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多芸御所急襲

永禄10年9月


北畠具教が捕縛、連れ出され僅か数日のうちに、多芸御所と霧山城乗っ取りに成功した。

忍びの案内で、闇夜に紛れて接近した百ほどの小隊が搦手より多芸御所に侵入、瞬く間に主要部を制圧。

一部が、正門を開け襲撃隊本体五百を招き入れ、正門付近を占拠した。

翌朝には佐武義昌率いる先遣隊が到着し、抵抗するものを霧山城の一角に押し込み孤立させ、多芸御所を完全に掌握。

翌々日、9月10日には、早くも筒井藤勝が本隊四千と共に多芸御所及び霧山城に入り、乗っ取りを完了した。



***



実は、先の伊賀征伐から今回の多芸御所乗っ取りまでは、全てが筋書き通りである。

主に藤勝と道意が絵を書き、本多正信と藤林長門が長時間かけて協議して具体化し、北畠政成の手引きと藤林党他伊賀忍者の協力を得て達成した。


協議のため、長門は藤勝の元も何度となく訪れている。

余談であるが、長門が藤勝を訪れるのは決まって夜遅くであり、毎度過激な入り方をするので、たまったものではない。

最近では、長門が天井裏に来れば、気配で目が覚めるようになった。藤勝はその方面の感覚が鍛えられ強化されてしまったようだ。

とはいえ、慣れることはない。それは無理もない。

深夜に叩き起こされ、長時間協議し終わるのはいつも丑三刻。この時代の朝は早い。日の出と共に起床である。

眠れるのは数時間しかなく、結果、茜を頼ることになる。そうい訳で、長門が来た夜は、茜と愛し合うのが恒例になった。

翌朝、楓が眠たげで少々不憫だが。まあ、しかたあるまい。


北畠政成は、道意の強い説得(脅迫に近い)を受け、最終的に受け入れた。

政成が、道意の娘婿であるといっても、事は簡単ではない。道意は説得のために、

伊勢までわざわざ足を運んだ。最後には、「北畠存亡の危機である」と説かれ、受け入れたのである。


筒井側の纏め役は、先遣部隊を率いた佐武義昌であるが、主に働いたのは、襲撃隊の若武者たちである。

正門を担当した本隊が筒井城ノ介、搦手に回った小隊は柳生厳勝が率いた。

その他、高山右近重友や可児才蔵、井戸覚弘、同治弘など国人衆の倅なども参加していた。伊賀征伐に義勇隊として参加し、そのまま襲撃隊として働いた。

藤勝と同世代の若者達であり、次代を担う有望な者達だ。


ここで、主な者を記しておく。


筒井城ノ介

藤勝の実弟であるが、妾の子であるため順政の子として興福寺の末寺に入れられ育てられていた。その後、宝蔵院胤栄に師事していた。才蔵の弟弟子に当たる。

この後、藤政の名を与え、正式に藤勝の弟として、披露する予定である。



柳生厳勝

柳生宗厳の長子であり新陰流の達人だ。この後、藤勝の正式に家臣となる。

剣の道より、戦を好み藤勝に従い、多くの戦に参加。活躍し島左近と肩並べる武将となる。後の柳生新陰流二代の印可を受ける。



高山右近

大和沢城主高山友照の長子。

父の影響で12歳で洗礼を受け「ジュスト」という洗礼名を持つ。敬虔なキリシタンであるが、父友照の仏寺を破壊する過激な信仰に嫌気がさし父の元を離れ、藤勝に仕えている。

(松倉右近重信と重なりややこしいが、以後「右近」は基本、高山右近を指すこととする)



可児才蔵

美濃可児郷出身。

若き頃より、宝蔵院胤栄に師事する。恵まれた体格から繰り出される豪槍が武器。

藤勝に負けた頃から、学問にも打ち込んでいる。

未だ十三と年若で印可状を得ていないので、この時は師の元に帰るが、

後に藤勝の元に出仕。先駆け部隊の将として活躍する。




北畠の当主代行である北畠親成他具教の妻子は、霧山城に幽閉された。

北畠の旧臣のうち、幕僚など事務方の多くは北畠政成の説得を受け入れはそのまま筒井に従属したが、一部は、筒井の支配を受け入れられず城を出て、伊勢各地へ落ちていった。

政成は説得を終えると、自ら霧山城にて蟄居する。



***



多芸御所及び霧山城が瞬く間に落城し、北畠本家が悉く捕らえられたという報は、文字通り伊勢全域に激震をもたらした。

諸将は、伊賀征伐から居城に帰還したばかりで動くことはできず、各地の北畠一族もどうすることもできなかった。


伊賀から戻ったばかりの木造具政は、さぞ安堵したことだろう。

本来であれば、軍率違反、反逆行為である。


北畠具教の次男が継いでいた、安濃津の長野家にしても軍備を整え、居城に閉じ籠ることしかできなかった。


藤勝らは、多芸御所周辺で動揺する諸城を次々に攻略し、ついには、南伊勢の随一の要衝である大河内城も落城させる。

永禄10年末までには、伊勢南西部の支配をほぼ確立した。



***


時を同じくして、滝川一益を先鋒に北伊勢に侵攻していた織田家はというと、

一益の入念な調略が効をそうし、多くの城が戦わずに従属、一気に北伊勢の最大勢力である、神戸氏の神戸城に迫る。


神戸城は、本来なら得られるであろう中伊勢の諸勢力からの援軍を、北畠崩壊の影響で、ほとんど得ることができず孤立。

それでも必死の抵抗を試みるが、衆寡適せず、敗北に帰すことになる。

当主、神戸具盛は、織田信長の三男、三七丸を養子に迎えることを条件に、降伏することを決断する。

この他、北伊勢の有力な勢力では、亀山の関氏が残っているが、滝川が独力で従属させえると判断。

一先ず北伊勢の大半得たことに満足し、滝川一益を桑名城に入れ、後を託し、信長自身は本隊を連れ、早々に稲葉山へ帰還した。


伊勢に残る大きな勢力は、中伊勢の木造氏と長野氏くらいとなった。織田や筒井にしてみれば、たいした勢力ではない。時間の問題である。

遅くとも翌年には、筒井と織田は勢力を接することになるであろう。


筒井藤勝は、ここで大きな賭けに出ることにした。

後事を佐武義昌らに託し、信貴山城に帰還した。


筒井家としても、ここが正念場はである。


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