第八話 未来を変える者
夏が来た。
未来局が発足して、一年が経った。
書庫の隣の小さな部屋だった局は、今では廊下を挟んだ向かいの部屋も使うようになっていた。棚が増え、帳面が増え、地図が増えた。
局員も増えた。
ユズが育てた観測員が、今では国内十二か所に配置されていた。毎月、各地の気温、雨量、川の水位、作物の状態が報告として届く。
ゴウが各地の農村を回り、現場の情報を集める。土の状態、農民の経験則、地域ごとの作物の特性。それらが記録になって積み重なっていく。
花霞は記録の整理だけでなく、新しい観測員への指導も担うようになっていた。
私は毎月、それらを束ねて分析する。
仕組みが、少しずつ形になっていた。
「局長」
朝、ゴウが部屋に入ってきた。
ゴウはいつも「ミコト」ではなく「局長」と呼ぶ。
「局長と呼ばなくていいです」
「役職で呼ぶほうが、わかりやすい」
この議論は何度かしたが、ゴウは変えなかった。
「何ですか」
「西部からの報告が来た」
彼は帳面を差し出した。
私は受け取って読んだ。
西部、山間の村からの報告。作物の育ちが例年より遅い。気温は平年並みだが、日照が少ない。
「雲が多いのですか」
「西の山に、霧が出やすくなっているらしい。農民の話では、十年に一度くらいある現象だと」
「記録に残っていますか」
「探してみる」
「お願いします。過去に同じことが起きたとき、作物がどうなったかを見たい」
ゴウは頷いて、書庫に向かった。
こういう動き方が、今では自然になっていた。問題が来る。確認すべきことが分かれる。それぞれが動く。報告が集まる。判断する。
一年前は一人でやっていたことが、今は分散している。
精度が上がっていた。
その日の午後、王からの呼び出しがあった。
政務室に入ると、王と風車レンの他に、見知らぬ官吏が数人いた。
「ミコト、座れ」
王の口調は、いつもより少し改まっていた。
「本日は、未来局の今後について話し合いたい」
私は座った。
「一年が経った。天候の予測、農作の管理、疫病の抑制。いずれも成果が出ている」
「ありがとうございます」
「ただ」
王は少し間を置いた。
「一つ、聞きたいことがある」
「はい」
「お前のやっていることは、未来を当てることか。それとも何か別のことか」
私は少し驚いた。
政治的な話を予想していた。予算のこと、組織のこと、神殿との関係のこと。
でも王が聞いたのは、本質的な問いだった。
私は少し考えてから、答えた。
「未来を当てることでは、ありません」
「では何だ」
「未来を変えることです」
王は黙っていた。
官吏たちが顔を見合わせた。
私は続けた。
「凶作の予測をして、作付けを変えれば、その凶作は小さくなります。疫病の予測をして、手洗いと井戸の清掃をすれば、感染は広がりにくくなります」
「予測が当たったのではないということか」
「当たったのではなく、最悪の未来を防いだのです」
「違いがあるのか」
「大きな違いがあります」
私は言葉を選んだ。
「未来を当てるだけなら、見ているだけでいい。でも未来を変えるには、動かなければならない。そして動けば、予測した通りの未来は来なくなります」
王はしばらく黙っていた。
「つまり」
「はい」
「お前の予測が外れたとすれば」
「対策が効いたからです。それは外れたのではなく、成功したのです」
王は少し目を細めた。
「面白い論理だ」
「事実です」
「では逆に聞く。対策をして、それでも予測通りの被害が出たとすれば」
「対策が不十分だったか、予測が甘かったかです。どちらも改善できます」
「改善できると言い切れるか」
「百パーセントとは言えません。ただ、今より良くすることはできます。記録が増えれば精度が上がります。対策の経験が積めば、次はもっとうまくやれます」
王はしばらく私を見ていた。
「一つ、提案がある」
王が言った。
「未来局の活動を、正式に国の制度として定めたい」
私は静かに聞いていた。
「天候の観測、農作の計画、疫病の監視、物資の流通確認。これらを未来局の正式な業務として定め、予算と人員を安定させる」
「ありがとうございます」
「ただし」
王は続けた。
「神殿との関係は、慎重に扱わなければならない。未来局が神殿と正面から対立すれば、国の秩序が乱れる」
「はい」
「神殿の役割は残す。神託は続ける。その上で、未来局が補完する形にしたい」
私は少し考えた。
「それは、私も望むところです」
「望む?」
「未来局は、神殿の代わりになろうとしていません。神殿にできないことを、やっているだけです」
「共存できると思うか」
「月読様が追い出さないでいてくれる限りは」
王はそれを聞いて、かすかに笑った。
「正直だな」
「他に言いようがありません」
政務室を出ると、廊下で風車レンが待っていた。
「聞いていたか」
「いた」
二人で廊下を歩いた。
「制度として定まるな」
「はい」
「それは、大きな話だ」
「わかっています」
風車レンは少しの間、黙って歩いた。
「お前は変わったな」
「そうですか」
「最初に書庫で会ったとき、お前は一人で台帳を読んでいた」
「はい」
「今は、十二か所から報告が来る」
「おかげさまで」
「おかげさまで、か」
彼は少し笑った。
「素直に自分の成果と言えばいいのに」
「一人ではできなかったのは事実です」
「俺も含めているか」
「もちろん」
風車レンは少し黙った。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
私も言わなかった。
廊下の窓から、夏の空が見えた。
雲が少なく、よく晴れていた。
局に戻ると、花霞が何かを書いていた。
「おかえり。何だった?」
「未来局を正式な制度にするという話でした」
花霞が顔を上げた。
「え、本当に?」
「はい」
