クロシアの系譜
エピローグの5年くらい後のお話です。
【クルシス神殿司祭 ジュネ・クロシア】
商業都市の二つ名を持つ自治都市セイヴェルンは、その南端に大きな港を築いている。様々な地方から来た無数の船が停泊している光景に、初めて港を見た者は感嘆の声を上げるという。
そんな港に降り立った女性は、懐かしさとともに周囲を見回した。
「ジュネちゃん、元気でな! なんかあったらいつでも戻ってきたらええで!」
「はい、ありがとうございます。コルネリオさんにも色々とお世話になりました。たまにはこの街のクルシス神殿にも遊びに来てくださいね?」
「おお、また寄らせてもらうわ。カナメはここのクルシス神殿宛ての手紙をしょっちゅう俺に言付けるし、また会う機会もあるやろ」
最後にニカッと人好きのする笑顔を浮かべると、彼女を乗せてくれた商船の主は荷下ろしの手続きへと向かう。
その後ろ姿にもう一度頭を下げると、ジュネは頭の中に地図を描き出した。この街を離れて六、七年が経っているが、そこは十五の齢まで慣れ親しんだ古巣だ。帰り道に困ることはなかった。
港エリアを北へ抜けると、やがて町並みは倉庫を主としたものへ変わる。そしてさらに歩を進めると、セイヴェルンの代名詞とも言える商業エリアが彼女を出迎えた。
ジュネが最近まで暮らしていた自治都市ルノールは、発展著しい辺境の中でも特に賑わっていた街だ。そして、彼女が勤めていたクルシス神殿はその一等地に存在していたため、喧騒には慣れている。
だが、やはりこの街の商人が生み出す喧騒には独特の空気があった。ジュネが先程のコルネリオに親近感を覚えていたのは、彼がこの街の出身であることと無関係ではないだろう。
懐かしさから、ジュネは通りの店の売り物一つ一つに目をやる。すると、彼女の興味を引く物が視界に映った。
「剣姫の……サイン?」
ジュネは思わず目を瞬かせた。前勤務先の関係で、剣姫のことはよく知っている。それどころか、一時は毎日顔を合わせていたし、他愛ない会話だってたくさん交わしていた。
その過程で知ったことだが、彼女はサインをしたがらない。よっぽど断りにくい相手でない限り書こうとしないため、一般の店で売りに出される可能性は極めて低かった。
まして、未だに二つ名を恥ずかしがっている彼女が、この色紙のように自ら『剣姫クルネ・ロゼスタール』などと書くことはない。それに、筆跡も違っている。多少は彼女の字に似せているようだが、まだまだ精進が必要に思えた。
剣姫が結婚し、一人目の子を産んだのは二年ほど前のことだ。ジュネが辺境を発った時点では二人目の子を身籠っており、生まれる日もそう遠くはないはずだ。
それに伴い、セイヴェルンで爆発的な人気を誇っていた『剣姫』の人気はだいぶ落ち着いていた。世知辛い話ではあるが、彼女をアイドルのような存在として見ていたファン層が離れたのだろう。
だが、それでも剣姫の人気は根強く、セイヴェルン不在でありながらも、闘技場の関連商品では五覇並みの売り上げを誇ると言う。
それを考えれば、こう言った手合いの商品が出て来ることはおかしなことではなかった。
立ち止まったジュネを見て売り込む好機と判断したのか、商人が声をかけてくる。
「そこの美人さん、何をお探しだい?」
「ふふ、ただの冷やかしよ」
だが、ジュネとて伊達にこの街で齢を重ねたわけではない。彼女は曖昧な笑みでセールストークを受け流すと、再びサインに視線を向ける。
希少な剣姫のサインがこの価格で手に入るはずはないから、買うほうも分かっていて買うのだろう。それもまたセイヴェルンの名物の一つだ。そう考えながらも、ジュネの中に悪戯心が生まれた。
「これって、いつ頃書かれたものなの?」
「もちろん最近のやつさ! 辺境から直接仕入れたんだぜ」
その質問に脈ありと見たのか、商人が身を乗り出す。
「じゃあ、旧姓で書いたのね。クルネさんにしては珍しいわね」
「あ……」
神子と結婚した時に、彼女は姓を変えている。そして、それ以降に書かれた数少ないサインはすべて新姓のはずだ。結婚後も夫大好きオーラが溢れている彼女に「旧姓でサインを書いてくれ」と頼める猛者はコルネリオくらいなものだ。
