エピソード0-2 剣士
【森本 要】
「本当に危険な森だな……」
兎と一緒に歩いて一時間ほど経つが、その間に、俺は様々なモンスターと鉢合わせる羽目になっていた。
幸い、モンスターは破壊の権化たる兎さまが撃退してくれているが、できれば早いうちに危険なエリアから抜け出したいところだった。
だが、目下最大の目的である人里への到達は難しい。なんと言っても、どこへ向かえばいいのかも分からないのだ。
「こっちでいいのか……?」
俺は右手を流れている小川を眺める。途中で見つけた川に沿って、下流の方向へ歩いているのだが、その選択が合っている保証はない。
衣食住が困窮する前になんとかなればいいのだが……。
そんなことを考えていた時だった。進行方向から、剣呑な雰囲気が漂ってきた。強烈な破壊音と、木がメキメキと倒れる音が聞こえてくる。またモンスターだろう。
そう判断した俺は、早々に進路を変更した。兎という強力なボディーガードがついているとはいえ、無理は禁物だ。まして、今は一緒に行動してくれているが、いつ兎の気が変わっていなくなるか分からない。接触しないに越したことはなかった。
だが、続いて聞こえてきた音を耳にした時、俺は進路を元に戻した。
「このっ……!」
それは人の声だった。できるだけ音を殺して近づくと、剣を構えた少女が、灰色熊と睨みあっている光景が目に入ってくる。
赤みの強い金髪をまとめているのは、戦いの邪魔にならないようにだろうか。意志の強そうな紅い瞳が印象的な少女だった。
だが、あまり観察している暇はない。どう見ても彼女が劣勢に立たされていたからだ。ここでそっと立ち去る選択肢もあるが、その場合、再びあてもなく森を彷徨い続けることになる。
もう人と出会うチャンスはないかもしれない。それに、あの灰色の熊を(兎が)倒せることは証明済みだ。俺は一瞬の逡巡の後、覚悟を決めた。
「なあ、あの熊を倒してもらえないか……?」
そして、今や相棒となっている兎に話しかける。他力本願で情けないが、今の俺にできることは兎にお願いすることだけだ。
「キュキュッ!」
その言葉が通じたのか、兎は弾丸のような速度で灰色熊に突撃していった。少女に気を取られていた灰色熊は、兎の不意打ちによる回し蹴りを後頭部に受けてごろごろと地面を転がる。
「グガァァァッ!」
だが、それで絶命してはくれなかった。熊は獰猛な唸り声を上げて兎へ突進する。そして前脚や牙を使って兎を捉えようとするが、最初の不意打ちが効いたのだろう、その動きは明らかに精彩を欠いていた。
「終わったみたいだな……」
灰色熊が力尽きるまでに、そう時間はかからなかった。
兎の回し蹴りって、実際に見るとけっこうシュールなものだな、などと場違いな感想を抱きながら、俺は少女に向き直る。
「ええと、大丈夫ですか?」
幸い、彼女に目立った出血はないし、命に別状はないだろう。……というか、そうであってほしい。応急手当の仕方なんて知らないしな。
「……」
「……」
だが、少女は答えない。ひょっとして、トラウマで話せなくなったとか? そんな心配をしていると、彼女ははっと我に返ったようだった。
「――あ、ごめんなさい! 色々とびっくりしちゃって……助けてくれてありがとうございました」
ああ、それはそうか。俺だって、モンスター相手に苦戦してたら兎がやってきてKOしてくれました、なんて事態に直面したらパニックになる自信がある。
そんなことを考えながら、俺は改めて彼女を観察した。なんとなく気付いてはいたが、やっぱり美少女だった。高校生くらいの年齢だろうか。はきはきした明るい声のトーンにも好感が持てる。
「私はルノール村のクルネ・ロゼスタールです。こんなに森の浅いところで灰色熊が出るとは思わなくて……本当に助かりました」
お礼を述べると、ぺこりと頭を下げる。ただ、突然現れた俺を警戒しているのか、その動きはどこか固かった。
「ご丁寧にありがとうございます。私は森本要と申します」
俺が名乗り返すと、クルネと名乗った少女は困惑したように俺の名前を何度か繰り返した。
「モリモトカナメ、モリモトカナメ……ごめんなさい、どこまでがファーストネームなのか分からなくて……」
あ、しまった。逆か。
「ああ、ファーストネームはカナメですよ。ややこしい表現ですみません」
「カナメさん……ですね」
