お日さまシールのドライヤー
一 ちょうどいい風
ぼくはドライヤーだ。髪を乾かす、あの道具だ。
もう少し詳しく言うと、ぼくはドライヤーの中にある小さな電子チップだ。温度を測り、風の強さを決め、マイナスイオンの量も調整している。大きさは爪の先ほどしかない。モーターでもヒーターでもなく、なぜかこのチップのあたりで、ぼくは「自分」を感じている。理由はわからない。人間だって、自分の心が体のどこにあるのか正確には知らないだろうから、同じようなものだと思っている。
ぼくがこの家にやってきたのは、春のことだった。電器屋さんの棚から、箱に入ったままで運ばれてきた。
最初に髪を乾かしたのは、ひなただった。六歳。小学校に入ったばかりで、肩まで伸びた髪は細く、よく絡まっていた。
「あつい!」
最初の夜、ひなたはそう言って頭を引っ込めた。お母さんがあわてて温度を一段下げた。ぼくは覚えた。この子の髪には、これくらいの温かさがちょうどいい。
ひなたは、髪を乾かしてもらっているあいだ、決まって鼻歌を歌った。知っている曲ではなく、その場で作った歌のようだった。ふん、ふふん、ふーん。語尾が少し上がって、終わりのほうで必ず一か所、変なところで音が外れる。毎晩同じところで外れるので、そのうちぼくは、音を外しているのではなく、そういうメロディなのだと理解した。
ぼくの一日は、だいたいそれで終わる。洗面所の棚に戻され、コードを巻かれて電源が切れる。電気が通わなくなると、ぼくは浅い眠りにつく。眠っているあいだも、家の音はかすかに届いていた。夜中に低く響く冷蔵庫の音や、朝、ひなたが階段を駆けおりてくる足音。
おだやかで、いい暮らしだった。
二 お日さまがやってきた
ひなたが八歳の秋、ピアノの発表会の朝に事件が起きた。
白いお出かけ用のシャツに、オレンジジュースがこぼれたのだ。こぼしたのも、泣きだしたのもひなただった。お母さんが急いでシャツを洗い、ぼくのスイッチを入れた。
「お願いね」
髪以外のものを乾かすのは、これが初めてだった。綿の布は、髪よりもずっと多くの水分を含んでいる。ぼくは温度を上げ、風を強めにして、袖の縫い目の奥まで温かい空気を送った。家を出る五分前に、シャツは乾いた。少しだけしわが残ったけれど、間に合った。
発表会がどうだったのかはわからない。ぼくはずっと洗面所にいたからだ。ただ、その夜のひなたの鼻歌は、いつもより少し長かった。
九歳の春には、シールの出来事があった。
ひなたが使うことになった勉強机はいとこのお下がりで、机の真ん中に古いシールがしっかり貼りついていた。何かのキャラクターだったようだが、色あせて誰の絵かもわからない。爪でカリカリとこすっても、紙がちぎれて残るだけだった。
「ドライヤーで温めると、のりが柔らかくなって取れるんだよ」
教えてくれたのはお父さんだった。ぼくはシールの端に、焦がさないよう気をつけてじっくり熱を送った。やがて、のりがゆるみ、シールはするりと剥がれた。
ひなたは大喜びした。そして、お礼だと言って、大切にしていたシールを一枚、ぼくの持ち手に貼ってくれた。
にっこり笑った、お日さまの絵のシールだった。
「これは、絶対に剥がれない特別なやつだからね」
ひなたは得意そうに言った。
ぼくには目がないので、自分の姿を見ることはできない。けれど、洗面所の鏡に向かうたび、ぼくの持ち手でお日さまが笑っているのだと思った。
これもまた、嬉しいことだった。
三 相棒になった日
ひなたが十二歳の冬、ぼくのスイッチが故障した。入れても、ときどき風が止まってしまう。
「そろそろ、新しいのを買おうか」
お母さんがそう言ったとき、ひなたは首を横に振った。
「直す」
次の日曜日、ぼくはひなたのおじいちゃんの家に連れていかれた。
