カプリス
【ノルヴィス神学校生 カナメ・モリモト】
「でかいな……」
神学校初日。キャロを専用の動物預り場に連れていった俺は、まずその大きさに目を見張った。
預り場といっても、体育館の一つや二つは軽く入るだろう。希少種とはいえ、あくまでただの兎程度の質量しかないキャロを預けるには、逆に不安になる広さといえた。
その巨大さに驚きを覚えていると、背後から声をかけられた。
「あ、こんにちは! もしかして、新しく入学された方ですか?」
聞こえてきた声は少女の声だった。俺は抱えたキャロごと後ろを振り返る。
「ええ、そうなんです。よろしくお願いします」
その瞬間、俺は危うくキャロを取り落としそうになった。視線があまり上にいかないように、意識して目の動きを抑える。
なぜなら、彼女の薄茶色の髪をかき分けて、猫や狐についていそうなモフモフ耳が姿を現していたのだ。
いや、さっきも明らかに人の範疇を越えた尖り耳の学生を見かけたし、人以外の種族もこの神学校にいるんだろうと予想はしていたんだけどね。
ただ、獣人種族なんかはあまり神学校に興味を持たなさそうなイメージだったから驚いてしまったのだ。……べ、別に獣耳属性がどうこう言うわけじゃないんだからね!
「お友達が増えて嬉しいです。ね? ナフェル?」
いきなりお友達認定されているだと……と思ったら動物同士の話か。まあ、そりゃそうだよな、うん。
彼女が連れていたのは、体長二メートルほどの黒豹だった。その迫力に似合わず、少女に話しかけられた黒豹はゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「こんなに広いのに、あんまり動物を連れてくる学生はいなくて……」
彼女の言葉に俺は頷いた。まあ、そうだろうなぁ。この預り場には、動物の安全性の観点で大きな不安があった。
ここへ動物を預ける時には、個室のような空間と、この預り場の大半を占めるだだっ広い放し飼いスペースのどちらかを選ぶことになるのだが、もし放し飼いスペースを選ぶと、他の動物に襲われる危険性があるのだ。一応監視はしているらしいが、どこまで信用していいものか分からなかった。
キャロはそこらのモンスターより強いから心配ないだろうが、そうでもない限りは個室を選ぶだろう。だが、個室は大して広くない。そこにペット等を長時間押しこめることに気が進まない人間は多いはずだ。
「あ、あたらしい人だ! おはようございます!」
そんな事を考えていると、また一人預り場に人影が現れた。そちらへ視線をやると、まだ十歳くらいに見える少年がこちらを見て目を輝かせていた。
「おはようございます」
俺もにこやかに挨拶を返す。さらさらの銀髪に大きな瞳と、なかなかの美少年ぷりだったが、俺の視線はその隣に釘づけだった。なんせ、俺の視線の先には竜がいたのだ。
辺境で倒した地竜に比べれば遥かに小さいが、それでも竜であることに違いはない。鱗が青いことを考えると蒼竜というやつだろうか。
サイズが三メートルくらいしかないことを考えると、まだ幼生体なのかもしれない。それとも、下位竜ってあれくらいのサイズなのかな。
たぶん宗派的な事情があるんだろうけど、たとえ下位の竜だったとしても、普通に王都の中心街まで連れてきていいのかね……?