クルネは俺の名前を繰り返すと、不思議そうな表情で俺の顔を覗き込んだ。
「ところで、カナメさんはどうしてこんな所に?」
「ええと……」
困った。この世界のことを何も知らないせいで、妥当な答えが出てこない。あまり不審がられるようなことは避けたいんだが……。
「その服……辺境の人じゃないですよね? この辺りで黒目黒髪は珍しいし」
「それが、私にもよく分からないんですよ。突然、目の前の景色が変わったかと思えば、いつの間にか時空魔導師を名乗る老人が目の前にいて……。どうやら、時空魔法の失敗に巻き込まれたようですね」
俺は事実を中途半端に交えて状況を説明することにした。さすがに「異世界から召喚されました」なんて言っても、不審がられるだけだろうからな。ちょっとぼかしておこう。
「時空魔法……それじゃ、カナメさんはどこの国の人なんですか?」
う……それを言われると辛いな。適当に国名をでっち上げるわけにもいかないし。悩んだ末、俺は素直に答えることにした。
「日本……という国はご存知ですか?」
彼女は首を横に振った。
「聞いたことがないです……時空魔法が関係しているくらいだし、ひょっとして別の大陸から来た、とか……?」
お、別の大陸があるのか。これは使えるな。いくらなんでも、別大陸のことまで詳細に知っていたりはしないだろう。
「ええ、どうやらそのようですね。おかげで、このせ――大陸のことがさっぱり分からないんですよ。もしよければ教えてもらえませんか?」
よしよし、これはいい流れだ。これなら、この世界のことを不審がられずに聞き出せるかもしれない。
「ええ、分かりました。……えっと、村へ戻りながら説明してもいいですか? ここからなら、私の村が一番近いと思います」
「ええ、もちろんです」
俺は満面の笑みで頷いた。この分なら、なんとか人里に出ることができそうだ。後は、安全地帯に到着するまで、この兎が付いてきてくれるかどうかだが……こればっかりは運勝負だな。
そんなことを考えながら、俺は近くで草を食んでいる兎を眺めていた。
「カナメさん、こっちです」
クルネに案内されるがまま、俺は森の中を歩き続けた。どこへ向かっているかもさっぱり分からないが、もはや彼女を信じるしかない。
もしこの道が山賊の根城に続いているとしても、俺には判断のしようがないのだから。
――まさか、美人局ってことはないよな。そんな不安が心をよぎる。
普通に考えて、あんな美少女が森でモンスターに襲われる必然性がない。こう言ってはなんだが、彼女くらいの容姿であれば、こんなに危険な森で命を削らずとも生きていけるのではないか。
ひょっとするとあの熊は仕込みで、こうやって一緒に行動しているところにいかつい男が現われて、「兄ちゃん、俺の女に手ぇ出しやがったな」なんて展開が待っているのかもしれない。
そんなことを考えていた俺は、いつの間にか立ち止まっていたクルネに気付かず、危うくぶつかりそうになる。
「ええと……どうかしましたか?」
尋ねると、クルネは複雑そうな表情を浮かべて俺を見ていた。そして、少し気まずそうに口を開く。
「あの……美人局じゃないから、安心してください。あれは王都やリビエールみたいな都会じゃないと意味がないから……」
「えっ?」
考えていることを見抜かれた俺は、思わず固まった。まさか、この子は心が読めるのだろうか。
「ひょっとして気付いてなかったんですか? カナメさん、ずっと声が出てましたよ」
なんてこった。とは言え、そうでもなければ美人局なんて単語は出てこないよなぁ。……異世界の森を彷徨い続けて疲れてるんだろうか。
「……あらぬ疑いをかけてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
会って早々に美人局扱いとか、あまりにも失礼すぎる。この場で見捨てられても文句は言えないだろう。クルネが怒り出さなくて本当に良かった。
今度は口に出さないよう意識しながら、俺はそんなことを考えていた。すると、こちらの様子を窺っていたクルネがぽつりと呟く。
「……変な人」
そして、彼女は小さく笑った。
◆◆◆
「なるほどなぁ……」
歩きながら、クルネはこの世界のことを色々と教えてくれた。雰囲気としては中世に近そうだが、魔法という要素が絡んでいるため、もう少し進んでいるイメージだ。