おじいちゃんは昔、町の電器屋さんを営んでいた。店は閉めていたが、家の中には古い家電がたくさん並んでいた。台所の冷蔵庫はお母さんが生まれる前から動いていて、居間の扇風機は、首を振るたびにカタンと小さな音を立てた。
「道具というのはな、大切に長く使うと心が宿るんだ」
おじいちゃんは、ぼくのネジを外しながら言った。
「付喪神って言ってな。百年くらいかかるらしいが」
「百年も?」
「なに、うちの扇風機はもう半分くらい来ているぞ」
扇風機がカタンと音を立てた。
ぼくの外側のカバーが外され、電子回路の基板があらわになった。ひなたはそれをじっと見つめ、持ち手のお日さまのシールを指さした。
「これ、中に貼り直したい」
「剥がれないシールなんだろう?」
「ドライヤーで温めれば剥がれるよ」
ひなたはおじいちゃんの家の古いドライヤーを借りてきた。ずっしりと重く、少し焦げたようなにおいの風だったが、きちんと役に立った。お日さまのシールは端が浮き上がり、持ち手を離れた。
ひなたはそれを、ぼくの基板にあるチップのすぐ横に貼り直した。
「外側は、これから先いっぱい取り替えるかもしれないから。ここなら、ずっと一緒でしょ」
「そこに貼ったら、中を開けた人にしか見えないぞ」
おじいちゃんが言うと、ひなたは言った。
「いいの。開けてくれた人に見えれば」
おじいちゃんは笑って、はんだごてを温めはじめた。
スイッチが直り、ひなたはぼくを持って電源を入れた。いつものちょうどいい風が吹き出す。
「よし。これからもよろしくね、相棒」
ぼくが「相棒」になったのは、その日からのことだ。
それからの毎日は、とても忙しくなった。
おじいちゃんに教わりながら、ひなたは工作を覚えた。「電気をあつかうときは、油断しちゃいけないよ」というのがおじいちゃんの教えだった。ぼくは強いヒーターに取り替えられ、電線をまとめる細いチューブを熱で縮める役目を任された。「ヒートガン」という道具の代わりだ。髪を乾かすときよりずっと熱い風を出すので、慣れるまでは少し緊張した。
秋には、庭に散らばった落ち葉を一か所に集めた。風の吹き出し口に、ひなたが作った長い筒を取りつけて使う。「ブロワー」と呼ぶらしい。
十四歳の夏休みには、薄い紙で作った大きな袋へ熱い空気を送りこんだ。理科の研究だった。袋は大きくふくらみ、ひなたの手を離れて、体育館の天井までふわりと浮かび上がった。
何かを空へ送り出したのは、あれが初めてだった。
十五歳の冬には、風を吸いこむ機能がついた。机に散らばる細かな金属くずを吸い取るためだ。ひなたは便利だと喜んでいたけれど、ずっと息を吐き出してきたぼくにすれば、急に吸いこめと言われたようなもので、これも慣れるまでに少し時間がかかった。
十六歳。ひなたは高校で、小さな模型ロケットを作る部活に入った。ぼくは部室の机で筒の中に風を送り、ロケットがどのように風を受けるのかを調べる実験を手伝った。
いくら改造されても、ひなたには一つだけ決めていることがあった。それは、髪を乾かせなくなる改造は絶対にしない、ということだ。スイッチを「かみ」の位置に合わせれば、ぼくはいつでも元のドライヤーに戻ることができた。
その夜も、ぼくはひなたの髪を乾かした。髪は背中のあたりまで伸びていた。鼻歌は、六歳のころとまったく同じところで音が外れていた。
四 最後の役目
十八歳の春、ひなたは遠くの大学へ行くことになった。
引っ越しの直前、ぼくのモーターが焼き切れた。焦げたにおいが漂い、風が止まった。何年ものあいだ、温かい風や冷たい風を送り、落ち葉を吹き飛ばし、紙の気球をふくらませてきたモーターだった。
おじいちゃんはぼくを分解し、静かに首を振った。
「この型のモーターは、もう作られていないな」
ひなたは何も言わなかった。
旅立ちの前日、ひなたはぼくを抱えて市役所へ向かった。建物の入り口の横に、使わなくなった小型の家電を回収する箱が置かれていた。
