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彼の罪をかぶって三年服役した私。彼は別の女と家族写真を撮っていた

作者: 熾星
掲載日:2026/11/02



 鷹野修司の罪をかぶり、三年の刑期を経て仮釈放された私は、荷物を整理する間も惜しんで白峰市の自宅へ向かった。


 玄関にはピンク色の子供靴が並び、リビングには積み木や絵本が散らばっていた。私のバッグや服には子供が描いたらしい亀の落書きがあり、母が生前、私のために刺繍してくれた婚礼衣装まで、子供用のはさみで無残に切り刻まれていた。


 修司に電話をかけると、彼はすぐに帰ってきた。けれど、三年ぶりに私を見た彼の顔に浮かんだのは、再会を喜ぶ表情ではなかった。


「どうして予定より早く出てきたんだよ。連絡くらいしてくれればよかったのに」


「家に知らない人がいるの。どういうこと?」


「この部屋はもう人に貸すことにしてる。荷物をまとめて出ていってくれ」


 彼が私の腕を引いたとき、階段から小さな女の子が駆け下りてきた。


「パパ、お迎えに来てくれなかったじゃない!」


 女の子は修司に抱きついた。その後ろから、私の淡い色のジャケットを着た若い女性が下りてくる。彼女は私を見るなり足を止めた。


「パパ、この人、誰? どうして知らない人がうちにいるの?」


 女性も修司の隣に立った。


「修司、約束したよね。彼女が出てきたら、別のところに住んでもらうって。私たちと莉子の生活を乱さないって言ったでしょう?」


 修司は女の子を抱いたまま、彼女の肩に手を回した。


 三人の姿を見てから、私は自分の古びた上着に目を落とした。袖口の汚れは落ちず、長い間しまわれていた布地からは湿ったにおいがした。


 私が三年の自由を差し出して守ったのは、彼と別の女性、そして一人の子供が暮らす生活だった。


 私はもう、自分の家に帰ることさえ許されないらしい。



1



 修司の前で笑っていた口元が、少しずつこわばっていった。彼の腕の中では莉子が私を不思議そうに見つめ、隣の女性は慣れた手つきで子供の襟を整えている。私がいなかった三年間、この光景がどれほど繰り返されてきたのか、考えたくもなかった。


「この人、誰なの?」


 修司は目をそらした。


「もうわかってるだろ」


「あなたの口から聞きたいの」


 彼は一度唇を引き結んでから、ようやく答えた。


「莉子の母親だよ。成瀬真帆。俺の元妻だ」


「元妻……?」


「ああ。お前が服役してから結婚したんだ。俺たちは数か月前に離婚してる」


 彼の説明を聞きながら、私は張り詰めていた息を少しだけ吐いた。少なくとも、私が刑務所に入る前から二人が夫婦だったわけではない。


 三年前、警察に連れていかれる直前、修司は私の手を握りしめていた。


「千紘、出てくるまで待ってる。心配しなくていい。外のことは俺に任せてくれ」


 あのときの声を、私はずっと忘れられずにいた。


「いつ離婚したの?」


「数か月前だよ」


「どうして?」


 修司は眉間にしわを寄せた。


「うまくいかなかった。それだけだ」


「離婚したのに、どうして真帆さんはここに住んでるの?」


 彼の顔から、わずかに残っていた愛想が消えた。


「莉子がいるからだよ」


 修司は腕の中の子供に目を向けた。


「まだ三歳なんだ。夜中に怖い夢を見たら母親を呼ぶし、病気になれば親がそばにいてやらなきゃならない。幼稚園の行事だってある。離婚したからって、子供の生活までめちゃくちゃにするわけにはいかないだろ」


「それで、私は?」


 修司は一瞬、何を聞かれたのかわからないという顔をした。


「何が?」


「私が帰ってきたの。これから、どこで暮らせばいいの?」


 彼は少し考えてから、あっさりと言った。


「ホテルを取ってある」


「どうしてホテルなの?」


「莉子は人見知りするんだ。急に知らない人が家に来たら、落ち着かないだろ。それに、お前も外の生活に慣れるまで時間がいるはずだ。しばらくホテルで暮らしてくれ」


 私は彼を見つめた。


「ここは私の家でもあるでしょう」


「わかってるよ。でも、今は莉子のことが先だ。何もかも一度に変えたら、あの子がかわいそうだろ」


 そのとき、莉子が修司の服を引っ張った。


「パパ、この人もここに住むの?」


「住まないよ」


 修司がそう答えると、莉子はほっとしたように表情を緩めた。


「よかった。ママが言ってたもん。刑務所に入った人は、うちに住んじゃいけないんだって」


 私は真帆を見た。彼女は視線をそらし、何も言わなかった。


「莉子、そういうことを言うな」


 修司は娘をたしなめたものの、それ以上は何も続けなかった。


「だって、ママがそう言ったんだもん。おうちが汚れちゃうって」


 子供は聞いた言葉を、そのまま口にしただけなのだろう。だからこそ、私は修司が何を言うのか待った。せめて、誰かをそんなふうに決めつけるのはよくないと、娘に教えてくれるのではないかと思った。