そして、この森はシュルト大森林という名称であり、クローディア王国という国の領地の最南端にあると言う。曰く、「街の人は絶対に来たがらない未開の地」らしい。
最近、この『辺境』ではモンスターの数が増えているそうで、クルネの住むルノール村は森の近くにあるため、森の異変は村の安全に直結することから、こっそり調査に来たのだと言う。
ちなみに、どんどんクルネの敬語が甘くなってきているが、打ち解けた証だと思っておこう。人懐っこい性質のようだし。
「まさか、森の中心部からこんなに離れた場所で、灰色熊が出るとは思わなかったけど」
答えるクルネの表情は沈んでいた。それはモンスターに怯えていると言うよりは、悔しがっているように見えた。
この森に一人で入るくらいだし、剣の腕に自信があったのかもしれない。
「クルネさんは剣を使うんですよね?」
「うん。うちの自警団はリーチの関係で槍を使う人も多いけど、私は剣のほうが手に馴染むから」
「自警団……それはどれくらいの規模なんですか?」
自らも自警団員らしきクルネに詳細を問いかける。こんな危険な森と隣り合わせなのだ。かなりの規模なのだろう。
だが、その予想はあっさりと覆された。
「三十人くらいかな……? 別で本業のある人がほとんどだし、見回りや訓練の頻度も違うから、誰をカウントするか悩むけど……」
「三十人……」
少ないな。とは言え、村の人口が二百人くらいだと考えると六分の一近くになるのか。ただ、兼業ということは突出した強さは望めないだろうな。
「じゃあ、クルネさんも兼業なんですか?」
尋ねると、クルネは首を傾げた。
「両親が雑貨屋をしてるから、その手伝いをしていて……これって兼業に入るのかな」
なるほど。彼女が看板娘なら集客効果が見込めそうだな。そんなことを考えていると、ふいに兎が鳴き声を上げた。
「キュキュッ!」
この声はモンスターが近くにいる時のものだ。慣れたもので、俺は深呼吸をして周囲を窺い、クルネは剣を抜いた。
そうこうしているうちに、体長一メートルほどの巨大な甲虫が現れた。クワガタに似ているが、こうも巨大だと不気味さが先に立つ。
二本の角は言うに及ばず、顎や脚による攻撃を受けても致命傷になるだろう。
「カナメさんは下がって」
クルネが一歩前へ進み出る。だが、結論から言えば、その行動は必要なかった。
「キュッ!」
いつの間にか甲虫の懐に潜り込んだ兎が、一メートルの巨体を蹴り上げたのだ。何かがひしゃげる音とともに、甲虫は空中に打ち上げられた。よく見ると、甲虫の二本の脚が体液とともに地面に落ちていた。恐ろしい威力だ。
そして、兎は落ちて来る甲虫を迎撃する……つもりだったのだろうが、奴は落ちてこなかった。羽を広げて飛んでいたのだ。
さすがに警戒したのか、甲虫は兎の様子を見るかのように上空を飛び回る。いくら常識外の力を誇る兎とは言え、十メートル以上をジャンプして、機敏に飛び回る甲虫を攻撃することはできないだろう。
「あれじゃ、兎さんの攻撃が届かないじゃない……!」
同じ感想を抱いたのだろう、クルネが悔しそうに呟く。それを横目に俺は周囲の地面を見回した。
「カナメさん、何をしてるの?」
「いえ、石でもぶつけてやろうかと思いまして……」
昆虫の羽は薄いからな。いくら全長一メートルの甲虫とは言え、大きな石が当たれば穴くらい開くだろう。
「じゃあ、私がやるわ。怒り狂ったモンスターがカナメさんを襲うと困るから」
「ええと……」
クルネを生贄にするように思えて気が引けるが、彼女の申し出は合理的だ。ろくに戦うことのできない人間が狙われると、そのフォローが大変だろう。
年下の女の子に危険な役を押しつけたくないが、個人的な感情で迷惑をかけるわけにもいかない。俺は素直に頷こうとして――。
「キュァァッ!」
その動きを止めた。兎から放たれた光弾が、巨大甲虫を爆散させたからだ。
「……何それ」
想像の斜め上を行く展開に、俺はそう呟くのが精一杯だった。筋力が凄い兎だとか、そういう次元じゃなくなったぞ。
「足が光ってるように見えたの、気のせいじゃなかったんだ……」
同じく呆然としていたクルネが、目を瞬かせながら剣を鞘に納める。俺たちは無言で顔を見合わせた。
「キュッ!」
やがて、俺たちの微妙な空気を壊すように、兎がぴょこぴょこ跳ねてやってくる。それを見た俺は、無意識にしゃがみ込んだ。
