神殿長会議
【クルシス神殿筆頭司祭 ミレニア・ノクトフォール】
「ふむ、クルシス神殿からの提議とな。……続けてくれたまえ」
七大神殿の長が集まる神殿長会議。その終盤において、プロメト神殿長が初めて立ち上がった。
通常、神殿長会議は参加者全員が席に着いた状態で協議がなされる。そこで立ち上がるということは、発言者がその議題を非常に重要視していると周囲に捉えられる。そんな慣行をミレニアは思い出した。
彼は時間をかけて他の神殿長を順番に見回すと、少しゆっくりと、それでいてしっかりした発声で本題に取りかかる。
「私から皆様方に対して、一つ報告があります。……このたび、クルシス神殿は新しい事業部門を立ち上げることに致しました」
その言葉にピクリと反応したのは、やはりガレオン神殿とフェリネ神殿だった。その様子はあからさまではなかったが、注意深く二人を観察していたミレニアに分からないほどでもなかった。
「ほう……? ここへ来て新しい事業ですか」
だが、プロメトの発言に最初に言葉を返したのは、意外にもグラシオス神殿長だった。最初に反応した火神・水神の神殿長たちが発言していないのは、おそらく迂闊な物言いを避けるためだろう。
大地神グラシオスは知識を司る神でもあり、かの神に仕える神官もまた、学者肌の者が多く知識欲が旺盛な傾向にある。そのため新しい事業と聞いて興味を覚えたのだろう。そのグラシオス神殿長の方を向いて、プロメトは口を開いた。
「ええ、以前から温めていた事業計画なのですが、ようやく形になってきたものですから」
その言葉はもちろん嘘だ。つい二、三か月前の時点では、そんな計画など夢にも思わなかったに違いない。だが、素直に経過を伝えてしまえば、最近クルシス神殿に入ってきた新人の誰かがきっかけであると気付いてしまうだろう。もちろん、クルシス神殿の新人は本殿の三人だけではなく、分殿にも幾人か存在しているが、全員合わせても大した人数ではない。
いずれ分かってしまう話ではあったが、今の段階ではできるだけ伏せておきたかった。
「と、勿体ぶっても仕方ありませんな。単刀直入に申し上げましょう」
そう言いながらも、プロメトはそこで言葉を切る。そして軽く息を吸い込むと、力強い声で宣言した。
「我々クルシス神殿は、新たに『転職』の事業を手掛けます」
「転職……!?」
「聞き間違いか?」
「なんだと……!」
「教会と同じ……」
プロメトの宣言に対する反応は様々だった。神殿長だけでなく、会議の間ずっと沈黙を守っていたお付きの司祭たちもつい口を開く。この会議で初めて、会場全体がざわめいていた。
「クルシス神殿長。私の聞き間違いでなければ、あなたは先程『転職』の事業と仰ったように思うのですが、間違いありませんか? それは、人に固有職を与えるという、あの教会の『聖女』と同等の能力を持つ者がいると、そういうことでしょうか?」
その衝撃から最初に立ち直り、そして質問を浴びせてきたのは、またもやグラシオス神殿長だった。驚きよりも知的好奇心が先に立ったのだろうか。もしそうなら、さすがは知識の神に仕える神殿長だけのことはある。がっしりした体格と、それに似合わない学者的な風貌を兼ね備えたグラシオス神殿長に対して、ミレニアはそんな感想を抱いた。
「おっしゃる通りです。すでに、その能力はこの目で確認済みです」
プロメトの言葉を受けて、会議室のざわめきが大きくなる。だがそんな中でも、幾人かの神殿長の思考は、既に次の段階まで進んでいるように見受けられた。
その中でも、一番早く反応したのは水神フェリネの神殿長だった。彼女は探るような視線をプロメトに向けて口を開く。
「クルシス神殿長、もしそのお話が真実であれば、新たな事業が社会に与える影響は非常に大きなものです。
転職事業が大々的に行われた場合、固有職持ちを戦力の核として自軍に編成している王族や貴族の軍事力は、相対的に低下します。
それは、各国の治安維持において重要な役割を占めている、彼らの力を奪うということであり、治安の悪化や世情不安を招くことにも繋がりかねません。その新事業については、再考されてはいかがでしょうか?」
「それに、クルシス神殿では少し前に大事件が起きたばかりだ。その神殿でこのように重大な事業を取り扱うとなれば、人々から不安の声が上がるのではないか」