 彼は私の視線を避けた。


「まだ三歳なんだぞ。そんなことで目くじらを立てるなよ」


 言い返す言葉が見つからなかった。


 修司は私のスーツケースを引き寄せた。


「千紘、もういいだろ。行こう」


 三年前、私は彼のために罪を引き受けた。三年後、彼は私に向かって、もういいだろ、と言う。


 私はスーツケースから手を離した。玄関へ向かおうとしたとき、リビングの壁に掛けられた写真が目に入った。以前、私たちの写真が飾られていた場所には、新しい家族写真が置かれていた。


 修司が莉子を抱き、真帆がその隣で笑っている。三人の表情は自然で、そこに私が入り込む余地などないように見えた。


 写真の隅に、撮影日が記されていた。


 一か月前。


 その日、私はまだ刑務所にいた。



2



 写真から目を離せずにいると、後ろから修司に急かされた。


「千紘、早くしてくれ。莉子を休ませたいんだ」


 私はスーツケースを引いて、彼の後を歩いた。マンションの前にはポルシェが停まっていた。修司がキーを操作すると、車のライトが点灯した。


 助手席のドアを開けたとき、三年前のことが頭をよぎった。


 あの頃、修司が乗っていたのは、父が長年使っていた古い車だった。車体には細かな傷があり、エアコンの調子も悪かった。それでも、出かけるときには必ず助手席のドアを開け、私の手を取ってくれた。


「千紘、ここはずっとお前の席だからな」


 彼の母親が車酔いをするからと助手席に座ろうとしたときも、修司は酔い止めを用意して、母親には後ろに座ってもらっていた。当時の私は、そんな小さなことにまで愛情を感じていた。


 今の助手席には、サンローランの口紅が置かれていた。真帆が使いそうな色だった。私はそれを見なかったことにして、窓の外へ視線を向けた。


 ホテルに着くと、修司は財布からカードを取り出した。


「当面はこれを使ってくれ。宿泊費もここから払えばいい。必要なものがあったら、俺に連絡してくれれば手配するよ」


「修司、私……」


「悪い、急いでるんだ。落ち着いたら、また話そう」


 彼は私が言い終わる前に車へ戻った。ドアが閉まり、エンジン音が遠ざかる。私はカードを握ったまま、しばらくホテルの入口に立っていた。


 ホテルでの生活は五日間続いた。


 修司は何度か電話をかけてきた。


「莉子がまだ慣れてないんだ。もう少し待ってくれ」


「部屋で困ってることはないか?」


「必要なものがあれば、届けさせるよ」


 口調だけを聞けば、私を気遣っているようにも思えた。私は電話を切るたびに、もう一言、帰ってきていいと言ってくれるのを待った。けれど、五日が過ぎても、その言葉は聞けなかった。


 六日目、家族写真の日付がどうしても気になり、私は修司に電話をかけた。


「あなたと真帆さんは、いつ離婚したの?」


「急にどうしたんだ?」


「知りたいだけ」


 しばらくして、彼から画像が送られてきた。離婚届の受理を示す書類だった。私は画面を拡大し、日付を何度も確かめた。


 婚姻届を提出したのは、私が服役してから。離婚したのも、私が出所する前だった。


 少なくとも、日付の上では修司の説明と食い違っていない。私は自分にそう言い聞かせ、スマートフォンを握り直した。


 そのとき、電話が鳴った。両親を亡くしてから、私が一番頻繁に連絡を取ってきた相手は修司だった。画面に彼の名前が表示されると、今でも反射的に胸が動いてしまう。


「今日、帰ってこいよ」


 思いがけない言葉に、私はすぐに返事ができなかった。


「聞こえてるか?」


「……うん」


 通話を終えたあと、私は書類の画像をもう一度見た。彼らはすでに離婚している。それなら、私と修司がやり直す余地も残っているのかもしれない。そう考えながら荷物をまとめ、ホテルを出た。


 家に戻ると、修司はキッチンで莉子の食事を作っていた。私が入ってきても、ちらりと振り返っただけだった。


「帰ったのか」


「うん」


 彼は焼いた卵を皿に移したが、莉子が首を横に振った。


「これ、食べたくない」


「じゃあ、麺にしようか」


 修司は面倒がる様子もなく、鍋を火にかけ直した。三年前、彼が料理をする姿など見たことがなかった。今では、子供の好みまで把握しているらしい。


 私は手伝おうとしてキッチンに入ったが、カウンターに置かれたマグカップに気づいた。真帆の名前が入っている。リビングのテーブルには彼女の化粧品があり、洗面所には女性用のスキンケア用品が並んでいた。ソファには、彼女が置いていったらしい上着も掛かっていた。


