事後処理Ⅰ
お久しぶりです!
特に理由はないのですが、本編を読み返していたら外伝を書きたくなりました。お付き合いいただけると嬉しいです。
最終決戦の翌日の話です。
【『剣姫』クルネ・ロゼスタール】
窓から差し込む日光が朝を告げる。ベッドの中で光を浴びたクルネは、もぞりと身体をよじらせた。
「もう……朝……」
朦朧とした意識の中で、クルネはもう一度眠りに落ちることを選択した。彼女は朝に強く、寝坊することは滅多にない。
だが、今日だけは話が別だ。限界を超えて酷使した身体は鉛のように重いし、瞼はいっこうに開く気配がない。それもそのはずだ。『名もなき神』との決戦に挑み、そして勝利したのは昨日のことなのだから。
「……」
薄手の寝具を顔の上まで引き上げて、太陽の光を遮る。少し息苦しくなるが、圧倒的な眠気の前には些事でしかない。
そうしてどれほど経っただろうか。部屋の扉を強くノックする音がしたかと思うと、母親アルマの声が聞こえてきた。
「クルネ、まだ起きなくていいの? カナメ君の様子を見に行くって言ってなかった?」
「――あ」
朦朧としていた意識が覚醒する。そうだった。『名もなき神』を倒した後も大騒ぎだったのだ。しばらくは勝利の余韻に浸っていたクルネたちだったが、戦後の後始末のようなものが後から後から湧いて出て、目の回るような忙しさだった。
それでも夜には一段落ついて……というか、激闘でボロボロになっていたカナメをこれ以上働かせては駄目だと、皆で仕事を取り上げて宿舎へ帰したらしい。
なぜ伝聞形かというと、クルネは別行動でモンスターを撃退しきれていない町村を救援して回っていたからだ。夜更けに神殿へ戻った彼女は、眠っているであろうカナメを起こすことも躊躇われて、自宅へ帰ってきたのだった。
「ご飯は食べる?」
「うん! ありがとう!」
クルネはベッドから起き上がると、急ぎ足で階段を下りる。一階のリビングへ顔を出すと、すでに食事を終えた父親のクラウスと目が合った。
「おはよう、クルネ」
「お父さん、おはよっ!」
やや口早に挨拶を返して、さっそく朝食に手を付ける。いつもより豪華に見えるのは、死闘を制して生還したクルネへのご褒美だろうか。
「身体の調子はどうだ?」
「うん、大丈夫。傷はミュスカちゃんに治してもらったし」
クルネは笑顔で答える。実際にはまだ身体が重いし、精神的な疲労だって激しい。だが、それを言っても両親を心配させるだけだし、下手をすればベッドから一歩も出してくれないだろう。
「そうか、そうだったな」
『ルノールの聖女』の知名度のおかげか、クラウスは疑った様子もなく頷いた。ミュスカちゃん、ありがとう。そう心の中で呟く。
「ご馳走さま!」
改めて無事を喜ぶ両親と話しながら、母親の心づくしをすっかり平らげる。クルネは皿を台所へ運ぶと、急いで自分の部屋へ戻るのだった。
◆◆◆
「被害が小さくてよかった……」
クルシス神殿へと向かう道すがら、クルネはルノールの街の様子をあれこれ確認していた。昨晩、街へ戻ってきた頃には夜も更けていたため、あまり様子が分からなかったのだ。
「お、クルネちゃんじゃねえか! 昨日は大活躍だったんだろ?」
「あら、もうお仕事なの? 少しは休むのよ?」
ちらほらと知り合いに声をかけられながら、通い慣れた道を歩く。後ろから吹いてきた風が、クルネの長い髪をふわりと膨らませた。
「……大丈夫、だよね」
柔らかい風が吹き抜けると、甘い香りがほのかに残る。その香気を感じて、クルネはふと自問した。まだ二回しか使ったことがない、とっておきの香水だ。あの時は無反応だったけど、今度は何か言ってくれるだろうか。そんな期待に胸を膨らませる。
正直に言ってクルネは浮かれていた。『名もなき神』との決戦の後で、ついにカナメへの想いが実ったからだ。あれは夢だったんじゃないか。そんな不安も胸をよぎるが、それ以上の高揚感が彼女の心を埋め尽くしていた。
「どうせなら、ちょっとくらい二人でのんびりしたいな」
だいぶ近付いてきたクルシス神殿を眺めながら、こっそり呟く。カナメの性格上、今日は朝から『名もなき神』絡みの後始末に取り組むことだろう。
そのことに文句はないが、彼は自分以上に消耗しているはずだ。今日とは言わないが、近いうちに休みをもらえるようオーギュスト副神殿長に直談判してみよう。密かにそう決心する。
