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後編

エステリアとクロードは車中で一言もしゃべらずリーデルシュタイン邸に帰着した。


「お帰りなさいませ、エステリアお嬢様」


老年に差し掛かった家令とメイドたちが出入り口で迎えてくれる。その穏やかな表情を前にしかめつらを継続することは居たたまれなくて、エステリアは何とも言えない顔で「…ただいま」と応じた。


エステリアとクロードがぶつかるのはめずらしくない事だ。他の屋敷であれば執事が頭を垂れるのが常套だが、リーデルシュタイン卿の方針だ。


エステリアの様子に家令は苦笑をこぼした。


「旦那様がお帰りになっていらっしゃいますよ、お嬢様」


「……え」


とびきりの秘密を囁くように、家令はエステリアに告げた。エステリアの双眸がこれ以上なく瞠られる。


「サロンでお茶を楽しんでおいでです」


―――「お嬢様!」


家令が言い終わらぬうちにエステリアは駆け出した。クロードの声が追いかけてくるが、エステリアの耳には届かない。


柔らかな色彩でまとめられた屋敷を白い制服を翻して走り抜ける。


両開きの扉をノックも無しに開けると、そこには淡い色の髪をした壮年の男がどっしりとしたソファに腰掛け、茶を飲んでいた。


「…行儀が悪いぞ、エスト」


リーデルシュタイン卿クレメンスの表情は厳しいものだったが、ドーム型の天井から差し込む光に透ける繊細な薄い金色の双眸は優しい。


「ご、ごめんなさい」


エステリアは慌てて腰を折った。


クレメンスはゆるく頭を振ると、エステリアを傍近くに招いた。


「久しぶりだな。半月ぶりになるか。…つつがなくやっているか?」


「はい。…お父さまはお体は大丈夫ですか?お忙しいのではありませんか?」


身を乗り出して矢継ぎ早に訊ねてくる養女に、辣腕経営者として名高いクレメンスはしかし、皺の刻まれた目元を綻ばせた。


「体調管理も仕事の内だ。無理はしていないよ」


メイドから紅茶を受け取り、エステリアは注意深く養父を見つめた。


社交界の地位で言えばリーデルシュタイン家は中の下といったところだが、経済界の一翼を担うクレメンスは常に激務に晒されている。だがエステリアはこの養父の弱ったところを見たことが無い。


それが上に立つ者の姿だと理解はしているが、すこしくらい弱音を吐いてくれればいいのに。エステリアは紅茶を冷ますふりをして唇を尖らせる。


「学校での成績について報告を受けている。努力をしているようだな。クロードはよく教えてくれるか」


クロードの名にエステリアは紅茶のカップを持つ手に力を込めた。


クロードは執事兼、エステリアの家庭教師の側面も持つ。


義務教育を受けられる環境にいなかったエステリアは読み書きにも不自由する有様で、クレメンスは専属の家庭教師を雇ってくれていた。だが教育水準が平均に達したところで、エステリアは自分で勉強するから、と家庭教師を断った。


裕福な家といえどクレメンスに金銭的な負担をかけたくなかった、という事もあるが、その家庭教師は女性ガヴァネスだったのだ。


同性の方がいいだろう、とクレメンスは気をまわしてくれたのだが、家庭教師ガヴァネスは妻のいない養父に秋波を送っていたのだ。

色恋に疎いクレメンスには全く通じていなかったにしても、エステリアには耐えられなかった。


クレメンスはいい顔をしなかったが、いつになく強硬な養女の様子に渋々うなずいた。


無理を言ってしまった手前、成績を落とすわけにいかない。エステリアは寝る間も惜しんで勉学に励んだ。


努力の甲斐もあり、中等科を優秀な成績で卒業したエステリアの前に現れたのがクロードだった。


状況のまったく把握できないエステリアに、クロードは優雅に一礼した。


クロードはエステリア付きの執事である事。その業務以外にも、家庭教師としても優秀だから教えを乞うように、とクレメンスは告げた。


その日からクロードはまるで影のようにエステリアの傍に控えるようになった。


だがエステリアがクロードに勉強の事で頼った事は一度も無い。入学時から同じクラスになったアナスタシアは不可能に等しいと言われていた学校にその頭脳だけで編入した俊才だし、教師陣もわからないところがあれば丁寧に教えてくれる。


エステリアは全力で眼鏡クロードなどいらないと訴え続けたが、いまだに受理されない。


しかし今日という今日は養父ちちにわかってもらわなければ。


執事をつけるとおっしゃるのならそれは結構。―――せめてもっと目立たない人材でお願いします。


「あのね、お父さま…」


―――「失礼致します。おくつろぎのところ、申し訳ありません。旦那様にご報告が」


エステリアがテーブルを挟んで向かいのクレメンスに話を切り出そうとした瞬間。


現れたのは漆黒を纏った無粋な闖入者。


…やっ、ろぉ…!!