 手に取ると、ほのかな香水の匂いがした。


「真帆は荷物が多いんだ。莉子の世話もあるし、ここに置いておいたほうが便利なんだよ」


 修司は、私が何かを尋ねる前にそう説明した。


「そう」


 それ以上、聞く気にはなれなかった。


 自分の部屋に入ってクローゼットを開けると、私の服は奥の隅に押し込まれていた。手前には真帆の服が並び、アクセサリーをしまっていた小箱も、いつの間にか端へ移されている。


 私はしゃがみ込み、自分のものを取り出した。最後に残っていたのは、三年前に修司からもらったマフラーだった。手のひらで布地をなぞっていると、莉子が部屋の入口から顔をのぞかせた。


「おばさん、暑いのに、どうしてマフラー持ってるの?」


 私は答えなかった。


 莉子はタブレットを抱えたまま、廊下へ駆けていった。


「豆包に聞いてみようっと」


「豆包って何?」


 思わず尋ねると、莉子は振り返った。


「そんなことも知らないの? 教えてあげない」


 子供に悪気はないのだろう。けれど、私はその言葉を聞いて、自分が外の世界からどれだけ遠ざかっていたのかを思い知らされた。三年の間に、子供が使うものも、日常の道具も、ずいぶん変わっていた。


 私はスマートフォンでその言葉を検索し、説明を読んだ。理解できたころには、窓の外が暗くなっていた。


 夜、修司がスマートフォンを持ってベランダへ出た。リビングを通りかかった私は、彼が電話に出る声を聞いた。


「明日、迎えに行くよ」


 さっきまで険しかった声が、ふっと柔らかくなった。


 私は足を止めたまま、しばらく動けなかった。あの声を、修司が私に向けてくれたのは、いつが最後だっただろう。



3



 それ以上聞いていたくなくて、私は寝室へ戻った。翌朝、キッチンから聞こえる物音で目を覚まし、階段を下りると、修司が莉子の朝食を作っていた。


「パパ、これじゃないのがいい」


「わかった。別のを作るよ」


 彼は皿を下げ、もう一度卵を焼いた。莉子はテーブルに座り、スプーンをくわえながらそれを待っている。三年前には想像もしなかった光景だった。


 真帆が二階から下りてきた。部屋着のまま髪をまとめ、食卓を見て修司に声をかける。


「修司、莉子はネギが苦手だから、入れないでね」


「わかってる」


 修司はごく自然に答えた。真帆はそこで初めて私に気づいたように、軽く会釈した。


「おはよう」


「おはよう」


 テーブルには三人分の食器が並んでいた。修司は私のほうを見て、ようやく気づいたように尋ねた。


「食べるのか?」


「私の分はないの?」


「食べたいなら、キッチンから持ってくればいいだろ」


 何気ない言い方だった。だからこそ、胸に刺さった。


 三年前、私が彼の罪を引き受けたとき、修司は出所したら待っていると約束した。ようやく帰ってきた私は、食卓に自分の食器すら用意されていない。


 私はキッチンから茶碗を取り、空いている席に座った。


 莉子が顔を上げた。


「パパ、この人、どうしてここに座るの?」


 修司は私を見たあと、言葉を探すように少し間を置いた。


「……パパの友達だよ」


 箸を持つ手が止まった。


 友達。


 私が三年の自由を差し出して守った人は、今の私を友達と呼んだ。


「私、この人好きじゃない」


 莉子はあっさりと言った。修司は困ったように笑い、騒がないようにと娘をたしなめただけだった。謝らせようとはしなかった。


 私は黙って食事を続けたが、莉子はまた口を開いた。


「パパ、ママが言ってたよ。この家に知らない人は入れないって」


 修司の表情が変わった。


「ご飯を食べなさい」


「でも、この人は知らない人だもん。刑務所に入ってたんでしょ? 先生も、悪いことをした人は刑務所に行くって言ってたよ」


 食卓から音が消えた。


 私は修司を見た。彼が娘に何かを説明してくれることを期待していた。刑務所にいたというだけで、人を悪い人間だと決めつけてはいけない。そんな当たり前のことを、父親として伝えてほしかった。


 けれど、修司は私に向かって言った。


「子供の言うことだ。いちいち気にするなよ」


「あなたも、そう思ってるの?」


「そんなことは言ってないだろ」


「だったら、どうして謝らせないの?」


 修司の顔が険しくなった。


「三歳の子供に、そこまで求めるなよ」


 私は箸を置いた。彼は、私が何を傷つけられたのか理解しようとするどころか、自分が責められていることに腹を立てているようだった。


「三年間、大変だったのはわかってる。でも、苦労したからって、周りの人間がみんなお前に借りがあると思うなよ。俺だって、何もしてこなかったわけじゃない。ホテルだって用意したし、連絡もしてるだろ」


