もったいない、その後――顔の見えなかった女が、うちに住み着いた
写真が届いた、その日の夜だった。
眠りに落ちて、どれくらい経ったのか分からない。
ふと目を覚ますと、身体が重かった。
金縛り。
そう思った。
けれど、違った。
誰かがいる。
いや。
俺の上に、女がいた。
こちらを向いて跨がっている。
暗い部屋の中でも、その身体だけは妙にはっきりと見えた。
長い黒髪。
写真で見た、白い肌。
胸も。
腰も。
脚も。
見間違えようがない。
写真を見た時に思った通りだった。
俺が昔から好んできたものを、そのまま集めたような身体。
そして今、その身体が俺の上でゆっくりと動いている。
夢ではない。
重みも、熱も、はっきりと分かる。
なのに。
顔だけが見えない。
いや、見えてはいる。
こちらを向いているのだから、目の前にある。
目も。
鼻も。
口も。
そこにあるはずなのに、どうしても一つの顔として認識できない。
視線を向けた瞬間、形が頭から抜け落ちる。
身体なら、こんなにもよく分かるのに。
むしろ、見れば見るほど好みだった。
それが余計に気味が悪かった。
「……紗央里」
初めて、その名前を呼んだ。
女の動きが止まった。
「なあに?」
嬉しそうだった。
声だけは、間違えようがない。
「何してんだよ」
「もらってる」
「何を」
紗央里は答えなかった。
ただ、顔の分からないまま俺を見下ろし、笑った。
やがて、身体の力が抜けた。
意識まで遠のいていく。
最後に聞こえたのは、
「名 前、まだ?」
だった。
翌朝。
ひどく身体がだるかった。
夢だった。
そう思いたかった。
けれど、写真は机の上にある。
裏返せば、
な 前 かんがエテ
紗央里
昨日と同じ文字。
俺は頭を抱えた。
「名前って言われても……」
赤ん坊の性別すら知らない。
そもそも、名前を考える以前の問題が山ほどある。
あれは何なのか。
どこにいるのか。
本当に俺の子なのか。
何で俺なのか。
考えているうちに、仕事へ行く時間になった。
その夜も、紗央里は来た。
次の夜も。
その次も。
眠っている間に現れる。
顔だけは見えない。
身体は見える。
声も聞こえる。
そして朝になると、いない。
三日目の夜、俺はとうとう言った。
「毎晩来るなよ」
「だって」
「だってじゃない」
「名 前、まだ」
「それとこれは関係ないだろ」
少し間があった。
「あるよ」
何があるのか聞く前に、耳元で笑われた。
七日目の朝。
目を覚ました俺は、しばらく天井を見ていた。
身体が重い。
そして、ふと思った。
一回。
二回。
三回。
指を折る。
四回。
五回。
六回。
昨日で――七回。
俺は起き上がった。
一人目は、一回だった。
たった一回。
それで紗央里は、
「昨日ので出来たよ」
と言った。
「……待て」
七回。
俺はもう一度数えた。
七回。
「いやいやいやいや」
何の確証もない。
そもそも人間と同じ仕組みなのかすら分からない。
だが。
一人目が、一回。
そして七回。
俺はその日のうちに名前を決めた。
夜。
ベッドへ入って電気を消す。
まだ眠ってもいないのに、耳元で声がした。
「決まった?」
「……何で分かるんだよ」
「決まった?」
俺は子どもの名前を告げた。
しばらく何も聞こえなかった。
やがて、
「うん」
小さな声。
「いい名 前」
「そうかよ」
「ありがと」
その夜、紗央里は何もしなかった。
翌朝。
身体が軽かった。
久しぶりだった。
それから三日。
紗央里は来なかった。
五日。
来ない。
一週間。
来ない。
ようやく終わった。
そう思った。
十日目。
仕事から帰ると、郵便受けに写真が入っていた。
封筒すらない。
赤ん坊の写真だった。
裏には、俺が決めた名前が書かれている。
今度は、きれいな字だった。
その下に、
ありがと
さらに、その下。
次も 名 前かんがエテ
俺はしばらく動けなかった。
「次も……?」
七回。
頭の中に、その数字が浮かんだ。
「いや、待て」
耳元で、
くすっ。
笑い声がした。
それから、紗央里は毎晩来ることはなくなった。
代わりに。
俺が、そういう気分になった時。
必ず来るようになった。