フェリネ神殿長の言葉に続けて、ガレオン神殿長も口を開いた。神殿派の二番手争いをしている宿敵として、普段は反目しがちな彼らだったが、ここでは見事に息が揃っていた。
そこから、せっかく二番手争いから転落してくれたクルシス神殿は静かにしていてほしい、という思惑が見て取れる気がして、ミレニアは心の中で眉を顰めた。
「フェリネ神殿長、我々は為政者ではありません。考えるべきは、人々にとって何が最善かということです」
「だからこそ、治安の悪化や世情不安を招く事態は避けるべきではないでしょうか?」
プロメトの反論に対して、フェリネ神殿長は間髪を入れず言葉を返してきた。その言葉は人々のことを真剣に憂いている風に聞こえるが、それが本心の全てだとは限らない。
ミレニアの視線に気付いたのか、フェリネ神殿長がこちらを見てうっすらと微笑む。その表情は、お手並み拝見、とでもいうようなものだった。
そんな彼女たちのやり取りに気付いたのか気付いていないのか、プロメトは相変わらずしっかりした口調で言葉を返す。
「人々が固有職を得たからといって、直ちに治安が悪化すると考えるのは、いささか早計ではありませんかね。
たしかに、大きな力を持つ固有職持ちには、自己中心的な考え方の人間が多々見受けられます。ですが、その原因の幾つかは、固有職持ちを生まれた時から甘やかし、つけあがらせるこの社会構造にあると私は考えています。
ですが、新たに転職する人間は皆、元は『村人』でしかなかった身の上。好き勝手に振舞うような人間ばかりとは思えません。
それに、固有職持ちが増えるということは、王国や貴族への士官を考える固有職持ちも増えるということです。一方的な軍事力減少に繋がるとまでは考えられませんね」
プロメト神殿長の言葉は、立て板に水を流すように滑らかだった。おそらく、事前に準備していたのだろう。突然不意打ちのように重要な議題を提案された彼らと違って、クルシス神殿には準備時間という大きなアドバンテージが存在していた。
本来、重要な議題であれば、事前に各神殿に根回しておくことも多いのだが、今回プロメトたちがそれをしなかったのは、それを狙ってのものだった。ほぼ確実に味方につくだろうダール神殿にだけは話を通したが、後の五神殿にとっては寝耳に水だったはずだ。
「ですが、今までほぼ不可能だった転職が可能になれば、人の負の側面を助長する可能性があるのも事実。社会に大きな混乱を招くことは確実でしょう。クルシス神殿長は彼らにそれを強いると?」
「だからと言って、資質があるにも関わらず、その才能を開花させないことを強いられている人々を見捨てる理由にはなりますまい。
それに、固有職の資質がない人々にとってもこの転職事業は有益だと考えられます」
少し挑発的なフェリネ神殿長の言葉に対して、プロメトは淡々と答えを返した。彼はそのまま言葉を続ける。
「転職事業により固有職持ちが増えることになれば、現在モンスターに押されて縮小の一途を辿っている人種族の版図にも、光明が見えてくると考えています。
固有職持ちが増えるということは、モンスターに対する人種族の戦力が上がるということ。モンスターに襲われれば逃げ出すしかない村々にも、固有職持ちを防衛戦力として派遣したり、先手を取って、近くにいるモンスターを一掃するため打って出るようなことも可能になるでしょう。そうなれば、固有職を持たない人々にとっても有益な話になるはずです」
その言葉を聞いて、数人の司祭がはっとした表情を浮かべた。神官として人々と接する機会の多い者は、彼らの様々な悩みや不安を聞くことになる。そして、そんな中でもよく聞く不安の一つが「この先、人種族は生きていけるのだろうか」というものだ。
今反応した司祭たちは、おそらくその記憶を刺激されたのだろう、とミレニアは予想した。だがさすがと言うべきか、神殿長は誰一人表情を変えていなかった。
「とはいえ、能力者の話では、転職が可能な人間の数はそう多くないとのこと。突然国民の半数が固有職持ちになった、などということにはなりません。
人種族戦力の大幅な向上には繋がらないかもしれませんが、その分社会の混乱も大きなものにはなりますまい」
そう補足したプロメト神殿長は、今度はガレオン神殿長に向かって口を開いた。
