エピソード0-1 転移
第一話の一~二か月ほど前の話です。
【森本 要】
座席を通じて、電車特有の定期的な振動が伝わる。そのリズムは眠気を誘うに充分なもので、何度も瞼が落ちてくる。
そんな朦朧とした意識の中で、俺は今日の予定を思い出していた。
勤めている飲食店チェーンが、隣の市に新規店舗をオープンしたのは一か月ほど前のことだ。当初はオープンセールや物珍しさも手伝って、それなりの売上・集客数だったらしい。
だが、そこまでだ。思うようにリピーターがつかなかった新店は、稼ぎ時である昼食や夕食の時間帯でさえ空席が目立つようになっていた。
そこで、その原因究明をするべく、俺が新店に派遣されたのだった。……と言えば聞こえはいいが、実際には人件費を減らして、店を無理やり回すための生贄に選ばれたのだろう。
一応正社員の身ではあるが、時給単価がアルバイトよりも低いのはお約束だ。
「はぁ……」
思わず溜息をつく。……まあ、どうにも身が入らなくて、真面目に就職活動をしなかった俺が悪いのだが。
今日は様子見で電車を使ったが、終電で帰ることができるかも疑わしいな。しばらくは泊まり込みだろうか。
そんなことを考えながら、俺は再び睡魔に屈服した。
◆◆◆
――目の前にあったのは、見知らぬ爺さんの顔だった。
「ふん……やはり儂の理論に間違いはなかったな。まあ、当然じゃ」
ランプだけが光源の、薄暗い部屋。周囲を見回す俺をよそに、謎の爺さんは満足げに笑った。
「儂の言葉は理解できるか? 貴重な言語理解の宝珠まで使ったのじゃ、当然理解できておるな? ほれ、返事はどうした」
一方的に話しかけてくる爺さんを無視して、俺は少し考え込んだ。
仕事へ行くために、電車に乗ったところまでは覚えている。だが、その記憶と目の前に広がる怪しげな部屋+爺さんのセットには、まるで関連が見えなかった。
「……えーと、どちら様でしょうか。私はなぜここに?」
考えていても始まらない。いかにも事情を知っていそうな人物が目の前にいるのだから、聞かない手はない。だが……。
「儂は希代の時空魔導師、マクシミリアン・レーエ・ギラークじゃ。青年よ、お主は儂が編み出した時空魔法の秘奥により、異世界からこの世界に召喚された。
栄えある第一号被験者となれたことを感謝するがよい」
「……はぁ。異世界、ですか」
爺さんの返答はかなりファンタジーだった。だが、夢にしてはリアリティがありすぎるため、突飛な行動に出ることも躊躇われる。
なんであれ、夢かもしれないという前提で行動すると、碌なことにならないだろう。
というわけで、これは友人や同僚の壮大なドッキリか、はたまた本当にファンタジーな世界に招かれたのか、という可能性を考える必要があるのだが――。
「遅刻しそうなので、早いところ解放してもらえますか?」
真相がどちらであれ、俺の求めるものはただ一つだった。
正社員の俺がシフトから抜けてしまったら、店が回らなくなるのは目に見えている。あまり時間を浪費するわけにはいかない。
「ふん、身勝手な若造じゃな。今は儂の偉大な研究成果の確認をするべき時じゃぞ。……ほれ、さっさとそこの砂袋を殴れ。身体能力を計測するぞ」
だが、マクシミリアンと名乗った爺さんは俺の言葉をあっさり流すと、自分の要求を押し付けてきた。なんだこいつ。というか、どうしていきなり体力測定なのか。
「ほれ、さっさとせい!」
マクシミリアンが居丈高に怒鳴る。一目見た時からそんな気がしていたが、この爺さんはクレーマー気質だな。俺の『面倒な客』センサーが警鐘を鳴らしている。
だが、状況が何も掴めない現状では、あまり波風を立てるわけにもいかない。奴に対する苛立ちをこめて、俺は目の前にあったサンドバッグを全力で殴りつけた。命令に従うのは癪だが、ストレス解消には悪くない。
すると、俺の様子を見ていたマクシミリアンの顔色が変わった。
「なんじゃと……!?」