クロードのタイミングたるや、もはや神がかっているとしか思えない。どうしてこうもエステリアの邪魔をしてくれるのか。


膝の上で拳を握りしめ、こみ上げるものをどうにかこうにか押さえつけるエステリアを一瞥し、クロードはクレメンスに上申しているが、今でなくてはいいものにしか聞こえない。


「…エスト、なにか言いかけたのではないか?」


報告を聞き終えたクレメンスが促すが、本人を前にして言える内容ではないし、エステリアもそこまで図太くない。


「…ううん。あの、お父さまはいつまで屋敷にいられるのかな、…って」


「ああ」とクレメンスはうなずいた。その淡い金色の瞳が曇る。


「仕事が立て込んでいてな、…明日の昼前には出発する」


「明日!?」


エステリアは繰り返した。声には悲痛な響きが滲んでいる。


中途半端に立ち上がったエステリアは、糸が切れたように再びソファに腰を落とした。


今回は半月。その前は一月半。クレメンスはどんどん多忙になる。このままいけば、屋敷に帰ってくるのは一年に一度にでもなりそうだ。


仕方ない。わかっている。エステリアももう子供ではないのだから。

頭では理解しているのに、涙が滲んでくる。


明日は平日。エステリアは学校に行かなければならない。今日のヴィクトリアの様子からして、明日は彼女はひどく荒れているだろう。


「…クロード。エストの出席状況は?」


俯き、唇を噛み締めて泣きそうになるのを堪えるエステリアの耳に、静かなクレメンスの声が滲みる。


「今年度にはいってから無遅刻無欠席でいらっしゃいます」


「…そうか。エスト」


名前を呼ばれ、エステリアは顔を上げた。


仕事の鬼、と畏怖まじりに揶揄されるクレメンスの目がエステリアは好きだ。見えないはずの陽の光を閉じ込めたような、淡い金色。


その目に見つめられ、エステリアの涙は行き場を失う。


「明日、午前中だけになるがお父さまに付き合ってくれ。学校には私から連絡を入れておく」


ぽかん、とエステリアは口を開いたまま止まっていたが、花が咲くように顔に笑みが広がっていく。


幼い子供のようにはしゃぐエステリアを、クロードは眼鏡越しの黒い目で冷ややかに見下ろしていた。


         *


夜。エステリアは参考書を片手に屋敷の廊下を小走りに駆けていた。向かう先は養父の書斎だ。


クレメンスに文字通り「拾われ」て、もう10年になる。それ以前、エステリアはストリートチルドレンだった。


母はいたが、薬物中毒者で、家賃が払えず住んでいた場所を母娘ともども叩き出された。


母の事が好きだったかと訊かれれば、わからない、というのが正直なところだ。一番古い記憶はわけのわからないことを喚きながら暴れる母の姿。それでも彼女から離れなかったのは、他に知る人もおらず、行き場も無かったからだ。


ある朝公園の遊具のなかで目覚めると母は冷たくなっていた。


それからはエステリアはひとりで生きねばならなかった。


冬の気配が日に日に近づいてくる夕方。いつものように残飯を漁っていると、背後で黒塗りの車が停まった。


追い払われるか、ひどい時には暴力を振るわれる事もある。いつでも逃げられるように、けれどせっかく得た「夕食」を手放してたまるかと全身で警戒するエステリアの前に現れたのがクレメンスだった。


