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伊賀征伐

永禄10年(1567年)4月 多芸御所


多芸御所の大広間には、北畠家の主だった者が集まっていた。


「具房殿の仇を取るためにも、是が非でも伊賀を征伐せねばならん」


当主である北畠具教の声が響きわたる。


伊賀忍者の仕業と思われる火付けは、今でも続いている。ひとつは些細なものでも、全てをまとめれば甚大な被害になる。

つい先日も多芸御所の付城でも馬屋が焼ける被害があった。具教のいらいらは限界に達しようとしていた。


ただ、重臣たちは昨年の戦で伊賀忍の強さを痛感しており及び腰である。

だいたい伊賀を取ったところで山ばかり。田畑にできる平地は少なく、大した産物もない。

苦労して領地にしても得るものはほとんどないのだ。


「御所様。今はご自重くださいませ。昨年の損害がまだ癒えておりませぬ。

尾張の織田の動きも気になり申す。何卒こらえてくださいませ」


事実、昨年に2千近い兵を失っていた。

北畠家は農民兵が中心であり、そうそう補充することはできない。強引に徴集すれば数は揃えられるが、当然不満が高まる。

また、北伊勢には織田の滝川一益が調略の手を伸ばしており、近々軍事行動を起こすというもある。

最終的には、具教が折れるしかなかった。


「うーむ。仕方があるまい。だが、少しでも早くの準備を整えるのだ」


「はっ。ただ早くとも梅雨明けの6月、できれば稲刈りの後の10月がよろしかろうと思われする」


「やむを得ん。10月に行うこととする。それまでに万全の態勢を整えるのだ。

但し、状況によっては、早まることもあり得る。充分備えはしておくように」


「ははっ」


重臣達は、一先ず具教を叛意させることができたことに、安堵していた。



***



永禄10年8月 多芸御所


「御所様、織田が美濃に攻め入ったとのことにございます。信長自らほぼ全軍を率い、稲葉山城に向かっておりまする」


それを聞いた具教は立ち上がった。


「好機到来である。斉藤が衰えたるとも、稲葉山城は難攻不落の

堅城。落とすにしても数か月はかかるであろう。

 今のうちに邪魔な伊賀忍どもを成敗してくれる。全軍に出陣命令を出せ!」


「御所様、お待ちくだされ。今から準備を整えるのは、無理と言うものですぞ」

重臣達は、口々に抗議の声を上げる。


「いつでも出陣できるよう備えておけと、申し付けたではないか。

よもや、備えを怠っていたのではあるまいな」


具教に睨まれ、各々の背中に冷たい汗が流れる。

ここで具教に抗えば斬られるのは必定。重臣達は平伏をもって答えるしかなかった。


当時、田植えや稲刈りの前後に戦をするのは非常識だ。

兵が農民主体というのもあるが、少しでも戦が長引けば、米の生産量に大きく影響する。

織田信長が、稲刈り寸前の旧暦の8月に、稲葉山城攻めを行ったのも同じ意味合いがある。稲刈り寸前の田んぼを焼き払う。長引けば兵士達は、稲刈りが気になり士気が低下する。

傭兵主体であった織田のみが取り得る特権と言える戦術である。


北畠も農民兵が中心であり、そのことは具教も分かっていた。伊賀を攻めても1ヶ月あれば足りると践んでいたのである。具教も伊賀忍を侮っていたと言えるであろう。


準備を整えた北畠軍は、北畠具教自ら率いた本軍と木造具政率いる別動隊合わせて約1万の大軍である。但し、具教は具政を信頼しておらず、水谷刑部を軍目付として派遣し、統率させていた。

これが後に思わぬ事態を引き起こすこととなる。


***


伊賀忍者群も百地丹波ら南伊賀の忍者群を中心にゲリラ戦をかけたが、さすがに北畠具教直卒の兵は、先の具房の兵とは、質がまるで違う。

挑発にはかからず、奇襲を避けるため、田畑や村落を焼き払い進んでいった。


勿論伊賀忍者達もただでは、通すわけではない。

血の結束で結ばれた戦闘力は凄まじい。村落を焼かれ、身内を殺された恨みもある。上忍に率いられ決死の攻撃をかけ、北畠に多くの出血を強いた。


たが数が違い過ぎた。

北畠は万に及ぶ大軍。一方、伊賀忍者は総勢で千に満たない。奇襲が通じない大軍に、小勢が勝てるはずもなかった。

絶望的とも言える戦いの中、あるものは槍につかれ、あるものは矢を全身受け死んでいった。多くの名のある忍びも散った。彼らは傷つこうとも命が果てるその瞬間まで戦い、一人でも多くの敵を地獄に道連れにしようとした。

強硬派の首領である百地丹波もこの戦で命を落としたと言われている。この戦の後、百地丹波の名は聞かれなくなり、伊賀も穏健派が主流になるからだ。

一説には、身体に火薬を巻きつけ敵軍に中に突撃し自爆したとも伝えてられている。


なお、この初戦には、藤林長門の藤林党を始めとする北伊賀衆は、参戦していない。彼らは、近江との国境近くに甲賀や筒井の意を受けた柳生の協力を得て、堅固な砦を築き、立て籠っていた。

織田の稲葉山城攻めが、いち早く終わることも知っていたのと、百地ら強硬派を北畠と戦わせ、潰すことが目的であったからである。

砦には甲賀や柳生からの援軍の他、筒井の若武者やあの可児才蔵が、入り込み張り切っていた。


8月も下旬になろうとした頃、北畠軍は砦に達したが、強固な砦を落とすのは難しく、戦線は停滞することとなる。

後々のことを考えると、具教は「伊賀忍に鉄槌を加える」という当初の目的は達していたであろうから、和睦して伊勢に帰還してもよかったのかも知れない。


数日後、北畠の陣に思いもよらぬ急報が入ることになる。



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