戦乙女Ⅱ
新たな来客との会話は、実に和やかなものだった。
「カナメさん、クルネさん。ようこそいらっしゃいました。……いえ、それともモリモトご夫妻と呼んだほうがよろしいかしら」
「アデリーナ、目が笑ってるぞ」
「もう、アデリーナさんまで……」
わずかに照れた様子のカナメと、明らかに照れて頬を染めているクルネ。そんな彼らの様子はとても微笑ましいものだった。事情を知らなければ、彼らが今を時めく『転職の神子』と『剣姫』だとは誰も気付かないだろう。
「そう言えば、さっき男の人とすれ違ったけど大丈夫だった? お客さんだったんじゃない?」
「いいえ、むしろいい口実になりましたわ」
首を横に振って、商人が来ていた理由を伝える。すると、カナメが納得したように口を開いた。
「なるほどな。見覚えがあると思えば……」
「え? カナメが知ってる人だったの?」
「ほら、クルネに商談があると言っていたのに、実際には俺目当てだったやつだ」
首を傾げるクルネにカナメがヒントを出す。そうこうしているうちに、彼女もまた思い出したようだった。
「あ、そんな人もいたね。カナメが面白がって、ちょっと甘くしてあげた人でしょ?」
「ああ。最初はクルネを――」
「……ええと、お二人の世界に入るのは結構ですけれど、私の存在も思い出してくださいな」
わざとらしい咳払いと共に告げれば、二人は気まずそうに姿勢を正した。咎めているというよりは揶揄っているのだが、根が真面目な彼らは申し訳なさそうに視線を泳がせる。そんな空気を変えようと、アデリーナは別の話題を振った。
「ところで、この街へいらした用件は片付きましたの?」
「そうだな。意外と早く片付きそうだ」
「この街にクルシス神殿が建つなんて、思ってもみませんでしたわ」
アデリーナはしみじみと告げる。カナメから「シアニスの街にクルシス神殿を建立する計画がある」と告げられたのは数カ月前のことだ。
「とは言っても、転職業務は取り扱わないからな。集客面ではシビアな数字が出るかもしれない」
「あら。あの諦めの悪い方々、ついに折れましたのね」
最後に聞いた時には、転職業務を取り扱ってほしいシアニスの街の幹部と、人員や警備体制に無理があるとするクルシス神殿で揉めていたはずだ。
「ああ。その代わりと言ってはなんだが、シアニスの街を衛星都市にするつもりだ。そう言ったら意外とあっさり引き下がってくれた」
「この街を衛星都市に?」
思わぬ話に目を見開く。辺境で自治都市連合に加盟しているのはルノールの街だけだ。だが、衛星都市として承認を得ることができれば、その街への武力侵攻には自治都市連合が介入することになる。
現時点で正式に認められているのは、シュルト大森林にある『遺跡都市』と、辺境・王国の境となる北方のトールスの街の二か所だ。
だが、断崖絶壁の地形を切り崩して港を作ったシアニスの街は、海を通じて諸外国と接することとなった。潜在的に侵略の危険性を孕むこの街にとって、衛星都市の認定は好ましいはずだ。
「元から予定はあったんだ。シアニスの街は今や辺境第二の都市だからな。経済や物流はもちろん、防衛の観点でも重要な場所だ」
「それを利用したということですわね。元から予定されていたのであれば、わたくしの胸も痛みませんわ」
「そういった事情は、向こうも察しているだろうけどな。だから面子を立てた程度だ」
そう答えるカナメが、わずかに渋い顔をしていることに気付く。目で問いかけると、彼は気付かれたかとばかりに肩をすくめた。
「この調子で行くと、そのうち国家認定されそうで嫌なんだよなぁ」
「言われてみれば……ルノールの街を中心にして、諸国と接する可能性がある三方をすべて衛星都市としてブロックしているわけですものね」