「クルシス神殿において不祥事が発生したことは事実ですが、先ほど申し上げた通り、転職事業は人々の益になるものと確信しています。それを、今はまだ外聞が悪いから、と先延ばしにするようなことは、かえって人々のためにならないと考えています」
「であればなおのこと、現在のクルシス神殿が転職事業を立ち上げることで、人々の理解が得られず、転職希望者が現れないという事態を招きかねない軽挙は慎むべきだ。それこそ人種族にとっての損失であろう」
ガレオン神殿長はプロメトの台詞に続けるように言葉を重ねる。だが、プロメトが言葉に詰まる様子はなかった。
「クルシス神殿の来殿者には、固有職に関する祈りを捧げる方も多くいらっしゃいます。クルシス神殿が司るものに固有職に関することは含まれておりませんが、特技を司っている関係でしょうな。
そのため、クルシス神殿が転職事業を行うと周知したとしても、不信の念を抱かれる可能性は低いと思われます」
プロメトがそう説明するとガレオン神殿長は押し黙った。だが、その顔に諦めた様子はない。と、彼を観察していたミレニアの耳へ、別の人間の声が聞こえてきた。
「私からも一点お伺いします。転職事業については、先ほどグラシオス神殿長のお話にもありました通り、教会でも取り扱っているところです。彼らとの兼ね合いはどうするおつもりですか?」
そう聞いてきたのは、闇神ノマドの神殿長だった。ノマド神殿は闇を司ることから、犯罪者や犯罪者すれすれの人間にも信徒が多い。その関係からか、かの神殿には大きく分けて二つの派閥がある。
一つはノマド神殿のイメージをクリーンなものにしていくべきだ、という主張を掲げる派閥であり、もう一つはイメージなど気にせずノマド神の御心に従うべきである、という主義の派閥だ。この二派閥は、必ず交互に神殿長のポストを占めることで有名だった。
当代の神殿長はクリーン派の派閥の長だったはずだ。元々ノマド神殿はその性質から教会と折り合いが良くないのだが、特にクリーン派は、教会をできるだけ刺激しないように動く傾向にあった。
……ということは、ノマド神殿は反対派につく可能性がある。今さらそのことに思い当たって、ミレニアは少し不安を覚えた。だが、プロメト神殿長にはそのことを気にした様子はなかった。
「教会に対しては、近々説明に赴くつもりです」
その返答を聞いて、ノマド神殿長は幾分ほっとしたようだった。闇神の神殿長はいろいろ苦労していそうだな、とミレニアは少し同情する。
「クルシス神殿長、私からも一つ聞きたい。先程教会に説明に行くとのことでしたが、もし教会が転職事業を認めないと言った時には、どうするつもりですか?」
終わりかけた話題を引き継いだのは、風神エネロープの神殿長だった。彼は七人の神殿長の中でもっとも若く、そして精力的だった。その年齢は五十歳に届いていないだろう。
エネロープ神殿の神殿長は、昔から他神殿よりも若い傾向にある。神官の全てがそうという訳ではないのだが、少なくともかの神殿の神殿長になるような人物は、大抵が五十そこそこで引退してしまうのだ。
その理由の大半は「余生で世界を見て回りたい」からだと聞くが、その真偽は他の神殿には分からない。ただ、歴代のエネロープ神殿長の記憶からすると、そう的外れな噂ではないだろう。ミレニアはそう判断していた。
「そうならないよう最善を尽くしますよ」
プロメトの曖昧な返答に対して、エネロープ神殿長が不満げに眉を顰める。だが、彼がその不満を口に出すより早くガレオン神殿長が口を挟んだ。
「クルシス神殿長、エネロープ神殿長が言っているのは、それでも交渉が決裂した場合にはどうするつもりか、ということだ。新事業の展開を諦めるのか、それとも教会と対立した状態で強行するのか、どちらを考えている?」
それはエネロープ神殿長の思いを代弁したというよりは、都合のいい展開に対するてこ入れだったのだろう。一度は押し黙っていた彼だったが、ここへ来てその表情が活発なものへと変わっていた。
おそらく、彼の狙いはクルシス神殿の転職事業が教会と対立する構図を示すことで、ノマド神殿を反対派に取り込むことだろう。だがクルシス神殿としては、教会との交渉が決裂したからと言って、転職事業の展開を放棄するつもりはなかった。教会との交渉が和やかに進むなどとは、ミレニアもプロメトも考えてはいない。
