帰郷Ⅱ
失踪したはずの兄と話をしてから五日後の夕方。森本家のリビングには、兄を除く四人の家族が揃っていた。
結婚して家を出ている姉も、兄のことで重大な話があると伝えたところ、子供を義兄に任せて実家へ顔を出している。
そして――俺を除く三人は、リビングに映る兄の姿を見て唖然としていた。
「その……久しぶり」
空間が歪んだとしか表現できない円形の穴から、兄が声をかける。だが、リビングにいる誰もが、凍り付いたように動かなかった。
だが、それも無理はないだろう。今でこそたまに思い出話をするものの、失踪後の数年は兄の話題はタブーになっていた。その本人が、こうして目の前で喋っているのだ。目を疑って当然だ。
「まあ、信じられないよな……」
俺がそうぼやくと、両親と姉がはっと我に返った。
「……何これ。修の悪ふざけ?」
最初に口を開いたのは姉だった。だが、その表情は剣呑と言っていい。兄のことを必死に探し回っていたからこそ、この手の悪戯は絶対に許さない。それがこの姉だ。
「そんなことするかよ」
それだけを答えると、俺は視線を兄へ向ける。正直、俺だって何が起こっているのか分からないのだ。兄に説明してもらうしかない。
「姉さん、修を責めないでくれ。俺が頼んだんだ」
「誰よ、あなた」
取りなすように口を挟んだ兄を、姉が冷たい目で睨みつける。だが、兄貴に怯む様子はなかった。
「要だ。不審に思う気持ちは分かるが、話を聞いてほしい。疑わしいと言うなら、本人確認のためになんでも質問してくれ」
俺の時と同じくそう告げる兄に、姉が山のように質問を浴びせる。だが、兄は平然とそれらの質問に答えてみせた。
「嘘……本当に要なの?」
やがて、姉もそう認めざるを得なくなったらしい。そして、それは一言も発しなかった両親も同じだった。
「要……?」
母が嗚咽交じりに声を上げる。そして、父は――。
「この馬鹿がぁぁぁっ! 今まで何をしていた!」
普段は温厚な父が、見たこともない憤怒の形相を浮かべていた。あまりの大音声に、窓ガラスがビリビリと振動する。
「どれだけお前を探したと思ってるんだ! それを……!」
父は椅子を蹴倒して立ち上がると、恐ろしい剣幕で兄の映像に掴みかかった。
「父さん、やめろ! 危な――!」
その瞬間。バチッという大きなスパークとともに、父が後ろへ弾き飛ばされた。
「あなた!?」
床に倒れた父に、母が慌てて駆け寄る。大きな怪我はないようだが、もし打ち所が悪ければ、どうなっていたか分からない。
「ちょっと要! 何するのよ!」
同じことを考えたのだろう。姉が怒りの声を上げる。だが、兄を睨みつけようとした彼女は、訝しげな表情を浮かべた。なぜなら、兄の姿がなかったからだ。
「いってて……」
そして気付く。どうやら、吹き飛ばされたのは父だけではなかったらしい。兄もまた、近付く父を止めようとして、とっさに手を伸ばしたようだった。
画面に復帰した兄を見て、姉もそのことに気付いたようで、険しい表情が少し緩んだ。
「兄貴……今の現象はなんだ? 説明してくれるんだよな?」
これ以上拗れないうちにと、俺は口早に説明を求めた。てっきり映像投影に関する最新技術だと思っていたが、これはそんな次元ではない。
「もちろんだ。なかなか信じられない話だと思うが……ともかく、最後まで聞いてほしい」
そう前置くと、兄は静かに話し始めた。七年前に自分が違う世界に喚び出されたこと。その世界では科学の代わりに魔法が発達していること。この不思議な現象も、その魔法とやらによって引き起こされていること。
「……」
手短に語られたその話は、あまりに荒唐無稽なものだった。物語としては珍しくない展開だが、それはあくまでフィクションの世界だ。鼻で笑って片付けることは、あまりにも容易い。
だが……俺たちの目の前で、科学では説明できない現象が起きているのも事実だった。
「それ……信じろって言うの?」
「ああ。みんなを騙そうとするなら、もっと上手い嘘がいくらでもある」
「それは……」