「それで十分だと思ってるの?」


「そういう言い方をするなよ。俺だって、どうすればいいか考えてるんだ」


 彼の言葉を聞いているうちに、胸の奥が冷えていった。彼にとっては、私を完全に見捨てていないこと自体が、約束を守っている証拠なのだろう。


 真帆のスマートフォンが鳴った。幼稚園から、来週の行事について連絡が来たらしい。修司は彼女からスマートフォンを受け取った。


「俺が確認しておくよ。当日は俺が行くから」


 私は茶碗を持ち上げた。そのとき、テーブルの下から一枚の画用紙がのぞいているのに気づいた。


 莉子が描いた家族の絵だった。父親と母親、そして自分。三人が手をつないでいて、そばにはたどたどしい文字で「わたしたちのおうち」と書かれていた。


 真帆が絵を片づけようとしたが、修司が先に手を伸ばして取り上げた。大切なものを守るような、ごく自然な動作だった。


 私はその絵を見つめた。


 ここで暮らしている三人にとって、ここはもう、疑いようもなく自分たちの家なのだ。



4



 二人が出かけたあと、私は一人でリビングに残った。冷めた朝食と三人分の食器を前にしていると、修司の「俺はお前を見捨てていない」という言葉が何度も頭に浮かんだ。


 私はスマートフォンを手に取り、彼にメッセージを送った。


「帰ってきたら、話がある」


 しばらくして玄関のドアが開き、修司が入ってきた。


「今度は何だよ?」


「私がここに住み続けるなら、真帆さんには出ていってほしい」


 彼の表情が一気に険しくなった。


「まだその話をするのか?」


「するよ」


「俺と真帆は離婚したんだ。何度説明すれば気が済むんだよ」


「離婚したのなら、なおさらでしょう。莉子はここで暮らしてもいい。私も、必要なら世話をする。真帆さんが娘に会うことまで止めるつもりはない。でも、ここに住むのはやめてほしい」


 修司はしばらく私を見つめ、それから吐き捨てるように言った。


「無茶を言うなよ。真帆は莉子の母親だぞ。あいつを追い出して、三歳の子供をどうするつもりだ? 自分の生活だって、まだ落ち着いてないだろ」


 私は彼の顔を見た。


 三年前、彼は私に、戻ってきたら一緒にやり直そうと言った。私はその言葉を信じて、刑務所の中でも彼との未来を思い描いていた。けれど、今の彼は、私に何を求めているのかさえ理解していない。


「それでも、真帆さんに出ていってもらう気はないのね?」


 修司は答えなかった。長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「今は無理だ」


「わかった」


 私はそれ以上、言い争うのをやめた。


 寝室に戻り、クローゼットから自分の服を取り出してスーツケースに詰めた。修司は最初、呆れたように見ていただけだったが、荷物が増えてくると、とうとう声を上げた。


「何をしてるんだよ?」


「荷物をまとめてるの」


「どこへ行くつもりだ?」


「別のところに住む」


 彼はため息をついた。


「またそんなことを言って。出所したばかりなのに、少しも落ち着けないのか? 昔からそうやって、すぐに意地を張るよな」


 私は最後の服を入れ、スーツケースを閉じた。


「ホテルは俺が手配する。前と同じところに泊まればいい。少し頭を冷やしたら戻ってくればいいだろ」


「わかった」


 あっさり答えた私を見て、修司は拍子抜けしたようだった。きっと、私が腹を立てて出ていっても、数日すれば戻ってくると思っていたのだろう。


 私はスーツケースを引いて玄関へ向かった。彼はリビングから動かず、最後に声をかけた。


「困ったことがあったら連絡しろよ。一人で無理するな」


 私は振り返った。


「修司」


 言いたいことはいくつもあった。けれど、彼は私の次の言葉を待っているというより、早く話を終わらせたいように見えた。


 私は何も言わず、ドアを開けた。


 外に出てから、以前連絡した不動産会社のメッセージを確認した。


「久我山様、ご希望のお部屋が空きました。明日から入居できます」


「ありがとうございます。お願いします」


 短く返信し、私は駅へ向かった。


 修司は、私が数日だけ家を離れたのだと思っているだろう。けれど、私が出ていったのは、あの部屋だけではなかった。


 彼に自分の人生を預ける暮らしも、ここで終わりにするつもりだった。



5



 翌朝、不動産会社の担当者と一緒に新しい部屋へ向かった。鍵を開けると、室内には家具も生活用品もなく、窓から差し込む光だけが床に伸びていた。スーツケースを置いた私は、担当者から賃貸借契約書を受け取った。


「久我山様、初期費用はこちらです。水道や電気などは、使用開始の手続きをお願いします」


「はい。ありがとうございます」


 契約書に署名していると、スマートフォンが震えた。画面には修司の名前が表示されていたが、私は出なかった。


 すぐにメッセージが届いた。


「ホテルに着いたか?」


 続いて、もう一通。


「必要なものがあったら言ってくれ」


 私は返事をせず、契約書の控えをバッグにしまった。


 午後、近くの店で寝具や食器、洗剤などを買いそろえた。店員に配送を勧められたが、持てる分だけ持ち帰ることにした。部屋へ戻り、買ってきたものを一つずつ片づけていく。冷蔵庫には水と牛乳、キッチンには新しく買った食器が並んだ。


 まだ何もかもが足りない部屋だった。それでも、どこに何を置くか、何を買うか、いつ食事をするか、全部自分で決められる。そのことが、思っていた以上に心を軽くしてくれた。


