ルノール魔法研究所・下
【ルノール魔法研究所研究員 フォルス・レイエン】
「調子が狂うなぁ……」
椅子の背に体重を預けると、フォルスは空を見上げて呟いた。自分の研究室の中であり、その呟きを拾う者は誰もいない。
アルジオに焚きつけられたこともあり、意図的に神子と接触を図った彼だったが、その結果は彼に困惑を与えるだけだった。
神子の噂には事欠かないルノールの街だが、彼が女好きだという噂は街の外でも流れているようだし、フォルス自身、故郷の村で似たような話を聞いたことはあった。
そのため、護衛にして妻である『剣姫』を同伴していないと聞いた時は、浮気目的で研究所を訪れたのではないかと、そう勘繰ったのも事実だ。
だが、この前の帝国貴族のように、好色な目つきでミルティを見ることもなく、ただの親しい間柄であるようにしか思えなかった。
それどころか、フォルスの神子に対する評価は「好人物」だった。先程のやり取りだけで推し量れるものではないだろうが、研究者の端くれとして、冷静に彼を評価したと言う自負はある。だからこそ、心境は複雑だった。
「やっぱり、実績を積み上げるしかないかな……」
そう言いながらも、フォルスの気は重い。どれだけ魔法研究者として大成しようと、神子の功績に比肩できる可能性は極めて低いからだ。万が一、フォルスが大きな功績を上げることができたとしても、それは数十年後の話だろう。
彼は大きく息を吸い込むと、感情をのせてゆっくりと吐き出した。
その時だった。
「……っ!?」
異様な魔力を感じて、フォルスは咄嗟に立ち上がった。ガタン、と音を立てて椅子が倒れることにも構わず、彼は研究室から駆け出す。
フォルスの研究室は、他の研究員から少し離れた場所にある。増員予定のなかった研究所に無理やり入所させてもらったためだが、それがいい方向に作用した。他の研究員と同じ場所であれば気付かなかったかもしれない。
「あっちか……!」
フォルスは魔法研究所の敷地の外れにある建物に目を向けた。特に危険な実験を行う時に使用する建物だが、あまり使用する人間はいない。
フォルスは廊下の突きあたりにある窓を開け放つと、そのまま飛び降りた。二階の高さではあるが、フォルスにとってはちょっとした段差と大差ない。
地面に着地した彼は、走りながら自分に自己能力強化をかける。そして、建物の入り口へ辿り着いた彼は、バチッと不可視の壁に弾かれた。
どうやら強力な結界のようだが、侵入を防ぐと言うよりは、中のモノを外に出さないことに重点が置かれているようで、フォルスが強い意志でもう一度結界に触れると、結界はそれ以上の侵入を拒まなかった。
「この結界はミルティ所長の……!?」
こんなに器用で強力な結界を展開できるのはミルティだけだ。その事実がフォルスの焦りを増大させる。半ば体当たりするように扉を開いて、彼は魔力が渦巻く空間に踏み込んだ。
「フォルスさん……!?」
「ミルティ所長、大丈夫ですか!?」
頑丈な素材で作られた広々とした空間には、予想通りミルティの姿があった。フォルスは彼女が無事であることにほっとしつつも、気を引き締める。
そこに異質なモノが存在していたからだ。
その姿は、フォルスが知るどのモンスターにも似ていなかった。全長は三メートルほどだろうか。人間の頭ほどもある巨大な単眼と、それを中心として構成された歪な球状の身体。そして、その身体を覆う黄土色の鱗と数十本の太い触手。
さらに不思議なことに、その姿は定期的に揺らめいており、注意深く見れば、その身体が僅かに透けていることにも気付いた。
「gl;rj:@:pwr」
フォルスの観察するような視線が気に入らなかったのか、モンスターはギロリと単眼を彼に向ける。ここにミルティがいなければ、身がすくんでいたかもしれない。眼前のモンスターには、そう思わせるだけの異質な恐ろしさがあった。