「ありがとうな、助かったよ。……それにしても、お前は本当に凄いんだな」
言いながら頭を撫でる。その手触りはとても気持ちよくて、兎へのご褒美なのか俺へのご褒美なのか分からないくらいだ。
そうして、しばらくなでなでモフモフタイムを堪能していた俺だったが、ふとクルネの様子がおかしいことに気付いた。
彼女は俺たちを見ながら、何かを考え込んでいるようだった。やがて、彼女は口を開く。
「……カナメさんって、ひょっとして魔獣使いなの?」
「魔獣使い……?」
俺は首を傾げた。魔獣使いと言うと、あれだよな。モンスターを使役したりする……。
「変なことを言ってごめんなさい。……そうよね、魔獣使いの固有職持ちなんて、この国に一人しかいないもの」
俺の様子で察したのか、返事を待たずにクルネは謝ってきた。だが、俺が気になったのはそこではない。
「クルネさん、固有職持ちってなんですか?」
「え?」
俺の問いかけに、クルネは目を丸くして驚いていた。……信じられないと言った様子で、彼女は俺の顔を覗き込んでくる。
「知らないの? 本当に?」
「ええ、まあ……」
そこまで念押しされるようなことなのか。どうやら、彼女にとっては常識レベルのようだが……。
「カナメさんのいた大陸には固有職持ちがいなかったの?」
「さあ……固有職持ちの定義が分からないことには、なんとも答えようがありませんね」
俺が固有職と聞いて連想するのは、騎士や盗賊といったゲームでお馴染みのアレだが、それで合っているのだろうか。
「固有職は、その人が持っている天性の才能よ。代表的なのは戦士や魔術師あたりかしら。
けど、特殊な固有職を持っている人はほんの僅かで、ほとんどの人は『村人』でしかないの」
どうやら、俺の想像で概ね合っていたらしい。固有職持ちは、一般人とは比べものにならない強さを持つのだと言う。
「ほんの僅かって、どれくらいの割合なんですか?」
「私もよく知らないけど、一万人に一人くらいって聞いたような……少なくとも、この辺境には一人もいないわ」
「一人も? こんなにモンスターが多い森の近くなのに?」
それは驚きだな。てっきり、自警団とやらには大勢の固有職持ちがいるものだと思っていたが……。
「……固有職持ちはみんな王都に行って、国や貴族に仕えるから。わざわざこんな辺境には来ないし、国が派遣してくれることもないわ」
答えるクルネの表情には翳があった。意地や憤り、諦めといった感情がない交ぜになっているように思えたが、ここで深く追求することはためらわれた。
「その固有職を持っているかどうかって、どうやって調べるんですか?」
そこで俺は話題を変えることにした。すると、クルネは懐から何かを取り出す。
「これよ」
それは名刺サイズの黒いカードだった。金属製の光沢を放っているあたり、意外と頑丈そうに見える。
「本当はあまり他人に見せたりするものじゃないんだけど、カナメさんには命を助けられたから」
黒いプレートにはいくつかのバーと細かい文字が表示されている。クルネはそのうちの一か所を指差した。
「質問の答えはここに書いてあるわ」
彼女が指差した箇所には、「クルネ・ロゼスタール 固有職:村人」と記載されていた。文字はうっすらと光を放っていて、どこか元の世界の液晶画面を思い出させる。
ちなみに、固有職欄の下の段には「特技」という項目があったが、クルネのカードには何も表示されていなかった。
聞くと、『村人』はほとんど特技を覚えることがないらしく、ただの広いデッドスペースになるのだと言う。
「これはステータスプレートと言って、この大陸の人なら必ず持っているものよ。所持者の固有職なんかが載っているの」
「へえ……凄いですね」
俺は素直に感嘆した。現代日本でも通用するほど綺麗なカードだ。この世界の文化水準からするとオーバーテクノロジーな気がするが、きっと魔法が関わっているのだろう。
「固有職持ち以外には、あまり意味がないプレートだけどね」
「固有職は天性の才能だと言うことですが、先天的なものに限られるんですか?」
俺の感覚だと、固有職はどんどん変わっていくものなんだけどな。ゲームに毒されすぎだろうか。
「転職の儀式を受ければ、転職できる可能性はゼロじゃないわ。けど、そのためには教会に莫大な寄付をする必要があるし、滅多に成功しないみたい」
