招致
【クルシス神殿長代理 カナメ・モリモト】
クローディア王国の首都には、モンスターに襲われて壊滅した村から逃げてきた人々を匿うための区域が設けられている。
王都へ避難してきた彼らは、王国が村を占拠したモンスターを討伐し、その安全を取り戻した後に、その地へ戻って村を再建する。そんな流れになっていた。
だが、モンスターの勢力に押され気味の昨今では、そんな村を魔物から取り戻すのは簡単なことではない。また、村が奪還されたとしても、戦力の少なさから再びモンスターに襲撃されるのではないかと怯え、帰郷に二の足を踏む者も多い。
そんな中、俺の尋ね人であるロンメルさん一家は、まだ奪還された村に帰郷していないとの情報を得ていた。そして、そこから彼らの内情を窺い知ることは容易だった。
「なにいいいい!? 兄ちゃんが転職の神子様だ!?」
「すみません、騙すつもりはなかったのですが、言い出す機会がなくて……」
元いた村では腕利きの鍛冶屋だったというロンメルさんは、そのいかつい顔に驚愕の二文字を張り付けていた。
「……まあ、フェイムをスカウトに来た時だって、兄ちゃんが自分で来てたんだしな。あの時は使いっぱしりをやらされているんだと思っていたが、俺が勝手に勘違いしてただけか」
そう言うと、ロンメルさんは豪快に笑う。もう少し何か言われると思っていたが、予想よりもさらにあっけらかんとした態度だった。
「使いっぱしりなのも事実ですよ?」
「何言ってんだ、転職の神子様だろ? 神子様の英雄譚なんざ、酒場に行きゃしょっちゅう歌われてるぜ」
「うぇ……」
俺の喉から変な声が漏れ出る。歌が大陸を巡る速度は、俺が考えていたよりもずっと早いらしい。
「聞いてるぜ? 地竜を倒して辺境を救った英雄なんだろ? 神子で竜殺しなんざ、すげえじゃねえか」
「それ自体は間違いじゃありませんが、何かと誇張があるような……」
「まさか、あの思い詰めた顔してた兄ちゃんが、そんな大物だったとはなぁ」
俺の抗議を気にした様子もなく、ロンメルさんはしみじみと呟く。
「――王都に来た時のカナメって、そんなに思い詰めた顔してたんだ」
そこへ、おかしそうに口を挟んできたのはクルネだ。口元を抑えてごまかしているが、笑っているのは間違いない。
「いや、普通の顔だったと――」
「おう。俺はてっきり、恋人に死なれて世を儚んだ兄ちゃんが信仰に目覚めたんだとばかり」
「その具体的な設定はどこから出てきたんですか……」
そう尋ねると、ロンメルさんはおどけるように肩をすくめてみせた。
「しかし……そうか、兄ちゃんが転職の神子様だっていうことは、そっちの嬢ちゃんが『剣姫』なのか。たしかに噂通りの別嬪さんだが、まさかアンタだったとはな」
クルネに視線をやると、ロンメルさんはしみじみと呟いた。彼はクルネと会ったことがあるだけに、衝撃が大きいのだろう。まさかクルネが……ん?
「あの……『剣姫』って……?」
クルネは不安そうな表情を浮かべると、おずおずと問いかける。……俺も初めて聞くが、なんとなく想像はつくな。
「転職の神子の護衛なんだから、嬢ちゃんのことだろう? セイヴェルンで凶悪な飛竜を倒したらしいじゃねえか。数日前に向こうから来た吟遊詩人がいるんだがな、新しい英雄譚にみんなが大盛り上がりだぜ」
やっぱりか。その言葉を聞いて、クルネがショックを受けたように額を抑えた。
「なんでよ……『神殿騎士』はまだ役職っぽい響きだから耐えられたけど、『剣姫』って……」
「セイヴェルンの評議会が黒幕かもしれないな。『神殿騎士』じゃ神殿派の勢力に助けられたように聞こえるから、クルネ個人が注目される異名を広めたかったんじゃないか?」
それに、クルネは剣匠の固有職持ちだからな。大陸でも屈指の戦闘力を持っているのは事実だし、決して名前負けしてるとは思わないが……。
「そういう問題じゃなくて……だって『剣姫』よ? いくらなんでも、大袈裟すぎて恥ずかしいわよ」
「それを言うなら、俺は『神子』と呼ばれているわけだが……」
「……あ」
俺の言葉を聞いて、クルネが急に神妙な顔つきになった。
「えっと……ごめんね?」
「……真面目に謝られるほうがダメージが大きいな」
そんなやり取りを交わしていると、ロンメルさんがまた笑い声を上げる。
「仲がよさそうで何よりだ。……しかし、『転職の神子』と『剣姫』が揃ってウチに来るとはな。もっといい茶葉でも用意しとくんだったぜ」