「ようやく自治都市として体裁が整ってきたところだからな。そんな横やりは入れられたくないな」
辺境の未来がかかった舵取りを、まるで世間話をするように口にする。そんなカナメを見ていると、ふと言葉がこぼれた。
「カナメさんは立派ですわね」
「いきなりどうした? 褒めても転職の料金は変わらないぞ」
「何かあったの?」
照れ隠しを口にするカナメと、真剣な瞳でこちらを覗き込んでくるクルネ。そんな二人を前に、アデリーナは大きな溜息をついた。
「なんというか……その、疲れたというか……いえ、そう言うとニュアンスが少しズレてしまうのですけれど」
自分でもよく分からないままに、自らの心情を語る。シアニス港の運営のこと。まるで為政者のように陳情を受けていること。ろくに槍道場で稽古をつけることもできないこと。そして、様々な目論見で彼女の名声を利用しようとする商人たちのこと。
一度話し始めると、自分でも驚くほど言葉が出てくる。辺境の重要人物として指導者の役割を求められがちな彼女にとって、カナメやクルネは自然体で悩みを相談できる数少ない存在だった。
「そうだったんだ……アデリーナさんも大変なんだね」
そんな苦悩や困惑が伝わったのだろう。クルネは大いに同情しているようだった。
「クルネさんはどうしていますの? 『剣姫』の名声はわたくしの比ではないはず。訪ねてくる人だって多いでしょうに」
「えっと、私は……」
問われたクルネは決まり悪そうに夫へ視線を向ける。それだけで、彼女が言いたいことを察することができた。
「クルネ目当ての商談や陳情には、俺も立ち会うことにしてるからな」
「怪しい人は全部カナメが撃退してくれるから……」
カナメの答えは予想通りのものだった。クルネだって相応の判断力を備えているはずだが、身内に過保護なカナメのことだ。放っておけないのだろう。
「その情報が広まったせいか、最近じゃ変な話を持ってくる人もいないのよね」
「心から羨ましいですわ……」
アデリーナはそうぼやいてから、とある仲間のことを思い出す。同時期に固有職持ちになり、地竜と戦ったメンバーでもあり、さらに街は違えど同じ警備隊長の職にある人物だ。
「ジークフリートさんはどうしていますの? 人懐っこい性格ですから、そういった話もたくさん舞い込んできそうですけれど」
「ジークは……メリルがいるからなぁ」
「この前も、勝手に変な契約をするところだったって怒られてたね」
「そうでしたわね……」
ジークフリートの伴侶にして、しっかり者のメリルの姿を思い出す。堅実な彼女なら、怪しい話に踊らされることはないだろう。
「この街にはアデリーナとコルネリオしかいないからな。これがルノールなら、俺やクルネにジーク。評議員ならリカルドやクリストフ、コルネリオもいるし、影響力という意味ではミルティやミュスカだっている」
だから、そういった手合いも分散するのだという。一方で辺境南部はと言えば、商人であり、不在であることも多いコルネリオは避けられる傾向がある。そのため、余計にアデリーナへ集中するのだろう。
「アデリーナのいい評判はルノールにも届いていたし、順調なんだと思ってたよ」
「内情はいっぱいいっぱいですわ。特に為政者、管理者としての視点はからっきしですし」
「そうか……そう言えば、ラウルスさんも似たようなことを言ってたな」
「たしかにラウルスさんは似た境遇ですけれど……あの方にはカリスマ性と強い意思がありますもの。向いていないとは思えませんわ」
少しいじけた口調でぼやく。だいぶ行き詰まっていることが分かったのだろう。カナメは少し考え込んだ後で口を開いた。
「じゃあ、アウトソーシングでも考えてみるか?」
「アウトソーシング……?」
その言葉がピンと来ず、アデリーナは口の中で単語を転がす。