爺さんは深刻な表情で両手をワナワナさせていた。ちょっと血の気も引いているだろうか。
「次は足じゃ! 足で蹴ってみよ!」
「っ……!」
意味が分からないまま、俺は憤りに任せて砂袋を蹴りつける。だが、姿勢が不完全だったせいか、衝撃で俺のほうがよろめいてしまった。
「ぬぬぬ……!」
それを見たマクシミリアンは、いっそう不機嫌になっていた。いったい何を期待していたんだ。
俺は頭に疑問符を浮かべながらも、マクシミリアンの言葉を待つ。
「なんじゃこれは! 常人の筋力と変わらぬではないか! 期待外れにも程があるわ!」
すると、奴はいきなり怒鳴り始めた。……怒鳴りたいのはこっちだけどな。自分が超人だとは思っていないが、それでも失望と共に凡人呼ばわりされて楽しいわけはない。
「それとも、お主は魔法職か? ほれ、何か魔法を行使せよ」
「魔法?」
この人は唐突に何を言ってるのか。……ああ、そう言えばこの爺さん、自分のことを魔術師とか言ってたな。そういう設定なんだろうか。
俺が一向に動かない様子を見て、爺さんはふん、と鼻を鳴らした。
「魔法も使えんか。どうやら、見事な失敗作のようじゃな。……もうよい、失せよ」
犬でも追い払うかのように、マクシミリアンは手を振って俺を追い出そうとする。その目には、ただ蔑みだけが浮かんでいた。
「失敗作って……」
その尊大な態度に、俺の中で怒りが渦巻く。こいつは何様なんだ。仕事柄、理不尽な物言いには慣れているが、こんな訳の分からないお膳立てをした上に、この身勝手ぶりだ。
まして、こいつは客ですらないのだ。客だったとしても、出入り禁止を言い渡したほうが店の利益になる類の人間だろう。
そんなことを考えていると、どんどん頭に血が上ってくる。イライラを抑えきれなくなった俺は、いつの間にか爺さんに詰め寄っていた。
「どうでもいいから、早くここから解放しろ! 遅刻するって言ってるだろ!」
そして、胸倉の一つも掴んでやろうと手を伸ばす。だが――。
「やかましい、失敗作に用はないわ! ……ふん、なんの役にも立たぬ屑が」
俺の手がマクシミリアンに届くことはなかった。奴が何事かを呟くと、俺の周囲がぐにゃりと歪んだのだ。周囲の歪みがひどくなり、ついには爺さんの姿すらぼやけて見えなくなる。
マクシミリアンはもう、こちらを見向きもしない。俺は何も分からないまま、その後頭部を憎々しげに睨みつける。
そして次の瞬間。何かに引っ張られるような感覚とともに、周囲の景色が一気に塗り替わった。
◆◆◆
気が付くと、俺は森の中に立っていた。木々が密集しているせいで、少し薄暗い。足を踏み出すと、踏みつけられた小枝がぱきりと折れた。
その音をきっかけに、様々な思考が俺の脳裏で渦巻く。何よりも、爺さんの言っていた「異世界」という言葉。
ずっと半信半疑でいたが、ここが異世界である可能性は高いと言わざるを得ない。ドッキリの線も疑っていたが、現代科学であの転移魔法は再現できないだろう。
もし再現可能だとしても、俺みたいな凡人に対して、そんなに金をかける理由がない。
「魔法か……」
魔法が存在する異世界。ゲームなんかを通じて馴染みのある世界ではあるが、それはあくまで強い力を持った人間が活躍する世界だ。
あんな爺さんがいるくらいだ。社会保障の程度にもよるだろうが、なんの能力もない村人Aが生きていくには、おそらく厳しい世界だろう。
「……まずは生き延びることを考えるか」
そして、会社にクビにされないうちに元の世界に帰らなきゃな。不思議なもので、方針を立てると少し覚悟が固まってきた。
それと同時に、どこか霞んでいた意識が明瞭になっていく。今までにないくらい頭がスッキリしているのは、命の危機を感じて身体が本気を出したのだろうか。
俺は意を決して、森の中を歩き始める。濃い緑の匂いは、元の世界と変わらないように思えた。
そのことに少し安堵を覚えた俺だったが、その平和は一瞬で破られた。物騒な物音が聞こえてきたのだ。