兄らしい言い分に、姉の勢いが弱まる。両親は沈黙しており、兄貴の言うことを信じるかどうか、決めかねているようだった。
「……一つ、提案がある」
そんな沈黙を破ったのは兄だった。
「魔りょ――エネルギー消費の関係で、いつまでも通話ができるわけじゃない。だから……ひとまず俺を本物だと仮定して、話を聞いてもらえないか」
「……分かった」
長い沈黙の後で、父は頷く。その言葉に異論がある者は誰もいなかった。その回答にほっとした表情を浮かべると、兄は真剣な目で口を開く。
「まず……心配をかけて、本当にすまなかった。父さんも、母さんも、姉さんも、修も。計り知れない心労があったと思う」
そして、兄は深々と頭を下げた。
「けど、さっきの話の通りなら、兄貴も被害者なんだろ?」
「だとしても、心配をかけたことは事実だ。それに――」
そこで兄は言葉を切った。なぜか、先ほどの謝罪よりもよっぽど緊張した雰囲気が伝わってくる。いったい何を言い出すのかと、俺は姿勢を正した。
「俺はもう、そっちの世界に戻れない。……いや、戻らない」
その瞬間、リビングの空気が変わった。
「どういう意味だ」
俺たちを代表して父が問いかける。「戻れない」と「戻らない」。あえて兄が言い直したことに、誰もが気付いていた。
「まず、『戻れない』のは技術的な問題だ。通話は可能になったが、物質の移動はできない。こうして音や光を行き来させるだけで精一杯なんだ」
その説明に反論する者はいなかった。リビングにいる誰もが、もう一つの理由の説明を求めていた。
「そして、『戻らない』のは……この世界で生きると、俺が決めたからだ」
兄の言葉にリビングが静まり返る。それでも、兄貴は真剣な顔で言葉を続けた。
「これまで育ててもらっておいて、図々しい話だとは自覚している。だが……俺にはこの世界でやることがある。大切な妻子もいる。だから――」
そして、兄は再び深々と頭を下げた。
「この世界に留まることを認めてほしい」
その言葉を最後に、場に長い沈黙が訪れた。荒唐無稽な話の上に立脚した、真剣で重大な話。それをどう受け止めていいか分からず、俺たちはお互いの戸惑った顔を見つめ合う。
「……お前が『戻れない』とだけ説明していれば、俺たちは何も言えなかった。だが、お前は『戻らない』と敢えて言い直した。その理由はなんだ」
やがて口を開いたのは父だった。鋭い眼光が兄に向けられる。
「それは誠実な態度じゃないと思った。これは、俺が自分の意思で選んだことだ。自己満足だとしても、その事実をごまかすわけにはいかない」
対して、兄は父の視線を真っ向から受け止めた。その表情からは誠意や矜持といったものが窺えて、飄々としていた兄貴らしからぬ風格が感じられた。
「それに……戻れないとだけ説明した場合、俺を哀れな被害者だと思って、皆やるせない気持ちになるだろう? でも、俺は自分の意思でここにいるし、幸せに暮らしている。そう伝えたかった」
その言葉を受けて、再びリビングに沈黙が訪れる。だが、今度の沈黙は、先ほどのそれより穏やかなものだった。
「要、だいぶ変わったよね」
そして、姉がぼそりと呟く。皆同じことを思っていたようで、俺を含む三人が同時に頷いた。
「まあ、それなりに苦労してるからな……」
兄は深みのある微笑を浮かべた。その表情もまた、かつての兄には見られなかったものだ。
「今の話がすべて真実で、お前が本当に要だと言うなら――」
と、今度は父が口を開いた。母と無言で頷き合うと、わずかにその頬を緩める。
「たしかに、お前は得難い経験をしてきたのだろう。そんな顔ができるようになったのだからな」
「本当に。きっと、要にとって有意義な環境なんでしょうね」
両親が口々に言葉をかける。その反応が予想外だったのか、兄は呆気にとられた様子で口をぽかんと開けていた。
「……どうした。そちらへ残ることを、認めてほしいのではなかったのか?」
「あ、ああ。そうなんだが……」
先程の風格はどこへやら、狼狽した兄貴の様子に、俺は小さく笑う。