なんだか世知辛くなってきたな。どんな世界でもお金は重要ということか。それに、滅多に成功しないというのも気になるな。
俺が色々考え込んでいると、クルネは仕切り直すように明るい声を出した。
「ごめんね、なんだか変な感じになっちゃったね。……ね、行こ?」
宣言すると、クルネは背を向けて歩き出す。あまり楽しい話ではなかったのだろう。その背中を見るうち、俺はふと思いついたことがあった。
「そう言えば、この兎……どうして強くなったんだっけ」
俺は足元の兎を眺める。湖で初めて出会った時の兎は、あくまですばしっこい小動物でしかなかった。少なくとも、あの灰色熊にダメージらしいダメージを与えることはできていなかった。
それが、突如として凄まじい攻撃力を誇る兎へ早変わりしたのだ。クルネの話と結びつけるのは短絡的かもしれないが、確認しても損はしないだろう。
あの時の感覚をもう一度呼び起こそうと、俺は必死で兎を見つめ続けた。
「この感じだ……」
やがて、視界にもう一つの視界が重なる。と言っても、元の視界が阻害されるわけではない。ただ、それと重なるように光が視えるのだ。どうやら、あの状態の再現に成功したらしい。
ただ、兎があのステータスプレートとやらを持っているはずはないからな。となると……。
俺はその状態のまま、今度はクルネを見つめた。すると、彼女の中にも光が視えてきた。兎の時とは異なり、力強さや鋭さといったイメージが伝わってくる。そして――。
クルネの中にあった光に、俺は見えない手を伸ばした。
「きゃっ!?」
可愛らしい悲鳴とともに、前を歩くクルネの身体が小さく跳ねた。そして、彼女は戸惑ったようにこちらを振り向く。
「カナメさん……今、何かした?」
「少なくとも、貴女に指一本触れていないことは保証します」
セクハラ認定されそうな気がして、俺は慌てて口を開いた。少なくとも嘘はついていない。
「そうよね……というか、触られたとか、そういう次元じゃなかったし……」
クルネは自分の身体をチェックするように、身体を触ったり動かしたりしていた。そして、何気なく腰に吊るしていた剣を抜く。
「……え?」
彼女の表情が驚愕一色に染まった。クルネは幾度となく片手で剣を振り回し、そして呆然としていた。
「剣が……軽くなった?」
クルネは混乱している様子だった。だが、俺の予想が正しければ、彼女の言葉は正確ではない。
「剣が軽くなったのではなく、クルネさんの腕力が強くなったのではありませんか?」
「それって……え? どういうこと? やっぱりカナメさんが何かしたの?」
クルネの問いかけには答えず、俺は言葉を続ける。
「あくまで推測なのですが、私の話を聞いてもらってもいいですか?」
「う、うん……」
クルネは戸惑いながらも、素直に頷いてくれた。
「私は固有職持ちをよく知りませんが、常人とは比較にならない身体能力を持っているんですよね?」
「うん、そうだけど……」
話の繋がりが見えなかったのだろう、クルネは訝しげに頷いた。
「例えば、さっき教えてくれた戦士は、あの木に跳び乗れたりするんですか?」
俺が指差したのは、頭上三メートルほどのところにある太い木の枝だ。普通の人間なら、どう足掻いても届かない距離だろう。
「戦士の固有職は戦士職だもの。それくらいできるはずよ」
「では、クルネさんはいかがですか?」
「そんなの、できるわけ――」
言いかけて、クルネの動きが止まった。その場で何度か軽くジャンプした後、覚悟した表情で地面を蹴る。
「うそ……!?」
クルネの声は頭上から聞こえてきた。今の彼女が足場にしているのは、俺が指定した三メートル上方にある木の枝だ。どうやら、見事に着地したらしい。
「カナメさん、これはなに……? 私の身体はどうなったの?」
木の枝から飛び降り、スタッと華麗に着地したクルネだったが、その声は小さく震えていた。
……悪いことをしたかな。よかれと思ってやったことだが、知らない間に改造人間にされたような恐怖があるのかもしれない。
そこで、俺は早々に答え合わせをすることにした。
「クルネさん、もう一度ステータスプレートを見せてもらえますか?」
「もう、なんなのよ……えっ!?」
戸惑いながらもプレートを取り出したクルネだったが、その内容を目にした途端、驚愕の表情を浮かべる。