最初は偶然だと思った。
夜中、久しぶりに一人で済ませようと思った瞬間。
「する?」
耳元で声がした。
「……帰れ」
「なんで?」
「今日は一人でいい」
「どうして?」
本気で分からないらしい。
俺は何も答えなかった。
紗央里も帰らなかった。
次も。
その次も。
昼だろうが夜だろうが関係ない。
そう思った瞬間には、いる。
「お前、どうやって分かってるんだよ」
「分かるよ」
「何で」
「分かるから」
会話にならない。
ただ。
いつしか俺も、驚かなくなった。
月日が経った。
紗央里は相変わらず、顔だけが見えなかった。
けれど、それ以外は少しずつ分かるようになった。
甘いものが好きらしい。
テレビは見る。
ニュースには興味がない。
ドラマは好き。
俺が仕事の愚痴を言うと、意外とちゃんと聞く。
料理はできない。
というか、台所に立たせると妙なものを入れようとするのでやめさせた。
子どものことを聞けば、
「元気だよ」
と答える。
どこにいるのかと聞けば、
「あっち」
としか言わない。
七回のことを聞けば、
笑う。
絶対に答えない。
そうしているうちに。
ある夜。
いつものように紗央里が現れた。
用が済むと、身体が少しずつ薄くなっていく。
いつも通り。
帰るつもりなのだろう。
俺は、なぜかそれが気になった。
「なあ」
「なあに?」
「……毎回それ、やめろよ」
「なに?」
「出たり消えたり」
紗央里が黙った。
「気味悪いんだよ」
「うん」
「どうせまた来るんだろ」
「うん」
即答だった。
俺はため息をついた。
それから、自分でも何を言っているんだと思いながら、
「もう、ここにいろ」
と言った。
紗央里の身体が止まった。
消えかけていた輪郭が戻ってくる。
「いいの?」
声が、いつもより小さかった。
「どうせ来るならな」
「ずっと?」
「……好きにしろ」
紗央里は何も言わなかった。
ただ。
今までで一番嬉しそうに笑った。
翌朝。
目が覚めた。
カーテンの隙間から、朝日が入っている。
俺はしばらく天井を見ていた。
いつもと違う。
何かが違う。
隣から寝息が聞こえた。
振り向く。
紗央里がいた。
消えていない。
長い黒髪。
見慣れた身体。
白い肩。
そして。
俺は固まった。
顔が見える。
初めてだった。
普通に見える。
目も。
鼻も。
唇も。
全部。
しかも。
「……おい」
思わず声が出た。
ものすごく美人だった。
今まで身体だけでも十分すぎるほど好みだった。
なのに顔まで、冗談みたいに好みだった。
紗央里がゆっくり目を開ける。
俺を見る。
「おはよ」
俺は返事を忘れた。
「どうしたの?」
「……お前」
「うん?」
「こんな顔だったのかよ」
紗央里は不思議そうに瞬いた。
「うん」
「なんで今まで見えなかったんだ」
少し考えてから、首を傾げた。
「だって」
「何だよ」
「見ようとしてなかったでしょ?」
言葉が出なかった。
紗央里は俺を見て笑った。
写真の裏に書いてあった名前。
一年越しに知った名前。
何度も耳元で呼びかけてきた女。
その顔を、俺は初めて見た。
「……先に見せろよ」
「聞かなかったもん」
「聞いたわ。誰だって何回も」
「あれは名 前でしょ?」
「同じだろ」
「違うよ」
やっぱり会話が噛み合わない。
俺はため息をついた。
紗央里は楽しそうにこちらを見ている。
その顔があまりにも綺麗だったので、余計に腹が立った。
「……おはよう、紗央里」
初めて、顔を見ながら名前を呼んだ。
紗央里は少しだけ目を見開いた。
それから、
「うん」
と笑った。
「おはよう」
少し間を置いて。
「あ、そうだ」
嫌な予感がした。
「何だよ」
紗央里は、とても幸せそうに言った。
「次の子の名 前も、そろそろかんがエテ」
俺は布団をかぶった。
それで終わるかと思った。
もちろん、終わらなかった。
紗央里が家に居ついてから、俺の生活は少しずつ変わっていった。
しかも。
妙な話だが、驚くほど良い方向に。
本当に、何かに憑かれたように。
いや。
実際、憑かれているのだが。
まず、仕事。
ずっと揉めていた取引先との案件が、なぜか急にまとまった。
俺が出した企画も通った。