「いえ、私たちは『お願いする』側ですからね。お茶を出して頂いているだけでも恐縮です」
俺がそう答えると、ロンメルさんの顔から笑みが消えた。かつて、転職能力のお披露目のために、合同神殿祭に出ないかと打診した時のことが記憶に甦る。
そして、それは相手も同じようだった。
「兄ちゃんが転職の神子だと聞いた時から予想はしてたが……」
「はい。今日お邪魔したのは、ご子息のフェイム君を辺境に招致するためです」
ロンメルさんの言葉を引き継いで、俺は包み隠さず本当のことを口にする。ロンメルさんとリドラさんが視線を交わしたかと思うと、リドラさんが立ち上がった。別の部屋にいる鍛冶師の資質持ち、フェイム君を呼びに行ったのだろう。
その予想は正しく、じきに見覚えのある青年が俺たちの前に姿を現す。奥さん似の、どちらかというと線の細い顔立ちをしているが、その割にしっかりと筋肉がついている。鍛冶仕事で鍛え上げられているのだろう。
「やっぱり、あんたか――」
彼は俺の姿を見ると、ぼそっと呟いた。口数の少ない青年だった記憶があるが、どうやら今も変わりはないらしい。
「フェイムさん、お久しぶりです」
俺は椅子から立ち上がると、丁寧に頭を下げた。
「フェイム、お前を辺境に引き抜きたいらしい。……理由は言うまでもないだろうが」
「ああ。さっき母さんから聞いたよ」
そう言って、フェイムは静かな面持ちで俺を見つめる。かつてこのリビングで相対した時に比べると、だいぶ落ち着いた印象があるな。
ロンメルさんの知人として、彼の成長は素直に嬉しいことだった。
「改めて自己紹介をさせて頂きます。私は辺境にあるクルシス神殿ルノール分神殿にて、神殿長代理を務めているカナメ・モリモトと申します。
此度のフェイムさんとの話し合いについては、自治都市ルノールの評議会から全権を委任されています」
「……神殿長代理?」
俺の名乗りを聞いて、フェイムが強い視線を当ててくる。俺の年齢では通常あり得ない役職を名乗ったことで、警戒が強まったのだろう。
「ついでに言うと、この兄ちゃんが転職の神子だ。……で、こっちの嬢ちゃんが今人気の『剣姫』だ」
「え……?」
ロンメルさんの補足を聞いて、フェイムが驚きに目を見張った。そこへ、畳みかけるように俺は口を開く。
「以前にも申し上げましたが、貴方には鍛冶師の固有職資質があります。どうでしょう、辺境という新しい環境でその腕を振るってもらえませんか?」
予想済みだったのだろう、フェイムが俺の言葉に驚いた様子はなかった。
「前にあんたが訪ねてきた時。……どんな話をしたか覚えてるか?」
「もちろんです。……いくら鍛冶師の資質があるとは言え、フェイムさんはまだ未熟。そんな状態で転職してしまっては、鍛冶職人としての成長が止まってしまう。そんなところだったかと」
「……覚えているんだな」
そう言うフェイムの表情には、意外感がありありと浮かんでいた。一介の若造との話なんて覚えていないだろうと、そう思っていたのかもしれない。
「じゃあ、どうしてこのタイミングなんだ? 一、二年で身に付く技術じゃないことは分かってるだろう」
「有体に言えば、辺境の発展のためです。魔法の武具を作成できる鍛冶師がいるということは、辺境に大きな経済的メリットをもたらします。
それに、ご存知の通り、辺境には危険なモンスターが多数棲息しています。魔法の武具を作る工房が辺境に存在するなら、それらの魔物に対抗する重要な手段となるでしょう」
彼の問いかけに、俺は正直なところを語ってみせた。ロンメルさんとフェイムの表情を窺ったところ、ロンメルさんのほうはいまいち読めないが、フェイムは『辺境の魔物に対抗する手段』のくだりに反応を示しているようだった。
「もちろん、辺境にメリットがあるだけでは交渉になりません。フェイムさんの引き抜きに関しては、種々の便宜を図る用意があります」
そう言って、俺は用意していた紙を机に広げた。そこにはルノール評議会のできたてほやほやの印章が押されており、その内容の担保に一役買ってくれていた。
「まず、転職の費用ですが、三万セレル全額を評議会が負担します」
「……!」
口には出さないものの、フェイムの顔に明らかな動揺が走った。弱みに付け込むようでなんだが、一家の大黒柱であるロンメルさんが難民の就労制限で働けず、年若いフェイムの稼ぎしか収入がないのは明らかだ。