なんにしても凄い光景だった。左を見れば二メートルの黒豹、右を見れば三メートルの蒼竜。そんな中へぽてぽて寄っていく三十センチ級の兎。……さすがに放し飼いスペースはやめといたほうがいいかな。
「キュッ!」
だが、そんな心配は不要だったようだ。動物の言葉なんて分かろうはずもないが、キャロは他の二匹と意気投合したようだった。なんとなく穏やかな雰囲気が伝わってくる。俺に似ずすごいコミュ力だよな、キャロ……。
これなら大丈夫だろうと判断した俺は、二人とキャロに挨拶をすると、早足で校舎へと向かった。
◆◆◆
割り当てられた教室は、日本の学校の教室と同じくらいの広さだった。スライド式の扉を開けようと手をかけて――いったん手を放す。
やっぱりこういうの苦手だなぁ。たかだか扉を開けて新しい教室に入るだけなのに、なんだか緊張してきた。
「よ、カナメおはようさん」
そんな葛藤を人知れず繰り広げていると、俺の前に救いの神が現れた。コルネリオは俺に挨拶すると、そのまま取っ手に手をかけてガラッっと勢いよく扉を開く。
コルネリオが教室へ入っていくのを見送った後、少し間を空けてから俺は教室に入った。初日からつるんでる感が出ていると、コルネリオの学友作りに悪影響が出かねないし、ここは多少距離をとっておいた方がいいだろう。
そんな事を考えながら、俺は教室へ足を踏み入れた。
さっと教室にいた人間の視線が集まってくる。ここで挨拶をするのも何だか変な気がしたので、俺は誰にするでもなく軽く会釈をした。
教室にいたのは七人の男女だった。用意されている机と椅子が八組しかないことから察するに、俺の入室で全員が揃ったのだろう。キャロを預けるところで意外と時間をくったからなぁ。
「――お、もう全員揃っているようだね。さすがは特待生クラスだ」
と、俺が空いていた席に座るや否や、教室の扉から中年の男性が顔を出した。いかにも先生といった風貌だ。彼はそのまま教室の前方にある教壇まで歩くと、こちらへ向き直った。
「みなさん初めまして。そして、ようこそノルヴィス神学校へ。この特待生クラスを主担当として受け持つことになったマーカス・アルテインです」
そう言うと、マーカスと名乗った教師は俺たち八人をしげしげと眺めた。無遠慮な視線というわけではなかったので不快ではなかったが、やっぱり人にじろじろ見られるのは落ち着かない。
「さて、さっそくですが皆さんにお伝えすることがあります。
今日は入学初日ということで、通常なら入学式があるのですが、列席される方々のご事情で日程が折り合わないことから、入学式は二日後になりました。
もちろん、授業は今日から始めますから心配しないでくださいね」
「そこまでして列席してもらう必要あるのか……?」
マーカス先生の言葉を聞いて、俺は一人呟いた。列席者なんて飾りみたいなものだろうし、どうでもいいと思うんだけどなぁ。とはいえ、周りの雰囲気からすると疑問を持っている生徒は俺だけのようだった。
「というわけで、最初は特待生同士、自己紹介をしてもらいましょうか」
おおう、やっぱりこのイベントは避けられないのか……。この初クラスでの自己紹介ってやつ、苦手な人間には本当つらいんだがなぁ。……仕方ない、今回も接客モードで乗り切ろう。
そんな決意をしている間にも、先生は話し続けていた。
「君たち特待生は、一般の神学校生と比べて在籍期間が短いですからね。その短い期間で、君たちが仲良くなれることを期待しています。あ、宗派が決まっている人は言うのを忘れないように。
……では、君からお願いします」
そう言うと、先生は一番前の窓側に座っている青年を指し示した。指名された青年はきびきびした動きで教壇へ向かうと、背筋を伸ばして自己紹介を始めた。
「フレディ・ステアリークです。出身はマルティア、法と秩序を司るダール神を信仰しています。よろしくお願いします」
背は高めだが、身体はどちらかというと細い部類に入るだろう。茶色い髪を短く切り揃えているなかなかの好男子だった。彼はやはりきびきびした動作で頭を下げると、そのまま席へと戻った。
って、なんだこれ。マーカス先生が言った時はスルーしちゃったけど、本当に宗派まで言わなきゃならないのか。