「ああ。切り離せそうな仕事は他の人に任せてしまえばいい。警備隊の業務はともかく、陳情の窓口やこの道場の経理、シアニス港の管理なんかはある程度切り離せるんじゃないか?」
「そうですわね……」
「たとえば陳情なら、窓口担当を置いて、担当者が必要だと思った案件や人物だけアデリーナへ取り次ぐ。リカルドたちは基本的にそんな感じだ」
辺境を代表する評議員を引き合いに出して、カナメは言葉を続ける。
「道場の経理だって、全部を自分でやる必要はないさ。鍛冶師のフェイムだって、帳簿はリドラさんに任せっきりだと言っていた」
そう言われたアデリーナは、壁に立てかけてある魔槍へ視線を向けた。リドラとはフェイムの母親の名前だったか。あそこは父親も鍛冶屋のようだから、もともとそういう体制だったのだろう。
「港は……そうだな。組織内部で同志を作るのが基本だろうが、息のかかった人間を送り込むのもありだな。なんにせよ、自分で立案や判断ができる人材が欲しい」
そんなカナメの助言を受けて、アデリーナは真剣に考え込む。たしかに彼の言うことには一理ある。金銭や人物の見極めは必要だろうが、実現可能な範囲だと思われた。ただ――。
「どうにも気乗りがしませんわね」
歯切れ悪く答える。なんだか無責任な気がしてしまうのだ。そうやって業務に取り組んでいる人間を責めるつもりはないのだが、落ち着かないのは事実だった。
「そこは考え方次第というか、価値観の問題だからな。無理にとは言わないが」
カナメも強く勧めるつもりはなかったのか、フォローするように告げる。そのことを申し訳なく思っていると、カナメは真面目な顔で口を開いた。
「もうちょっと考えてみる。少し時間をくれないか」
「それは助かりますけれど……カナメさんはお忙しいのでしょう? まずご自分のことを優先で考えてくださいな」
アデリーナは慌てて言葉を返した。カナメの多忙ぶりは有名だ。その量も、質も、そして責任の重さも、すべてが自分の比ではないはずだ。だから、彼女はゆっくり首を横に振った。
「せっかく新婚さんなのですもの。今は神殿からも離れていますし、クルネさんと好きなだけイチャついてくださいな」
言って二人に笑いかける。その言葉に照れる戦友たちを眺めて、アデリーナは心を和ませるのだった。
◆◆◆
商業都市セイヴェルンと辺境のシアニス港を結ぶ航路には、いくつか重要な補給拠点がある。そのうちの一つが、最近になって開拓された海魔女の島だ。
村の至る所に水路を張り巡らせた独特の建築様式は、海魔女と共存するために生み出されたものだという。
観光名所としても人気があり、アデリーナも一度は訪れてみたいと思っていた島だ。だが、念願の島に到着した彼女は、まだ観光気分を楽しめる状況ではなかった。
「つまり、偽情報を流して囮の船を襲わせる計画ですのね?」
「まあ、そんなところや。これ以上の被害は見過ごせへんからな」
アデリーナをこの島へ呼び出した張本人であるコルネリオは、いつものようにニカッと笑顔を見せた。
この島付近に厄介な海賊が出没し、いくつもの交易船が襲われている。その海賊を殲滅するために手を貸してほしいと、彼にそう言われてこの島へやってきたのだ。
「ちょっと違うんは、情報も船も本物っちゅうところか」
「……なんと仰いまして?」
聞き逃せないコルネリオの言葉に眉をひそめる。それでは乗客や船員に被害が出てしまう。
「たぶんやけど、セイヴェルン港に海賊の内通者がおる。兵士を詰め込んだり、露骨に積み荷を減らすと気付かれるからな」
「それはまた……」
アデリーナは思わず溜息をついた。シアニス港は大丈夫だろうかと、なんだか心配になってくる。
「せやから、疑わしい奴にだけ情報を流したんや。航路も航海スケジュールもな。これでばっちり襲ってきたら、まあクロやろ」