彼はエステリアにふたつみっつ質問し、自分と来るよう促した。


差しのべられた手を、なぜ取ってしまったのか。エステリアにはわからない。


何か月も風呂に入っておらず、悪臭の漂うエステリアをクレメンスは車に乗せると自分の屋敷に連れていき、身を清めさせ、食事を与えた。

それから出生届が出されていなかったエステリアの戸籍を申請し、自分の養女として迎えると、彼女に世に出て行くための教育を施した。


寂しいという感情を思い出し、ぐずるエステリアを自分のベッドに寝かせ、寝入るまで背中を撫でてくれたこともある。


いつだったかエステリアはクレメンスに訊いたことがある。なぜわたしを拾ってくれたのか、と。


行動には明確な理由を求める養父はほんの少し困った顔をした。


―――わからない。ただ、そうせねばならない気がしたのだ。彼はそう言った。


訊いてみたものの、本当はエステリアにはどうでも良かったのだ。


養父が拾ってくれなければ、きっとエステリアは野垂れ死んでいただろう。人として生きる事などできなかった。クレメンスがエステリアをつくって、育ててくれたのだ。


クレメンスの書斎の扉の前で乱れてしまった前髪を整える。


ひとつ深く息を吸い、エステリアは扉をノックした。…応えはない。


エステリアは首を傾げた。使用人から養父は書斎に詰めていると聞いたのに。


「…お父さま?」


身をかがめておずおずと部屋に入ると、養父はソファに転がって入眠していた。長身の彼の脚はソファからはみ出してしまっている。


エステリアは足音を忍ばせてクレメンスに近づいた。


疲労がたまっているのだろう。よく眠っている。


ソファの傍に膝をついて、エステリアは歳を重ね、老いを感じさせるようになった養父の細面をじっと見つめた。


「…お父さま、ここでは風邪をひいてしまいますよ。ベッドでおやすみになってください」


初夏とはいえ、まだ夜は冷える。あえて小声で囁いても、養父が目覚める気配はない。ひいでた額にかかる細い髪をそっと払ってみても同じ。


「…お父さま」


冷静な部分がじわじわと熱に浸食されていく。エステリアは引き結んでいた唇をそっと開いた。…心臓がうるさい。唇に神経が集中していくようだ。


クレメンスの顔の横に手をつき、彼の薄い唇に自分のそれを重ねようとした。その時だった。


断りも無く、書斎の扉が開かれた。


ぎょっと目を瞠り、振り向いたエステリアの視線の先に立っていたのはやはり、クロードだった。


執事には主人の許し無く入室できる権限が与えられているとはいえ、…この男は。


しゃがみこんだまま自分を睨み付ける令嬢に無言のまま歩み寄り、クロードはエステリアの腕を乱暴に取って室外に連れ出した。そのまま使っていない客間に押し込められる。


「見られてしまった」という気まずさから、エステリアは逆らえない。


…今夜はずいぶん月が明るいのだな、とエステリアは場違いな事を思った。灯りをつけなくても、歪んだクロードの顔がよく見える。


「…なにをしていたのですか」


「…あんたには関係ない。…痛いんだけど、放してよ」


唸るような口調で詰問するクロードの手はエステリアの腕を掴んだまま。いけ好かない執事は力の加減すら忘れているようだ。


「…あなたと旦那様は血の繋がりは無くても父娘です。わかっているのですか」


―――「わかってるよ、そんな事!!」


腕を振り払いざま、エステリアは叫んだ。わかっている、そんな事。誰よりも。


真実親子ほど年の離れたクレメンスへの恋心の芽生えなんて憶えていない。気が付けば、エステリアの世界の中心はクレメンスになっていた。


今はまだ子供だけれど、彼に相応しい女性になって想いを告げるのだ。その為に努力を重ねてきた。


けれどある日、知ってしまった。離縁したとしても、一旦法定血族となってしまえば婚姻は認められないという事を。


モラルだとか、世間の目だとか、そんな形の無いあやふやなものではない。法が、クレメンスとエステリアの間に確固とした絆をもたらしてくれたものが許さないという。


クレメンスとの未来に希望は無い。叶わない想いを口にすれば、優しい養父は困るだろう。


クレメンスに焦がれるのは男親に対する憧れの産物だ。拾って育ててくれた、初めて人間らしい扱いをされた事での恩を恋心とはき違えているのだ。エステリアは自分に必死に言い訳をして、「父親の事が大好きな養女」という仮面をかぶり、己をすら欺こうとした。


だが、想いは募るばかり。ますますひどくなる。


まるで首まで蜜の沼にはまっているかのような心境だ。


「…あんたは気付いてたのね」


エステリアはつぶやいた。

うまくやっていたつもりだった。親友のアナスタシアすら、エステリアはただのファザコンだと思っているはずだ。


それなのに、クロードは。


ああ、…だからわたしはこの男が嫌いなのだ。必死に閉じ込めているものを平然と暴いてしまう。冷たい黒い目で真実を射抜いてしまう。


エステリアは大きく息を吐いた。


「…お父さんには言わないでよ」


「言いませんよ」


口では釘を刺しても、心のどこかで明るみに出てしまえばいいと思う自分もいる。エステリアはうんざりとした。…叶わないどころか、口にも出せない恋というのはこうも苦しいのか。すべて壊れてしまえばいっそ楽になれるだろうか。


エステリアは唇を歪めた。年若い少女に似つかわしくない、大人びた皮肉な笑みだ。


「…あんたはこんな気持ちになる事は無いんだろうね…」


ただあてつける為に吐き出された言葉にクロードは目を見開いた。彼の手が再びエステリアの腕を掴む。その肌の熱さにエステリアは執事を見上げた。


「…そう、思うのか」


眼鏡の奥の黒い目は月光に潤んでいた。エステリアは首を傾げた。熱でもあるのだろうか。


「…別に。どうでもいいわ、あんたの事なんか」


興味など欠片も感じさせない口調でエステリアが吐き捨てると、腕を掴む手に握りつぶされるかというほどの力がこもった。


しかしそれは瞬きひとつするほどで、滑るようにクロードの手はエステリアを解放する。


鈍い痛みを訴える腕をさすり、エステリアは踵を返した。


―――「おやすみなさいませ、お嬢様」


客間を出るエステリアの背中にクロードの声がかかる。


「…おやすみなさい」


きっと彼はやっぱり所作だけは優雅に頭を垂れているのだろう。


振り返りもしなかったエステリアの後ろ姿を、クロードはじっと見つめていた。



彼の黒い双眸に宿っていたものを知っていたのは、中空に浮かぶ月だけ。
















































前編でエスト→←クロードだと思った方、手をあげて。


作者がほくそ笑んでいます。

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