失敗に気づいたのか、商人の表情に苦笑が浮かぶ。字を似せることに必死すぎて、そこまで気が回らなかったのかもしれない。
「いやぁ、言われてみればそうだね。……まったく、新しい取引先が特別にって寄越してくれた品なんだが、見事に騙されたぜ」
商人はいささかオーバーな様子で嘆いてみせた。悪びれた様子がないのは、やはりそういうことを前提にしていたからだろう。
だが、ジュネもいちいち突っかかるつもりはない。その代わりに、彼女は去り際に一言だけ付け加えることにした。
「あと、クルネさんは『剣匠』とは書いても、『剣姫』とは絶対に書かないわよ。この前も『未だに二つ名は恥ずかしい』って言ってたから」
「へ……?」
商人が目を丸くするのを尻目に、彼女は身を翻す。
ちょっとからかいすぎたかな。ジュネは軽く反省しながら、店を後にした。
◆◆◆
「お爺様、ただいま帰りました」
「ジュネよ、よく帰った。辺境での長年にわたる修行ご苦労じゃったな」
神殿長室に入ったジュネは、不思議な感覚に戸惑っていた。今までとても大きく見えていた神殿長室が、少し小さく感じられたのだ。
ルノールの街のクルシス神殿に慣れたせいだろうが、それが物理的なものなのか、それとも精神的なものなのか、ジュネには判断がつかなかった。
「おかえりなさい、ジュネ」
「よく頑張ったな」
次いで両親が声をかけてくる。この場にいるのは、ジュネを除くと祖父と両親の三人だが、彼らはこの神殿の神殿長、副神殿長、筆頭司祭であり、名実共にこの神殿の最高幹部だ。
だが、家族の久しぶりの再会であるためか、場に流れる空気に緊張感はなかった。
「――古代クルシス神殿の管理者権限を……!?」
「いつか、クルシスの巫女様に挨拶をしに行きたいものだね」
「ええ、ルーシャ様も喜ぶと思うわ」
「古代遺跡の姉妹都市を探しに?」
「まだ計画段階でしかないようじゃが、帝国と張り合うつもりのようでな。辺境と手を組むかもしれん」
四人はひとしきり近況報告を交わす。それぞれの街の様子や神殿での諸事といった仕事絡みの案件も混ざってはいたが、彼らにとってそれはいつものことだ。
そして、話が落ち着いた頃合いで、祖父であるカストル神殿長が口を開く。
「……さて、ジュネよ。お主をセイヴェルンへ呼び戻した理由は手紙に書いた通りじゃ」
「婚姻の話ですね?」
その言葉にカストルは頷く。辺境へ赴いた頃は十五歳だったジュネも、今では立派な適齢期だ。
「もし神子の遺伝子を得られるのであれば、重婚もやむなしと考えておったが……」
「義父さん……」
「……お父様」
ジュネの両親であるゼルツとユーリが眉を顰める。彼らも遺伝要素を重視して結ばれた夫婦ではあったが、娘の重婚にはあまり乗り気ではなかったらしい。
だが、カストル神殿長がそれを気にした様子はなかった。
「神子が女好きじゃという噂も当てにはならんかったのう……まあ、剣姫が妻では浮気も命がけじゃろうが」
「そういう問題ではない気が……」
ジュネは苦笑を浮かべる。彼女が辺境のクルシス神殿に派遣された理由の一つに、そういった要素が含まれていたことには気付いていた。だが、「神子を籠絡せよ」と命じられたわけではなかったため、自分の気が向けば、といった程度の認識に留めていたのだ。
それに、ジュネには神気が視える。通常の人間ではあり得ない神気を放つ神子を一介の人間、一人の男性として考えろと言うのは、なかなか無茶な注文だった。
「たしかにカナメ神殿長……いえ、神子様には好感も持てますし、尊敬もしていますが、私の手には負えません」
しかも、彼を籠絡するつもりだったとしても、競争相手は剣姫だけではなかった。辺境で屈指の人気を誇る賢者や聖女までをも退ける必要があったのだ。
さすがに自分に魅力がないとは思わないが、彼女たちを相手取って勝ち目があるかと言えば、非常に難しいところだった。
「くははははっ! たしかに神子は妙な男じゃからな」
ジュネの答えを聞いて、カストル神殿長は破顔した。神子とは何度か顔を合わせているし、意外と手紙のやり取りもあると聞く。そんな祖父だからこそ、ジュネの言葉には頷けるものがあるのだろう。
「……話を戻そう。婚姻相手については、こちらで候補者を幾人か選んでおいた。これがリストじゃ。ジュネが相手であれば、誰も嫌とは言うまいて」