直属の上司が異動し、空いたポストへ俺が入った。
「最近、ついてるな」
同僚にそう言われることが増えた。
家へ帰る。
「ただいま」
「おかえり」
紗央里がソファで菓子を食べながらドラマを見ていた。
「なあ」
「なあに?」
「お前、何かした?」
「何を?」
「仕事」
「してないよ」
「本当に?」
「うん」
少し考えてから、紗央里が言った。
「あ。でも、嫌な人にはちょっと嫌な夢見せた」
「それを何かしたって言うんだよ」
「仕事はしてないよ?」
やっぱり話が噛み合わない。
それ以上に変わったのは、身体だった。
朝が楽になった。
以前なら仕事が立て込んだ翌日は、起きた瞬間から身体が重かった。
肩も凝る。
腰も痛い。
眠ったはずなのに、疲れが抜けていない。
それがなくなった。
風邪もひかない。
二日酔いすら軽い。
健康診断では、去年よりほとんどの数字が良くなっていた。
医者が結果を見ながら首を傾げた。
「何か生活習慣を変えました?」
俺は考えた。
同居人が増えた。
人間かどうかは分からない。
顔はものすごく綺麗だった。
料理はできない。
時々、どこかへ消える。
子どもが何人いるのかは教えてくれない。
「……特には」
そう答えた。
ただ。
医者には言わなかったことがある。
夜も、妙に元気になった。
最初に気づいた時は、偶然だと思った。
一度で終わると思っていたのに、しばらくすると何事もなかったように身体が戻る。
二度。
三度。
それでも翌朝、ほとんど疲れていない。
日が経つにつれ、それはさらに顕著になった。
ある夜、俺はさすがに紗央里を見た。
「……なあ」
「なあに?」
「これ、お前だろ」
「何が?」
「俺の身体」
紗央里が首を傾げる。
「元気でしょ?」
「元気すぎるんだよ」
「いいことだよ」
「限度があるだろ」
紗央里は笑った。
「前より良かったでしょ?」
その言い方に、俺は黙った。
覚えている。
逢魔が時。
まだ顔も名前も知らなかった頃。
耳元で、同じことを言われた。
「……あの頃からか?」
「何が?」
「いや、もういい」
たぶん聞いても、まともな答えは返ってこない。
それからしばらくして。
休日の朝。
鏡の前で歯を磨きながら、ふと思った。
顔色がいい。
肌の調子もいい。
腹も出ていない。
最近、階段を上がっても息が切れなくなった。
試しに昔の写真を引っ張り出した。
高校時代。
大学時代。
二十歳そこそこの頃。
見比べる。
「……待て」
今の方が元気じゃないか。
見た目が若返ったわけではない。
だが、身体の調子だけを比べれば、十代の頃より明らかにいい。
疲れない。
寝れば回復する。
食えば動ける。
夜も――。
俺は写真を置いた。
「紗央里」
「なあに?」
寝室から声がした。
「ちょっと来い」
「いま眠い」
「いいから」
しばらくして、紗央里が髪を乱したまま出てきた。
相変わらず、とんでもなく美人だった。
「何?」
「俺の身体、いじった?」
「うん?」
否定しない。
「何した」
「元気になったでしょ?」
「だから何したんだよ」
紗央里は少し考えた。
本当に、何を問題にされているのか分かっていない顔だった。
「長く元気でいた方がいいでしょ?」
「……誰にとって?」
「みんな」
嫌な答えだった。
「みんなって誰だよ」
紗央里は笑う。
答えない。
俺は頭を抱えた。
だが。
困ったことに、実害がない。
仕事は順調。
金にも困らない。
体調はいい。
以前より眠れる。
食事もうまい。
家に帰れば紗央里がいる。
何かあれば話を聞く。
たまに会話が通じない。
たまにものすごく怖い。
だが、生活そのものは以前よりずっと楽だった。
ある日、会社で同僚に言われた。
「お前、最近若返った?」
「そんな歳じゃねえよ」
「いや、そういう意味じゃなくて。妙に元気じゃん」
「まあな」
「彼女でもできた?」
俺は少し考えた。
彼女。
違う気がする。
妻。
それも違う。
怪異。
たぶん一番正しい。
でも家に帰れば「おかえり」と言うし、休日には隣で寝ている。
子どもまでいる。
「……まあ、そんなもん」
そう答えた。
その夜。
紗央里が隣で寝ていた。
俺は天井を見ながら言った。