これまでどんな質問にもさっと答えていたプロメト神殿長が、初めて回答までに間を取った。彼のことだ、その質問を想定していなかったということはないだろう。となると、その沈黙は意識的なものか、それとも――
やがて、その場にいる全員の視線を受け止めて、プロメトはゆっくりと口を開いた。
「……これは、あくまでクルシス神殿の事業です。たしかに教会は、我々に先んじて転職事業を取り扱っていますが、逆に言えばそれだけです。彼らに新規参入を拒む権利はありません」
そのはっきりした物言いに会場が静まった。それは、教会と対立しても構わない、と言ったに等しい。
これでノマド神殿は反対派に回ったわね、とミレニアは心中で呟いた。現在のところ、賛成派はクルシス・ダールの二神殿。反対派はガレオン・フェリネ・ノマドの三神殿となる勘定だ。
ミレニアが思わず残り二つの神殿長に目をやると、グラシオス神殿長は思慮深そうな瞳で、エネロープ神殿長は興味深そうな瞳で、それぞれプロメトを注視していた。
そのうちの一方、グラシオス神殿長に向かって、プロメトが口を開く。
「グラシオス神殿長。我々クルシス神殿は、転職事業を立ち上げた後、その事業を通じて得た知識を同胞に提供する用意があります」
その言葉を聞いて、ミレニアはプロメト神殿長の狙いに気付いた。現在のところ、固有職に関する研究の大半は、教会派の人間によってなされている。それもそのはず、これまで転職について証言できる人間は、教会の『聖女』ただ一人だったのだ。
他宗派の研究に対して、わざわざ『聖女』を貸し出すほど教会はお人よしではない。そのため、これまでグラシオス神殿で行われていた固有職に関する研究は、推測の域を超えるようなものではなかったはずだ。
それを見越したかのようなプロメトの言葉に、グラシオス神殿長の表情が動いた。ここまで反応を示すということは、ひょっとするとこの神殿長自身が、かつて固有職についての研究をしていたのだろうか。もしそこまで知っていた上での発言だとすれば、プロメト神殿長も人が悪い。ミレニアはそう思いながら、学者肌の神殿長の発言を待った。
「……教会とのやり取りはともかくとして、もし転職事業が成功を収めた暁には、ぜひとも情報提供を願いたいものですな」
グラシオス神殿長は少しばつが悪そうな表情で発言した。教会との関係については棚上げする形での発言だが、その心がどちらに向いているのかは明らかだった。
大地の神殿には、とかく学究に勤しむ神官が多い。そんな中で、クルシス神殿に非協力的であったがために、研究にかかる貴重な情報提供者を失ってしまう、などという事態になってしまっては、下から突き上げを受けるのかもしれない。例え神殿長自身がその研究を行っていなくても、いや、行っていなければ余計に、その圧力は強くなることだろう。
グラシオス神殿長の顔を見ながら、ミレニアはそんなことを考えていた。なんにしても、これで三対三だ。後はエネロープ神殿次第だろう。誰もが風神の神殿長に視線を注いだ瞬間だった。
「クルシス神殿長よ。俺から一つ提案をしたい」
その流れを気にすることなく発言したのは、またもガレオン神殿長だった。先程から少ししつこいな、というのがミレニアの感想だったが、彼の瞳に自信が宿っているのを見て、少し警戒レベルを引き上げる。
「転職事業については、我ら神殿派の共同事業にするべきだ。それであれば教会とて文句はつけられんし、人々も安心することだろう」
「……!」
喉元まで出かかった言葉を、ミレニアはどうにか飲みこむことに成功した。いけ図々しいとはこのことだ。クルシス神殿の転職事業が潰せないのならば、自分たちも同じだけの利を得ようと、そういうことだろう。
そしてさらに腹立たしいことに、そのガレオン神殿の提案に対して、複数の神殿が乗り気な表情を見せていた。
「ほう……。具体的には、どのようなことをお考えですかな」
プロメトが無表情で問いかけた。だが、付き合いが長いミレニアには分かる。あの顔と言葉の抑揚からすると、ガレオン神殿長の提案は想定外のようだった。
「なに、一日ごとに転職能力者をそれぞれの神殿へ派遣すればよいのだ。七大神殿を七日かけて一周りさせる。各神殿は能力者が派遣されてくる日を前もって喧伝しておき、希望者にはその日に来殿するよう伝えておけばよい」