彼らに向かって数本の触手が伸ばされる。その雰囲気から、モンスターが敵対的な意思を持っていることは疑いようがなかった。
「遮断防壁」
咄嗟にミルティが展開した魔法障壁は、フォルスが見たことのないものだった。珍しい魔法に興味を引かれつつも、フォルスはその誘惑を振り切って敵の動きを見る。
その行動は正解だった。ミルティの障壁に阻まれていた触手の一本が、ブレるようにして眼前に現れたのだ。
フォルスは反射的にミルティを突き飛ばすと、彼女を追いかけるように自分も跳び退く。
「――がはっ!」
だが、その背を襲った太い触手に打ち据えられ、衝撃と共にフォルスの視界が揺れる。なんとかミルティに激突することは避けたものの、バランスを崩した彼は、頭から床へ倒れ込んだ。
「フォルスさんっ!?」
側頭部を強く打ちつけ、意識を失いかけたフォルスの耳にミルティの悲鳴が聞こえる。その声を頼りに、フォルスは無理やり意識を繋ぎとめた。
「大丈夫です、まだ動けますから……!」
その言葉を証明するように急いで立ち上がる。灼けるような熱さと鈍痛が背中を苛むが、今はそれどころではなかった。
幸いなことに、触手による追撃はない。先程の触手が障壁をすり抜けたのは偶然だったのだろうか。
「でも……!」
「ミルティ所長、心配しないでください。……俺は、戦士職でもあるんですから」
フォルスは腰に差していた短剣を抜いた。固有職の特性上、剣を携帯する癖がついていたことは幸いだったと胸中で呟く。
――そう、フォルスの固有職は魔法剣士だった。
魔法剣士は魔術師等に比べて魔法相性の癖が強く、あまり魔法研究には向かないと言われる固有職だ。複合職という希少さも相まって、魔法剣士の研究員は大陸中を探しても彼一人しかいないだろう。
自らの固有職が魔法剣士だと知った時、フォルスの胸中は複雑だった。魔法研究の幅が狭まることは明白だったからだ。
もちろん、自己強化魔法のように、魔法剣士ゆえの魔法相性によって、他の魔法職より上手く進められる研究もある。だが、心の奥底で歯がゆさを感じていたのも事実だ。
しかし、今は自分の固有職に感謝するしかなかった。もし彼が一般の魔法職だったなら、さっきの一撃で戦闘不能になっていただろう。下手をすれば絶命していたかもしれない。
魔法剣士の防御力と自己能力強化のおかげで、彼は九死に一生を得たようなものだった。
フォルスは意識を切り替えると、短い剣身に意識を集中する。
「魔力変成」
次の瞬間、フォルスの短剣が伸長し、小振りの剣ほどのサイズへ変貌する。一時的に魔力を物質化させる魔法だ。
併せて、彼の衣服もまた不思議な光沢を帯びる。これだけでも、頑丈な革鎧と同程度の防御力を得ることができたはずだ。フォルスは自分の身体の延長線上にしか発現させられないが、今は充分役に立つ。
「フォルスさん、右よ!」
ミルティの警告に従って右に意識をやったフォルスは、再び触手が障壁の内部に出現した瞬間を捉えた。
「――っ!」
先手必勝とばかりに、フォルスは触手を真っ向から叩き斬った。今までの人生で剣術を嗜んだことはないが、固有職の膂力がそれを補ってくれる。
「jl;aeoaw!!」
モンスターが耳障りな悲鳴を上げる。見れば、触手の先端が断ち割られているようだった。障壁の内部に存在していた触手は消え去っているが、おそらく同一のものだったのだろう。
その様子を見ていたミルティは、やがてはっとした表情を浮かべた。
「そういうことだったのね……!」
言うなり、彼女は魔法障壁を展開し直す。それは一般的な防御魔法であり、先程の遮断防壁のほうが複雑で強力であったことは間違いない。それがフォルスには不思議だった。
「油断はできないけれど、もうさっきのような奇襲を受けることはないと思うわ」
だが、きっぱり断言すると、ミルティはモンスターの足元に視線を向けた。そこには見慣れない魔法陣が描かれており、強力な魔力が湧き上がっていた。