言って、コルネリオは肩をすくめる。
「あいつら、フェルナンドが乗ってるときは絶対に手ぇ出さへんからな。その時点で内通者がいるんは間違いない」
「最初は返り討ちにしてやったんですがね。それっきり避けられてるようで」
コルネリオの言葉に頷いたのは、彼の部下であり海賊の固有職持ちであるフェルナンドだ。仕事柄、何度か打ち合わせをしたことがあるため、アデリーナとしても知らぬ仲ではない。
「フェルナンドさんがこちらで待機しているのは、そういう訳でしたのね」
納得しつつも、囮の船が無事で済むよう祈らずにはいられない。もし海賊船の略奪を許せば、コルネ商会としても大きな損失を被る。だからこそ、コルネリオはアデリーナを頼ったのだろう。
「航路的に、合流前に襲われることはないはずや。海魔女に頼んで密かに監視もしとるしな」
そう告げて、コルネリオは真剣な表情を浮かべた。
「アデリーナ、頼む。力貸したってくれ」
「ええ、お任せくださいな」
アデリーナは頷くと、立て掛けていた愛槍に手を触れた。
◆◆◆
「そう来たか……これは予定外だ」
「ですが、一刻も早く倒して救援に向かわなければ」
船の舳先で前方を確認した二人は、揃って渋い表情を浮かべる。
やはり海賊船は現れた。時間も場所も完全に予定通りだ。だが、一つだけ計算違いがあった。それは、海賊船が大蛇竜を伴っていたことだ。
飼い慣らされてでもいるのか、なぜか大蛇竜は海賊船を襲わない。そして、海面から突き出た巨大な頭部は、明らかにアデリーナたちが乗っている武装船を狙っていた。
「まず、わたくしが魔法を叩き込みますわ。それで片付けばいいのですけど……」
「魔法が使えないほど近付いて来たら俺の出番だな」
「ええ。わたくしも船上から攻撃します。お互いに位置取りには注意いたしましょう」
「了解!」
簡単な打ち合わせを終えると、アデリーナは魔法を使うべく意識を集中する。そして――。
「聖光槍」
上空から巨大な光の槍が飛来し、狙い違わず大蛇竜の喉を貫いた。量よりも質を重視し、魔槍の補助をも受けた一撃は致命傷と言っていいだろう。だが……。
「仕留めきれませんでしたわ……!」
そう声を上げた瞬間、大蛇竜が狂ったように暴れ出す。致命傷を受けた故の狂乱状態だ。その巨体が生み出す破壊力は、アデリーナたちが乗っている船を容易く消し飛ばすだろう。
「氷監獄!」
アデリーナの発声に合わせて、巨大な氷の檻が大蛇竜を捕らえた。巨大な氷柱で構成された檻が、暴れ狂うモンスターの攻撃を受け止める。
「壊れる……!?」
だが、それも長くは保たなかった。アデリーナが生み出した氷の牢獄は、至る所に亀裂が入り始めていた。
「シャァァァァッ!」
やがて、氷の檻が砕け散る。檻から解放された大蛇竜は、怒りの咆哮とともにアデリーナたちを睨みつけた。
「火炎槍」
だが、彼女も黙って待っていたわけではない。氷監獄を破られた瞬間に、まだ距離のある大蛇竜目がけて火炎槍を連発していたのだ。
無数の炎槍が次々に着弾し、大蛇竜の動きを阻害する。そのまま焼き尽くしてしまおうと、アデリーナは火力を上げた。
「――っ!」
だが、そう上手くはいかなかった。大蛇竜が海中へ潜ったのだ。相手が海中にいては、ほとんどの魔法が減衰してしまう。槍を使った特技もそれは同様だった。
「真下から来られると厄介ですわね……」
コルネリオが特別に発注したこの船は、戦闘を想定して頑丈に作られている上に、防御結界の発生装置すら備えている。攻撃を一度や二度受けたところで、沈むことはないだろう。
だが、無敵というわけでもない。真下から執拗に攻撃を受ければ、船底に穴が開くのも時間の問題だ。
「となれば……」