 翌日、事前に応募していた会社の面接を受けた。担当者は履歴書に目を通し、職歴の空白に視線を止めた。


「ここ三年間は、お仕事をされていなかったんですね」


「はい」


「差し支えなければ、理由を聞いてもいいですか?」


 私は少し考えた。


「個人的な事情です」


 担当者はそれ以上踏み込まず、履歴書を閉じた。


「最初は基本的な業務からお願いすることになります。それでも大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


「では、明日から試用期間として来ていただけますか」


「よろしくお願いします」


 会社を出たあと、私はしばらく歩道に立っていた。三年の空白を抱えたまま、また働き始める。収入も仕事の内容も、以前と同じにはならないだろう。それでも、今の仕事は自分で探し、自分でつかんだものだった。


 その夜、修司からまたメッセージが届いた。


「夕飯は食べたか?」


「莉子がお前はいつ帰ってくるのかって聞いてたぞ」


「絵本を買ってくれるって約束したらしいな」


 最後には、こんな一文が添えられていた。


「いつまで意地を張ってるんだ。落ち着いたら戻ってこい」


 私は画面を閉じ、スマートフォンをサイレントモードにした。


 新しい職場で働き始めて数日が過ぎたころ、私は修司から届いたメッセージを読み返していた。莉子が私の帰りを尋ねているという言葉は、彼が私を呼び戻すために使っているようにも感じられた。けれど、今の私には、その言葉に返事をする理由が見つからなかった。


 仕事を覚え、生活を整えるだけで一日が終わる。退勤後には食料品を買い、部屋を片づけ、翌日の準備をする。忙しさに追われていると、修司のことを考えない時間も少しずつ増えていった。



6



 新しい部屋で暮らし始めて一週間が過ぎたころ、修司から何度も電話がかかってきた。仕事の資料を整理していた私は、しばらく画面を見つめてから通話ボタンを押した。


「もしもし」


 電話の向こうは数秒間、静かだった。


「今、どこにいるんだ?」


「何か用?」


「どうしてメッセージに返事をしない?」


「仕事が忙しいの」


「仕事? 働き始めたのか?」


「うん」


「いつからだ?」


「出所してから探してた」


 修司は黙り込んだ。少しして、抑えた声で尋ねてきた。


「どうして俺に言わなかったんだ?」


 私は資料をめくりながら答えた。


「言う必要がなかったから」


「必要がないって、どういう意味だよ?」


 彼の声が低くなった。


「俺は、お前にとって何なんだ?」


 私はペンを置いた。少し考えてから、答えた。


「昔は、大切な人だったよ」


 電話の向こうが静まり返った。


 しばらくして、修司は声を落とした。


「帰ってこないか」


「どうして?」


「真帆のことは、もう一度考える。莉子もお前に少しずつ慣れてきた。戻ってくれば、今度こそちゃんとやっていけると思う」


 私は机の上の雇用契約書に目を落とした。


「修司、私がどうして出ていったか、覚えてる?」


 彼は答えなかった。


「莉子が嫌だからでも、真帆さんが憎いからでもない。あなたが私のことをどう扱ったか、そのことが理由なの。私はあなたに選んでほしかった。でも、あなたは何も変えようとしなかった」


「そのときは、どうすればいいかわからなかったんだ。今は違う。ちゃんと考えたから、戻ってきてくれ」


「遅いよ」


「何が遅いんだ?」


「私はもう、自分の生活を始めてる」


 修司の声に焦りが混じった。


「出所して、まだ少ししかたってないだろ。そんな生活、すぐに安定するとは限らない。俺なら仕事も住むところも用意できる。会社で俺のアシスタントをすればいい」


 私はペンを持つ手を止めた。


「今でも、私があなたから離れたら何もできないと思ってるの?」


 返事はなかった。


「もう仕事に戻らなきゃ。切るね」


「待ってくれ。明日、そっちへ行く」


「来ないで」


「どうしてだよ?」


「会いたくないから」


 私は通話を終えた。


 翌日の退勤時、会社の建物を出ると、道路脇に修司が立っていた。私を見つけるなり、彼は近づいてきた。


「どうして住所を教えてくれないんだ?」


「来ないでって言ったでしょう」


「顔を見たかっただけだ」


 彼は私の顔を見て、眉をひそめた。


「痩せたな」


 私は返事をしなかった。修司がバッグを持とうと手を伸ばしたので、私は自分で持ち直した。


「自分で持てるから」


 彼の手が宙で止まった。


「前は、こんなふうじゃなかっただろ」


「前の話をされても困るよ」


 修司は唇を引き結び、声を和らげた。


「まだ怒ってるのはわかってる。少し時間をくれ。ちゃんとするから」


「もういいの」


「何が?」


「私はもう、あなたが変わるのを待ってない」


 口にしてみると、不思議なくらい気持ちは落ち着いていた。


 修司は何か言いかけたが、結局、言葉を続けられなかった。私は彼の横を通り過ぎ、人の流れの中へ歩いていった。


 彼が何を思ったのか、確かめるつもりはなかった。以前の私なら、振り返って彼の表情を見ていたかもしれない。今は、振り返らずに歩き続けることができた。



7



 新しい職場で働き始めて数週間が過ぎたころ、私はようやく仕事の流れをつかみ始めていた。以前のような経験はなくても、覚えることを一つずつ増やしていけばいい。そう思っていた矢先、出勤すると上司から会議室へ来るように言われた。