そう言うガレオン神殿長の顔は実に得意げだった。ミレニアがその顔に水差しの中身をぶちまけてやりたい衝動を抑えていると、さらに別の声が上がる。
「それは悪くない提案です。ただ、一日ごとに神殿を移るとおっしゃいましたが、どうせなら本殿にて転職の儀を行いたいものです。七大神殿それぞれの本殿を順繰りに回ってもらうというのはいかがですか?」
そこへ乗ってきたのは闇神ノマドの神殿長だった。先程までは転職事業を行うことに反対していたはずだが、自らの神殿に利益が見込めるとなれば立場も変わるということか。
教会と多少対立してでも、転職事業に一枚噛んだほうがうまみがあると判断したのだろう。
「おお、私としたことがそのことをすっかり失念しておりました。ご助言、感謝しますぞ」
少し演技がかった口調でガレオン神殿長が礼を述べる。そして、彼は他の神殿長をゆっくりと見回した。その視線はどう見ても、「今ここで自分に同意しておけば、転職事業の利益は山分けにできるぞ」というものだった。ミレニアにしてみれば非常に腹立たしいが、これ以上賛同者が出ると馬鹿にできなくなる。
そんな危機感を抱いて、ミレニアは残る四神殿の長を観察した。グラシオス神殿とエネロープ神殿は元々が中立派に近いため、自分たちにとって利益が生まれるとあれば、そちらへ靡く可能性は充分ある。
フェリネ神殿長は沈黙を貫いているが、今までのスタンスからすると賛成に票を投じると考えて間違いないだろう。そして唯一の味方たるダール神殿だが、クルシス神殿だけが勢力の増大を図ることと、七大神殿全体の勢力の底上げのどちらが神殿派全体のためになるかを天秤にかけた場合、ダールの天秤はどちらに傾くのだろうか。少なくとも、もはや絶対に安心とは言えない状態にあった。
これ以上余計なことを言い出す者が現れないうちに、なんとかこの場を鎮めてほしい。基本的に発言権のないミレニアは、そんな願いをこめてプロメト神殿長を見た。――そして、思わず声を上げる。
「神殿長……?」
彼女の視界に入ってきたのは、いつものプロメト神殿長の姿だった。だが、この二十五年近い付き合いの中で、神殿長があんなに怖い目をしていたことがあっただろうか。いや、怖いと言うよりは、迫力があると言ったほうがいいかもしれない。
まるで人が変わったかのような印象を受けて、ミレニアは自らの上司を見つめ続けた。
「……問題外だ」
やがて、プロメト神殿長は口を開いた。その声の圧力に、その場にいた全員が多かれ少なかれ驚きの表情を浮かべた。目を見開く者、細める者。お付きの司祭にはビクッと身を震わせるものまでいた。
聞こえてきたその声もまた、ミレニアが今まで聞いたことのない種類のものだ。彼は圧倒的なカリスマによって立つタイプの人間ではなく、どちらかというと理詰めで話を持っていく方の人間だ。会議の参加者もそれを知っているからこそ、彼の変化に驚いたのだろう。
そんな周囲の反応を気にすることなく、プロメトは言葉を紡ぐ。
「転職の能力者に、一日ごとに各神殿を回らせる。……ガレオン神殿長はそうおっしゃいましたな」
「……その通りだ」
さすがは七大神殿長の一角を占める人物と言うべきか、ガレオン神殿長は平然と頷いた。だが、ミレニアが見たところ、先程までと比べて彼の瞬きの回数が非常に多くなっている。まったく動揺していない、というわけではないのだろう。
彼女がそんなことを分析している間にも、プロメト神殿長は言葉を続ける。
「正直に言えば、私は驚いているのですよ。他の神殿の神官をつかまえて、自らの神殿のために奉仕させることが当然だと思うほど、私には博愛の精神が根付いておりませんのでね。……いやいや、修行が足りずお恥ずかしい限りです」
悠然と語るプロメトに、謙遜している様子は微塵も感じられない。だが、それを指摘する者は誰もいなかった。
「また、先ほどのプラン……一日ごとに各神殿を回らせるという話ですが、つまりそれは、転職能力者の時間を全て転職事業に振り分けるということです。
ですが、その能力者もまた聖職者であることを忘れてもらっては困る。神殿での業務をこなしながら、様々な修行や研鑽を通じて仕える神に対する理解を深めていく。これはどの神殿でも同じ話のはず。その機会をかの能力者にだけ与えず、ただ希望者を転職させるための装置として扱うかのような発言については、さすがに同意できませんな」
