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レミュエルへの寓話  作者: 辻ヶ瀬
1.黒い羊と白い象
2/4

01

 待ち合わせ場所に現れたたにあおいは、開口一番飄々とした笑顔でこうのたまった。

「ごめん雛川ひなかわ、少し遅れたかな。待った?」


 声がして、わたしは驚きながら顔を上げる。すぐ目の前に谷先輩が立っていた。

 一見気の強い猫のようだが、よく見れば少年のように愛嬌のある丸い目が二つ、まっすぐにわたしを見下ろしている。

 黒に赤茶を入り混ぜたように染められた髪は、寝癖だろうか、あちこちに飛び跳ねていてとても強情なようだ。そう考えてから、前に彼が自分の癖の強い固い髪質について「セットしても意味がないんだ」とぼやいていたのを思い出した。


「びっくりしました、遅すぎて」

 嫌味のつもりで言ってみたが、谷先輩は大して堪えた風もなくへらりと笑った。

「ごめんなぁ、わざわざ時間取ってもらったのに――」

 そう言いかけたところで、彼の視線がテーブルの上に散乱している積み重なった紙の山に止まる。その視線を遮るように、わたしは慌ててレポートを掻き集めた。

「別にいいよ? それまとめ終わってからでも。何なら助言してあげようか」

「いいえ、必要ありません。それよりも、待ってる間に手持ち無沙汰だったからと無理に頼んだコーヒーを買い取ってもらった方が嬉しいです」


 レポートの束を鞄の底に押しやってから、すっかり冷え切ってしまった全く手のつけていないコーヒーを谷先輩に押し付ける。

 その様子に苦笑しながら、彼は冷たいカップに口をつけて何とも言えない渋い顔をした。お口に合わなかったのか、角砂糖を取り出して一個、二個と黒い液体に投入していく。

「そう急ぎでもないし、レポート終わってからでもいいのに」

「いいんです、こんなの後回しで。期限までにはまだ時間もあるし、書くことは大体もう決まっているので」

「それにしても、今どき手書きのレポートとは。訂正するときに面倒だろうに。おそらく、行方なめがた教授あたりの課題と見たけどどうだろう」

 時代錯誤な偏屈主義を押し付けてくる教授は、大学にだってそう何人もいない。学生達に煙たがられているご老体の顔を思い出しながら、わたしは曖昧に微笑んだ。

「ああいう存在も必要なのではないですか。少なくとも色のついていない人間より、わたしは好きですけど」

 言いつつ自分は新しいコーヒーを頼み、改めて彼に向き合った。


「それより、わたしに話って何ですか?」

「いや、話ってほどの話でもないんだけど、ちょっと聞きたいことがあって、さ」

 やけに言い澱む谷先輩に、ふつりと嫌な予感が首をもたげる。厄介ごとに巻き込まれそうな雰囲気だ。

「振った女性に刺されそうだからその仲裁をしてくれ、という話なら残念ですが他を当って下さい」

「違うよ、そんな事じゃない。ていうか雛川って俺のこと何だと思ってるの……」

 それに真面目に応えるのなら、「同じサークルの先輩」以外の何者でもない。それ以下でも以上でもなく、そこには尊敬の念など持ち合わせていない。


 新歓で雰囲気に流され連絡先を交換したきり、数回会話をした程度でそれと言って交流もなかった谷先輩から急に連絡が来て、話がしたいと持ち出されたのだ。驚きを通り越して怪訝に思うのは当たり前だと思う。

 拉致があかないな、と辟易してきたわたしの元に、店員がどうぞ、とコーヒーを差し出す。軽く頭を下げてカップを手で包み込むと、じんわりとした暖かさが手を伝って体に染み渡った。

 内装は古臭いが、本当にこの店のコーヒーは美味しい。ここを待ち合わせ場所に選んだ谷先輩を見直しかけたが、すぐに角砂糖の件を思い出して考えを改めた。

 別にコーヒーをブラックで飲まないのは邪道だ、とかそんな偏屈を言うつもりはないが、つまりはコーヒーの味だとかそう言うものは関係なく、ただ単に安そうだったからという理由でここを選んだのだろう。


「雛川ってさ、英語、得意だろ?」

 唐突にそう訊ねてきた谷先輩に、思考が飛びかけていたわたしは思わず、は? と声を上げてしまった。

「ほら、俺の一個上に去年卒業した米倉よねくらって人がいたろ? その人が、卒論のときお前の英語力に一役買ってもらった、とか何とかいう話を酒の席で零してたからさ。一年の時にそれなら相当な英語力なんだなと思って」

