13 寝耳に水の事態
私は現在、上機嫌なヴィンセントさんに抱っこされて夕飯を食べに食堂へ移動中でございます。
ヴィンセントさんは消毒薬と言うよりも、グリーンノート系の香り。薬草臭いのとは違うよ。
医務室でヴィンセントさんに頬を弄られること約三十分。漸く助け出された時には折角お昼寝して回復した体力がごっそり削り取られていた。疲れ果てたよ。
実は、見兼ねて私を助け出してくれたのバクスさん。ディルナンさんもヴィンセントさんに弄られてたから、思いっきり体力を削られていたと思われる。
ヴィンセントさんの声はある意味、無差別兵器だよ。性質が悪い上に本人がその効果をしっかり把握してらっしゃる。
医務室を出る前にバクスさんがディルナンさんの事も言及したら、「私の声は暴れる患者にも効果的なのは実証済みだからね」って実に涼しい表情でヴィンセントさんが返してた。
意味深な言葉だ。過去に一体何があったのかを考えて、再びドキドキしてしまったのは乙女(?)の秘密。
だって、もうs…想像を掻き立てられるじゃないか。
「隊長、本当にやり過ぎなの分かってますか。ユーリちゃんがこんなにぐったりしちゃってるじゃないですか。可哀想に」
「いや、色々と可愛くてつい」
バクスさん、もっと言ってやって。
ヴィンセントさん、背中をポンポンされても許さないんだからね。…悔しい事に、物凄く気持ちいいけど。
「内勤部隊長でありながら、外勤部隊長と同等以上に戦える体力を持つディルナン隊長をここまで追い込めるなんて、常々疑問に思ってましたけど、どれだけ隊長の声は規格外の常識外なんですか」
「そうは言われても、ずっとこの声だからね。逆にあそこまで普通に耐え切って、疲れだけで済むなんてディルナンだからこそだと思うが?」
「当たり前です。折角治療が終わったというのに、我に返った時に自分の不甲斐なさに壁に頭を打ち付けまくって新しく大怪我した挙句、「ヴィンセント隊長に治療されるのだけは勘弁してください!」なんて土下座した方までいるんですよ? 今日の午前の患者もそうでした」
「…アンタとエリエスだけは敵に回したくない」
なんか、頭上で恐ろしい会話がなされてる。
ディルナンさん、非戦闘系部隊でありながら、戦闘系部隊のトップと同等以上に戦えちゃうんだ? そのディルナンさんの体力を大幅に削っちゃうヴィンセントさんの声がどれだけの騎士さん達にトラウマを作った事か窺い知れるエピソードですね。
ディルナンさんが敵に回したくないとボソリと零しちゃうとは、ヴィンセントさんとエリエスさんはどれだけヤバイんですか。
……私は何も聞いてないんだから! 聞いてるってばれたら身の危険を感じるから、このまま体の力は抜いておくよ!!
再びやって来ました、食堂。まだ時間が早いのか、人気は疎ら。
匂い的に、魚。油の匂いと揚げ物の音がするから、恐らくフライかな? それと、コンソメの匂い。あと、乳製品の匂い。
ぐぅ
匂いに、すっかりお馴染みになったお腹の虫が騒ぎ出した。クリルを食べていたからか、控えめだけど。ディルナンさんも慣れたもので、ヴィンセントさんとバクスさんは笑っていた。
「ヴィンセント、オレとバクスで飯を貰ってくる。ユーリと席に着いててくれ」
「分かった」
ヴィンセントさんに抱っこされたまま、入り口でディルナンさんとバクスさんと別れる。
人気の少ない奥の方のテーブルに連れて行かれると椅子に下ろされ、その隣にヴィンセントさんが座った。
…食堂に居た方々がさり気無くこちらを視線から外しているのは、私が穿った見方をしているせいでしょうか。でも、少し目が合っただけで即座に視線を逸らされるのは結構ショックです。
あ、厨房のおじいちゃんと目が合った。このおじいちゃんは目を逸らさないや。
外見は厳ついけど、目は優しいおじいちゃんだなぁ。
「…ユーリは何でそんなに良い笑顔なんだ?」
暫くして御飯を手にテーブルにやって来たディルナンさんとバクスさん。
ディルナンさんに声を掛けられ、ディルナンさんを見る。バクスさんがプルプルしてるのは何故?