フォルスが問いかけるような視線を向けると、ミルティは少し口ごもる。
「……時空魔法の実験をしていたのよ」
そして、決まり悪そうに口を開いた。
「時空魔法、ですか?」
ミルティの固有職である『賢者』があらゆる魔法と相性がいいことは知っているが、時空魔法は専門特化型の魔法だ。たとえミルティでも、高度な実験は難しいはずだった。
「ええ、魔法陣が変な次元に繋がってしまったみたいね。遮断防壁が上手く機能しなかったのも、あの魔物の特殊能力ではなくて、この場の時空間が不安定だからじゃないかしら。あの魔法は空間を断裂させて攻撃を弾くものだから」
「変な次元……じゃあ、このモンスターもそこから……?」
「もしくは、時空のねじれに棲息する魔物かもしれないわ。目指していた次元には、あんな生き物はいないはずだし……」
考え込む様子を見せたのも束の間、ミルティは頭を振ると表情を切り替えた。
「フォルスさん、巻き込んでしまってごめんなさい。本当なら、まずその傷を治療するべきなのだけれど……」
「いえ、ミルティ所長の魔力はあのモンスターを倒すために温存しておくべきです。これでも頑丈にできていますから、気にしないでください」
背中の激痛から意識を逸らして、フォルスは笑顔を作った。それは見栄を張った結果でもあるが、ミルティへの気遣いでもあった。
彼女の性格上、治すつもりならとっくに治癒魔法を使っているだろう。そして、それをしない理由は他に思いつかない。
だが、ミルティは首を横に振った。
「今の私は、治癒魔法を使えないの」
「……え?」
フォルスは耳を疑った。彼女が治癒魔法を使うところなら、何度も自分の眼で見ている。あのモンスターに治癒魔法を封印されたとでも言うのだろうか。そんな彼の疑問は、すぐに解消された。
「……今の私の固有職は、時空魔導師だから」
「そうか、道理で……」
フォルスは無意識に呟く。時空魔導師であれば、時空魔法の研究をしていて当然だし、先程の遮断防壁も時空魔導師が得意とする防御魔法なのだろう。だが……。
「どうやって転職を――」
言いかけてはっと気付く。つい数刻前に魔法研究所を訪れていたのは誰だったか。
「神子様まで絡んでいるということは、この時空魔法の実験は街の上層部からの依頼なんですか?」
フォルスは神子が定期的に魔法研究所を訪れていることを思い出す。意外とフットワークは軽いそうだが、転職の神子は街の重鎮だ。
上級職への転職にかかる代金は非常に高額だと聞くし、二人が親密な仲だとは言っても、ただの実験にここまで神子が付き合うものだろうか。
「そうね、そんなところかしら」
ミルティはどこか気まずそうに頷く。機密案件なのだろうと納得すると、フォルスはそれ以上追及しないことにした。
「ところで……ミルティ所長、奴を倒す手立てはありますか?」
問いながら、フォルスはモンスターを睨みつける。一向に魔法障壁を突破できないことに焦れているのか、モンスターは十本ほどの触手をひっきりなしに叩きつけていた。
「できれば応援が欲しいわ。クーちゃんたちがいてくれれば心強いけれど……」
「そうですね」
彼女の言う「クーちゃん」が、幼馴染の『剣姫』であることは知っている。『辺境の守護者』と双璧を為す辺境最強の戦士職であり、フォルスが「なぜ自分を頼ってくれないのか」と言う気にもならない合理的な人選だ。
それに、フォルスは自分の力を過信するつもりはない。必要最低限の鍛錬しかしていない自分が、他の戦士職と張り合えるとは思っていない。あくまで本分は研究者だと、彼はそう言い聞かせていた。
「フォルスさん、カナメさ……神子様にこのことを伝えてもらえる? それまでは私が魔物の相手をするから」
「そんな! それなら俺が残りま――」
「私が離脱すると、このモンスターを封じ込めている結界が消えてしまうもの。それに、魔法障壁を張り直してからは、一度も攻撃がすり抜けていないでしょう?」