そんな一家にとって、三万セレルは途方もない大金だ。もちろん、鍛冶師に転職したなら、お金に困る可能性は極めて低い。
だが、彼らの現状では、そのための初期投資費用を工面するのに数年、下手をすれば十年以上かかってもおかしくない。
さらに、俺は説得の材料を追加する。
「また、ルノールの街に専用の工房を用意します。経営が軌道に乗るまでは、賃料を大幅に値引きします。設備が気に入った場合、そのまま買い取ってもらっても構いません」
「なっ……」
フェイムの口から言葉がもれる。多くの職人にとって、独り立ちして自分の工房を持つことは一つの夢であり目標だ。
その夢が突然降ってくるのだ。いくら彼でも無反応ではいられないだろう。
そして、明らかに動揺している彼から、俺はロンメルさんへ視線を移した。無表情を作ろうとしているが、その険のある表情は隠しきれていない。
だが、以前の話し合いから、ロンメルさんの反応は予想できていた。そこで、俺は言葉を続ける。
「なお、工房の名義はロンメルさんのものでも構いません」
「……どういうつもりだ?」
鋭い視線が俺を探る。だが、俺にやましいところはない。ただ、彼らにとってのメリットを提示していくだけだ。
「私たちは、フェイムさんだけでなく、ロンメルさんたちも辺境へお招きしたいと思っています」
その言葉に、誰かが息を飲む。
「以前、フェイムさんに転職を提案した時、ロンメルさんはこう仰いましたよね? 『うちの工房で、修業しながらってんならともかく』と。
そこで、『うちの工房』を用意した次第です。ロンメルさんが一緒であれば、フェイムさんが鍛冶職人としての道を踏み外すこともないでしょう?」
俺の答えを聞くと、ロンメルさんは怖い顔で黙り込んだ。口を開くのが憚られるような重圧を感じるが、それでも俺は言葉を続ける。
「王国の政策上、ロンメルさんが王都で鍛冶仕事を行うことはできません。かと言って、住んでいたメルーゼ村に戻ることもできない。
ロンメルさんが板挟みの状態で辛い思いをしていることは想像に難くありません」
そう告げると、ロンメルさんの表情が少しだけ動いた。
「ですが、辺境にそんな縛りはありません。ロンメルさんが鍛冶職人としての腕前を振るってくれるのであれば、私たちも助かります。
……ちなみに、辺境には鍛冶屋があまりありません。稀に鍛冶の技能を持った方が移住してきますが、辺境の人口増加にまったく追いついていないのが実情です。ですので、もし現地の鍛冶職人に気兼ねしているのであれば、そこは心配ありません」
「あの……神子様? 差し出がましい口を挟むようですけれど――」
そう口を開いたのは、意外なことに奥さんのリドラさんだった。
「いえいえ、ご一家の移住となればリドラさんもれっきとした当事者です。なんでも聞いてください」
そう返すと、彼女はほっとした様子で窓の外に視線をやる。その視線の先には、キャロと遊ぶ彼らの娘の姿があった。
「辺境は、ここ以上にモンスターの襲撃が絶えないと聞きました。私たちがメルーゼ村に帰らないのは、あの子が村を『怖い目に遭うところ』だと思い込んでしまったからです。
もし辺境へ移住したとしても、また住処を追われるようなことがあれば……」
その懸念はもっともだった。辺境は、彼らが住んでいた村よりもモンスターの出現頻度が高い。それは事実だ。だが――。
「ここ数年、辺境の村はどれ一つとして壊滅していません。犠牲者がゼロだとは言いませんが、固有職持ちが確実に返り討ちにしていますからね。
まして、皆さんに移住してもらおうと考えているルノールの街は、辺境の首都のような場所です。私たちもそこに住んでいますが、ぱっと思いつくだけでも、十人以上の固有職持ちが暮らしています。街が壊滅するようなことはまずありません」
俺は堂々と言い切った。ルノールには、上級職のクルネを筆頭に、ミルティやエリン、ジークフリートといった強者が揃っている。上位竜でもない限り、あっさり撃退されるのは目に見えていた。
「……そうなんですね、安心しました」
その答えに納得したのか、リドラさんは穏やかに微笑んだ。すると、交代するかのようにロンメルさんが口を開く。
「……兄ちゃんが言いたいことは分かった。メルーゼ村を見捨てるようで心苦しいが、いつまでもこんな暮らしを続けるわけにはいかねえ。そういう意味では、悪い提案じゃない」
「では……?」