「可愛いだろう?オッジと見つめ合って二人してにこにこしてるんだよ。普通なら大泣きされるからオッジも嬉しかったんだろう」
私が何を言うよりも先にヴィンセントさんがディルナンさんに答える。ばれてたなんて恥ずかしい!
「オッジ老は大の男でも怖がるヤツもいる位ですからねぇ」
「う? …おじーちゃん怖くないよ??」
バクスさんの言葉に物申すよ。外見は怖いけど、穏やかな目のおじいちゃんじゃないか。
それに、仕事で怖いのは当然だよ。調理場なんて危険が多い場所だ。器具の扱い一つ間違えれば簡単に大怪我をするし、最悪は死ねる。
それを経験的に分かってるからこそ厳しく出来る人は優しい人だ。怒るのって凄く体力使うし、その人の為を思ってるからこそ嫌われ役を買ってくれてる訳だし。愛情深い人だと私は思う。そうやって私も調理師として育てて貰ったからね。
最悪なのは、自己中心的で何にでもいちゃもん付けて来るジジイだよ。
職場に一人該当者がいたけど、ヤツは見事な反面教師だった。あんな風にだけは絶対にならない!
「怖くないのか。それは何より」
「おじーちゃん、だいしゅき」
目が合っても目を逸らされなかったし、嫌な顔一つしなかった。うん、職人気質の優しい人だと思う。
…あれ、トレーをテーブルに置こうとしてディルナンさんとバクスさんが硬直してる。
……あれれ、私はいつの間にヴィンセントさんのお膝に抱き上げられたんですか。
「大好きなのかい?」
「あい。だいすきー」
人の顔を覗き込みながらそんな蕩けそうな甘ーい声で問い掛けるのは止めて下さい、ヴィンセントさん。逃げられないのが辛いです。ちゃんと答えますけどね。
おっと、そんな強めの力でぎゅーっと抱き締められると照れます。私じゃなくて奥様にして下さい。
「隊長…っ!」
「…この野郎」
なんか、バクスさんとディルナンさんが低い声で怖い。何か怒ってます?
抱き締められたままなので後ろの状況が見えません。正直、見たくもないが。
ぐるりー
「……ごはんー」
でも、取り敢えず冷めない内に私に御飯下さい。切実にお願いします。
お腹の虫と共に訴えたお陰で、御飯が目の前にやって来ました。でも、ヴィンセントさんのお膝の上は変わらずで、向きが変わっただけ。
昼御飯と同じパンに、櫛型に切られた青いトマトと千切りにしたキャベツとは違う葉物野菜がたっぷり添えられた、見るからにサクサクの衣に包まれた身の厚い白身魚のフライにたっぷりのタルタルソース。大きく切ったホクホクなジャガイモとベーコンのミルク煮のグラタンかな? それと、たっぷり野菜と二種類の腸詰の具沢山ポトフ。最高に美味しそうです。
しかも、お昼と違って私の為に最初から準備してくれてたみたい。
きちんと切り分けて盛付けてくれてるし、小さいフォークとスプーンは握りやすい様に柄が付いた物に変わってる。
お皿もお子様ランチ用みたいに専用プレートで、ポトフの入ったマグカップも持ちやすい子供用。
「いただきましゅ」
全員がフォークを取ったのを見て、私も続きましたよ。
あぁっ、やっぱり北の魔王城の御飯は見た目と匂いを裏切らない!
味付けに火加減、材料のバランス、仕上がりが全てが絶妙なんだよ。「やめられない、止まらない」とはまさにこの御飯の為にあるフレーズだと思うの。
惜しむらくは、子供だから顎の力が弱くて咀嚼が大変なのがきつい。どうしてもよく噛まなきゃならないから、食べるスピードがとても遅い。
全部を最高の状態で食べ切れないよー!