そう言ってカストルが手元の紙をジュネに手渡そうとしたところ、母の声がそれを遮った。
「――ジュネ。もう一度確認するけれど、辺境で好いた殿方はいなかったのね?」
それは、ある意味では最後通牒でもあった。クロシア家は婚姻に際して遺伝要素を重視するため、恋愛結婚は非常に珍しい。そのため、クロシア家の条件を満たさない相手と添い遂げようとすると非常にややこしいことになる。
そして、ジュネは一族の目の届かない土地で長年過ごしていたのだ。そこで恋愛沙汰の一つもなかったとは考えにくいのだろう。
「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう」
ジュネは笑顔を返した。そういった要素が一切なかったとは言わないが、少なくとも今に繋がるような関係は存在しない。もともと、婚姻相手は自分の意思と別の次元で決まるのが当然だと思っていたため、深入りしないようにしていたのも原因だろう。彼女はそう自己分析していた。
カストル神殿長からジュネへ、十名ほどの名が記されたリストが今度こそ手渡される。候補者の人数が予想より多かったことに、ジュネは内心で驚いた。
リストに目を通した後でちらりと両親を見やると、彼らはやり遂げた表情でこちらを見ていた。思っていたよりも候補者の数が多いのは、二人が選択肢を増やしてくれたからだろう。
クロシア家直系の人間は、神気を視る力がある者を婚姻の相手として選ぶ必要があるため、必然的に相手は一族内の人間に限られることもあって、リストに挙げられた名前にはすべて心当たりがある。そして、その中には好ましい人間の名も存在していた。
「……どうせ、次の世代では神子の血を取り入れるからの。多少血が濃すぎようと、神気を視る力が弱めであろうと、次世代で調整できるという判断じゃ」
おそらくは両親にそう説得されたのだろう。掟には厳格な祖父だが、孫娘の婚姻相手ともなればさすがに情が混じったのかもしれない。だが、ジュネが気になったのはそこだけではない。
「次世代で神子の血を?」
「お主の子と神子の子で婚姻を結び、神子の血を取り込む。たしか、神子の子は男児じゃったな?」
「はい、男の子です。それに、もうすぐ生まれる予定のお子さんがもう一人います」
ジュネは情報を付け加えた。妊娠したとしても無事に子供が生まれるかどうかは分からないが、なんと言っても母親は剣匠の固有職持ちだ。身体的な面で危機に陥るとは思えなかったし、意外と心配性な神子が治癒師の手配もしている。無事に生まれてくる確率は、一般人よりもはるかに高いはずだった。
「ただし、神子様ほどの神気はありません」
ジュネは、母親と同じ髪色をした幼子の姿を思い出す。ジュネが視た限りでは、彼が纏っている神気はごく僅かなものだ。もちろん、神気を宿している時点で規格外の存在ではあるのだが。
「と言うことは、多少は神気を宿しているのじゃな? 転職師としての資質は分からぬが、それだけでも婚姻の理由にはなるじゃろうて。……今度生まれると言う、二人目のほうはどうじゃ?」
「下の子のほうが神気は強そうです。もちろん、神子様と比べれば僅かですが」
その言葉を聞いて、カストルは興味深そうに身を乗り出した。
「ほう……その話、神子には?」
「話してはいませんが……神子様が気付いていないとは思えません」
まだ生まれてもいない子の話だ。剣姫の腹部には明らかな神気が宿っていたが、他人の身体の中を覗き込んだような後ろめたさを覚えて、そのことを口に出すことはできなかった。そのため、神子とその話をしたことはない。
「その子が女児であれば、非常に理想的じゃの。お主の子がどちらの性別であっても、どちらかの許婚にすることができる」
「それはそうですが……神子様は、子に許婚を定めることを認めるでしょうか?」
本拠地であるセイヴェルンを離れ、辺境で暮らしていたジュネはクロシア一族の特殊性を認識している。自分たちの一族ほど、遺伝要素を重視している集団は少ない。
もちろん、貴族などには許婚が存在することも珍しくないし、恋愛結婚をした夫婦は意外と少ない。だが、神子の性格を考えると、許婚という存在で子の未来を縛りたくないと、そう考えるような気がした。