まあ、統督教の名の下に様々な宗教が宗派としてそっくり入ってきてるんだもんな。なら、あらかじめお互いの宗派を知っていた方が争いごとを避けられるという、統督教の長年の知恵なんだろうか。
俺みたいな統督教の権力で身の安全を図ろうとしているだけの人間には、なかなかピンとこない話だなぁ。……いまさらだけど、何だか神学校が怖くなってきたぞ。
「セレーネ・メルシェ・フォンベルトよ。出身もフォンベルト領。宗派は特に決まっていないわ。よろしくね」
俺がそんな事を考えている間に、二人目が壇上に登っていた。セレーネと名乗った女性は、二十歳くらいのように見えた。この特待生メンバーの中では、俺に次ぐ年長者かもしれない。
緩やかにウェーブのかかった髪は紫色をしており、切れ長の目から覗く瞳も同じ色をしていた。さらに白磁のような肌と抜群のスタイルのよさも手伝って、非常に魅力的な女性だと言えた。
……なんだけど、正直なところ神学校に通う学生には見えなかった。なんというか、非常に色気たっぷりなのだ。彼女、色々な意味で大丈夫なのか。
などと余計な心配をしているうちに、セレーネと入れ替わって今度は銀色の髪をショートカットにした女の子が教壇に立つ。
小柄だが、姿勢が良いせいかあまり小さくは見えない。きりっとした眉と真一文字に引き結んだ唇が、なんだか怒っているように見えた。
「ミン・シェラードです。リビエールの出身で、オルファス様を信仰しています。ここで神学を修めて、オルファス様と教会のお役に立ちたいと思っています」
そう言うと、彼女は背筋をぴんと伸ばしたまま頭を下げた。なんだかとても真面目そうな子だ。コルネリオあたりと相性が悪そうだな。
そんな事を考えていたから、というわけではないだろうが、次に教壇に立ったのはコルネリオだった。彼は人懐っこい笑顔を浮かべると、いつもの調子で自己紹介を始める。
「コルネリオ・ミルトンや。自治都市セイヴェルンの出身で、宗派はこれから決めていこうと思うとる。よろしゅうな!」
……あいつ、最後の言葉は完全に女子に向けて言ったぞ。この前ひどい目に遭ったばかりなのに、ほんと揺るぎないな。
コルネリオが陽気な表情で壇上から下りる。そして、次に自己紹介を……。
「あれ?」
誰も教壇へ向かおうとする者はいなかった。……うーん、この順番でいくと次はあの金髪の男子の番だと思うんだけどな。
他のみんなも同じことを思ったようで、視線がその男子に集まった。だが、彼は何かに気を取られているらしく、まったく動く気配がなかった。
「君は……エディ・レミングソン君だね? どうかしたのかい?」
マーカス先生が動かない生徒の肩を叩いて話しかける。すると、エディと呼びかけられた男子ははっとしたように顔を上げた。
「む? どうかしたのか?」
「自己紹介をしてくれるかな」
さすがは教師というべきか。どうやらかの男子生徒は完全に自分の世界に入っていたようだが、マーカス先生はまったく動じなかった。
その言葉に反応して、彼はその場で立ち上がった。
「ああ、そういえば自己紹介中だったね。……えーと、僕はエディ・レミングソン。出身はこの王都クローディス。いちおう教会派に属している。まあ、研究さえできればどこでもいいがね。
そして先程は失礼した。つい自分の思考に入り込んでしまったようだ」
年齢はまだ十五、六歳に思えるが、やたらと尊大な口調だった。その割に不快に聞こえないのは、そこに他者に対する侮蔑の念が感じられないからだろうか。
意外とかわいらしい顔のつくりと相まって、少年が背伸びをしているようで微笑ましさすら感じた。
「……あれが王都の『天才児』か」
俺の耳にそんな言葉が聞こえてくる。どうやら隣席に座っている男子学生の呟きのようだった。
彼はそのまま立ち上がると、教壇へ向かった。あれ、さっきの順番からすると、次はその隣の女の子の番だと思うんだけどな……まあいいか。別に具体的な順番を指示されてたわけじゃないもんな。
こちらを振り返ると、彼は一拍間をおいてから口を開いた。
「俺の名はシュミット・ディノ・バスク。バスク家の人間だ。主神オルファスを信奉している。もし教会派に所属するつもりなら、俺が口を利いてやってもいいぞ」