 部屋に入ると、上司はスマートフォンの画面を私に向けた。


「久我山さん、会社に伝えていないことがありますか?」


 画面には、私の名前と服役歴についてのメッセージが並んでいた。


「この人、刑務所に入っていたらしいよ」


「三年前、会社の機密情報を持ち出して捕まったんだって」


 指先が冷たくなった。


「昨日、あなたの元交際相手だという男性が来たの。三年前、あなたが会社の機密情報を盗んだ事件で有罪になったと言っていたわ」


 修司が来たのだ。


 私は画面から目を離せなかった。自分の過去を会社に話すこと自体が問題なのではない。彼がわざわざここまで来て、私が再び働くために手に入れた場所を壊そうとしたことが、何よりもこたえた。


 上司は少し困ったように息をついた。


「私たちも、過去の事件について詳しいことはわからないの。会社として確認が必要だから、しばらく自宅で待機してもらえるかしら」


「わかりました」


 私物をまとめて会社を出たところで、修司から電話がかかってきた。


「会社に行ったんだって?」


「そうよ」


「何を言われた?」


 私は小さく笑った。


「あなたが全部説明したんでしょう?」


 彼は一瞬、黙った。


「お前のために言ったんだ。今の状況じゃ、新しい仕事を見つけるのも大変だろ。俺のところへ戻ってくれば、面倒は見てやれる」


「私の会社に行って、服役していたことを話すのが、私のためなの?」


「悪意があったわけじゃない」


「感謝してほしいとでも思ってる?」


 修司の声が険しくなった。


「俺は助けようとしてるんだよ」


「助けるって、何?」


 彼は答えなかった。


「もういい。これ以上、あなたと話すことはない」


 私は電話を切った。


 その夜、私は三年前の事件に関する資料をすべて取り出した。判決文、弁護士が保管していた書類、修司と交わしたメッセージ。机の上に一つずつ並べ、日付を照合していった。


 私はずっと、自分が修司を救ったのだと思っていた。私が責任を引き受ければ、彼は仕事も生活も失わずに済む。三年だけ耐えれば、二人で新しい人生を始められる。そう信じて、服役中も彼を疑わないようにしてきた。


 けれど、資料を読み進めるうちに、時系列が合わない箇所が見つかった。


 事件が起きた時刻と、修司が私に説明した時刻が違っていた。記録に残された手続きの日付も、彼の話とは一致していない。


 私はもう一度、最初から確認した。夜が更け、時計が午前二時を回ったころ、ようやく一つの疑問がはっきりした。


 当時、修司は本当に何も知らなかったのだろうか。


 彼は、誰かに陥れられたのだと言っていた。自分は何もしていないのに、責任を押しつけられたのだと。私が少しでも協力してくれれば、誤解を解くことができるとも話していた。


 私は当時の弁護士にメッセージを送った。


「三年前の事件について、新しい証拠が見つかった場合、再審請求を検討することはできますか?」


 返事はすぐに届いた。


「具体的な資料を見なければ判断できません。手元にあるものを整理して送ってください」


 私は書類を日付順に並べ、ファイルにまとめた。


 今度こそ、あの三年間に何があったのか、自分の目で確かめるつもりだった。



8



 翌日、私は弁護士事務所を訪ね、判決文や当時のメッセージ、保管していた資料をまとめて渡した。弁護士は一つずつ確認し、しばらくしてから顔を上げた。


「当時、なぜ罪を認めたのですか?」


「修司が、誰かに陥れられたと言っていたからです」


 三年前、修司は事件が発覚すると、すぐに私のところへ来た。顔色は悪く、目の下には濃い隈ができていた。彼は、自分は何もしていない、誰かが自分を陥れようとしている、と何度も繰り返した。


「千紘、俺はやってない。本当なんだ」


「誰かが俺をはめようとしてる」


「お前まで俺を信じてくれなかったら、もうどうしようもない」


 私は何をすればいいのか尋ねた。修司はすぐには答えず、仕事を失うことも、家族に知られることも、人生が台無しになることも怖いのだと話した。


 その後、彼は私に頼みごとをするようになった。私が事情を説明し、責任の一部を引き受ければ、捜査も進み、事態が収まる可能性があるという。彼の口調は切羽詰まっていたが、頼んでいる内容そのものは、ひどく軽いことのように聞こえた。


 私は、三年もの自由を失うことになるとは思っていなかった。


 弁護士は資料を並べ直し、いくつかの日付に印をつけた。


「この記録と、当時の供述には食い違いがあります。ただ、これだけで直ちに再審が認められるわけではありません。新たな証拠があるか、当時の判断を見直すべき事情があるか、慎重に検討する必要があります」