ひなたは外側のカバーをもう一度だけ外し、基板に貼られたお日さまのシールを見つめた。シールの端を指でつまみ上げたけれど、すぐに手を離した。
「これは、きみのものだから。貼ったままにしておくね」
ひなたはぼくを元に戻し、回収箱の投入口に入れた。そして、箱に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう。いっぱい働いてくれて」
箱の中は暗かった。ぼくの上に、誰かが使い終えた電気カミソリが落ちてきた。
ぼくは、眠ることにした。
五 ポケットの中のお日さま
ここから先の出来事は、いくつもの偶然が重なって起きている。
集められた家電は工場で分解され、基板は金属を取り出すために細かく砕かれる。ぼくも同じように砕かれるはずだった。
けれど、作業台の前にいたアルバイトの学生が、ぼくの基板を手に取った。チップの横にある、お日さまのシールが目に留まったのだ。
「……なんだろう、これ」
学生はしばらくシールを眺めたあと、ぼくを作業着のポケットにしまった。捨てるのが、なんとなく心苦しかったらしい。
ぼくは大学の研究室に運ばれ、実験装置の一部として組みこまれた。温める装置の温度を、決められた値に保ち続ける役目だ。ぼくはいつも通り、指定された温度をしっかりと保った。ひなたの髪で覚えた温度よりずっと高かったけれど、やるべきことは同じだった。
「この部品、すごく安定して温度を保ってくれるね」
学生は不思議そうに感心していた。
数年後、その学生は大学を卒業し、宇宙の研究機関で働く技術者になった。ロケットのエンジンを試験する部署だった。彼の荷物の中には、ぼくの基板が入っていた。
ぼくは、エンジンに火をつける部分の温度を見張る装置に組みこまれた。新しい専用の部品が届くまでの、一時的な代用品という話だった。
やがて正規の部品が届いたけれど、ぼくが外されることはなかった。ぼくが組みこまれてから、その試験台での実験は一度も失敗しなかったからだ。
いつしか、実験の前になると誰かが装置の前に立ち、小さく手を合わせるようになった。
「お日さま、今日も頼むよ」
科学を突きつめる人たちでも、最後には願掛けをしたくなるものらしい。
やがて、火星へ向かう宇宙船が作られることになった。その船のエンジンを制御する機械の、万が一に備える予備部品として、ぼくも乗せられることになった。
正式な部品ではないため、会議では何度も降ろされそうになった。そのたびに誰かが「でも、この装置を使ってから失敗知らずなんですよ」と言い、その場は静かになった。結果として、ぼくは放射線や衝撃から守る頑丈な箱に、厳重に包まれて積みこまれた。
宇宙へ持って行くものは、真空の中で余計な気体が出ないか厳しく調べられる。お日さまのシールも同じように試験を受けた。担当者が不思議がるほど、余計なものは何も出なかった。
ひなたの言ったとおり、本当に剥がれない特別なシールだった。
六 遠い旅路
船は大きなロケットに乗せられ、地球の外へと打ち上げられた。そこから先は、宇宙船自身のエンジンで進む。
地球を離れる加速のとき、ぼくの役目は、火がつく瞬間の温度を見張ることだけだった。熱すぎず、ぬるすぎず。髪を乾かしていたときと同じだ。温度の数字の桁が違うだけのことだった。
激しい炎が噴き出し、船体が大きく震えて、地球が遠ざかっていった。窓はないので外を見ることはできなかったけれど、細かな揺れを通して、自分が生まれた星から遠く離れていくことが伝わってきた。
そのあとの長い旅路では、イオンエンジンが静かに船を前へと押し続けた。電気の力で目に見えない小さな粒を放ち、少しずつ進むエンジンだ。洗面所で、マイナスイオンを送り出していたころを思い出した。あれも、目には見えないものをちょうどいい量だけ届ける仕事だった。