だから大丈夫よ、とミルティは微笑む。彼女は上級魔法職であり、意外と戦闘経験も豊富だ。ろくに戦闘経験のないフォルスが心配するほうがおこがましい。
それでも彼女の傍に残りたいという感情と、彼女の提案が合理的だと認める理性の狭間でフォルスは葛藤した。
だが、悩んでいる暇はない。フォルスは歯を食いしばるようにして、言葉を絞り出した。
「分かりました。ミルティ所長、ご無事で……!」
フォルスは後ろ髪を引かれる思いで身を翻し、開いたままの扉から外へと駆け出す。
――はずだった。
バチッと音がしたかと思うと、フォルスは弾き飛ばされていた。ミルティの結界かとも思ったが、それにしてはあまりに異質すぎた。
今度は慎重に手で触れてみるが、結果は一度目と同じだった。目の前には外の景色がぼんやりと見えており、数人の研究員らしき姿が見える。異常に気付いて集まったのだろう。
そして、そのうちの一人が突入しようと踏み込んできたが、やはり向こう側に弾き飛ばされていた。
「なんだよ、これ……?」
フォルスは意識を切り替えると、戻ってミルティに現状を報告する。報告を受けて何かを探るようにしていた彼女は、やがて深刻な表情を浮かべた。
「今、この研究棟は異空間とでも言うべき状態にあるようね。時空魔法で空間が不安定になっていたところに、あの魔物が干渉したみたい。
そんなことができるなんて、時空のねじれに棲息する魔物である可能性が高まったわね」
「それって、俺たちを逃がさないためですか?」
「そうでしょうね……触手にばかり気を取られていたのは迂闊だったわ。魔法障壁はまだまだ展開していられるけれど、いつかは底をつくでしょうし」
いつか魔法障壁が消える。その事実にフォルスは焦った。魔法剣士の自分ですら、触手の一撃であのダメージだ。上級職とは言え、魔法職の彼女に耐えられるはずがない。
剣を持つ手がじっとりと汗ばむ。
「……あのモンスターを倒すしかありませんね。ミルティ所長、有効な攻撃手段はありますか?」
「そうね……試してみようかしら」
彼女の言葉とともに、様々な属性の魔法がモンスターへ降り注ぐ。火炎球をはじめとした基礎的な魔法ばかりとは言え、十種近くの異なる属性魔法をほぼ同時に生み出したことに、フォルスは驚嘆を覚えた。
ミルティは多重詠唱の特技を持っているが、ここまで使いこなせる人間は他にいない。並列思考の苦手な人間は、たとえ特技があっても発動すらしないという。
直後、ミルティの攻撃魔法がモンスターへ着弾する。だが、モンスターは傷一つ負っていなかった。
「効いていない……?」
「効いていないと言うよりも、届いていないように見えたわ。遮断防壁と似たような結界を展開しているようね」
その答えを聞いて、フォルスは少しだけ顔を歪める。
「それじゃ、一般的な魔法は通じないということですか?」
空間が繋がっていないのであれば、どんなに強力な魔法も意味がないのではないか。
「そうなるわ。この不安定な空間で、あれだけ確固とした断裂を作り出すなんて……凄いわね」
その声色には、感心した響きすら含まれていた。戦い慣れしているが故の余裕なのか、それとも彼女自身の特質か。どちらにせよ、ミルティの態度は焦っていたフォルスに落ち着きを与えてくれた。
「雷撃帷」
何を思ったのか、ミルティは雷のカーテンでモンスターを包み込んだ。見た目は派手だが、効果範囲や持続性に重点を置いた魔法であるため殺傷力は低い。
そして、長時間に及ぶ雷の包囲網を解除したミルティは、困ったように頬に手を当てた。
「まさかと思ったけれど、あのモンスター……魔法陣からエネルギーを吸い上げているわね」
「え?」
「攻撃魔法を完全に無効化するレベルの空間障壁を展開していながら、魔力量がさっぱり減らないと思ったのよ」
言われて、フォルスはモンスターの足元の魔法陣に目を凝らす。たしかに、魔法陣からモンスターに魔力が流れていた。