「当時、私が認めたことも問題になりますか?」


「供述がどのような経緯でなされたのかも重要です。あなたが何を知っていて、何を知らされていなかったのか。そこも整理しましょう」


 私はうなずいた。


 刑務所で過ごした三年間は、決して短くなかった。夜になっても眠れない日があり、面会室の椅子に誰も座らないことに慣れるまでにも時間がかかった。それでも私は、修司を疑うことだけは避けてきた。


 彼は善良で、無実で、誰かに陥れられた人なのだ。そう信じることで、自分の選択を正しいものだと思おうとしていたのかもしれない。


 帰宅してから、私は昔のメッセージを読み返した。修司は、自分がどれほど追い詰められているかを繰り返し訴えていた。けれど、無実を証明する具体的な資料については、ほとんど何も話していなかった。


 彼は自分が困っていることを伝え続け、私が助けると言い出すのを待っていた。


 実際、「私が代わりに説明する」と言い出したのは私自身だった。自分で決めて、警察にも話し、裁判でも罪を認めた。その事実は変わらない。


 けれど、私がそうするように仕向けられたのだとしたら。


 私は再び資料をまとめ、弁護士に連絡した。


「再審請求の準備を進めたいです」


 弁護士は少し間を置いてから尋ねた。


「もし調査の結果、修司さんが本来責任を負うべきだったとわかったら、どうしますか?」


 私は迷わなかった。


「その場合は、彼に自分の責任を取ってもらいます」


 その夜、修司から電話がかかってきた。


「千紘、三年前のことを調べてるのか?」


「そうよ」


「俺を信じてくれ。あのときは、本当にどうしようもなかったんだ」


 私はスマートフォンを耳に当てたまま、静かに尋ねた。


「だったら、三年前に何があったのか、最初から最後まで話せる?」


 電話の向こうは黙り込んだ。


 私は返事を待たずに通話を終え、机に向き直った。彼が何を言うのか、今はもう重要ではない。必要なのは、記録と証拠を確かめることだった。


 三年前、私は彼の罪を引き受けた。


 今度は、自分が失ったものを取り戻すために動く。



9



 三年前の資料を整理していると、莉子の出生時期についても気になる点が見つかった。出生の日付と、修司と真帆が婚姻届を出した日が一致していない。


 それだけで何かを断定することはできない。けれど、修司が説明してきたことに食い違いが見つかり始めた今、私はその点も確かめておきたかった。


 弁護士に相談すると、彼は慎重な口調で答えた。


「日付だけでは、親子関係について何も結論は出せません。確認したいのであれば、適切な手続きや、信頼できる資料が必要です」


 私はうなずいた。


 出所した日に、莉子が修司の胸に飛び込んで「パパ」と呼んだ姿を思い出す。修司は彼女を大切にしていた。食事を作り、幼稚園へ送り迎えをし、行事にも参加しようとしていた。そのために、私を家の外へ出したのだ。


 私は手元に残っていた書類を整理し、出生時期に関する記録を確認した。真帆が以前口にしていたことも思い返したが、それらは疑問を深めるだけで、答えにはならなかった。


 そこで私は、弁護士に相談したうえで、親子関係を確認するための適切な方法について専門機関に問い合わせた。未成年者の検査には本人の利益や保護者の同意、試料の取り扱いなどの問題がある。手元にある髪の毛だけで、確実な結果を得られるわけではないこともわかった。


 私は、根拠の曖昧な検査結果を答えだと決めつけることをやめた。まずは真帆本人に、出生に関する記録を確認させてもらう必要がある。


 その日の夜、私は彼女にメッセージを送った。


「莉子の出生に関する書類、手元に残ってる?」


 返事はなかなか来なかった。三十分ほどして、真帆から電話がかかってきた。


「何のために、そんなことを聞くの?」


 警戒している声だった。


「確認したいことがあるの」


「久我山千紘、何を調べてるの?」


「まだ、何も決まってないよ」


「だったら、どうして出生の書類が必要なの?」


 私はすぐには答えなかった。真帆も黙っている。これ以上話しても、彼女は何も教えてくれないだろう。私は通話を終えた。


 十分もしないうちに、修司から電話がかかってきた。


「真帆に連絡したのか?」


「それが何?」


「あいつから聞いた。莉子のことを調べてるらしいな」


「ずいぶん早く伝わるのね」


 電話の向こうが静かになった。


「修司。莉子が本当にお前の娘なのか、確認したことはある?」


「何を言ってるんだ?」


「そのままの意味よ。自分で確かめたほうがいいこともあるでしょう」


 私は通話を終えた。


 翌日、仕事帰りに駅前のカフェへ立ち寄ると、窓際の席に修司と真帆が向かい合って座っているのが見えた。二人は険しい顔で話していた。真帆がバッグを抱え込むようにして身を引き、修司がテーブルの上へ手を伸ばす。やがて、二人の間で何かを取り合うような動きがあった。