うわぉ、これまた尊大な物言いをする男子だな。しかもさっきのエディと違って、このシュミットからは傲慢さのようなものがにじみ出ていた。
たぶんバスク家とやらは教会派の中でも有力な一族なんだろうな。正直、できるだけお近づきになりたくないタイプだ。
だが、そんな俺の感想とは別の次元で、彼の発言に異を唱えた者がいた。
「シュミット君、統督教では主神は定められていない。主神を詐称するのは控えてくれないか」
異を唱えたのは、最初に自己紹介をしたフレディだった。彼からは委員長的な雰囲気が漂っていたから、こういう場で異論を挟むキャラだとは意外だったな。たしか、彼は神殿派だったか。
「詐称とは言ってくれるじゃないか。俺たち教会派は統督教信徒の半分近くを占めているんだぞ。その俺たちが信奉するオルファス様が主神であるのは当然の理だ。
有象無象がわらわら湧いて出ているような神殿派に咎められる謂われはない」
「なんだと……!」
先刻までの浮わついた雰囲気が一変する。何かきっかけがあれば、二人は今すぐにでも殴り合いを始めそうだった。
「はいはい、そこまでですよ。二人とも分かっているとは思いますが、統督教内での宗派争いは厳禁です。これは全ての教義に優先して適用されるルールですから、決して禁を破ることのないように」
その空気を破ったのはマーカス先生だった。ナイスタイミングだ。この先生、ぱっと見は苦労性のただの中年男性に見えるけど、要所要所はちゃんとしめてくれるし、けっこういい教師かもしれない。
マーカス先生に釘を刺された二人は、気まずそうに視線をそらした。居心地の悪い沈黙が場を支配する。まったく、なんで初日からこんな雰囲気を味わなきゃならないのか……。
「よし、まだ自己紹介が途中でしたね。次いけますか?」
そんな空気の中、マーカス先生が視線で合図したのは、シュミットの隣にいる女の子だった。女の子は頷くと、ちょっと緊張した様子で教壇へ向かう。……あれ?この子って――。
「あの、ミュスカ・デメールです……。出身はノルド村で、教会の方々にお世話になっています……」
人前に出る事に慣れていないのか、彼女は消え入りそうな声でそう言うと、そのまま下を向いて黙り込んでしまう。
華やかな容貌に黄金色の巻き毛、セレーネには一歩譲るもののスタイルもよく、アイドルにでもなれそうな容姿をしているのだが、彼女自身はむしろ大人しい性格のようだった。
そして、ここでマーカス先生から衝撃の言葉が放たれる。
「あー、彼女は治癒師ですからね。貴重な固有職持ちが危険な目に遭わないよう、みんな気をつけてください」
「なんだって!?」
それは誰の言葉だったか。おそらく、マーカス先生の言葉に驚いていなかったのは俺くらいなものだろう。さっきミュスカを見た時に視えてたんだよね。まさか固有職持ちが神学校に来るなんて思ってもみなかった。
数日前にコルネリオが口にしていた、「特待生なんて大抵が訳ありや」という言葉をしみじみと噛みしめる俺だった。
みんなの注目に晒されたミュスカはさらに顔を赤くして下を向いていたが、やがてその場でお辞儀をして自分の席へ戻った。まだ顔が赤いのは、やっぱり人前が苦手だからなのかな。ちょっと彼女に親近感が湧いたぞ。
さて、次は俺の番だ。襲ってくる緊張感を接客モードで無理やりねじ伏せると、俺はいつもの営業スマイルを浮かべた。無難に、無難に。とにかくそれだけを考えよう。
「初めまして、カナメ・モリモトと申します。出身は辺境のルノール村、宗派は未定です。どうぞよろしくお願いします」
よし、言い切った。精神力を使い切らないうちに席に戻ろう。
そう思った瞬間だった。
「ハッ、お前ら辺境の蛮族風情が、由緒あるノルヴィス神学校の特待生とはな」
それはあからさまな侮蔑の言葉だった。声のした方を見れば、そこにはやはりシュミットの姿があった。彼は俺の視線を堂々と受け止めると、馬鹿にしたように鼻で笑う。その瞬間、何かが俺の中で切れた。
ここは勤務先の店舗ではないし、そしてこいつは客でもない。なぜ我慢を強いられなければならないのか。そう自問した俺は笑顔のまま、にこやかに口を開く。
「その蛮族と机を並べる羽目になるとは、貴方も大した事はないようですね」