それは草木をかきわける音であり、そして重量のある何かが響かせる足音でもあった。
「キキッ! ギイイイイッ!」
「ブロロロロロォッ!」
迫力のある物音は、どんどんこちらへ迫っている。慌てて周囲を見回した俺は、大樹に寄り添うように生えている茂みに飛び込んだ。
小枝が引っ掛かり、身体のあちこちに痛みがはしるが、それどころではない。俺がなんとか身体を押し込むのと同時に、足音の主が姿を現した。
最初に現れたのは、異常に手の長い猿だ。大きさは一メートル強といったところか。その背丈と同じくらいの長い腕を使い、器用に枝から枝へ飛び移っていた。
そして、それを追うように登場したのは、水牛のような角を持った二メートルほどの怪物だ。重量感のある足音はこいつのものだろう。
進路を阻む障害物を角で粉砕しながら、怒涛の勢いで駆け抜けていく。
隠れ潜んでいたことが功を奏したのか、それともあの猿しか目に入っていなかったのか、二頭は嵐のように現れ、そして去っていった。
「なんだよ、あれ……」
二頭が姿を消した後も、俺はなかなか茂みから出る気になれなかった。なんといっても、俺は野生の力を失った現代人だ。
徒手空拳のままでは、あの二メートル級の牛どころか、追われていた猿にだって勝てないだろう。
悶々と思い悩んでいた俺だったが、いつまでもこの茂みにいるわけにはいかない。匂いで獲物を察知するタイプの動物に出くわせば、茂みなんてなんの役にも立たないし、さっきみたいな猛獣の突進に巻き込まれる可能性もあった。
やがて、周囲に気を配りながら、俺はゆっくり茂みを出た。途端に心細さに襲われるが、それをねじ伏せて前へと進む。
とにかく、人のいる所へ出たい。それだけを望んで森を彷徨う。だが……。
「誰だ!?」
背後の草むらから、ガサガサッと揺れる音が聞こえた。相手が人間ならいいが、そんなに楽観的にはなれない。
「ガルルルゥゥ……」
予想通り、相手は人間ではなかった。現れたのは、全長一メートル半くらいの犬だ。……いや、狼なのかもしれないが、俺には見分けがつかないからな。とりあえず、俺が知っているどの犬よりも顔が怖い。
そして問題なのは、その犬が明らかに俺を見つめていると言うことだ。
……まずい。さっきの二頭は俺なんて眼中になかったから助かったが、こいつは確実に俺を狙っている。あの筋骨隆々の身体つきから見て、襲われれば確実に死ぬ。
心拍数が跳ね上がる。思わず武器になりそうな物を探したが、大して役に立ちそうなものはなかった。
そう言えば、持っていた鞄はどこにいったんだろうか。あの爺さんの部屋に置いてきたのか、それとも初めから召喚されていなかったのか。
だが、それを悠長に考えている時間はなかった。俺はポケットの中にあった携帯電話をゆっくり取り出すと、巨犬を睨みつけたまま起動させる。
そして、操作を終えた瞬間に、持っていた携帯を別の茂みに投げこんだ。一拍遅れて、最大音量に設定した音楽が鳴り響く。
「ガウッ!?」
ありがたいことに、犬はそちらに気を取られていた。得体の知れない物音を警戒して、音楽が鳴り響く茂みに近付いていく。
――今だ。
巨犬の注意が完全にそれたことを確信すると、俺はそっと場を離れた。
元の世界との繋がりを失うようで寂しいが、どのみち電波が届かないのは確認済みだ。命には替えられない。
「あ……」
そう自分に言い聞かせながら歩いていると、木々だらけだった視界が一気に開けた。目の前に広がるのは一面の水。どうやら湖に出たらしい。
緊張の連続で喉は渇いているが、この水は飲めるのだろうか。湖に近付こうとした俺は、先客がいることに気付いた。
その先客は真っ白な毛並みをした、もこもこの小動物だった。ついでに耳が長い。
……そう。限りなく兎に近い小動物が湖で水を飲んでいたのだ。その様子を見ているうちに、緊張していた精神が少し緩む。
しばらく兎を眺めていた俺だったが、水を飲むのをやめた兎と目が合った。……しまった、逃げてしまうかな。