 私は足を止めたが、店内の声までは聞き取れなかった。やがて真帆が立ち上がり、修司を残して店を出ていった。彼はしばらく席に座ったまま、手元の紙を見つめていた。


 何が書かれていたのか、私にはわからない。ただ、莉子の身元について、二人の間にも話していなかったことがあるのだと感じた。


 その夜、真帆から電話がかかってきた。


「久我山千紘、満足?」


 彼女は泣いていた。声が途切れ、言葉をつなぐのにも苦労しているようだった。


「修司は今、何もかも私のせいにしてる。でも、あのときだって、私は彼に言ったのよ。あなたが代わりに責任を負って、三年も自由を失ったんだから、ちゃんと後始末をするべきだって」


 私はスマートフォンを握り直した。


「それで、修司さんは何て?」


 真帆はしばらく黙っていた。


「あなたが引き受けてくれれば、自分はやり直せるって。あの人は、最初からあなたに責任を負わせるつもりだったのよ」


 私は目を閉じた。


 三年前、修司は自分が無実だと言い続けた。私は彼を信じて、彼の代わりに罪を認めた。彼の言葉を疑うことができなかったのは、私が彼を愛していたからだ。


「ほかにも、話すことがあるの?」


 真帆は、しばらくしてから答えた。


「莉子のこと……あなたが疑っていることは、本当よ」


 私は黙って聞いていた。


「莉子は修司の実の娘じゃない。あなたが調べたことも、たぶん間違ってない。でも、私はあの人がここまで莉子を大切にするとは思ってなかった。結婚すれば、昔のことも忘れてくれると思ってたのに。離婚してからも、あの人はずっと莉子の世話をしてくれて……私にも、どうしてこうなったのかわからない」


 私は、これ以上彼女を問い詰めなかった。二人がどうやって一緒になり、どんな約束を交わし、どんな理由で離婚したのか。もう、そのすべてを知りたいとは思わなかった。


 私が取り戻したいのは、自分の生活だった。



10



 三日後、弁護士から電話があった。


「再審請求に向けて、資料の整理が一段階進みました。提出できる証拠と、追加で確認する必要のある点をまとめています。修司さんにも、何らかの連絡が行く可能性があります」


「わかりました」


 通話を終え、私は椅子に腰を下ろした。三年前の事件について、ようやく自分の手で調べ直せるところまで来た。けれど、気持ちは思っていたほど晴れなかった。失った三年間は、どんな結果が出ても戻ってこない。


 その夜、修司から何度も電話がかかってきた。私は出なかった。やがて、メッセージが届いた。


「千紘、会って話したい」


 少しして、もう一通。


「説明させてくれ」


 私はスマートフォンを伏せた。


 翌日、弁護士から再び連絡があった。


「真帆さんも、当時の事件について知っていることを話し始めたそうです。ただ、内容はまだ確認中です」


「真帆さんが?」


「修司さんと意見が対立しているようです。彼女が提供した資料も含めて、事実関係を調べる必要があります」


 電話を切ったあと、私はしばらく考えていた。真帆が何を話したのか、修司がどんな説明をしているのか、今の段階ではわからない。だからこそ、二人の言葉だけで結論を出すつもりはなかった。


 必要なのは、証拠を確かめ、三年前に何があったのかを明らかにすることだ。


 その日の夕方、帰宅すると、修司からまたメッセージが届いていた。


「頼むから、一度だけ会ってくれ」


「莉子のことも話したい」


 私は画面を見つめたあと、スマートフォンを置いた。


 莉子のことは、もう真帆から聞いている。修司との血縁関係についても、今後は適切な資料を通して確認するつもりだった。彼が何を説明しようと、私が三年前に罪を引き受けた事実は変わらない。


 翌日、弁護士事務所で必要な書類を確認し、署名を済ませた。弁護士が、修司から補償や和解の申し出があった場合、どうするつもりかと尋ねた。


「手続きに沿って進めてください。もう、彼の代わりに何かを引き受けるつもりはありません」


 事務所を出ると、日差しが歩道に落ちていた。三年前も、こんなふうに明るい日だった。私は、自分が三年を差し出せば、修司はやり直せるのだと信じていた。その先には、二人で暮らす未来が待っていると思っていた。


 今、振り返っても、あのときの自分を責める気にはなれなかった。私は彼を信じていた。それだけだった。


 スマートフォンを取り出すと、修司からの最後のメッセージが残っていた。


「千紘、もう一度だけチャンスをくれ」


 私は画面をしばらく見つめたあと、彼とのチャット履歴を削除した。


 許すつもりはなかった。彼がどうなるのかを見届けるために、これ以上時間を使うつもりもない。


 会社からもメッセージが届いていた。確認作業が進み、私の勤務について改めて相談したいという内容だった。私は返信を済ませ、スマートフォンをバッグにしまった。


 旧事件の結論が出るまでには、まだ時間がかかるだろう。仕事も生活も、これから整えていかなければならない。それでも、私はもう誰かの返事を待ちながら、自分の人生を止めておくことはしな






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