「もちろん、本当は帰ってきてほしいのよ? でも、それができないと言うなら……そうね。行き来の難しい、外国の秘境へ婿入りしたとでも思っておくわ」
「少なくとも、謎の失踪よりはマシね」
母の言葉に姉が賛同する。事は重大な話だ。本来なら、こんなにあっさり認められるものではないのだろうが……家族の失踪という、心の整理がつけられない状態に長年晒されていた俺たちだ。姉が言う通り、兄の説明を受け入れるほうがよっぽどマシだった。
俺も同感だと伝えたところ、リビングに弛緩した空気が流れた。
「そう言えば、お前はなんの仕事をしている?」
そんな雰囲気の中で、父は雑談を切り出した。一体何が兄を変えたのか。質問の背景にはそんな思いがあったのかもしれない。
「……神殿の運営だ」
だが。兄がぽつりともらした回答は、やはり父にはピンと来なかったらしい。眉根を寄せて首を傾げる父親に、兄貴は詳細を語る。
「ほら、ギリシャのパルテノン神殿とか、ローマのパンテオン神殿とかあるだろ?」
「それは分かるが……そんなところで何をしている」
「何をと言われても、多岐にわたるけど……とりあえず、役職は神殿長だ」
「――はぁ!?」
兄の回答に、俺たち四人の声が重なる。どこからツッコミを入れればいいか分からない。それが俺たちに共通する思いだった。
「あははは! なんかもう、驚きを通り越して面白くなってきたわ。それで? 神殿長って何するの? 宗教組織ってことでしょ?」
姉は興味深そうに身を乗り出す。
「そうだな……ジョブチェ――信徒の相手や神官の管理、地域の舵取りに他の宗教組織とのすり合わせ、とか?」
「……なんか、妙にリアルなんだけど」
夢が壊れたのか、姉は少し引いた様子だった。まあ、神社や仏閣の運営も実際には大変だって言うからな。
「人間が運営する組織で、人間を相手にしているんだ。そっちの会社と似通っていてもおかしくないさ」
「とは言え、その環境がお前を育てたのだろう。なんであれ、組織のトップにいれば重責が伴うからな」
「それはあるかもな……」
父の指摘を受けて、兄が遠い目をする。色々心当たりがあるようだった。だが、兄が物思いに耽る前に母が口を開く。なぜか、その顔は少し楽しそうだった。
「ところで……要? 仕事も大切だけど、もう一つ話してないことがあるでしょう?」
「え?」
面食らった様子で兄が目を瞬かせる。だが、母は退かなかった。
「少し前の話だけど、『大切な妻子もいる』って言わなかった? 聞き間違いかしら」
「ああ。確かに言った」
兄が認めると、母の顔が嬉しそうに輝く。
「誰も言い出さないから、聞きたくてウズウズしてたのよ。奥さんってどんな人? 子供は何歳?」
「もともと、紹介するつもりで連れてきていたんだが……」
兄は視線を外して横を向くと、誰かに向かって呼びかける。
「クルネ、来てくれるか?」
その呼びかけに、俺たちは目を見合わせた。
「クルネ……まさか外国の子かしら」
「いや、来る音とかなら、日本人の可能性も――」
「そもそも日本じゃないんでしょ?」
そんな謎の家族会議を繰り広げていると、ふと画面に別の人物が映った。赤みの強い金髪に彩られた美人が、緊張した面持ちで頭を下げる。
「oar@k、LoepofAeilbw:」a。ofjei;sjwej」
「えっと……何語?」
姉が困惑したように呟く。そうだった。そもそも、言葉が通じないんだった。
「――訳すぞ。『初めまして、クルネと申します。よろしくお願いします』だって」
と、画面の外から兄の声が聞こえてくる。
「言葉が通じないことは分かってたんだが……クルネがどうしても挨拶したいって」
「そうでしょうね。誠実そうな子だということは伝わってきたわ」
母はほっとしたように頷く。どんな相手なのかと、密かに心配していたらしい。
「――というか、青髪の子じゃなかったんだな」
ついぼそりと呟く。あの子とはどういう関係なんだろうか。彼女も、兄の妻だというこの女性も、芸能人としてやっていけるレベルの美人だ。……兄貴は向こうの世界で何をしていたのか。なんだか腹が立ってきたぞ。