「…随分上手に食べるな。息子がこれ位の時はぼろぼろ零して大変だったんだが」
「好き嫌いもなさそうだし、食べ方が綺麗ですよね。ふふ、ティチスの頬袋みたいだ」
一生懸命むぐむぐ噛んでたら、バクスさんに頬をつつかれた。
「う?」
「…訂正。ユーリちゃんの存在がティチスみたいだ」
「外見だけならな。オッジのジジイを「大好き」なんて言える以上に、オレの騎獣に最初から懐く様な大物だぞ」
”ティチス”って、何? 頬袋って事は、栗鼠とかハムスターみたいなものかな?? この体、小さいからなー。
あ、ディルナンさんの言葉に、ヴィンセントさんとバクスさんのフォークが止まった。
「「は?」」
「ユーリはレツの大のお気に入りになっちまってるし、ユーリもレツを全く怖がらない。レツの毛皮をベッド代わりにして平然と昼寝してた位だ。それを見たから、エリエスが仮入隊許可を出した」
…レツの方が何倍も可愛いでしょうに。
何でヴィンセントさんもバクスさんもそんな信じられない物を見る様な目で私を見るのっ。
言いたい事はあるけど、食べるのは止めないんだからっっ。
「ごちしょーちゃま」
盛られていた御飯をしっかり頂いて食後の挨拶をすると、ヴィンセントさんに頭を撫でられました。
他の三人はやっぱり先に食べ終えている。
最高に美味しい状態で完食できるなんて羨ましい。
「さ、ユーリ、医務室に戻ろうね。ディルナンとバイバイしようか」
「…ふえ?」
あ、また間抜けな声が出た。…じゃなくて、ディルナンさんとバイバイ? 何、それ。
「ユーリはそろそろ休む時間だ。私が責任を持って預かって置くから、お前はさっさと用意をして来い」
「ちっ、分かってる」
舌打ちをしつつも、ヴィンセントさんの言葉に了承するディルナンさん。
ディルナンさんの言動に別れるんだと実感した途端に、エリエスさんと別れた時よりも大きな、不安にも似た淋しさが襲ってきた。
美味しい御飯を食べた満足感なんか一瞬で吹き飛んだ。視界が一気に滲む。
「な…、どっ」
「必ず今日の内に全てを手配し終えろ。いいな、ディルナン」
我慢できずにぼろぼろ涙が零れると、ディルナンさんがそんな私に気付いて動揺する声が聞こえた。
その側で微かに息を呑むのはバクスさんだろう。
ヴィンセントさんだけがいつも通りだった。
「普通、保護者と引き離されるとなると、子供は不安になって泣き喚いて抵抗する。それが当たり前だ。駄々を捏ねる様なら鎮静剤の投与も考えていたが、この子には必要無いな。
可哀想だとは思うが、今のユーリの体力を考えるとこの後もお前に同行させる事は医者として許可できん」
ヴィンセントさんの声を泣きながら遠くで聞いていると、目の前が真っ白になった。
顔に触れるのは、柔らかいタオルの感触。お馴染みタオルだ。
私の為にヴィンセントさんはストップを掛て、ディルナンさんが離れるんだ。仕方ない事なんだ。でも、涙が止まらない。
仕方ない事でも本当はイヤだ。ディルナンさんから離れるのは凄く怖い。
「…明日の朝、迎えに行くからな。しっかり寝ておくんだぞ」
「あい、にーちゃ…」
「よし、いい子だ。…ヴィンセント、くれぐれも頼んだぞ」
ディルナンさんに頭を撫でて貰い、どうにか色々なモノを飲み込んで我慢する。
我慢はこんなに大変だったっけ?
ディルナンさんからタオルを受け取り、ヴィンセントさんが私を抱っこしたまま席を立つと、すぐに食堂を後にする。
出会ってから今までずっと一緒にいてくれたディルナンさんと初めて離れるのは酷く心細くて、泣きながら無意識の内にヴィンセントさんの白衣にしがみついていた。