「まあ、嫌いではないですけれど」

 口端に疑問を滲ませれば、谷先輩は決まり悪げに視線をさ迷わせた。

「ほら……、そう、もしかして雛川は帰国子女か何かなの?」


 いかにもお茶を濁すための話題に、わたしは思わず呆れて口を出してしまった。

「本当に聞きたいのって、そのことじゃないですよね。わたし、先輩と世間話をするために来たんじゃないんですけど」

「いや、違うごめん。そうじゃないんだ、呼び出しておいて今更だけど、このことを本当に君に聞くべきかどうか図りかねて」

 そう答えたきり、谷先輩は手のひらの中で、溶け切らなかった砂糖が底に残った空のカップを転がしながらしばらく黙っていたが、やがて呟くように言った。


「雛川は、小説のせいで人が死ぬってあると思う?」

 これまた唐突な質問だ。彼は随分と掴みどころのない質問ばかりする人だ。

「それはつまり、犯罪を題材とした小説の模倣パスティーシュのようなもの、と言うことですか?」

「それだけと言い切ることはできないけど。例えるのならそれが一番近いかも知れない」

 何故こんなことを聞きたいのかと問い詰めたい気持ちはあったが、やっとまともな会話が成立しそうな話題になったのだ、ここで腰を折るようなことはしたくない。


「あるのではないでしょうか。事実犯人への影響って、言いたくないけれど本からも大きな割合であると思うんです。実際やってみたらどうなるんだろう、という好奇心というか。犯罪心理学者でもないので、本当のところは判らないですけれど」

「事実は小説よりも奇なり、ってやつか。でも逆に“絵画とは、何とむなしいものだろう”って感じもありそうだね」

 谷先輩が玩んでいたカップをソーサーに戻す。カチリ、と嫌にその音が周りに響く。

「“現物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは”ってね」

 

 だんだん物言いのくだけてきた先輩の言葉が、あまりに自分の言いたかったことをよく表していて、つい、何のことですかと聞いていた。

「パスカルの格言。教授が読めって口酸っぱく言う本から、よく言葉を借りるんだ。自分の言葉で語るより、的を射ている気がしてね」

「原文ですか」

「いやいや滅相もない。君ほど英語はできないし、ましてやフランス語なんて」


 そこまで話して、わたしは彼に対する考えを改めなくてはならないかも知れない、と再度思った。

「でもそれでは、犯罪者は自分の犯罪に絶望しているということになります。その解釈では小説の方がよほど理想に近い」

「“死に至る病”だね」

「キェルケゴールですか」

「ご名答、やっぱり発音が綺麗だ」

「はぐらかさないで下さい」

 そんなつもりはないんだけどなぁ、と独りごち、谷先輩は困ったような笑みを浮かべた。本当に自分の言葉で語らない人だ。


「話が断線してしまうけど、やっぱり考えていくと奥深いと思わない? 実際の殺人が先か、空想としての小説が先か。“鶏が先か、卵が先か”ってジレンマになってしまうけど」

「いい加減、本題に戻ってください。帰りますよ」

 いつまでも答えの出ない問いをわたしにして、一体どうして欲しいのだろう。何かの応答諮問でもしているようで疲れる。

 焦れてそう口にしたわたしに、谷先輩は「最初から本題だよ」と飄々と言ってのけた。

「今までのは全部、俺なりの『厄介ごとに巻き込むから、逃げるなら今だよー』っていう警告だったんだけどね」

「……もう待ち合わせ場所に来ている時点で、逃げ道ないじゃないですか」

 もうすでに外堀を埋められている状態だ。それを警告などと、白々しいにもほどがある。

 その言葉を了承と取ったのか、谷先輩は申し訳なさそうに微笑んだ。


「じゃ、悪いけど巻き込むね。大丈夫、厄介ごとと言っても君が見るのは氷山の一角のそのまた一角ぐらいだから」

 そして、ポケットから何か紙切れを取り出した。

「本当に頼みたいことって言うのは、これの訳なんだけど」

 ネットで調べるにも筆記体の癖が強すぎでアルファベットの識別もつかないし、これを聞ける人物が君以外、思いつかなくてね。

 そう言って四つ折にされた紙を広げると、姿を表したのは流麗につづられた筆記体の英文――ではなく。


「谷先輩、これ英語じゃないですよ」

「えっ!?」

「多分これ、ラテン語です」

「本当? あちゃー、見分けが全くつかなかった……」

「でも、これは仕方ないですよ。同じアルファベットですし」

「ラテン語じゃ読めないよねー、これ」

 落胆して肩を落とす森先輩には悪いが、ラテン語は守備範囲外だった。 

 いや、しかし。この文字並びには見覚えがある気がする。

「先輩、もう一度それ、よく見せてもらえませんか」

 手渡された紙を覗き込めば、やはり見覚えがあった。確か、これは。


死は確かなものモルス・ケルタ生は不確かなものヴィータ・インケルタ墓碑銘エピタフによく刻まれる格言を捩った、とある小説に出てくる言葉ですよ」

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