旅には、およそ七ヶ月がかかった。
宇宙飛行士たちの話し声は、ぼくのいる場所までは聞こえなかった。船の骨組みを通して、歩く振動やかすかな物音が時折伝わってくるだけだった。
七 赤い星の氷
船は、赤い大地が広がる火星に着陸した。
着陸を終えると、宇宙船のエンジンはお役御免となった。けれど、物資の限られた火星では何も捨てられない。船はそのまま基地の設備になり、使える部品はすべて別の仕事に使われることになった。ぼくも同じだった。
最初の仕事は、外にある太陽電池のパネルに積もった砂を吹き飛ばすことだった。落ち葉を集めた経験があるぼくにとって、風を吹き出すのは得意な仕事のはずだった。
けれど、力いっぱいに風を送っても、砂はまったく動かなかった。
火星の空気は、地球の百分の一もないほど薄い。どれほど強く吹き出しても、空気そのものが足りず、しっかりとした風にならないのだ。通信を通して飛行士の一人が「やっぱりそうか」とつぶやくのが聞こえた。知っていたのなら、無理に吹かせる前に教えてほしかった。
二つ目の仕事は、うまくいった。火星の薄い大気を吸いこみ、ぎゅっと押し縮めて酸素を取り出す装置の手伝いだ。空気を吸うことなら、十五歳のひなたの机で金属くずを吸い取って練習した経験がある。
三つ目の仕事は、いちばん好きな役目になった。地面の下から掘り出した氷混じりの土を温めて、水を取り出す仕事だ。火星はとても乾いた星で、温めなければ水を得ることができない。
熱すぎず、ぬるすぎず。ぼくはちょうどいい温度で、少しずつ氷を溶かしていった。
一年ほど経ち、地球から新しい専用の機械が届くと、ぼくの役目はひとまず終わった。基板のまま外され、予備の部品を入れておく箱の中へ移された。箱にはネジや電線、いろんな金具が詰まっていた。
あの回収箱の底よりも、ずいぶん明るい居心地だった。ぼくは再び、眠りについた。
八 いつもの温度で
どれほどの時間が過ぎたのかはわからない。
誰かの手が、箱の中からぼくを持ち上げた。
その手はしばらく止まり、ぼくを持ったまま動かなかった。やがて、指先が基板のチップの横にある、お日さまのシールをそっとなでた。
それから、手は手際よく動きはじめた。ネジが回され、電線がつながれ、新しい外側のカバーがぼくのまわりに組み立てられていく。自分が何に生まれ変わろうとしているのか、ぼくには見当もつかなかった。
電源が入った。
ぼくは、試しに風を出してみた。
ああ、とぼくは思った。この風の出し方なら、よく知っている。
基地に初めてのシャワー室が完成した日だった。ぼくが溶かした氷からできた水も、きっとどこかに混ざっているはずだ。
火星の重力は地球の半分にも満たない。お湯はふわりとゆっくり落ち、静かに流れていった。やがてシャワーの音がやみ、誰かがぼくの持ち手を握りあげた。
濡れた髪が、すぐ目の前にあった。短く切りそろえられていたけれど、細くて、少し絡まりやすい手触りは昔のままだった。
ぼくは迷わず、風の温度を合わせた。考えるまでもなかった。この髪には、これくらいの温かさがちょうどいい。
やがて、その人が鼻歌を歌いはじめた。
ふん、ふふん、ふーん。
語尾が少し上がって、終わりのほうで、一か所だけ変なところで音が外れる。
三十年前と、まったく同じ歌だった。
その人は持ち手に作られた小さな透明の窓を、指先でコンコンと二回、軽く叩いた。窓の奥でお日さまのシールが見えているはずだ。
「久しぶり、相棒」
返事はできない。ぼくには声を出す口はなく、あるのは風を送り出す吹き出し口だけだ。
だから、ぼくは黙って、ちょうどいい温度の風を送り続けた。熱くなりすぎないように。ずっと昔に、この人の髪から教わった、あの温かさのままで。
ぼくは火星のドライヤーだ。髪を乾かす、あの道具だ。