そう思ったものの、兎が逃げ出す様子はなかった。それどころか――。
「キュゥ!」
まるで挨拶をするように、俺に向かって元気に鳴き声を上げた。その動じない様子は、まるで俺を待っていたかのような錯覚すら覚える。
「……兎でよかった。モンスターとかだと洒落にならないからな」
そういう凶悪なエンカウントは、勇者ご一行様に任せておけばいいのだ。こっちはただの凡人だからな。
ちょっと拗ねながら湖を眺めていた俺だったが、ふと周囲の雰囲気の変化に気付いた。何かがおかしい。
「キュッ!」
俺が周囲を見回したのとほぼ同時に、兎が悲鳴のような鳴き声を上げた。突然どうしたのだろうか。
そう思ったのも束の間、その理由はすぐに分かった。
兎のそばの茂みから、全長二メートルはありそうな灰色の熊が現われたのだ。しかも瞳が紅く光っていて、存在感が尋常ではなかった。
あれはヤバい。今までの動物も凶悪だったが、これは絶対モンスターの類だ。この世界のことは何も知らないけど、断言してもいい。
俺にモンスター認定された熊は、木の幹のような太い腕を振り下ろした。もちろん狙いは兎だ。
だが、兎は意外と素早い動きを見せて、なんとか灰色熊の攻撃を避けていた。
たまにヒヤっとする場面もあったが、熊の腕はぶんぶんと空を切り続ける。やがて、なかなか攻撃が当たらない兎に焦れてきたのか、ふと灰色熊は視線を上げた。
――あ。目が合った。
どう考えても嫌な予感しかしない。小さくて素早い兎と、大きめで鈍重そうな人間。普通に考えればこっちを狙う。
「まずい……!」
俺は全力で近くの木に登った。木登りなんて十年ぶりどころの話じゃないが、人間死ぬ気になれば案外できるものだ。なんとか熊の手が届かない高さを確保する。
心臓が人生最速のスピードで拍動するのを感じながら、俺は木の下にいる灰色熊の動きに注視した。だが――。
「こいつ、木を登る気じゃないか……?」
そう言えば、熊も木登りはできると聞いたことがある。咄嗟に木に登ってしまったが、悪手だったかもしれない。
生命の危機を目前にして、心臓の鼓動が頭に響き始める。
そして、俺の悪い予感は当たった。熊が木に爪を立てたのだ。その巨体が持ち上がり、樹上にいる俺との距離を詰めようとする。
その時だった。
「ガァッ!」
突然、熊が苛立ったような声を上げた。そして、登りかけていた木から下りる。
一体何が起きたのかと、熊を観察した俺は呆気にとられた。熊のすぐ近くに兎がいたのだ。おそらくさっきの兎だろう。
よく分からないが、尻尾にでも噛みついたのだろうか。ダメージを受けたようには見えないが、熊は兎に対して唸り声を上げていた。
「キュキュッ!」
まるで挑発するように、兎はその場で小さく跳ねる。行動理由が不明だが、それを幸いと、俺はこっそり木から降りた。
熊が木に登れると分かった以上、木に登っても命はない。それなら、一か八かで湖に飛び込んだほうがマシだと思ったのだ。
ただ、これは兎を生贄にするようなものだ。助けてくれた兎に対して、あまりにも恩知らずな気もするが……。
「気付かれた……っ!」
そのためらいが命取りだった。熊が兎から俺に視線を移したのだ。そして直後、灰色熊は仁王立ちになると、俺目がけて飛びかかってきた。
「っ!」
俺は右前方に飛び込み、なんとか灰色熊の巨体から逃れる。だが、完全に避けることはできず、熊の前足が俺の肩をかすめた。
衝撃で俺は吹っ飛ばされ、地面をごろごろと転がっていく。そばの木に背中から激突し、肺の空気が一気に抜けた。
しくじった。軽い脳震盪でも起こしたのか、身体がうまく動かない。勝利を確信したように、のっそりとこちらに近づいてくる灰色熊を見て、俺は死を覚悟した。
数秒後には、俺の身体にヤツのあの大木のような腕が振り下されるだろう。
だが、灰色熊は俺まであと2,3メートルのところで前足を振り上げた。なんだ? 目でもやられているのか?