「ひょっとして、もう神殿にいるかな」
クルシス神殿の敷地に足を踏み入れたクルネは、庭の隅にある建物に目を向けた。神官用の宿舎であり、カナメもそこで暮らしている。
いつもの時間ならまだ宿舎にいるはずだが、昨日の経緯を考えると登殿している可能性が高い。そう判断したクルネは、クルシス神殿の裏口から建物の内部へ入った。
「おはようございます、オーギュスト副神殿長。カナメはもう来てますか?」
そして、早々に見つけた副神殿長に声をかける。彼ならカナメの所在を知っているだろうと、畳みかけるように尋ねるが、意外なことにカナメは来ていないようだった。
「神殿長代理の性格上、今日は早めに来るかと思ったのですが」
オーギュストもクルネと同じように推測していたらしい。だが、まだ正規の勤務時間ではないため、様子を見に行ってはいないという。
「それじゃ、カナメの様子を見てきます」
そう告げて、くるりと身を翻す。昨日の『名もなき神』との激戦において、最も消耗したのはカナメだ。身体的にはもちろんのこと、竜玉の爆発で彼の神気はほぼ消し飛んだという。
「まさか……」
神気こそは、異世界から来たカナメの身体を構成している重要な要素ではなかったか。一時的なものなのだろうが、それがゼロになったということは――。
いつしかクルネは戦闘速度で神官の宿舎へ向かっていた。上級職ならではの脚力が、彼女を一瞬で目的地へと運ぶ。
「ねえ、カナメ? 起きてる?」
カナメの部屋の扉を叩いて、大きめの声で呼びかける。だが、普段ならすぐ返ってくる声が聞こえてこない。そのことに胸騒ぎを覚えたクルネは、慌てて部屋の合鍵を取り出した。
「……っ」
焦りながらも合鍵を鍵穴に入れてカチャリと回す。クルネがドアノブを回せば、扉はなんの抵抗もなく開いていった。そして、その隙間から見えたものは……。
「カナメ!?」
――床に倒れているカナメの姿だった。
その光景を認識した瞬間、クルネの心臓がドクリと跳ねる。早鐘のように打つ鼓動に急かされるように、彼女はカナメの下へ駆け寄った。
うつ伏せで倒れているためよく見えないが、顔色が悪いようには見えない。それは安心材料だが、それならなぜ倒れているのか。
「――ぃ」
「……え?」
かすかに声が聞こえた気がして、カナメの口元に耳を寄せる。すると、今度はしっかり言葉を聞き取ることができた。
「――筋肉痛で……起き上がれ、ない」
「……ええと」
予想外の回答に言葉を失う。深刻さとは程遠い理由に笑いそうになったクルネだが、ふと気付く。
「ひょっとして、マイセンの水薬を飲んだの?」
「……ああ」
カナメは呻くような声で肯定する。身体能力を飛躍的に向上させる代わりに、翌日は壮絶な筋肉痛に苛まれる水薬。お守り代わりにと、錬金術師のマイセンがカナメに渡していたものだ。
「あれは……痛いよね……」
クルネは心からカナメに同情した。自分がその水薬のお世話になった時も、翌日は立ち上がれないほどの筋肉痛に悩まされたものだ。
「でも……よかった。生命に関わるような事態じゃなくて」
安心したクルネは、気が抜けたようにぺたりとしゃがみこんだ。そうして初めて、カナメを見守るような位置で丸くなっていたキャロに気付く。眠っていた妖精兎は頭を軽く起こして、挨拶とばかりに元気に鳴いた。
「キュッ!」
「そっか。最初からキャロちゃんに気付いてれば、こんなに焦らなくてすんだのね」
キャロは賢い。カナメが本当に命の危機に瀕していたなら、クルシス神殿なりクルネなりに知らせてくれたはずだ。そのキャロがこうして丸くなっている時点で、緊急事態ではなかったのだ。
「痛いことに、変わりは、ないぞ……」
クルネが露骨にほっとしたことに抗議したいのか、息も絶え絶えといった風情のカナメが声を上げる。肺も痛いはずだから、呼吸や会話も精一杯なのだろうが、どうしても安堵が先に立ってしまう。
「うん、分かるよ。……でも、どうしてこんな所で倒れてたの?」
「なんとか、出勤、しようと」
「だから扉の前で倒れてたんだ……」
クルネは本気で感心する。よく見れば法服も着ているし、家を出る直前まで頑張ったのだろう。かつての激痛を思い起こすと、それだけでも偉業のように思えた。
「とりあえずベッドに運ぶね。あと、神殿には一日休むって言っておくから」
有無を言わさず言い切ってカナメを抱え上げる。成人男性ともなればそれなりの体重だが、剣匠にとってはどうということのない重さだ。