「……ならば、ローテーションの頻度を下げればよいだけの話だ」
ガレオン神殿長はいささか憮然とした面持ちで口を開いた。その様子からすると、プロメト神殿長の言葉を笑い飛ばすことはできなかったのだろう。だが、それでも彼は諦められないようだった。
「能力者を物扱いする姿勢が見えてしまった以上、もはや事はローテーションの問題ではないのですよ。
――クルシス神殿の最高責任者として、私にはクルシス神に仕える神官を護る義務がある」
プロメト神殿長がそう発言してから、どれくらいの時が経っただろうか。この会議が始まって以来、一番長い沈黙が下りた。
だが、沈黙はいつか破られる。今回の沈黙を破ったのは、ある意味では一番それらしい人物だった。
「たっはっはっ、久しぶりに面白いモンが見られ――おっと。……実に興味深い一幕を拝見しました。私はクルシス神殿長のことを少し誤解していたようです」
そう口にしたのは、風神エネロープの神殿長だった。最初に出ていた言葉が地なのだろうが、彼の精力的で闊達な雰囲気によく似合っていた。
そして、それがどうした、とでも言いたげな他の神殿長に対して彼は宣言する。
「エネロープ神殿は、クルシス神殿が転職事業を行うことに賛成する」
「なんだと!?」
驚きの声を上げたのはガレオン神殿長だ。だが、その声の余韻を掻き消すように、続いて声が起こる。
「グラシオス神殿も、クルシス神殿の提案に賛成します」
「ダール神殿も賛成じゃ」
続けざまに上がる言葉を聞いて、ミレニアは笑みが浮かんでしまいそうになるのを必死で抑えた。隣のプロメト神殿長がいつも通りの顔をしているのが信じられないくらいだ。
転職事業に賛成した風・地・光の三神殿とクルシス神殿を合せれば、神殿派の過半数を占める。つまり、転職事業は神殿派の総意であると言うことができるのだ。
教会と転職事業の話をする際に、この一件が神殿派の総意であると言えるかどうかは、非常に重要な要素だっただけに、ミレニアはほっと胸をなで下ろした。
「……どうやら賛成票が過半数を上回っているようじゃが、反対派から他に意見はないかの?」
ダール神殿長がそう問いかけるが、その言葉に答える者はいなかった。それを確認すると、プロメトは口を開いた。
「提案にご賛同頂けたことに、まず感謝を申し上げます。……さて、転職事業を開始するにあたって、幾つか皆様にお願いしたいことがあります。
まず一つは、合同神殿祭において、この転職事業のお披露目をすることについて了解を頂きたい。もちろん、クルシス神殿のイベントの一つとして行いますから、皆さんの負担になることは何らありません。
そして次に、転職事業の話については決して他言しないこと。転職能力者の身に危険が及ぶ可能性があります」
その後も口早にいくつかの事項を口にしているプロメトを横目に、ミレニアは今後のことに思いを巡らせるのだった。
◆◆◆
「しっかし、もしあの場で駄目だってことになったら、どうするつもりだったんですか?」
それは、神殿長会議が終わった後のことだった。帰り支度をしていたミレニアたちの前に現れたのは、エネロープ神殿長だった。彼は会議中よりくだけた物言いで、プロメトに話しかけてきたのだ。
「どうもしませんよ。提議した時にも申し上げていたでしょう? 『報告があります』と。許可を求めたつもりはありません」
それを聞いたエネロープ神殿長は、一瞬目をぱちくりさせると、愉快そうに笑い声を上げた。
「たはははは! なんだ、最初からそのつもりだったんですか。……いやー、またクルシス神殿長のイメージが変わりましたよ」
エネロープ神殿長はそう言うと、今度は声を落として囁いた。
「……しかし、どうしてクルシス神殿に……?」
「……クルシス神のお導きでしょう。心配には及びませんよ」
「そんなもんですかね……」
それは近くにいたミレニアでも聞きとるのが難しいような囁き声だった。そして、その内容に至ってはもっと訳が分からない。困惑したミレニアが向かいを見たところ、エネロープ神殿の付き人も意味が分からなそうな表情をしているのが確認できた。お付きの司祭二人の困惑した視線が交錯する。
そんな中、ミレニアはふと相手から視線を外した。どうやらこれは、自分だけの勉強不足ではなさそうだ。ミレニアはそう割り切ると、今後の転職事業の展開に意識を切り替えるのだった。