「貴様……! 辺境人など、人の皮を被った獣と大差ないくせに生意気な!」
俺の言葉を聞いて、シュミットは顔を真っ赤にして立ち上がった。
リカルド王子からも「目立つなよ」って念を押されてたのに、こんなところでヒートアップしてしまったな。入都した時の衛兵の応対の件もあったし、これまで燻っていた感情がここにきて噴出してしまったのかもしれない。
俺自身を蛮族呼ばわりされるのはまだ我慢できるけど、クルネやラウルスさんといった辺境のみんなを馬鹿にするような言い方をされると、どうにも頭に血が上ってしまう。
「おや、蛮族は貴方にとって取るに足りない存在なのでしょう?そんな小者の言葉にいちいち激昂するようなお方が、はたして教会で信徒を導けるんでしょうかねえ」
「き、貴様の言葉は主神オルファスに対する冒涜だ! 許されるものではないぞ!」
俺の言葉を受けて、物凄い剣幕でシュミットが怒鳴る。今にも机をひっくり返しそうな勢いだった。
「何を寝ぼけた事を。私が馬鹿にしたのは貴方自身であって、オルファス神ではありませんよ。信奉する神を自分の身代わりにするなんて、貴方も怖いものしらずですねぇ」
そう言って俺はわざとらしく肩をすくめた。
「それに『許されるものではない』ってなんですか? 単に貴方にとって許せないだけでしょう。なに神の代弁者を気取ってるんですかね。
貴方個人の好悪でしかないものを、神の名を騙って押し付けようとしないで頂きたいものですね」
と、一息でそこまで言い切って鬱憤が晴れたのだろう。俺はっと我に返った。
……やってしまった。敵を作らないように立ち回るつもりだったのに、どうやって始末をつけたものかな。
そう考えながらシュミットの方を見やると、もはや彼の顔色は赤黒くなっていた。ぷるぷる震えているのは怒りのせいだろうか。
憤怒の表情でこちらを睨みつけたシュミットは、そのまま俺を指差して言い放った。
「おい蛮族! 貴様に『神々の遊戯』を申し入れる!」
「神々の遊戯……!?」
俺の驚いた表情を見て、シュミットの顔がいやらしく歪む。あの顔はあれだな、相手の顔が絶望に歪むのを期待している顔だな。そんな事を頭の隅で考えながら、俺は静かに呟いた。
「何それ」
再びシュミットが怒り狂ったのは俺のせいではない……と思う。
◆◆◆
俺たち特待生クラスの一同は、神学校の校庭に立っていた。校庭と一口にいっても色々あるが、さすがは王都の神学校だけあって、その広さは野球場が二、三は入りそうなほどだった。
神々の遊戯とは、争うことを禁じられている宗派が他の宗派と白黒をつけたい時に行われるもので、その内容は多岐にわたる。
各宗派の神々の神話や伝承を模していることと、相手に危害を加えるような内容ではないこと、この二点が守られていれば、それは神々の遊戯として成立する。
そして、神々の遊戯を行った場合、後に遺恨を残してはならない。
マーカス先生の説明を要約すると、大体そういう話だった。そういえば元の世界でも、スポーツは戦争の代替手段だっていう説があったよな。ということは、スポーツ競技的なものなんだろうか。いや、でも学問や文化系の内容でもいけそうだな。
「本来は約定を交わし、勝利した場合の取り決めを行うものですが……」
「そんなものは決まっている! そこの蛮族を退学させることだ!」
マーカス先生の言葉を遮って、シュミットが口を挟んでくる。
「それはできません。そもそも、私的な事由による神々の遊戯など神々への冒涜です。今回神々の遊戯を許可したのは、あくまで競技そのものだけですよ。何かを賭ける事は許しません」
マーカス先生の毅然とした口調に、シュミットはそれ以上何も言えないようだった。しばらく沈黙した後、俺の方を見て口を開く。
「ふん、たとえ約定がなくても、神々の遊戯に惨敗すれば恥ずかしくて神学校に来ることなどできないだろうよ」
そう言うと、シュミットはなにやら準備運動を始めた。校庭に移動した時点で予想はできていたが、どうやら運動系の神々の遊戯を指定するつもりのようだった。
神々の遊戯は参加派閥の数と同じだけ行われ、それぞれの派閥が一つずつ演目――競技内容のようなものだ――を指定することになっている。