そう思ってよく観察してみると、またあいつだった。あの異世界兎が、熊の前をちょろちょろしていたのだ。
逃げる機会はいくらでもあったはずなのに、兎はまた灰色熊と対峙していた。だが、先程の一幕を見る限り、素早さでは勝っているようだが、攻め手に欠けている。
それはそうだろう。兎に蹴られたところで、体長二メートルの熊がダメージを受けるはずがない。
だが、なんとか兎に勝ってもらいたかった。もちろん自分の命が助かるためでもあるが、あの兎に仲間意識が湧いてしまったのだ。勝てないまでも、せめて死なないでくれ――。
「あれ……?」
そんな思いで兎を見つめていた俺は、場違いなほど素っ頓狂な声を上げた。兎と重なるようにして、変な光が視えたのだ。それは逞しくてしなやかな、それでいて純粋さを感じる光だった。
「なんだ、これ?」
突然見えるようになったこともおかしいし、逞しさや純粋さを感じさせる光というのもおかしい。光は光だ。
そう思いながらも、俺の意識はその光に吸い寄せられていく。届くはずもない俺の手が光に触れたと思った瞬間、その輝きは兎の全身を覆った。
――その直後。俺はあり得ない光景を見た。
「キュッ!」
兎が、熊を蹴り飛ばしたのだ。
あまりにも予想外の展開に、俺の頭の中は真っ白になった。兎の体長はせいぜい三十センチ。対する熊の全長は二メートルだ。横の厚みも比べ物にならない。重量差は数十倍といったところだろうか。
だが、俺の目の前にある現実は、ぴんぴんしている兎と、数メートル離れていた木に激突してひっくり返っている熊の姿だ。
「何が起きたんだ……? いや、それよりも」
ようやく身体が動くようになったことを確認すると、俺は湖へ駆け寄った。事態がよく分からないが、備えて悪いことはないだろう。
もし、これで灰色熊が絶命していればいいのだが……。そう期待していた俺だったが、それは高望みだったらしい。熊が起き上がったのだ。
「ガルァァァッッ!」
灰色熊は狂気じみた咆哮を放つと、兎に飛びかかった。だが、兎は無駄のない動きで攻撃を避け続ける。先程と違い、その動きには余裕があるように見えた。
そして、熊が大振りの一撃を外し、体勢が大きく崩れたところで、兎は強烈な蹴りを叩きこむ。
一撃。それだけだった。
兎に蹴られた灰色熊は、先程を凌ぐ勢いで近くの木に激突し、その木をへし折ってさらに後方へと転がっていく。あれは間違いなく生きていないだろう。
「ともかく、助かった……のか?」
さらに五分ほど灰色熊の様子を窺っていた俺は、やがて視線を兎に向けた。もはやただのかわいい兎には見えないが、命の恩人に違いはない。
……もしあの攻撃力を俺に向けられたら、百パーセント死ぬけどな。熊を蹴った時、なんだか足が光ってたし。
「キュゥ?」
ありがたいことに、俺に対して害意は持っていないようだ。こちらにのんびり近寄ってくる様子は、どう見ても人畜無害な小動物だ。
と思っていると、ついには俺の足に頭をぐりぐり押し付け始めた。なんだこのかわいい生き物。撫でてしまっていいのかな。
葛藤していた俺は、思い切って兎の頭を撫でてみた。命の恩人に無礼かもしれないが、それを望んでいるような気がしたのだ。
「キュゥ……」
すると、兎は嬉しそうに鳴いた後、ぺたりと俺の足元にうずくまった。やっぱりかわいい。なんだこいつ。
「……さっきはありがとう。おかげで助かったよ。じゃあ、俺は行くから」
俺を見上げる兎に対して、断腸の思いでそう告げたのは、それから数十分後のことだった。この兎のそばにいれば安全だろうという思いもあったし、もう少しこの小動物に癒されたいという思いもある。
だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。兎のねぐらはこの森の中だろうが、俺は人里に出なければ生きていけない。それは灰色熊との遭遇で実感した。
「キュッ?」
だが、兎は俺の後ろをぴょこぴょこついてきた。懐かれたのだろうか。それなら嬉しいんだけどな。
「ひょっとして、付いてきてくれるのか?」
しばらく様子を見ていたが、兎はずっと後ろを付いてくる。さすがに偶然ということはないだろう。
そう考えると、自然と笑みが浮かんできた。自分では気付いていなかったが、知らない異世界に一人という状況は、やはり精神的につらかったらしい。
俺は、小さな同行者を心から歓迎した。