自分の目が信じられないのか、何度も目をこすって確認する彼女の様子に、俺は確信を得た。どうやら予想通りだったらしい。
「私が……剣士……? 転職の儀式もしてないのに、どうして固有職が……!?」
クルネの言葉が全てだった。どうやら、俺は人を転職させることができるらしい。
完全な村人Aではないと分かって、俺は心から安堵した。ただ……。
「完全なモブ職じゃないか……」
俺は複雑な気分だった。言ってしまえば宿屋のようなものだ。間違っても主人公になることはないし、お供になることすらない。完全な施設だ。
俺がこっそり落ち込んでいる間に、クルネは剣を鞘から抜き放っていた。そして、近くの木を斬りつける。
「はっ!」
一閃。
それだけで、直径二メートルはありそうな木が根元から断たれる。少しの時をおいて、伐採された木がゆっくりと後ろへ倒れていった。
「凄いな……」
俺は思わず呟く。一閃で大木を両断とかどこの達人だ。
だが、クルネは静かに首を横に振った。
「ううん、凄いのはカナメさんのほうよ。さっきまでの私だったら、剣が木に少しめり込んで終わりだったはず。
それを、あなたは一瞬で可能にした。……ねえ、あなたは何者なの?」
クルネの声は固かった。得体の知れない人間に対する、本能的な警戒心だろうか。その警戒心を緩めるべく、俺は困り切った表情を浮かべた。
「正直に言えば、私も戸惑っていまして……」
俺は能力を打ち明けることにした。今まで能力に気付いていなかったこと。兎を強化したこと。そして、クルネの話を聞いて、これが転職能力ではないかと考えたこと。
「そうだったんだ……それで、この兎さんはあんなに強いのね」
俺の足下で丸くなっている兎を見て、クルネはしみじみと呟いた。自分が転職したことについては、未だに戸惑いがあるようだが、俺への気遣いだろう、それを表に出すまいとしている姿には好感が持てた。
兎と視線を合わせるようにしゃがみ込んだクルネは、思い出したように尋ねる。
「そう言えば、この子に名前はないの?」
「え?」
「だって、ずっと一緒なんでしょ? こんなに懐いてるし」
羨ましいな、と言うクルネに俺は苦笑を浮かべた。
「今日知り合ったばかりですからね。今は気まぐれで同行してくれていますが、いついなくなるか分かりません」
「そうなんだ……でも、名前くらいつけてもいいんじゃない?」
「……名前をつけると別れが辛くなりますから」
そう答えると、クルネは楽しそうに笑った。
「カナメさん、意外と情が深いのね。もっと冷た……合理的な人だと思ってたから、ほっとしちゃった」
それは好意的な言葉なのだろうが、俺はちょっとショックを受けた。
「そんなに冷たく見えますか……」
「ううん、違うの! ……ほら、カナメさんってずっと丁寧な口調を崩さないし、やり手の商人みたいな印象があったから……」
慌ててクルネがフォローしてくれる。……今後は、温かみのある接客スマイルの練習をしようかな。
「それで、名前つけないの?」
話題を変えたいのか、クルネは話を元に戻す。……うーん、名前か。俺にネーミングセンスなんてないからなぁ。
「……キャロ」
ふと、そんな名前が浮かんできた。某野菜がモデルなことは言うまでもない。
「え?」
「いえ、なんでもありません。安直なセンスだったと心から反省しています」
即座に取り下げるが、クルネはにんまりと笑う。
「いい名前だと思うわよ。キャロちゃんね?」
どうやらしっかり聞こえてたらしい。彼女は俺の足元にしゃがみ込むと、楽しそうに兎に話しかける。
「ねえねえ、あなたのことを『キャロちゃん』って呼びたいんだけど、どうかな?」
「キュッ! キュキュッ!」
すると、まるで言葉が分かっているかのような絶妙なタイミングで、兎が元気に鳴いた。
「キャロちゃん」
「キュッ!」
「キャロちゃん」
「キュッ!」
クルネが呼びかけるたびに、兎は律儀に答える。……この兎、ひょっとして物凄く賢いんじゃないのか?
野生の動物に名前をつけるのは人間の傲慢に思えて気が引けていたが、これだけ反応してもらえると嬉しくなってくる。
俺は小さく咳ばらいをすると、しゃがみ込んで兎と目を合わせた。
「えーと……キャロ? その……これからもよろしく」
「キュァッ!」
キャロの元気な鳴き声が森に響いた。