つまり、自分で指定する演目では、確実に勝ちを狙えそうなものを選ぶことが重要だ。その上で運動系の演目を選ぶということは、身体能力にはそこそこ自信があるのだろうか。
そんなことを考えていると、シュミットは俺に向かって演目を宣言してきた。
「俺が指定する神々の遊戯の演目は『エウレスタスの早駆け』だ」
何だそれ。タイトルの後半からして走ることがメインになるんだろうけど、エウレスタスって誰だよ。そう思っていると、フレディがそっと耳打ちしてくれる。あれかな、敵の敵は味方ってことで力を貸してくれるんだろうか。
「教会派の聖人の一人エウレスタスには、窮地に陥った神子を救うため不眠不休で隣国まで走り続けたという伝承があるんだ」
なるほど、日本でいうところの走れメ○スか。つまり長距離走だという解釈でいいのかな。
「途中の街で力尽きそうになったエウレスタスは、一人の女性に助けられ無事最後まで走りきったという。その伝承を模した演目が『エウレスタスの早駆け』だよ。つまり、誰かのサポートを受けながら長距離を走る、というのが本旨だ」
ただの長距離走ではなかったか。けど、サポートって何するんだろうな。正直いって、走ってる時にしてほしい事なんてあまりない気がするんだが、水でもかけてもらうんだろうか。
「神殿派が蛮族に肩入れか? はっ、お似合いだぜ」
そこへシュミットが挑発を仕掛けてくるが、もちろん無視だ。俺はなぜシュミットがこの演目を選んだのかを考えていた。
シュミットの体型は至って標準的なそれだし、身体能力が突出して高いとは思えなかった。となると、やはりサポート人員の方がポイントだろうか。
だが、奴とて今日が入学初日だ。そうそうサポートを頼めるような知己はいないだろうが……。
いや、奴は実家が教会派のお偉いさんっぽいことを言ってたな。教会派の生徒なら無理も通せるのかもしれない。
「そうか……!」
そこまで考えた時、俺はシュミットの狙いに気付いた。なんでもっと早く気付かなかったんだろう。少なくとも、俺が奴の立場なら必ずそうする。
「これだけ広い校庭だ。長距離とはいえ校庭の外周にそって一周すれば充分だと思うが、それでいいか?」
俺は僅かな希望を持って、口を開いた。
「俺の指定する演目に口を出すな。走るのはあの周回用コースだ。あそこを先に十周した者の勝ちとする」
そう言ってシュミットが指し示した先には、一周五百メートルくらいのトラックがあった。
……やっぱり駄目か。もし俺の予想通りなら、周回を重ねるタイプはあまり好ましくないんだけどなぁ。向こうが指定してくる以上仕方ないか。
「それでは神々の遊戯の第一演目を開始する。二人とも補助者を指名したまえ。まずは指定者たるシュミット君」
マーカス先生の声が校庭に響く。それを受けて、シュミットは躊躇いなくその補助者の名前を告げた。
「俺はミュスカ・デメールを補助者に指名する」
「え……? わたし……ですか……?」
指名されるとは思っていなかったようで、ミュスカが戸惑ったように声を上げる。
だが、考えてみれば当たり前の事だった。治癒師を補助者につけておけば、一周するごとに治癒をかけてもらうことができる。
負傷箇所の治療ほど劇的に回復するわけではないが、それでも体力回復に一定の効果はあるはずだ。それは、今回のようなシーンでは勝敗を左右する大きなファクターとなり得た。
もしシュミットが彼女を指名しなければ、俺が指名しようと思っていたくらいだ。まあ、教会派の彼女が俺を手伝ってくれるかどうかは未知数だったけどね。
「お前も教会派だというのなら、俺に従え。まさか教会派が同胞を裏切るような事はないな?」
例え補助者とはいえ、こういう舞台に立つのは苦手なのだろう。なんとか辞退しようとしていたミュスカだったが、そう言われては首を縦に振るしかない。……シュミットのやつ、将来は絶対パワハラ親父になるな。
「は、はい、わかりました……」
ミュスカがこちらに申し訳なさそうな表情を向けている。その感じからすると、舞台に立つのが嫌なだけじゃなくて、どちらか片方に与したくないから固辞しようとしてたのかもしれない。
たしかに、俺が彼女の立場ならできるだけ関わりたくない。