「最初は渋っておったがな。子が生まれてすぐに決めるのではなく、ある程度成長してからまず顔合わせをさせたいと言っておった。最終的には許婚の破棄も可能だ」
「お爺様、それでは……」
あまり意味がないのではないか。そう言いかけたジュネに、カストルはニヤリと笑いかけた。
「『一応、許婚を定めることは了承します。許婚という存在が、両者の関係性においてプラスの影響を与えることは許容しましょう』……神子はそう言うておったわ」
「ええと……」
言葉の意味がピンと来ず、ジュネは首を傾げた。神子の話はたまに難解だ。
「つまり、許婚にすることで、嫌でも相手を意識せざるを得ない状態にするわけじゃな。もちろんメリットばかりではないが、他の者とは一線を画する立ち位置を得られる」
「そうかもしれませんが、そう上手くいきますか?」
「それなりの効果はあるじゃろう。そういった設定にロマンを感じる男は多いからの。神子もそう言っていたことじゃし、息子も同様である可能性は大いにある」
「……意外と仲がいいんですね」
祖父と神子が深いレベルで意見交換をしていたと知り、ジュネは複雑な気分だった。
「まあ、ともかくじゃ。今はお主の婚姻のことを考えようぞ。好いた男ではなく、候補者から相手を選ばせることしかできぬ儂が言うのもなんじゃが……」
一旦言葉を切ると、カストル神殿長はふっと相好を崩した。
「……ジュネの花嫁姿は、老い先短い儂の数少ない楽しみじゃからな」
◆◆◆
「ジュネお姉さま、お帰りなさい!」
「……久しぶり」
帰郷した日の夜。まだ仕事があるという両親や祖父を置いて、一足先に懐かしい実家へ帰ったジュネは、久しぶりに再会した弟妹に出迎えられていた。
「ただいま! マレーネもアルノーも大きくなったわね」
「もう十五歳ですもの」
「……ああ」
嬉しそうに答えるマレーネと、言葉少なに答えるアルノーは対照的だった。弟が寡黙になったという話は聞いていないから、久しぶりの姉に戸惑っているのだろうか。ジュネが辺境へ発った時には、彼はまだ七歳だったはずだし、戸惑うのも無理もない。
そして、彼女はガサゴソと自分の手荷物を探ると、やがて薄い包みを取り出した。
「マレーネ、お土産よ。剣姫のサインが欲しかったんでしょ?」
「お姉さま、ありがとうございます! まさか本当にもらえるなんて……!」
サインを抱きしめて、妹は跳び上がらんばかりに喜んでいた。妹から要望を聞いた時には難しいだろうと思っていたのだが、駄目で元々と剣姫に頼んでみたところ、長年苦労を共にした仲だからと、特別に書いてくれたのだ。
「そして、アルノーの分ね」
続いてジュネが取り出したのは、「神子様に関係する何か」を要望したアルノーのために、神子が祝福してくれた護石だ。
弟の要望を知った時には驚いたが、千年前の真実を知るクロシア一族からすれば、神子は『名もなき神』を滅ぼし、封印されていた固有職を解放した立役者だ。彼が神子を英雄視することも分からなくはない。
実際に一緒に仕事をしていた身からすると、英雄よりは経営者か統治者と言った言葉のほうが似合う気もするが、弟の憧憬にわざわざ水を差す必要はないだろう。
ちなみに、神子は真面目に護石を祝福してくれたらしい。なぜそれが分かるのかと言えば、護石からかすかな神気を感じるからだ。神子にそのつもりはなかったのだろうが、固有職資質の成長を促す効果くらいはあってもおかしくない。
「姉さん、ありがとう……!」
アルノーは目を見開いていた。彼もクロシア直系の例に漏れず、神気を視ることができる。ただの護石とは一線を画するということが分かったはずだ。いずれ効力はなくなるだろうが、一年や二年で神気が消えることはないように思われた。
驚きが照れに勝ったのか、彼は興奮した様子で護石を受け取る。それを見届けるなり、マレーネがジュネに詰め寄った。久しぶりの再会であり、話したいことがたくさんあるのだろう。
「お姉さま、ルノールの街はどんな様子ですの?」
「……そう言えば、二人目の転職師が見つかったって聞いたけど――」