「だが、今のままでもやっていけないほどじゃねえ。俺たちを利用してフェイムを辺境に呼び寄せようってんなら……」
ロンメルさんの目は真剣だった。それに応えるように、俺もその視線を真っ向から見つめ返す。
「利用していない、とは言いません。転職の費用、工房の用意、一家揃っての移住にロンメルさんの復職。どれもフェイムさんに好ましい環境を提供しようとした結果ですが、見方を変えればそう捉えることもできるでしょう」
そういう意味では、彼の指摘は正しい。
「現状維持であれば、それもいいでしょう。もしこの話を断ったとしても、皆さんになんの実害もないことはお約束します」
「む……」
多少は納得してくれたのか、ロンメルさんの顔から険がとれる。そして、彼は以前と同じようにフェイムに視線を向けた。
「……結局、あの時の繰り返しだな。フェイム、お前の好きにすりゃいい。さっきも言った通り、この話を受けなかったからって、俺たちが飢え死にしたり一家離散したりすることはねえよ。いざとなりゃ、俺だけ村に戻って金を稼ぐって手もあるしな」
それは予想通りの答えだった。ロンメルさんたちを取り巻く環境を見ていると、余裕があるようには到底見えない。決して扱いがいいとは言えない王都に妻子だけを残すことには不安もあるだろう。
だが、だからと言って子の選択を妨げたくはない。それはロンメルさんの矜持なのだろう。
「……分かってる」
フェイムは自らの手に視線を落とすと、じっと考え込んだ。前回勧誘した時はここで断られたが、今回はどうだろうか。
あれから一年半ほど経つが、王都に来てそれなりの期間が過ぎ、社会の流れや自分たちの立ち位置が見えてくる頃だろう。自分の鍛冶の技術にもそれなりの自負が生まれているはずだ。
それらの要素が、以前とは違う回答をもたらしてくれる。そんな気がしていた。
「……一つ頼みがある」
長い沈黙の後、フェイムは何かを覚悟した表情を浮かべて顔を上げた。そして、なぜかクルネを見つめる。
「あんたは凄い剣士だと聞いた。……俺の打った剣は使い物になるのか、それを確認してほしい」
「私が?」
突然の話に、クルネは目を丸くして驚く。彼女に頷いてみせると、フェイムはその理由を口にした。
「正直に言えば、転職はとても魅力的だ。……ただ、未熟なままで鍛冶師になるのは、楽な道に逃げているみたいで嫌なんだ。
だから、俺の剣が一人前の鍛冶職人として通用するレベルなのか、教えてほしい」
……そう来たか。これが俺なら、よっぽど変な剣が出てこない限り「充分な出来栄えですよ!」とか言うところなんだけど、クルネは真面目だからなぁ。剣士としての矜持もあるだろうし、手心を加えてはくれないだろう。
「分かりました。私でよければお引き受けします」
答えるクルネの表情は、どう見ても真剣そのものだった。これは本気で実力勝負になりそうだな。
「……決まりだな。と言っても、今日明日で剣が出来上がるわけじゃねえ。ちっとばかし時間をもらいたいところだが……」
そう口を開いたのはロンメルさんだ。どことなく嬉しそうな表情を浮かべているのは、子の矜持を垣間見たからだろうか。
「もちろんです。そのために王都へ来たんですから」
俺は二つ返事で頷いた。実際には、王都へ来た目的は一つだけではない。時間が必要だと言うのなら、他の用件を先に済ませるまでだ。
「私たちはクルシス神殿か、『壁のねぐら』という宿屋のどちらかにいると思います。出来上がったらご連絡くださいね」
「ああ……意地に付き合わせてすまない」
「いえ、お気になさらず。偏見かもしれませんが、職人は意地っ張りくらいでちょうどいいと思いますよ」
「……そうか」
フェイムはきょとんとした表情を浮かべた後、少しだけ笑った。
◆◆◆
「カナメ司祭と実際に言葉を交わすのは久しぶりだな」
「そうですね。……つい数日前にも念話機でお話ししましたので、あまりご無沙汰していた気はしませんが」
久しぶりに訪れたクルシス本神殿の神殿長室は、少し狭いように感じられた。……と言うよりは、ルノール分神殿の神殿長室が広すぎるんだろうなぁ。
誰が暴走したのか知らないけど、本神殿より広い神殿長室ってどうなんだ。
そんなことを考えていると、プロメト神殿長はなんとも言えない表情で俺を見つめる。その理由に心当たりがある俺は、神殿長の隣に座っている同志に救いを求めた。
だが、彼女は澄ました顔でソファーに座っているだけだった。プロメト神殿長は、俺と彼女を交互に眺めると、小さく息を吐いた。