だが、彼女の気持ちがどうあれ、治癒師が敵に回ったことに違いはなかった。これで、こちらが圧倒的に不利な状況になったわけだ。立会人の特待生の中には、勝敗は決まったな、という顔をしている人間もちらほらいた。
そんな様子を探りながらも、俺は補助者を指名する。
「……フレディ、乗りかけた船だと思って付き合ってくれないか」
コルネリオを指名してもよかったが、間接的にとはいえ、ここで教会派を敵に回すポジションに付くのはたぶん嫌がるだろう。
そう考えた俺は、元々シュミットと対決姿勢を見せていたフレディを指名した。さっきも協力的だったし、断られはしないはずだ。
「僕でよければ手伝うよ。……けどいいのかい、僕に彼女のような力はないよ?」
予想通り、フレディは快く応じてくれた。……よかった。もし断られたら立場がないところだった。
「もちろんだよ。治癒師がそこら中にいたら、その方がびっくりだ」
「違いない」
俺たちは声を上げて笑った。その様子が気に入らなかったのか、シュミットがこちらを睨んでいるが知ったことではない。
「フレディは普通に立っていてくれるだけでいいよ」
俺の言葉にフレディは頷いた。本音を言えばミュスカの治癒魔法を妨害してほしいところだけど、フレディは根が真面目そうだし口に出すのはやめておこう。今後の人間関係にも影響が出かねないだろうし。
「では神々の遊戯の第一演目『エウレスタスの早駆け』を開始する。参加者はコースへ出なさい。
補助者はどこにいてもよいが、立会人たる私や他の特待生の目の届く範囲にいること」
その言葉を受けて、俺たちはスタートに着いた。シュミットが内側、俺が外側だ。シュミットがニヤニヤ笑っているのは、勝利を確信しているからだろう。
マーカス先生の合図まで数秒間、静寂が場を支配する。
「構えて。……始め!」
合図を聞いた瞬間、俺たちはほぼ同時に走り始めた。ただし、俺はあくまで長距離用にペース配分をした速度なのに対し、シュミットは全力スタートだ。治癒師の力を当てこんでいるのが明らかだった。
だが、俺はスタートの合図でただ走り始めたわけではなかった。同時に転職の力を自分に行使する。
そして俺は、時空魔導師に転職したのだった。
◆◆◆
この競技に勝つ道筋を考えた時、まず考え付いたのは盗賊や暗殺者などの、敏捷系に重きを置いた固有職だった。
だが冷静に考えてみると、いくら超人的な脚力を得たといっても、十秒で走破できる距離などたかが知れている。
例えば、メートル当たりのタイムが一番早そうな二百メートル走の世界記録は十九秒台だが、もし敏捷系固有職に転職すればその五分の一程度のタイムで走る事は可能だろう。
そうなれば約四秒で二百メートルだ。だが、それでも十秒で稼げる距離は五百メートルしかない。
一周ごとに体力を回復して全力疾走するシュミットと、実質四・五キロメートルとはいえ、普通にペース配分を考えて走る俺では、ゴールまでに抜かれてしまう可能性が高かった。
そこで俺は作戦を変えた。戦士職ではなく、魔法職に転職して強化魔法を使うことにしたのだ。これなら十秒を越えて固有職の力が消滅しても効果は持続する。
俺は転職するや否や『身体能力強化』の魔法を自分に対して使用した。そしてちょっとした小細工をすると、時空魔導師の固有職特性魔法『時間加速』を唱える。
この魔法こそが、俺が時空魔導師を選んだ理由だった。身体能力の強化だけなら、魔法剣士の『自己能力強化』なんかの方が効果が高いのだが、通常の身体強化魔法に『時間加速』を重ね掛けした場合の効果は、それを上回るはずだった。
その俺の予想は正しかった。最初こそ強化魔法に集中していて出遅れたが、じきに俺はシュミットを追い抜いた。その時点で勝敗は決まったようなものだった。
全力で走っているシュミットを追い抜いたということは、彼のトップスピードを俺の長距離用に配分したペース速度が上回ったということだ。時間加速の効果時間がいまいち分からないが、他の強化魔法の例で考えると十分保たないということはないだろう。
辺境から王都へ来る道中、俺の中にある固有職の力を片っ端から試しておいた甲斐があったな。転職屋を営んでいる間は、そんなことをしたら次の日商売にならなかったから自重してたんだよねぇ。