「すぐ戻ってくるから、無理しないでね。……キャロちゃん、カナメが仕事をしようとしたら止めてくれる?」
「キュ!」
いつの間にかカナメの枕元に移動したキャロが、元気に請け合う。その返事に笑顔をこぼしてから、クルネはクルシス神殿へと向かった。
◆◆◆
「あれ……寝ちゃってた」
ふと覚醒したクルネは、反射的に周囲の様子を窺った。ここはカナメが暮らしている部屋で、部屋の主は目の前のベッドで眠っている。枕元にいたはずのキャロはいなくなっているが、庭で日向ぼっこでもしているのだろう。
そんな状況を把握したクルネは、眠っているカナメに視線を向けた。あれから神殿にカナメの状態を伝えたところ、神殿の皆は口を揃えて「休むべきだし、家を抜け出さないよう見張っていてくれ」と言ってきたのだ。
分かっているつもりではいたが、カナメはいい同僚に恵まれている。そう思うとクルネまで嬉しくなってくる。
「……ぅ」
そんなことを思い出していると、ベッドのカナメが身じろぎした。その顔を見つめていると、やがてゆっくり瞼が開く。
「今、何刻だ……?」
「お昼を過ぎたくらいかな。ねえねえ、お腹空いてない?」
カナメが神殿に行く、などと言い出す前に話題を振る。あの状態で朝食を食べられたとは思えないから、だいぶ空腹のはずだ。
「たしかに腹は減ったな」
そう告げるカナメの口調はだいぶ滑らかになっていて、息も絶え絶えという風情ではなくなっていた。声はまだ小さめだが、ここには二人しかいない。会話する分には問題ないレベルだ。
「じゃあ、何か簡単なものを作るね」
そう言ってベッド脇の椅子から立ち上がったクルネへ、カナメは困ったような視線を向けた。
「ええと、それは――」
「何よ。たしかにミルティほど上手じゃないけど、私だって料理は作れるんだから」
拗ねてそう呟くと、クルネはさっと台所へ移動する。勝手知ったる部屋であり、カナメの案内は不要だ。そして――。
「あれ?」
食料品の棚を見て首を傾げる。食材が何もないのだ。何か所か心当りを探したものの、出てきたのは調味料だけだ。不思議に思ったクルネは、カナメがいる部屋へと戻った。
「カナメ? 食料品が何もないけど、どこか別の――」
そう問いかけた時だった。コンコン、と扉がノックされる。神殿の誰かだろうか。そう予想をつけて、クルネは玄関の扉を開いた。
「やあ、クルネさん。今日も美しいね」
「カナメ君の様子はどうだい? 寝込んでいると聞いたけど、お見舞いは大丈夫かな」
扉の向こうにいたのはよく見知った顔だった。自治都市ルノールの評議員であるリカルドと、同じく評議員であり、魔獣使いでもあるクリストフだ。二人とも『名もなき神』の後処理で忙しいはずだが……。
「お見舞いに来てくれたの?」
クルシス神殿としては、カナメが倒れた話は公表しないことにしたはずだ。だが、彼らとは私的なレベルの付き合いだ。特別に真相を伝えたのだろう。
「もちろんさ」
「……七割くらいはね」
しれっと言い切ったリカルドに対して、クリストフは後ろめたそうに視線を逸らした。おそらく二人ともカナメに相談事があるのだろう。とは言え、クリストフの言葉通り、カナメを心配しているのも本当のはずだ。
「カナメの様子を見てくるね」
カナメが訪問を断るとは思えないが、一応念を入れる。予想通り、カナメはあっさり二人を歓迎した。
「筋肉痛? それはまた――」
「マイセンの特別製だからな。効能も副作用も折り紙付きだ」
「あの錬金術師かい? それはただの筋肉痛だと馬鹿にできないね」
「まあ、カナメがただの筋肉痛で寝込むはずがないしねぇ」
容体の真相を知って、二人は目を丸くした。お互いの身体を気遣い、改めて昨日の健闘を讃え合う。
「――そう言えば、モンスターへの対処は終わったのか?」
ずっと気になっていたのだろう。ふとカナメが問いかけると、二人の評議員の顔が真面目なものへ変わった。
「直接的に辺境の村を襲っているモンスターは、あらかた片付いた。クルネさんが夜更けまで飛び回ってくれたおかげでね」
「上級職のみんなには、特に負担を強いたと思っているよ」
「それは二人もでしょう? 私だけが大変だったなんて思ってないわ」
クルネがそう返すと、彼らは微笑みを見せた。自分のように前線に立つ人間が目立ちがちだが、リカルドは評議会として辺境全体の様々な意思決定を行っていたし、クリストフは魔獣使いの能力を生かして辺境全体の状況を確認してくれていた。