ミルティが魔法陣目がけて石の弾丸を射出するが、それも空間障壁に阻まれる。どうやら、モンスターも魔法陣の重要性を認識しているようだった。
「床に直接魔法陣を描けばよかったわ。そうすれば、床を砕くだけで済んだのに……あの障壁を破壊できるレベルの魔法もあるけれど、今度はルノールの街が灰になるし――」
さらりと物騒なことを口にしながら、ミルティは思考を口に出す。その様子を見ていたフォルスは、ふと思いつきを口に出した。
「あの……魔法陣を消せばいいんですよね? 消してきましょうか?」
彼女が言う通り、魔法陣が奴にエネルギーを供給しているのであれば、それを消すことが一番手っ取り早いはずだ。身体能力の高いフォルスであれば不可能ではない。
自分でも理にかなっていると思われた提案だったが、ミルティは慌てたように目を見開いた。
「駄目よ! 起動中の魔法陣を消すと、暴走して異空間へ吹き飛ばされるかもしれないわ! ……その役目は私がするから、フォルスさんはできるだけ離れていて。運がよければ巻き込まれずにすむわ」
思わぬ激しい語調に、フォルスは一瞬たじろいだ。だが、肚に力を入れてミルティを見つめ返す。
「魔法陣に干渉する際には、魔法障壁を解除する必要があります。ですが、ミルティ所長は魔法職。あの触手の攻撃には対応できないはずです」
なんせ魔法陣はモンスターの真下にあるのだ。あのモンスターとゼロ距離で魔法障壁を解除するなど、自殺行為でしかない。しかし、それでもミルティは譲らなかった。
「それでも駄目よ! フォルスさんまで異空間に飛ばされてしまうわ!」
「――俺は、ミルティ所長と一緒なら構いません」
「……え?」
ミルティはきょとん、とした表情を浮かべた。今までに見たことのない、虚を突かれた表情だ。だが、やがて瞳になんらかの理解の色が混ざりはじめる。
その一方で、咄嗟に出た自らの言葉を反芻し、フォルスは内心で頭を抱えていた。できるだけ表情を変えないようにしているが、顔じゅうが熱い。間違いなく、今の自分の顔は真っ赤だろう。
――やってしまった。こんな時に何を言っているんだ。フォルスはゴロゴロと床を転げまわりたい気持ちを抑える。きっと、彼女はフォルスに失望したことだろう。いや、失望だけでなく嫌悪されるかもしれない。
そんな表情が浮かぶ前にと、フォルスはミルティから目を逸らしてモンスターに向き直った。
「待って……!」
その声が聞こえた時には、フォルスは行動を開始していた。ミルティの魔法障壁から飛び出し、自分へ向かって伸びて来た触手を斬り払う。
魔法陣までの距離は三メートルもない。だが、至近距離まで近付いたことで、触手の猛攻は激しさを増し、フォルスは防戦一方になっていた。
それでもフォルスが致命傷を負っていないのは、ミルティが小さな魔法障壁を盾のように展開し、フォルスを助けてくれていたからだろう。
しかし、魔法職であるミルティにはフォルスほどの動体視力はないし、フォルスの体力も無限ではない。このままでは、魔法陣に触れる前に押し負ける。
そう判断したフォルスは、剣の刃に左手を当てると、その手首近くを一気に切り裂いた。灼けつくような痛みに顔を顰めながらも、血液が噴き出している左手をモンスターの触手に叩きつける。
「フォルスさんっ!?」
そして、触手と衝突した左手は触手やモンスターの体表を赤く染め……。
――その下にある魔法陣にも血飛沫が飛んだ。
「契約破棄!」
触手に打たれることを覚悟の上で、フォルスは魔法に集中した。魔法陣に降り注いだ自身の血液はやがて文字や記号と混ざり合い、魔法陣を意味のない図形へと変貌させる。
直後、バヂッと空間自体にヒビが入ったかのような異音が響き、辺りにスパークが散った。
「――ッ!」
だが、その現象に気を取られている暇はなかった。三方から襲い来た触手に打ち据えられたのだ。
