最悪の客人と有望な若者
ついに、この時が来てしまいました。
運命の人、登場
永禄8年10月下旬
信貴山城 藤勝居室
いつも通り、俺は決済の山を処理をしていた。
そこへ松倉右近がやってきた。
「殿、お会いしたいという方がお越しです」
「うん。誰かな?」
気軽な気持ちで聞いた。仕官だと思った。
「細川藤孝殿とお供の方数人でござる」
俺の身体に激震が走る。
「・・・。今何と言った?」
震える声で、もう一度聞く。
右近は答える。
「はあ、細川藤孝とそのお供と」
「細川藤孝」と「お供」
お供ってやっぱあの方?会いたくねー。
「今忙しいので、後日改めて貰ってくれ」
「は?既に、書院にお通ししておりますが。
当然お会いになると思いましたので」
細川藤孝は亡き足利義輝の重臣であり、義輝に面会したことがある藤勝は藤孝と面識がある。
当代きっての文化人でもあり、古典や書などに造詣が深い大変有名な人物だ。
ただし、俺が乗り移ってからは、会っていない。意図的に避けていたのだ。
会うしかないのか?大物が向こうから来たのに、会わないのは不自然だよな。
どちらかにしてもいつかは会わないといけないし。
でも、やだな―。
「わかった。後ほど参る」
***
信貴山城 書院
書院には、2人の壮年武将が待っていた。
一人は、藤孝であろう。
俺は、ゆっくりと座る。
「藤孝殿、ご無沙汰いたしております。お元気でしたか」
当たり障りのない話をして、帰ってもらおう。
「藤勝殿、息災でござったか」
うやうやしく答える。
「おかげ様で」
「しかし、近頃の藤勝殿のご活躍はすばらいいですな。興福寺の件しかり」
来た、興福寺の話。話をそらさないと。
「いやいや、あれは上人がなされたこと。私は何もしておりませんせんよ。
それよりもこの前、松永久秀に攻められ、冷や汗をかき申した」
「あれも鮮やかであったそうで」
「いや、久秀めを取り逃がしまして、誠に残念です」
「久秀は、帝の禁を破った不届き者ですからな。」
「はい。摂津に逃げたらしいですから、三好殿が必ずや討ってくれるでありましょう」
「そうですな」
「ところで、そちらの御仁は、どなたでございます?」
「ああ、藤勝殿は、初めてでしたかな。少し前に召し抱えた者で、明智十兵衛と申す」
出たーーーー!俺の死亡フラグ!
やはりそうだったのね。できれば、会いたくなかったです。
筒井順慶は、光秀の傘下になったことから、運命が暗転するんだよね。
絶対関わらんぞ。絶対に。
「筒井藤勝でござる。よしなに」
「十兵衛は、鉄砲の名人でしてな。その上教養人でもある。少ない家臣のなかで、重宝しておる。
多くの家臣をお持ちの藤勝殿が羨ましい」
「はは、血の気多い奴らばかりで、大変でござるよ」
さて、そろそろお帰りいただこうかな~。
「時に、藤勝殿。覚慶様の行方をご存じござらぬか?」
藤孝が思い出したかのように、切り出してきた。
もちろん、これが訪問の目的である。
「覚慶様?」
やっぱ聞いてくるのね。ま、あたりまえか。
ここは、とぼけておこう。
「亡き足利義輝公の弟君、一乗院門跡覚慶様ですよ。ご存じでござろう」
「ああ、その覚慶殿ですか、もちろん存知あげております」
「行方をご存知ではないか?」
「たしか、久秀が襲撃された際に、既に一乗院におられず、難を逃れたとか」
「藤勝殿が関わっておられるのではないのか?」
覗き込むようにみられる。やばい。
「私も興福寺の方にお聞きしましたが、行方はわからぬとしか」
「お主の領内のことであろう。本当にご存じないのか?」
藤孝がいらついてきている。
「いや、申しわけござらねど、行先についてはわかりませぬ」
「うむ。そうか・・・。申し訳なかった」
藤孝が折れた。
光秀は一言も言葉を発さず、俺の心を読むようかのように、俺を見つめていた。
「覚慶殿を如何されるおつもりなのですか?」
「知れたこと。覚慶様は、義輝公の弟君。正統な将軍候補ですぞ。是が非でも将軍職について頂き、義輝公の無念を果たして頂かなくてはならぬ」
「細川殿は、三好と対峙するおつもりなのですか?」
「もちろん、三好が押す義栄は認められぬ」
「ならば、強力な支援者が必要ですな」
「うむ。そうなのだが・・・」
***
細川藤孝一行は、夜も更けたので泊っていくことになってしまった。
本当は、とっとと帰ってほしかったのだが。
その夜、厠に立った時
藤孝らが泊っている座敷の縁側に、一人の青年が座っているのが見えた。
青年というよりまだ少年に近い。何か気になり、声をかけた。
「少年よ。このような夜更けに、何をしておる。早く寝られよ」
なんと少年は、涙を流していた。
「如何なされた。男は泣くものではないぞ」
「これから、また流浪の旅が続くのかと思い、悔しくて」
「それも主命であろう。仕方有るまい」
「この頭の中には、多くの知識が埋まっているのに。それを使えないのが悔しい。
生まれたからには、天下一の男になりたいのです。
流浪の身のまま、終わりたくはない」
自らの頭を差して、叫ぶように言う。
「そなた、名はなんと申す?」
「若狭の生まれにて、沼田祐光と申します。藤孝様の小姓を務めております」
「そうか」
「もし、藤孝殿に仕えるのが辛いのであれば、暇をもらうかして、俺の元に参るが良い。
もっとも、俺がそなたが求める主に値するかどうかは、わからんがね」
翌日、藤孝らが出発する際、小姓の沼田祐光の姿が見あたらず小さな騒ぎになった。
藤孝も将来有望な祐光に少なからず期待をかけていたのだ。
当たりを探してみたが見つからず、仕方なく出発することになった。
姿を消した祐光は、筒井の領内を歩いてみて、藤勝がなしていること、評判などを調べてみた。
しばらくして、仕官するため信貴山城を再度訪れる。
藤勝が自分が求める主なのかは、まだわからない。だが少なくとも、藤孝の元にいるよりは、
ずっといいはずだと思う。その顔は、希望に溢れていた。
*明智光秀について
その前半生は謎につつまれている。
信憑性の高い史書に明智十兵衛の名が出てくるのは、足利義昭が将軍になった後
の本國寺の変が最初である。朝倉家の家臣だったとの説も通説であるが、
最近の研究では幕臣の細川藤孝の家人であったとの説の方が有力。
この説だと、朝倉義景の元に身を寄せていた足利義昭が、頭角を現した織田信長に使者を出し、
その使者が光秀だった。
義昭と信長の間を往復している間に、信長が光秀を気に入り引き抜いた、という方が自然になる。
*沼田祐光について
史実では、津軽為信の軍師になる人物。前半生は、生誕日を含め不詳。
諸説あるが、若狭武田氏の傘下であった沼田氏の生まれというのが有力。
若い時、細川藤孝に仕えていたとの説があり、その説が正しいのであれば、
藤孝が義昭に従い朝倉に身を寄せていた頃までに、藤孝の元を離れたと思われる。
恐らく長い流浪生活に絶望し、東国へ旅立ったのだろう。
義昭が信長を頼り美濃に移った頃まで仕えていたら、離れることはなかったのではないか。
信長や織田の諸将に会っていれば、刺激を受け成長していたはずだから。
もしそうならば、もっと歴史に名を残していただろう。
作者はそう思う。