だが、そんな事を考えながら八周目に差し掛かった時だった。突然、俺の速度が目に見えて落ちた。
……どうやら時間加速の効果時間は短めだったようだ。しまったな、ぶっつけ本番はまずかったか。
強化魔法のおかげか、シュミットとの差が目に見えて縮まるようなことはなかったが、それでもじりじりと差が詰まり始め、いつの間にか数十メートルまで接近される。まずい状況だった。
あまり超人的なスピードを出すと目立ってしまうという配慮から、速度を抑えていたのが裏目に出てしまったようだ。残りはあと二周。それだけあれば、抜かれる可能性はないとは言えなかった。
カーブで後ろをちらっと見ると、明らかにシュミットが勢いづいていた。……あれ、なんだかさっきまでより速くなってないか?あいつ、メンタルが肉体に影響を及ぼすタイプだったのか……。
だが、もはや俺にはひた走るしか道はない。あくまでペースを乱さないように走り続ける。
そして俺がラスト一周になった時、ついにシュミットの足音が聞こえるようになった。何メートル後方にいるのだろうか。いや、実はもう真後ろかもしれない。そんな想像を振り払って、俺はラストスパートのタイミングを計る。
と、そこでトラック内から悲鳴が聞こえてきた。ふと目をやると、ミュスカがしゃがみ込んでいる。マーカス先生が指示を出し、ミンが彼女を横たえるのが見えた。
――よし、勝った。
我ながら性格が悪いとは思うが、俺はそこで勝利を確信した。あのタイミングであれば、シュミットは最後の周回で治癒をもらえなかったはずだ。
五百メートルを全力疾走した人間が、治癒なしで速度を落とさずもう五百メートルを走りきるなど、まず不可能だった。
だが、ちょっと後味が悪い感は否めない。俺が走りながら目をやると、ミュスカは気持ちが悪そうに口元を抑えている。おそらく、治癒の連続使用で魔力が枯渇してしまったのだろう。……そう、俺の狙い通りに。
◆◆◆
「……神々の遊戯の第一演目『エウレスタスの早駆け』の勝者は、カナメ・モリモトとする!」
俺に遅れること数十秒、シュミットが息も絶え絶えな風情でゴールしたことを見届けると、マーカス先生は俺の勝利を宣言した。その言葉を聞いて俺はほっとする。
「カナメ君、凄いじゃないか! 素晴らしい身体能力だよ!」
そう言って肩を叩いてきたのはフレディだ。見れば、後ろで俺にだけ分かるようにコルネリオも親指を立てている。俺は二人に対して笑顔を向けた。
「今回は、できすぎ、だったよ」
まだ息が切れていた俺は、ちょっとした罪悪感を胸に抱きながら答えた。そして、ちらりと寝かされているミュスカを見る。
「治癒魔法の連続行使を強要されたんだ、そりゃ倒れもするよ。かわいそうに……」
俺の視線に気づいたのか、フレディも彼女の方を見るとぽつりと呟いた。俺はそれに頷きながらも、心の中でミュスカに謝罪する。
そう、俺は万が一の保険として、ミュスカの魔力を少し頂戴していたのだ。スタートラインに立ったあたりから、俺は『魔力変換』の特技を発動させて周囲の魔力を集めており、その魔力を使って時間加速を唱えた。
あの時、周囲には魔力源になりそうなものがなかったから、唯一の魔法固有職持ちであるミュスカから魔力を吸収することになったはずだ。
吸収した魔力はそう多くはなかったはずだが、その僅かな差が今回の勝負を決めたといえた。
……うーん、やっぱり後味が悪いな。後でこっそり謝りに行こう。
と、シュミットが俺の視界に入ってくる。先生やミュスカの方へ歩いてきたのだ。万が一に備えて、俺はミュスカの近くへ行こうとする。
だが意外なことに、シュミットはミュスカに対して何も言わなかった。奴の性格なら彼女を悪しざまに罵るかと思っていたのだが、倒れるまで治癒魔法を使い続けたミュスカに対して、さすがにそれはできなかったのだろう。
シュミットはそのまま先生のいる場所を通り過ぎると、校庭の隅に生えている木に身体をもたれかけさせて座りこんだ。その表情は見えないが、神々の遊戯の第二演目で俺に雪辱を果たすべく、力を蓄えていることは間違いなさそうだった。
ともかく、神々の遊戯の第一演目『エウレスタスの早駆け』は、俺の勝利で幕を下ろしたのであった。