「――ところで、言葉はどうなっている? 俺が知っているどの言語でもなさそうだったが、やっていけているのか?」
俺の思考が脇道に逸れているうちに、父が疑問を問いかけていた。
「詳しくは分からないが、俺の言葉は魔法で翻訳されているらしい。だから、俺はどっちの言葉も分かるし、俺が話す言葉はどっちにも伝わる」
「そんなことができるのか? どういう仕組みだ」
「さあ……俺が知りたいくらいだ」
そんなやり取りをしていた父と兄だが、そこへ母が割って入った。
「ちょっと。そんなことより、まだ紹介が終わってないでしょう?」
「あ、そうか」
そうだったな。妻子ということは、当然子供もいるわけで……。そう考えていると、女性の顔が少し遠くなった。そして、その代わりに赤ん坊の顔が大写しになる。
「あらまあ!」
母が喜色満面といった様子で声を上げた。髪も瞳も赤く、兄の遺伝らしきものは見受けられなかったが、そんなことは気にならないようだった。
「名前は司。生後半年だ」
「かわいい! 司ちゃんっていうのね」
「うむ、我々を見ても動じないあたり、大物になるな」
一瞬で爺・婆モードになった二人が、境界にギリギリまで近付く。また弾かれないかと、俺と姉がハラハラするくらいだ。
「ええと……そろそろいいか?」
しばらく孫の鑑賞会を開いていた二人は、兄の困ったような声で我に返ったようだった。特に父は気まずかったのか、コホンと咳ばらいをして元の位置に戻る。
同時に、赤ん坊の姿がスッと下にフェードアウトして、義姉の女性の顔が映る。どうやら、ずっと赤ん坊を支えていたらしい。かなりきつい体勢だったはずだが、見かけによらず体力があるようだ。
「ともかく、俺はこんな感じでやってる。だから、それこそ『外国の秘境へ婿入りした』つもりでいてくれないか。ろくに恩返しもせずに、身勝手な願いだとは思うが――」
「要。それ以上言うな」
その時だった。突然、父が兄の言葉を遮った。兄のみならず、俺たち家族の視線が父へと集まる。
「……お前の隣にいる嫁さんが、つらい思いをしているはずだ」
「!」
その言葉に、兄がはっと目を見開く。父が言いたいことは俺にも分かった。何度も謝る兄を見るたびに、自分の存在が兄を家族から奪ってしまったのだと、義姉が引け目を感じてもおかしくはない。
「分かった。……ありがとう」
そして、兄はもう一度深々と頭を下げる。やがて頭を上げたその顔は、憑きものが落ちたように朗らかだった。
「実は、そろそろ通信時間の限界なんだ。今日のところは通信を切るが……もしよかったら、また顔を見せてもいいか?」
「当たり前じゃない。司ちゃんの成長ぶりを見届けないと、死んでも死にきれないわ」
「ありがとう。また連絡するよ」
母にそう答えると、兄は少し後ろに下がった。その隣に赤ん坊を抱いた義姉が来たことで、三人の姿が境界面に映る。
「話ができて嬉しかった。……それじゃ、また」
その言葉の直後に、兄たちの姿がふっとかき消える。接続が切れたようだった。
「……」
リビングに長い沈黙が訪れる。膨大な情報量を処理するために、みんな時間が必要だった。そうして、どれほどの時が経っただろうか。父は不意に立ち上がると、台所へと向かう。
「――修、付き合え」
そう言って戻ってきた父の手には、日本酒の瓶が握られていた。しかも、あの銘柄は父の秘蔵の一本だったはずだが……。
「あらあら。あなたがそれを出してくるなんて、珍しいこともあるものね」
「ちょっと、もちろん私にもくれるのよね?」
「構わんが、帰りは大丈夫か?」
「潰れるほど飲まないわよ。……飲みたい気分だけど」
そんなやり取りをする父の手には、すでに五人分のお猪口が握られていた。最初からそのつもりだったらしい。
それぞれの器になみなみと中身を注ぐと、父は手にした酒器を掲げて口を開く。
「要が生きていたことに。そして、新しい家族を持ったことに――」
その言葉に合わせて、俺たちもまた酒器を掲げる。互いに向け合った笑顔は、七年ぶりの晴れやかなものだった。