「なあ」
「んー?」
「俺、十代の頃より元気なんだけど」
「よかったね」
「よくねえよ」
「なんで?」
「普通じゃないだろ」
紗央里がこちらを向いた。
「普通がいいの?」
即答できなかった。
仕事がうまくいかない。
疲れる。
風邪をひく。
身体が痛い。
そういう普通へ戻りたいかと言われれば。
「……いや」
「じゃあ、いいじゃん」
「そういう問題か?」
「そういう問題だよ」
紗央里は満足そうに笑った。
そして、少し間を置いて。
「長生きしてね」
その声だけは妙に優しかった。
俺は横目で見る。
「何年くらい?」
「いっぱい」
「具体的に」
「いっぱい」
またそれだ。
「子ども、何人作る気だよ」
紗央里は目を細めた。
「名 前、いっぱい考えられるね」
俺は布団を頭までかぶった。
隣で、紗央里が楽しそうに笑っていた。
翌朝。
目覚ましより先に目が覚めた。
身体は軽かった。
今日も、妙に元気だった。
そして、その日の仕事帰り。
駅前の宝飾店の前で、俺は足を止めた。
別に、何か記念日というわけではない。
紗央里の誕生日は知らない。
そもそも誕生日があるのかも知らない。
付き合い始めた日もない。
出会った日なら覚えている。
逢魔が時に、一人でしていたら耳元で、
「……勿体ない」
と言われた日だ。
記念日にするには、あまりにも嫌だった。
ショーケースの向こうに、指輪が並んでいる。
俺は数分眺めてから、店に入った。
「いらっしゃいませ」
すぐに店員が来た。
「指輪をお探しでしょうか?」
「……はい」
「婚約指輪ですか?」
俺は黙った。
婚約。
していない。
交際。
たぶん、していない。
告白。
した覚えがない。
一緒に暮らしている。
子どもがいる。
何人いるかは知らない。
身体は十代の頃より元気だ。
そして、その原因であろう女は、家でドラマを見ながら俺の帰りを待っている。
「……まあ、そんな感じです」
店員は何も聞かなかった。
接客のプロだった。
結局、派手すぎないものを選んだ。
紗央里なら何でも喜びそうな気はする。
だが、毎日つけるなら邪魔にならない方がいい。
会計を済ませ、小さな紙袋を持って店を出た。
歩きながら、急に恥ずかしくなった。
何をしているんだ、俺は。
怪異に指輪を買った。
字面だけなら、相当おかしい。
でも。
捨てて帰ろうとは思わなかった。
「ただいま」
「おかえり」
いつもの声が返ってきた。
紗央里はソファに座っていた。
菓子の袋を抱えて、テレビを見ている。
「今日ね、この人が浮気して――」
「紗央里」
「なあに?」
「ちょっと来い」
「いまいいところ」
「いいから」
紗央里は不満そうにテレビを一時停止した。
「なに?」
俺の前まで来る。
相変わらず綺麗な顔だった。
最初の頃、どうしてこれが見えなかったのか、今でもよく分からない。
「手」
「ん?」
「左」
素直に出してきた。
俺は紙袋から箱を取り出した。
その瞬間。
紗央里の動きが止まった。
「……なに、それ」
「見れば分かるだろ」
「分かるけど」
「じゃあ聞くな」
箱を開ける。
指輪を取り出した。
紗央里は黙っている。
珍しい。
本当に珍しい。
こいつがこんなに静かなのは、初めてかもしれない。
左手の薬指に指輪を通した。
少しだけ心配だったが、サイズは合った。
「ほら」
紗央里は自分の手を見た。
指輪を見る。
角度を変える。
また見る。
「……わたしの?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
返事がない。
「気に入らなかったか?」
紗央里が首を振った。
その目から、一滴落ちた。
「お前、泣くの?」
「泣くよ」
「そういうのもあるんだな」
「あるよ」
また一滴。
俺は少し困った。
泣かせるつもりではなかった。
「いや、そんな大したもんじゃ――」
「大したものだよ」
食い気味に言われた。
「そ、そうか」
紗央里は何度も指輪を見る。
それから俺を見た。
「じゃあ」
「何だよ」
「夫?」
俺は黙った。
そうなるのだろうか。
婚姻届なんて出せるわけがない。
戸籍があるのかも分からない。
住所を聞けば「あっち」と答える女だ。