「部下が上司を引き抜くなど、クルシス神殿が始まって以来の珍事だろうな」
「ご迷惑をおかけします……」
そう殊勝に答えると、神殿長は小さく肩をすくめた。
「まあ、本人の意思は以前から聞いていたことだ。完全に引退されるよりは、まだこの形のほうが好ましい。……ルノール分神殿を頼むぞ、ミレニア司祭」
……そう、俺が王都へやって来たもう一つの大きな理由。それは、ミレニア筆頭司祭の辺境への引き抜きだった。
フェイムの鍛冶師と同じく、ミレニア司祭の細工師の力は辺境を発展させる大きな要因となり得る。そのため、水面下ではだいぶ前から交渉をしていたのだ。
趣味に忠実なミレニア司祭は、細工師の固有職を得てからというもの、さらにその入れ込み具合が強くなってしまい、神官位から退くことも考えていたらしい。
彼女は年齢だけなら四十代半ばだ。クルシス神官の中には、それくらいの年齢で引退する者も珍しくないため、それ自体はおかしな話ではない。
だが、ミレニア司祭ほど優秀な神官はそういない。そのため、長らく引き留められていたのだが、最近では空白だった副神殿長の席も埋まり、彼女が抜けても大丈夫な体制が構築されつつあった。
そこで、俺が提案したのが『ルノール分神殿の顧問役』だ。普段は細工物の製作に精を出して、ルノール分神殿が困難に直面した時は相談役となる。
クルシス神殿としても、完全に縁が切れるよりはいいだろうし、細工師の移住を望む辺境や、相談役を得られる某神殿長代理にとってもありがたい話だ。
念話機でこっそり打診したところ、ミレニア司祭も悩んでいたようだが、『専用の工房を用意する』『クルシス神殿を完全には引退しないため、後ろめたさが半減する』という要素は魅力的であるようだった。
なお、とどめの言葉は『地竜の素材を提供します』と『キャロに毎日会えますよ』だったのだが、それはプロメト神殿長には言うまい。
「ええ、カナメ神殿長代理をしっかり補佐しますわ。オーギュスト副神殿長もいらっしゃいますし、あまり心配はいらないでしょうけれど」
ミレニア司祭がそう答えると同時に、神殿長室の扉がノックされる。そこに立っていたのは、本殿警備の責任者であるアルバート上級司祭だった。
もはやトレードマークになりつつある、凶悪な戦棍が背中で輝いている。
「……失礼しますぜ」
「来たか」
「もちろんでさ。なんせ、うちの優秀な筆頭司祭であり、細工師でもある重要人物を引き抜こうってんですからね。そんなことを考える奴の顔を拝んでおこうかと思いまして」
そう言うと、アルバート司祭は俺を見てニヤリと笑う。それが冗談だと言うことは分かっているが、二割ほど本気が混ざっているような気がした。
「ところでよ、アレは本当だったのか?」
と、アルバート司祭は唐突に話題を変えた。『アレ』の意味が分からず首を傾げていると、彼は言葉を補足する。
「ほら、セイヴェルンのクルシス神殿から神官が派遣されたって話だよ」
「ああ、ジュネのことですか」
そう言えば、けっこう大切な案件だったよな、これ。
「あの閉鎖的な組織に何があったんだ?」
「私にもよく分かりませんが……そうですね、どこから説明したものか――」
それからしばらく、俺はセイヴェルンであったことを説明していた。転職能力に関わる云々は省略したが、それでも説明にはかなりの時間が必要だった。
「目的が不明だな……」
やがて、アルバート司祭が苦い表情を浮かべた。プロメト神殿長はいつもの無表情だが、どことなく渋い顔をしているような気もする。
「私も気を付けておいたほうがよさそうね」
「そうですね、お願いします。……ただ、ジュネ自体は悪い子ではありませんし、仕事もテキパキこなしてくれています。いい人材だと思いますよ」
「だからこそ、企みごとをされると厄介なんだよ……けどまあ、別にいいか。カナメ司祭を出し抜くのは面倒くさいだろうしな」
そう口にした後、アルバート司祭はふと何かに気付いたように俺を見る。
「ところで、ジュネって名前からすると女神官か?」
「そうですよ。十五、六歳だと思います。セイヴェルンの排他的な意識は多少ありますが、明るい性格ですし、他の神官とも上手くやっていけると期待しています」
「やれやれ、嬢ちゃんも苦労が絶えねえな……」
何か誤解している様子のアルバート司祭は、肩をすくめて神殿長室の扉を見やるのだった。