたいでしたか?」
俺の言葉を聞いてあたふたしたところからすると、たぶん正解だったのだろう。自分で言っておいてなんだけど、ちょっと傷つくなぁ。
とはいえ、さっきは非常事態で気が立っていて接客モードもオフになってたし、別人の疑いをもたれても仕方がないかもしれない。
「とにかく、あんたのおかげで助かった。俺はジークフリート。向こうで寝ているのがメリルだ」
どうやら、このまま会話を続けても平気なくらいには回復しているようだ。さっきはどう見ても死にかけ寸前だったのに、治癒師の力は偉大だ。
「私はカナメ・モリモトと申します。転職屋の店主をしております」
「転職屋……?」
ジークフリートの反応からすると、どうやら俺の事は知らないようだ。しかし、それならば何故彼はこんな辺境にやってきたのか。
「お伺いしたいのですが、貴方はなぜこの地にいらしたのですか?」
「それは……」
ジークフリートはしばらく口ごもった後、隠しても仕方ないと思ったのか、ぽつぽつとここへ来た経緯を語り始めた。
ジークフリートとメリルは、辺境よりも北にあるリビエールの町で暮らしていた。二人はいわゆる恋仲だったのだが、リビエールの町でも有数の権力者がメリルを気に入り、妾になるよう強要したらしい。
相手が相手なだけに、家族をはじめ周囲は誰も力になってくれない。絶望した彼らは、二人でリビエールの町から逃げ出すことを決めた。
その権力者はリビエールの町だけでなく、色々な街に顔が利く大物だったため、彼らはやむなく、その目が届かないであろう辺境へ落ち延びてきたのだった。
「それにしても、二人で辺境へ来るのは危険だったでしょうに」
「最初は商隊と一緒だったんだ。俺は剣が使えるから護衛として同行させてもらったんだけど、辺境に入ってしばらくして、急用が入ったとか言って商隊は引き返してしまったんだ。
その時に、モンスターが出なくて大きい村に辿り着ける道を教えてもらったんだけど、どうやらそれが間違っていたみたいだな」
その道を進めば進むほど森の奥深くへ踏み込んでしまい、これはおかしいと二人で相談していたところを、モンスターに襲われたらしい。
そして、メリルが重傷を負い、ジークフリートも傷だらけで生きるのを諦めかけた時、モンスターが突然その場から逃げ出した。
理由は分からなかったが、これ幸いとジークフリートは瀕死のメリルを背負って森から脱出する。だが、森を抜けたところで力尽き、倒れてしまった。
話をまとめるとそういうことらしい。
「事情は分かりました」
少し気になる箇所もあったのだが、そこは彼に聞いても仕方がない事だ。そこで、俺は本題を切り出すことにした。
「ところで、私との契約は覚えていますよね?」
「……覚えてるよ。いったい、俺に何をさせようっていうんだ? 言っとくけど、メリルを悲しませるようなのはなしだぞ」
ついにきたか、といった風情でジークフリートが答えた。あの時の契約と少し話が違っているが、まあ問題ないだろう。
「大丈夫ですよ。私が対価として求めるものは二点です。一つは、転職代金の支払い。これは今後の分割払いで構いません。
……そしてもう一つは、シュルト大森林の調査隊への参加です」
こうして、調査隊の人員が揃ったのだった。