右肩、左腕、背中。頭部こそ庇うことができたものの、特に二度目となる背中への打撃は、彼に想像を絶する苦痛をもたらした。
直後、フォルスの手から滑り落ちた短剣がカラン、と音を立てる。
「空間固定!」
一拍遅れてミルティの声が響いた。どこかおぼろげだった空間が、フォルスの周辺だけはっきりとした形を取り戻す。同時に、どこかぼやけていたモンスターの身体も、その三分の一ほどがくっきりと姿を現していた。
そう思った瞬間、辺りの空間が一気に歪んだ。突如として発生した歪みは、モンスターの身体を三分の二ほど飲み込んだかと思うと、前触れもなくふっと消える。
後に残されたのは、質量の三分の二を失って息絶えた魔物の死骸だけだった。フォルスと共に空間固定されていた部分だけが、この空間に残ったのだろう。
そう考えた瞬間、フォルスの身体から力が抜ける。酷使した身体は限界を迎えていたのだろう。彼の膝がカクン、と折れた。
「フォルスさん!?」
後ろからミルティの声が聞こえる。彼女も無事だったらしい。その事実に安堵すると、フォルスは薄れゆく意識を手放した。
◆◆◆
額からひんやりとした感触が伝わってくる。意識を取り戻したフォルスがまず感じたのは、そんな違和感だった。
「う……」
フォルスは本能的に身を起こそうとする。すると、額に触れていた何かがさっと消失した。そのことに名残惜しさを感じながら、彼は周囲を見回す。
どうやらここは仮眠室のようだった。泊りがけで研究をすることも珍しくないルノール魔法研究所では、そんな研究員用に小さいながらも仮眠室が設けられている。フォルス自身、何度も世話になった施設であり、その見立てには自信があった。
「あれ!? ミルティ、所長……?」
だから、驚くのはそこではなかった。問題は、なぜここに彼女がいるのかと言うことだ。
「よかった……外傷はベレッタさんが治してくれたけれど、意識が戻らなかったから……」
ベレッタとは、フォルスの同僚である治癒師の研究員だ。その名を聞いた途端、彼は自分が重傷を負っていたことを思い出した。もう痛みはないが、治癒魔法を受けた後に特有の妙な感覚が身体に残っている。
「あの後……どうなったんですか?」
「フォルスさんのおかげでモンスターは倒せたし、魔法陣の消し方がよかったから、なんとか異空間に飛ばされずにすんだわ。……本当にありがとう」
「そうですか……よかった」
フォルスは安堵の溜息をつくと、仮眠ベッドの上で姿勢を正した。
「ところで、ミルティ所長はいつもあんなに危険な実験をしているんですか?」
「え? ……そんなことはないわ。他の実験に関しては、充分な安全性を担保しているから」
ミルティは一瞬首を傾げた後、ゆっくり首を横に振る。だが、フォルスに引き下がるつもりはない。
「少なくとも、神子様が来られた日は同様の実験をしていたんですよね?」
「それは……そうよ」
問いかけを肯定しながらも、ミルティは不思議そうにフォルスを見つめる。
「……駄目です」
「え?」
「今後はちゃんと護衛をつけてください。機密事項で他人の協力を得られないなら、せめて俺に護衛させてください。本職には及びませんが、今回のようにミルティ所長の盾になることはできますし、助手を務めることだってできます」
「それは……」
よっぽど予想外の言葉だったのか、ミルティは目を丸くして驚いていた。
「気持ちは嬉しいけれど、フォルスさんの研究の邪魔をするわけにはいかないわ。最近だって、私が押しつけた毒抵抗魔法の開発で他の実験ができていなかったでしょう?」
「大切な上司が人知れず危機に陥っているかもしれないなんて、そんな想像をしてしまうほうが辛いです」
それは、いつかミルティに言われた言葉だが、フォルスの心情そのままでもあった。
「なんだか、あの時と立場が逆になってしまったわね」
彼女もそのことに気付いたのか、決まり悪そうに笑う。
「ミルティ所長は一人で抱え込み過ぎです。俺にできることなら、なんでも押し付けてください」
