大和平定~大和国人連合
翌朝目を覚ますと、茜さんの姿はなかった。
代わりに手紙が残されており、以下のように書かれていた。
「私は、訳あってしばらく根来を離れることはできません。お疲れになられた際は、また根来にお越しくださいませ。癒して差し上げます」
先の戦で、心が疲れていたことを見て、癒してくれたようだ。
身体に温もりが残っていたが、次第に消えていった。昼間、楓さんは見かけたが、茜さんは見かけることはなかった。
俺は、数日根来にて過ごした後、新たに加わった佐竹義昌と津田算正殿他根来衆を伴い、信貴山城に向かった。
杉谷善住坊には半年~1年の期間を与えて、摂津や山城、近江での人材探索を命じ出発させた。共に出身である甲賀にて忍者集団との接触を得るよう命じている。何らかの成果を持ってくるはずだ。
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永禄5年(1562年)6月
先の教興寺の戦いにて大打撃を受けた三好勢であったが、すぐに勢いを取り戻した。
三好長慶の嫡男、義興が戦死したので、弟の十河一存の子義継を養子に迎えている。
三好三人衆を中心にした軍勢が北上。京を占拠していた六角勢を圧倒して近江に追い払った。
あっけなく敗北した六角家当主六角承禎の求心力は低下。承禎は前年に浅井長政との戦いにも敗北しており戦術、統率力のなさを露呈することとなった。後に観音寺騒動を招き六角家は衰退していく。
これには松永久秀も参加しており、京を取り戻した後、弟の内藤宗勝(松永長頼。長頼は丹波守護代内藤国貞の婿となり内藤姓に改名に変更していた)を頼り丹波に向かったようだ。
高屋城の安見宗勝が三好家に下り、高屋城は三好家の物となった。安見宗勝は当然のごとく放逐され、三好康長が入った。安宅冬康とともに畠山高政が籠る和泉岸和田城を攻撃していくことになる。
高屋城は、信貴山城にも近い重要地点である。ここに強力な軍勢がいては、喉元に刀を突き付けられているに近い。いずれ攻略しなければいけないだろう。
三好の目が、和泉方面に向いているのは好都合である。畠山を支援してでも対立を作っておいた方がいい。
さて、大和はというと、
信貴山城を奪取し松永久秀の勢力が弱まったことにより、勢力図が大きく変わろうとしていた。
我が筒井は、先日の教興寺の戦いには、俺の進言と手回しにより、史実より出兵の数を半分近くに減らしており、かつ守勢に徹して積極的に戦闘にかかわらなかった。もっとも兵数が少ないので攻勢に出れなかったのもあるのだが。
積極な攻撃出たのは、俺と島左近の隊が義興に嵌めて、殺しの間で討ち取ったあの時だけである。順政叔父上らの本隊はずっと守勢に徹していた。
代りに他の大和国人衆の負担が上がり、かつ積極的に畠山方の支援をしたため、多くの戦死者を出していた。参戦した部隊の半分以上を失った家もあった。主なことろでは、有力国人の中では十市家が当主の遠勝を失い、多くの兵を失っていた。日頃から三好家から圧迫を受けていた恨みか、畠山から支援を受けていた恩からか、積極的に行きすぎたようだ。十市家は大和の中で筒井家を継ぐ勢力を持っていたが、その維持さえできなくなった。
この結果、筒井以外の国人衆は大きく力を落としたのに対し、筒井は兵力を減らさず、かつ根来の支援を取り付けたので、以前より倍近くの兵力を持つことになり、相対的に大和国人衆の中で圧倒的な勢力を持つことになった。俺の思惑通りである。
茶や生糸などの生産促進、その他の収入により軍事力強化に努めていて、差は開く一方であった。
松永久秀のもう一つの拠点であった多聞山城は、順政叔父上らが大和北部の国人衆に支援させて襲撃、落城させた。
こちらの城主は嫡男の久通であったが、戦死していたので兵力が少なかったうえ、もともと1561年から築城が開始された新しい城のためまだ完成しておらず防御力が低かったのもある。いずれ建物、石材等は筒井城に運び破却し、筒井城の改修に使う予定である。合わせて城内にあった茶器等宝物も接収し、一部は国人衆に分けあたえていた。
これで、松永久秀の大和における拠点はほぼなくなったことになる。
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永禄6年(1563年)
当主不在で内紛が起きていた十市氏から遠勝の弟遠長の手引きを得て、十市氏の居城龍王山城を攻撃落城させた。ついでにもう一つの拠点十市城も落とし、所領を全て奪うことに成功した。十市遠長が「話が違う」とか何か言っていたが無視。遠長は十市の残党から非難されどこかへ落ちて行った。
合わせて大和国人衆で松永よりの態度を取っていた高田氏や箸尾氏らも攻撃。屈服させることに成功した。
杉谷善住坊が甲賀忍者10名を従え帰還した。
平時の情報探索や護衛はこのあたりで十分であろうか。必要に応じて増員も可能なようだ。
人材として増田長盛と国友から知り合いの鉄砲鍛冶を連れてきた。
増田長盛には領内の開発や兵站の構築を任せることにする。国友の鉄砲鍛冶は、鉄砲の改良に役に立つであろう。
あと、面白い情報を得てきた。伊賀の藤林家一党が窮地に陥っているらしい。
藤林家は伊賀北部の湯舟郷を拠点とする伊賀三上忍家の1つである。湯舟郷は甲賀と接しているため、甲賀とも元々関係が深いそうだ。それで情報を得ることができたらしい。
伊賀では百地丹地率いる一党が勢力を拡大し主導権を握る勢いにある。丹波は野心が強く、加賀一向一揆を真似て、伊賀を自分を頂点とする忍者が支配する国にしようとしているらしい。
伊賀国内の混乱は好都合である。利用すれば、伊賀進出の足掛かりになる。だが、史実で織田家と対立した強硬派の百地が勢力を伸ばすのは都合が悪い。穏健派に見える藤林を中心にした方が良い。もう1つの上忍家である服部は、既に三河などに流失している。
俺は、筒井が藤林家を支援する用意があることと一度会いたい旨を記し届けさせることにした。また、今年三河で一向一揆が発生しているので、これによって浪人になる本多正信らを獲得したい。引き続き人材探索も任せることにする。
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永禄7年(1564年)正月
筒井城の大広間に大和の国人衆を集め、宴を開いた。
城主の位置には俺が、その隣に順政叔父上が控えている。
筒井の家臣に加えて、布施氏や十市氏、片岡氏、秋山氏、越智氏など有力国人衆、その他国人衆も吉野などの南部の一部を除きほとんど招くことができた。十市には布施氏から養子が入り、布施と共に葛城方面を任せている。
俺は立ち上がり、杯を持つ。
皆の視線が俺に集まる。身が引き締まる思いだ。
これから大和の長として頑張っていかなければならない。
「これまでは大和の国人の中で長きに争って参りましたが、国内での対立は今日ここで終わりにしたい」
「松永久秀ら外敵が再び侵入して来るをこともあるでしょうが、その時は力を合わせて共に戦いましょうぞ。我らが力を合わせれば、どのような敵も必ず撃退できる」
「おう、これからは、筒井藤勝殿を長として盛り立てて、共に歩んで行こうぞ!」
「さあ、今宵は飲みましょうぞ。御馳走もたんと用意致した。皆で楽しみましょうぞ」
俺は掲げていた杯の酒を飲み干した。
大和武士が一つとなり、大和国人連合が成った瞬間だった。
筒井藤勝、15歳の時のことである。
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