そうして、彼らが旧交を温めていた時だった。玄関の扉をノックする音が響いた。三人が顔を見合わせていると、やがて困惑した様子の女性がリビングに現れる。クロシア家が雇っている使用人だ。
彼女は三人に一礼すると、困惑している原因を口にした。
「あの……ベルゼットと名乗る男性がお見えなのですが……」
◆◆◆
夜更けのクロシア邸は緊張感に包まれていた。
応接室にいるのは五人だ。祖父であるカストル神殿長と両親、そしてジュネが片側のソファに掛けており、向かいには狼めいた容貌の男性が座っていた。
――ベルゼット・ノヴァーラク。またの名をベルゼット・クロシア。ジュネの母ユーリの兄であり、ジュネにとっては伯父にあたる。
神気を視る才能には恵まれなかったものの、彼は先天的な魔法剣士の固有職持ちであり、現在のクルシス神への扱いは不当なものであり、改められるべきであるとの主張からセイヴェルンを出奔。他国のクルシス神殿へ潜り込んで頭角を現し、ついには本神殿の副神殿長を任せられた人物だ。
だが、彼は統督教が禁止している薬物を売り捌いて資金源にしていたことが発覚し、クルシス神殿から追放処分を受けている。また、殺人未遂を起こしたことでしばらく収監されていたはずだ。
しかしながら、クルシス本神殿が所在するクローディア王国の法制度は、固有職持ちに対して非常に甘い。そのため、彼は早期のうちに釈放されたはずだが、その行方は杳として知れなかった。
そのベルゼットが目の前にいるのだ。もし彼がその気になれば、この場にいる四人を殺害することもできるだろう。ミレニア司祭から餞別として贈られた特殊な腕輪を、ジュネはそっと撫でた。
「……ベルゼット、久しぶりじゃな。まさか、儂が生きているうちにお前が姿を見せるとは思うておらなんだ」
口火を切ったカストル神殿長の表情は、ジュネが今まで見たことのない複雑なものだった。一族の在り方を否定して出奔し、よくも悪くも有名になった息子が数十年ぶりに顔を出したのだから、それは仕方のないことだろう。
「俺もこの街を訪れるつもりはなかったが、やはり気になってな」
クルシス神殿と共に在るクロシア一族にとって、クルシス神殿を追放されたことの意味は重大だ。だが、ベルゼットに悪びれた様子は見られなかった。
「それは、固有職が解放されたことについてか?」
「当然だ。それに、中途半端にあの真実が明かされているようだが、あれはどういう意図だ?」
両者は無言で睨み合う。やがて口を開いたのはカストル神殿長だった。
「……お主はクルシス神の不当な扱いに強い憤りを抱いていたからのぅ。気になるのも道理か」
意外なことに、彼は知っていることを包み隠さず伝えるつもりのようだった。転職の神子の特殊性や、『名もなき神』との戦い。そして、古代クルシス神殿で行った固有職解放の儀式。
神妙な様子でそれらの話を聞き終えたベルゼットは、背もたれに体重を預けると苦笑を浮かべた。
「俺が斬った坊主が転職の神子だと知った時は笑ったが……我ながらとんだ回り道をしたものだ」
「ベルゼット、それはどういう意味だ?」
その発言に、カストル神殿長をはじめとした三人が色めき立つ。その様子を見て、ジュネは彼らが事実を知らないことに気付いた。
「――神子様は神学校時代に、ベルゼット……伯父さんに斬られて瀕死の重傷を負ったの。伯父さんが収監されたのも、その時の一件が原因だったはずよ」
「なんと……。これは神子に詫びる必要があるな……」
カストル神殿長は苦い顔で呟く。クロシア家に気を遣って、神子は意図的に黙っていたのだろう。ジュネがそのことを知っているのだって、ミレニア司祭から雑談の一つとして聞いていたからだ。
「ほう……? お前はユーリの子か?」
ジュネに鋭い眼光が向けられる。だが、その目から害意は感じられなかった。
「ええ、私とゼルツの子供よ。名前はジュネ。つい最近まで神子の神殿に出向していたから、私たちの誰よりもその辺りの事情に詳しいわ」
ジュネが答えるよりも早く、母親が答えを返す。それを聞いたベルゼットは、面白そうに笑い声を上げた。
「と言うことは、お前もあの神殿にいたのだな。面白いこともあるものだ」
「あの……今の言い方では、ベルゼット伯父さんも辺境にいたように聞こえるのですけど……」