「……ふふっ、ありがとう」
その表情に湛えられている笑みは、いつもと少し異なっていた。フォルスが彼女に見とれていると、ミルティはふとその顔を曇らせる。
「そうそう、フォルスさんに謝らなければならないことがあるの」
彼女は一度言葉を切ると、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「実は、あの実験室にあったものはほとんど異空間に飲み込まれてしまって……」
「ということは、あの魔法陣を起動させるのに使った触媒が……?」
時空魔法のことはあまり知らないが、仮にも異空間への扉を開くことに成功した魔法陣だ。おそらく希少な触媒を使っていたのだろう。魔法研究者として、その辛さはよく分かる。
そう告げると、ミルティは首を横に振った。
「それは仕方がないけれど……実は、フォルスさんの短剣も異空間へ呑み込まれてしまったの」
「ああ……気にしないでください」
そう言えば、戦いの最後にとり落とした記憶がある。だが、取り立てて高価な品でもなければ、強い思い入れがあるわけでもない。
そう説明しても、ミルティは納得できない様子だった。
「そういうわけにはいかないわ。剣士さんは剣をとても大切にするでしょう?」
「俺は魔法剣士というよりは魔法研究者ですからね。第一、ミルティ所長が無事なら、剣だろうが触媒だろうが惜しくはありません」
それは、強がりでもなんでもない。二人が助かった代償がそれだけなら、上々の結果だと言えるだろう。
だが、その言葉を受けて、ミルティはきょとんとした表情を浮かべた。最近似たような表情を目にした気がして、フォルスは自分の記憶を探る。
やがて、フォルスはその答えに思い至った。
――俺は、ミルティ所長と一緒なら構いません。
「ああああ……」
フォルスは思わず頭を抱えた。そうだ、あの時も彼女は同じ顔をしていた。当時は戦いで気が昂揚していたこともあったし、何より身悶えるような余裕はなかった。
だが、今はそうではない。自分が口にした言葉を思い出し、ミルティがどう受け止めたかをシミュレートする。
そして出た結論は、「自分の想いは彼女に筒抜けに違いない」というものだった。再び、彼の顔に熱がこもりはじめる。
彼女の性格上、それを理由にフォルスを研究所から追い出すようなことはしないだろう。だが、これを機に態度がよそよそしくなる可能性は非常に高い。フォルスは目の前が真っ暗になったかのような錯覚に陥った。
「あの……フォルスさん?」
その動揺は大きく、ミルティが声をかけてきていることにも気付かないほどだった。
「は、はいっ!?」
やがて、弾かれるように返事をしたフォルスに対して、ミルティはどこかためらいがちに言葉を紡ぐ。
「フォルスさんの予想通り、あの研究は機密事項に属するものなの。だから……よかったら、今後は手伝ってもらってもいいかしら?」
「へ?」
間の抜けた声が部屋に響く。だが、いつまでも呆けているフォルスではなかった。
「も、もちろんです! いつでも言ってください!」
これは夢だろうか。ひょっとして、本当の自分はまだ仮眠室で寝ているのではないか。そんな想像が脳裏をよぎる。
「ありがとう、今度からお願いするわね」
だが、ミルティの笑顔を見るうち、その思いはどこかへ吹き飛んでいった。フォルスの顔にも自然と笑顔が浮かぶ。
「それじゃ、私は引き上げるけれど……フォルスさんも今日は無理せずに、帰ってしっかり休んでね」
ミルティはそう言い残して部屋から出て行く。その後ろ姿をフォルスは黙って見送った。
この展開でフォルスの護衛を認めたということは、期待してもいいのだろうか。それとも気にも留めていないだけか。いや、下手をすれば無理をしている可能性もある。
尽きない悩みに、彼は天井を見つめ続けるのだった。
彼が自己強化魔法の大家となるのは……まだ先の話。