どちらも人々には気付かれにくいが、重要で困難な仕事だったはずだ。
「逃げ延びたモンスターはどうなった?」
次いでカナメが口を開くと、二人の表情が苦さを含んだものへと変わった。ひょっとして、この件で訪ねてきたのだろうか。そう思わせる深刻さだった。
「それが最大の問題だよ。黒竜の使役から解放されたモンスターは、散り散りになって逃げのびた。シュルト大森林へ逃げ込んだ個体はともかく、そうじゃないやつの発見・討伐は喫緊の課題だ」
「本来なら出現しないような場所で出くわす可能性があるわけか」
カナメもまた渋い顔を見せる。治安はもちろん、流通などの観点でも非常にまずい話だ。そこへ、さらにクリストフが言葉を重ねる。
「シュルト大森林だっていつも通りとはいかないよ。逃げ込んだモンスターが棲息地を荒らしたことで、全体的に殺気立ってる。下手をすればこちら側へ流れ込んでくるだろう」
「そうか……。早いうちに殲滅したいが、まず探し出すところから始めないとな」
「うん。とにかく範囲が広いし数も多い。『名もなき神』は余計な置き土産を残してくれたものだね」
そうクリストフがこぼしたことで、カナメは気付いたように口を開く。
「ひょっとして、ここへ来たのは『聖戦』がらみか?」
その単語にクルネははっと目を見開いた。まだ資質が開花していない人間を無理やり転職させるカナメの荒業だ。まるで特技のように表現しているが、その実態は膨大な神気による力押しであり、千年前の『クルシスの巫女』ルーシャも呆れかえっていたものだ。
だが、資質が満たない者を転職させた場合、カナメに対するクルシス神の侵食が進んでしまう。それは今のクルネが最も懸念している事態だった。
「その通りだよ。……カナメ。君は今も『聖戦』を発動したままだろう?」
「えっ!?」
リカルドの言葉に驚いて、クルネは思わず声を上げた。ということは、今もカナメはクルシス神の侵食を受けているということだ。
「『聖戦』の対象者が、今も固有職を宿したままだからね。すぐ分かったよ」
そう告げるリカルドの声は暗い。カナメに負担を強いていることは分かっているが、その力がなければ辺境を守りきることは難しい。その狭間で葛藤しているのだろう。
「それに、将軍のジークフリートは今も上級職のままだ。これは意図的なものだね?」
「こうなると思ったからな。今の局面で重要なものは情報だ。ジークフリートとクリストフがいれば、広域で精度の高い情報網が敷けるだろう?」
カナメが言いたいことはよく分かった。将軍の能力で仲間と感覚レベルの情報共有が可能であり、情報処理能力も飛躍的に高まっているジークフリート。そして、魔獣使いの能力で複数の魔鳥を使役し、空から辺境の全体図を把握できるクリストフ。この両者は、たしかに欠かすことのできない存在だ。
「カナメ君。無理はしないでほしい。ジークフリート君の情報網が失われるのは痛手だけど、その分は僕が使役するモンスターを増やすことで対応するよ」
「戦力については、昨日戦ってくれた固有職持ちたちを引き続き雇用している。それなりの数は揃うはずだ」
真剣にカナメの身を案じているのだろう。二人は畳みかけるように説明するが、カナメは首を横に振った。
「ありがとう。でも大丈夫だ。……実を言えば、また神気が強くなった気がするんだ。クルシス神のものじゃなくて、俺自身の神気が」
「そんなことが……?」
「ああ。『名もなき神』を倒したことが知れて、俺個人に対する人々の信仰心が集まった……ってところだろうな」
カナメは苦笑を浮かべた。自分のことを神でも神子でもなく、罰当たりな神官だと捉えている彼にとって、それは不本意なことなのだろう。
「それに、クルシス神の神気というか、思念のようなものが弱まっている。おそらく一時的なものだろうが……」
カナメ曰く、クルシス神が意識の表層に出ている時に竜玉が爆発したのだという。そのため、竜玉爆弾の直撃を受けたのはクルシス神のほうだった、ということらしい。
「仕える神様を盾にしたなんて、とんだ神子がいたものだね」
「あはは、カナメ君らしいよ」
そして、そんな罰当たりな話を聞いた二人は爆笑する。それにつられて笑うカナメもまた楽しそうで、クルネはその様子にほっとするのだった。