ジュネが疑問を口にすると、ベルゼットはあっさりと頷く。
「転職の神子はクルシス神の復権に有用だ。クルシス神殿を追放された身ではあるが、汚れ仕事くらいは請け負ってやろうと思ってな」
「ぬ……!?」
神子に協力するつもりでいた。それはカストル神殿長にとって予想外の言葉だったようで、目を丸くして驚いていた。
だが、ベルゼットは気にした様子もなく、自嘲気味に笑う。
「集めた情報を分析したところでは、神子は意外と強かな性格をしているようだからな。そういった人間が必要なはずだ。そう思っていたが……。
遠目から神子を見て驚いた。あの時、俺が斬り捨てた坊主じゃないか、ってな。隣にいた女剣士とも剣を打ち合わせた記憶がある。間違いなく、神子たちは俺を許さないだろう」
おかげで固有職解放にまつわる詳しい話を聞くことができないため、この街へ寄ったのだと言う。
「お主、今までは何をしておったのじゃ? まさか、ずっと辺境におったのか?」
「一時期だけだ。色々あって諸国を巡っていたが、辺境に尋常じゃない数のモンスターが湧いたことがあってな。神子に死なれては具合が悪いこともあって、その時だけは辺境に滞在していた」
「じゃあ、あの戦いに参加していたのですか? ……ありがとうございます」
『名もなき神』の策謀により襲い来た、おびただしい数のモンスター。辺境史上でも最大の激戦だったあの戦いに加勢してくれていたと知って、ジュネの中でベルゼットへの警戒心が少し薄れる。
「礼を言われる筋合いはない。さっきも言った通り、転職の神子に死なれては勿体ないだけだ」
その言葉は照れ隠しのようにも見えた。そんなジュネの思考を察したのか、ベルゼットは居心地悪そうに、ぬるくなったお茶を一気に呷る。
そんな彼に、妹であるユーリは気遣わしげに問いかけた。
「それで、兄さんはこれからどうするつもり? クルシス神殿に戻るつもりはないのでしょう?」
「俺は追放された身だ。戻れるとは思わないし、戻るつもりもない。一度追放した神官を神殿で再び受け入れるようなことがあれば、クルシス神殿の信頼は一気に落ちるぞ。そして、それを逃す教会やダール神殿ではない」
そう答えると、ベルゼットは鋭い目つきで宙を見つめる。
「今のクルシス神殿は、七大神殿筆頭のダール神殿と肩を並べる勢いだ。プロメト神殿長は上手くごまかしているようだが、実質的には神殿派で一番の権勢を誇っていると言ってもいいだろう。
そんな中で、追放された元副神殿長が復帰したとなれば、焦ったダール神殿が嬉々として非難してくるのは目に見えている」
その物言いは、彼がかつてクルシス本神殿の副神殿長であったことを思い出させた。ベルゼットの考え方はどこか神子と通じるものがあり、二人が協力してクルシス神殿を運営していればどうなったのかと、そう思わせるものがあった。
だが、その機会が訪れることはないし、ベルゼットが後悔している様子もなかった。
「では、魔法剣士としてどこぞの貴族に士官するか?」
「そのつもりはない。神殿にいた間に、貴族の奴らには嫌気がさしていたからな。……特に今後のあてはないが、クルシスの巫女とやらには会ってみたいと思っている」
「ルーシャ様に?」
思わずジュネは口を開く。この世界でルーシャと一番親しいのは神子かもしれないが、次に親しいのは自分だと言う自負がある。そのため、ベルゼットの思惑には気になるものがあった。
「クルシスの巫女はクルシス神と意思の疎通ができたのだろう? ならば、訊きたいことは幾らでもある」
「それは……」
その気持ちは分かる。彼はクルシス神への不当な扱いに憤ってクロシア家を出奔した人物だ。そして、その憤りはクロシア一族に共通のものであり、憤りの根元にはクルシス神に対する敬意があるのだから。
「じゃが、古代遺跡には誰でも入れるわけではないはずだ。評議員のコネもいるじゃろうし、何より神子を無視するわけにはいくまい。……のう、ジュネ」
「そうですね……古代遺跡に入るだけなら、魔法剣士として優秀な伯父さんに許可が下りる可能性はあると思います。
ただ、ルーシャ様は滅多に姿を現しません。神子様と一緒であれば、高確率で出会えるのですが……」