だが。
子どもがいる。
一緒に暮らしている。
毎朝顔を合わせる。
俺が帰れば「おかえり」と言う。
たまに勝手に身体を元気にする。
「……まあ」
俺は頭を掻いた。
「そうなるんじゃないか」
紗央里が笑った。
泣きながら。
「夫」
「何だよ」
「夫」
「何回言うんだよ」
「夫」
「うるさい」
嬉しそうだった。
ものすごく。
しばらくして、紗央里はまたソファに座った。
テレビを見る気は完全になくなったらしい。
ずっと左手を眺めている。
俺は上着を脱いだ。
冷蔵庫を開ける。
ビールを一本出す。
そのまま飲もうとして。
ふと思った。
指輪を買った。
夫になった。
なのに。
俺たちは、まともなことをほとんどしていない。
子どもを作った。
同居した。
指輪を渡した。
順番が全部おかしい。
「紗央里」
「なあに、夫」
「それやめろ」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「夫なのに?」
「そうだけど」
俺はビールを一口飲んだ。
「明日」
「うん?」
「デートな」
紗央里が止まった。
さっき指輪を見た時と同じ顔だった。
「……でーと?」
「そう」
「あなたと?」
「他に誰がいるんだよ」
紗央里は立ち上がった。
「どこ?」
「まだ決めてない」
「何時?」
「十時くらい」
「服は?」
「好きなの着ればいいだろ」
「ご飯は?」
「外で食う」
「お弁当は?」
「いらない」
「何するの?」
「だからまだ決めてないって」
「映画?」
「それでもいい」
「水族館?」
「行きたきゃな」
「遊園地?」
「一日で全部行く気か」
紗央里は少し考えた。
「行けるよ?」
「俺が無理だ」
「元気にする?」
「そういう問題じゃない」
紗央里が笑った。
俺はビールを持ったままソファへ座った。
紗央里も隣に座る。
やたら近い。
「なあ」
「なあに?」
「そんなに嬉しいのか?」
「うん」
「指輪より?」
紗央里は少し考えた。
「どっちも」
「そうか」
「でも」
俺を見る。
「デート、初めてだから」
そこで気づいた。
確かに。
俺たちは一度もデートをしていない。
というか。
俺から紗央里をどこかへ誘ったこと自体、一度もなかった。
紗央里が俺の肩にもたれた。
左手を目の前に持ち上げる。
指輪が照明を反射した。
「明日、十時?」
「ああ」
「どこで待ち合わせ?」
「待ち合わせる必要ないだろ。一緒に住んでるんだから」
「あ」
少し考えて。
「ほんとだ」
「お前な」
「じゃあ、一緒に出る」
「そうしろ」
「手、つなぐ?」
「好きにしろ」
「夫婦だから?」
「……好きにしろって」
また笑う。
その夜。
寝る直前まで、紗央里は服を選んでいた。
どこから持ってきたのか分からない服が、ベッドの上に何着も並んでいる。
「これ?」
「いいんじゃないか」
「こっちは?」
「さっきの方がいい」
「これは?」
「それ寒くないか?」
「平気」
「俺が気になる」
「じゃあやめる」
妙に素直だった。
やがて電気を消した。
隣に紗央里が入ってくる。
少しして。
「ねえ」
「何だよ」
「明日、楽しみ」
「そうか」
「うん」
沈黙。
そのまま寝るのかと思ったら、
「ねえ」
「今度は何だ」
「次の子の名 前――」
「明日はデートだけ考えろ」
「はーい」
返事だけはいい。
暗闇の中。
左手の薬指に触れる気配がした。
紗央里が、指輪を確かめているらしい。
しばらくして、耳元で小さな声がした。
「ありがと」
最初に耳元で声を聞いた時は、あんなに怖かったのに。
今はもう、目を開けもしなかった。
「……おう」
「おやすみ、夫」
「それやめろって」
「おやすみ」
「おやすみ、紗央里」
少しだけ間があった。
隣で、紗央里が嬉しそうに笑った。
ホラーの続きだったはずなんです。
たぶん。
気づいたら、怪異に指輪を買って、デートの約束までしていました。
……まあ、幸せそうなのでいいでしょう。
七回のことは、考えないことにします。
というか、今となっては毎晩何度もしているので。
もう、どうにでもなるんでしょう。
紗央里も答える気がなさそうですし。