アデリーナは真剣な表情で海面を見つめる。威力が減衰することも想定の上で、大蛇竜を絶命させる一撃を叩き込まなければならない。
彼女は魔槍を握りしめて、海中にうっすらと見える敵影を目で追いかける。威力の減衰を抑えるために、ギリギリまで接近したところを狙う。そう心を定めたアデリーナは、じっと相手の動きを待った。そして――。
「あら……?」
アデリーナは少し警戒をゆるめた。大蛇竜が動かなくなったからだ。やがて、近くの海面がざぷりと音を立てる。
「アデリーナさん、片付きましたぜ!」
「やっぱりフェルナンドさんでしたのね。ご苦労様でした」
海面から顔を出した男へ向かって手を差し出す。船上へ引き上げられたフェルナンドは、海水まみれのまま陽気に笑った。
「アデリーナさんのおかげで楽な仕事でしたぜ。やっこさん、弱り切ってる上に意識が完全にそっちに行ってましたからね」
隙を突いたフェルナンドは、聖光槍が穿った大穴を利用して首を斬り落としたのだという。
「勿体ねえなぁ。これが港の近くなら解体できたのに」
「そうですわね。大蛇竜ともなれば、色々と活用できたでしょうに」
相槌を返しながらも、アデリーナの意識はそこにはない。本来の目的であるコルネ商会の帆船へ目を向けると、すでに海賊船が接舷しているように見えた。最大速度で船を進めてもらっているが、まだ手が出せる距離ではない。
「あと少し……!」
近付く二隻の船を見据えて、アデリーナは槍を握りしめた。
◆◆◆
接舷した二隻の船舶。その片方に向かって巨大な氷柱が襲い掛かる。よく見れば先端が尖っているそれは、氷槍を限界まで増幅したものだ。
「上手くいきましたわね」
巨大な氷柱が狙い通りに海賊船へ突き刺さる。商船との行き来を阻むように出現したそれは、海賊にとっては氷の壁のように見えるだろう。
「投槍驟雨」
それを確認すると、容赦なく攻撃魔法を叩き込む。商船を巻き込まないように調整したため、光槍の半数近くは何もない海面へと落ちていったが、それでも大きな被害を与えたことは明らかだった。
「船ごと沈めるわけには……いきませんわね」
検討して一人で首を横に振る。海賊船が沈めば、海賊たちは死に物狂いで商船へ取り付くだろう。そのほうが対処は難しい。
そうこうしているうちに、彼女を乗せた船は海賊船へ近付いていく。
「皆さん、準備はよろしくて?」
「おう! やってやるぜ!」
武装船の乗員が気炎を上げる。コルネリオの私設兵の中でも、最も腕が立つという者たちだ。戦いに怯む様子はなかった。
「まずは商船に向かいましょう。侵入している海賊たちを殲滅しますわ」
そう言い残して、アデリーナはひらりと跳躍した。筋力強化をかけた身体は、固有職補正と相まって驚異的なジャンプ力を見せる。
「と――」
トン、と音を立てて着地する。周りを見渡せば、見えるのは乗り込んでいた海賊ばかりだった。乗員は避難しているのだろうか。それなら好都合だ。
「なんだこいつ!?」
「跳んできた!? まさか固有職持ちか!」
その一方で、海賊たちは突如現れたアデリーナに動揺していた。固有職持ちという言葉を耳にして、明らかに士気が下がる。
「ご明察ですわ」
それを幸いと、アデリーナは縦横無尽に魔槍を振るう。その反応からすると、海賊の中に固有職持ちはいないようだった。
そうして、襲ってくる海賊をことごとく返り討ちにした彼女は、ふと甲板に敵がいないことに気付く。
「これで終わり……ではありませんわね」
そう呟いたのは、新たな海賊の姿を目にしたからだ。と言っても海賊船から乗り移ってきたわけではない。最悪なことに、彼らは商船の船内から甲板へ出てきたのだ。……それも、人質を伴って。
「……っ!」
人質は四十歳前後の女性だった。貴婦人という言葉が似合いそうな風貌に、上品なワンピースがよく似合っている。貴族がお忍びで旅行を楽しんでいた。そんなところだろうか。