突然振られた祖父の質問に、ジュネは困ったように答えた。なんだかんだ言って、神子の古代遺跡に対する影響力は強い。
まず、遺跡内の宿泊施設等の管理者権限は、公式には神子しか持っていないことになっている。実際にはジュネも権限を持っているが、厄介ごとを避けるために公表はしていない。
また、古代遺跡の管理担当はクリストフ評議員やリカルド評議員を中心とした複数名で構成されているが、彼らの多くは神子と非常に親密な間柄だ。
さらに、神子は古代遺跡の技術や魔道具の用途について、たまに研究者顔負けの考察をすることもあるため、遺跡関係者からも一目置かれていた。
まして、クルシスの巫女であるルーシャは、神子とジュネ以外にはあまり興味を示さない。ベルゼットも彼女の兄の子孫ではあるが、神子かジュネが紹介しない限り分かる話ではないし、遺跡に行っても待ちぼうけになるだけだ。
気まずい沈黙が下りる。現在のクロシア一族にとって、神子との友好関係は最優先事項だ。ベルゼットの行動で彼らの関係性にヒビを入れられるわけにはいかない。
沈黙の間、カストル神殿長はベルゼットからまったく目を逸らさなかった。そして、ベルゼットも真っ向から視線を受け止める。
やがて、口を開いたのはカストル神殿長だった。
「儂から神子に手紙でも書くか?」
「……出奔して好き勝手をしていた人間に対して、やけに気前がいいな」
ベルゼットの真意を探るような視線に対して、カストル神殿長はニヤリと笑う。
「なに、ただの親心じゃよ」
「なに……?」
「以前のままであれば、逆に神子へ密告文の一つも送っているところだが、今のお主はいい方向に落ち着いておるようじゃからな」
その言葉にベルゼットは面食らった様子だった。その胸中をよぎったのはどんな思いだったのだろうか。
やがて気を取り直したのか、ベルゼットはうっすらと笑みを浮かべた。
「せっかくだが、自分の始末は自分でつける」
「下手をすれば、出会い頭に剣姫に斬られかねんぞ?」
「その時はその時だ」
ベルゼットの瞳に迷いはなかった。そしてそれとは対照的に、カストル神殿長の瞳には様々な思考が渦巻いているようだった。
だが、神子と剣姫をよく知るジュネからすれば、そんな心配は無用だ。
「あのお二人なら、いきなり命を奪うようなことはないと思います。それは断言できます」
ジュネのきっぱりとした言葉を聞いて、祖父は安堵した表情を浮かべた。
「それならよいが……となると、残る問題は神子との面会方法じゃな。お主が自分で言っていた通り、追放されたクルシス神官がクルシス神殿の門を叩くわけにはいくまい。じゃが、因縁のあるお主が神子の家を訪問するのは避けたほうがええじゃろうしの……」
「む……」
それはベルゼットも同意できる話であったようで、眉根を寄せて考え込む。
訪れた沈黙を破ったのはジュネだった。
「あの……一つ心当たりがあります」
その言葉を機に、場の視線がジュネへ集まる。
「私は船に乗って辺境から帰ってきましたけれど、その船は十日ほどで辺境に帰る予定だと聞きました。そして、その商船の主は神子様のご友人です。辺境では有数の商会ですから、こっそり面会を手配することもできると思います」
コルネリオであれば、お金を積めば融通を利かせてくれるはずだ。もちろん、神子を売るような真似はしないだろうが、彼の信用を得ることができれば、辺境の誰に頼むよりも上手く手筈を整えることができるだろう。
「金か……まあ、無償や善意で協力を申し出られるよりは、よっぽど安心できる相手ではあるな」
ベルゼットはその提案に乗り気であるようだった。その物言いがどこか神子と似ている気がして、ジュネは浮かびそうになる笑いを堪える。二人とも、本当に神官らしくない。
そして、ジュネを通じてコルネリオを紹介する手筈が決まると、応接室の空気がふっと緩んだ。最初の刺々しい雰囲気が、家族としてのそれへ変じていく。
それは数時間ぶり、いや、数十年ぶりに訪れた空気だったのかもしれない。
そんな空気が流れてからどれほど経っただろうか。カストル神殿長はベルゼットに顔を向けると、しみじみと口を開いた。
「しかし……お主も年を取ったのぅ」
「ふん……それはこっちの台詞だ」
二人は、静かに笑った。