だが、その喉元には短刀が付きつけられており、その表情は恐怖で引き攣っていた。
「なっ!? お前がやったのか!?」
「これを全部……!?」
甲板の変事を悟って出てきたのだろう。人質を盾にするように、十人ほどの海賊がぞろぞろと姿を現す。甲板の仲間が一人残らず倒されている様子を見て、彼らはアデリーナに殺気を向けた。
「緋色の髪で凄腕の槍使い。……お前が噂の『戦乙女』だな」
「自分で名乗ったことはありませんわ」
答えながら相手の隙を窺う。そこまでの手練れだとは思えないが、人数が多く、何より人質をとられている。あまり楽観的にはなれない状況だ。
「動くな。まず槍を捨ててもらおうか。……ああ、変な真似はするなよ? この女の命が惜しければな」
人質に短刀を突き付けた海賊が、勝ち誇ったようにニヤニヤと笑う。それは自分たちの優位を確信している笑みだった。
「――お断りですわ」
「なんだと!?」
だからこそ、彼らはアデリーナの返答に虚を突かれる。この仕事を長く続けていれば、どうしてもこういった事態に遭遇する。だが、それに応じて警備隊が全滅しては本末転倒だ。そのため、シアニス警備隊のスタンスは『取り合わず速攻』というものだった。
そして、アデリーナ自身のスタンスは『あわよくば救助』であり、彼女の戦闘力がそれを可能にしていた。
「うぉっ!?」
直後、海賊の足下が不自然に盛り上がった。彼女が密かに放った氷の壁が彼らを突き上げたのだ。相手がバランスを崩した隙に距離を詰めると、アデリーナは神速の突きを繰り出した。
「ぐ……!」
彼女の魔槍が人質をとっていた海賊を襲う。直前で薙ぎへ軌道を変えた穂先は、上手く短刀を引っ掛けて外側へ弾き飛ばした。そして、二撃目の突きが今度こそ海賊を捉える。
「こちらへ!」
同時に、アデリーナは人質の女性へ声を掛けた。ちらりと見えた首には赤い筋が走っているが、出血している様子はない。そして……。
「――お嬢さん、お気遣いなく。私はあちら側を担当しましょう」
「え?」
返ってきた言葉が理解できず、アデリーナは間の抜けた声を上げた。その間に貴婦人はスカートに手を入れて、短い棒のようなものを取り出す。彼女が手慣れた様子で一振りすると、それは伸長して短い槍へと変わった。
「えぇ……!?」
突然起きた出来事に混乱しつつも、アデリーナは近くの海賊へ向けて槍を振るう。貴婦人については謎だらけだが、彼女が告げた『あちら側』とは氷の壁によって隔てられた向こう側のことだろう。
見れば、海賊たちが慌てて船内へ戻ろうとしている。新たな人質を連れてくるつもりだ。だが――。
「風纏装」
氷壁を蹴って上空へ舞い上がった貴婦人は、海賊たちの上方から無数の突きを繰り出した。短槍から伸びる無形の穂先が敵を穿ち、氷壁の向こう側にいた海賊は一人残らず倒れ伏す。
「あれは特技!? それに……」
アデリーナは驚愕する。彼女が特技を使ったことにではない。ジャンプ中という無理な体勢から、正確無比な槍撃を繰り出し続けたその技量。それは貴族のたしなみ程度で身に付けられるものではない。
「……これで片付きましたわね」
氷壁のこちら側にいた海賊を殲滅したアデリーナは、息を吐くと短槍を持った女性の下へ歩み寄った。これから海賊船にも乗り込むつもりだが、その前に疑問を解消したい。彼女は一体何者なのか。
自らが生み出した氷壁を砕き、乗り越える。すると、相手もまたアデリーナをじっと見つめていた。そして……。
「あ――」
正面からその顔を見たアデリーナは思わず目を見開いた。間違いない。もう二十年ほど経つが、この顔を忘れるわけがない。
自分が槍使いを志した理由。それこそが、この槍使いだったのだから。