花霞はしばらくぽかんとしていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「すごいじゃない、ミコト」
「皆さんのおかげです」
「また言う。素直に喜べばいいのに」
「花霞さんにも風車さんにも同じことを言われました」
「でしょ」
花霞は書いていた紙を置いた。
「ねえ、ミコト。一つ聞いていい?」
「何ですか」
「最初から、こうなるって思ってた?」
私は少し考えた。
「思っていませんでした」
「じゃあ、どこまで考えてた?」
「一歩先だけです。いつも」
「一歩先?」
「今日できることをやれば、明日が少し変わる。明日が変われば、来月が変わる。来月が変われば、来年が変わる。そうやって積み重なってきただけです」
花霞はしばらく考えていた。
「それって、統計みたいだね」
「どういう意味ですか」
「一個一個のデータは小さくて意味がなさそうでも、積み重なると見えてくるものがある。ミコトの話聞いてたら、そう思って」
私は少し驚いた。
「花霞さん、わかっていますね」
「最近わかってきた。だってずっと隣で見てたから」
花霞は照れたような顔をして、また書き物を再開した。
夜、局に一人残って、私は報告書を読んでいた。
十二か所からの観測記録。
ゴウの農村報告。
ユズが取りまとめた天候データ。
一つ一つは、小さな数字だ。
でも並べると、見えてくる。
今年の秋は、平年並みの収量になりそうだった。
疫病のリスクは、今のところ低い。
西部の日照不足は、作物への影響が一部の村に出そうだが、局所的で済みそうだった。
悪くない。
前世の感覚で言えば、これは安定しているデータだった。
でも油断はできない。
安定しているように見えるとき、見えていないリスクが積み上がっていることがある。
私は新しい帳面を開いた。
これまでに予測して、対策を取ったこと。その結果。
凶作の予測と作付けの変更。結果、被害が局所化した。
戦の予測と物資の備蓄。結果、講和まで兵糧が持ちこたえた。
疫病の予測と水質対策。結果、感染の拡大が抑えられた。
三つの事例。
三つとも、予測が当たった。
いや、違う。
三つとも、最悪の未来を変えた。
当たった、という表現は正確ではない。
それを花霞に話したら「統計みたい」と言った。
そうかもしれない。
一つ一つの予測は、確率だ。
百パーセントではない。
でも積み重なれば、傾向になる。
傾向が見えれば、動ける。
動けば、変えられる。
扉が開いた。
風車レンだった。
「また来ましたか」
「通りがかりだ」
「書庫は廊下の反対側です」
「黙れ」
彼は部屋に入ってきて、椅子を引いた。
「今日も遅いな」
「もう少しで終わります」
「何を書いている」
「これまでの記録のまとめです。制度として定まるなら、きちんと残しておかなければならない」
「誰かに引き継ぐ気か」
「私がいなくなっても、続く仕組みにしたいです」
風車レンは少し黙った。
「いなくなる、というのは」
「いつか、そういうことになるかもしれない。私が倒れることも、追い出されることも、ゼロではない」
「縁起でもない」
「確率の話です」
「確率でも縁起が悪い」
私は少し笑った。
「でも、仕組みが人に依存している間は、本当の意味で安定していません。私がいなくても回るようになれば、未来局は本物の組織になります」
風車レンはしばらく考えていた。
「それはそうだが」
「何ですか」
「お前がいなくなることを、あまり当然のように話すな」
「そうですか?」
「そうだ」
彼は腕を組んだ。
「仕組みを残すのは正しい。でもお前がいる前提で考えることも、正しい」
「両方考えればいいということですか」
「そうだ」
私は帳面に目を落とした。
「……わかりました」
「本当にわかったか」
「六十パーセントくらい」
風車レンは少し呆れたような顔をした。
「確率で答えるな」
「癖が出ました」
「直せ」
「努力します」
彼は立ち上がった。
「今夜中に終わるか」
「終わります」
「明日、一つ頼みたいことがある」
「何ですか」
「制度として定まるにあたって、王から俺に一つ話が来た。未来局の警護を、正式に俺の部隊が担うことになる」
私は顔を上げた。
「それは、必要ですか」
「王が必要と判断した」
「未来局が、そこまで大きくなったということですか」
「大きくなれば、邪魔をしたい人間も増える。それだけのことだ」
私はしばらく考えた。
「わかりました。よろしくお願いします」
「ついでに言う」
「何ですか」
「俺個人としても、お前の護衛は続ける」
「個人として、というのは」
「王命とは別に、だ」
私は何も言えなかった。
風車レンは扉の方へ歩いた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
扉が閉まった。
一人になった部屋で、私は帳面を見つめていた。
王命とは別に。
その言葉の意味を、数字に換算することはできなかった。
私は少し困った。
数字に換算できないことは、どう処理すればいいのか。
前世のデータ分析の仕事では、数値化できないものは「定性データ」として扱っていた。感情、印象、傾向。数字にはならないが、無視もできない情報。
そういうことにしておこう。
私は帳面を閉じた。
蝋燭の火を見た。
今日は随分、いろんなことがあった。
制度として定まる話。
仕組みを残す話。
護衛の話。
王命とは別に、という話。
数字で考えれば、一年間で局は確実に前進していた。
でも今夜は、数字で考えたくなかった。
ただ、ここにある。
小さな部屋に、増えた棚と帳面と地図。
十二か所から届く記録。
花霞の几帳面な字。
ゴウの土の匂いがしそうな報告書。
ユズの丁寧な観測データ。
一年前、一人で台帳を読んでいた。
今は違う。
私は立ち上がって、窓を開けた。
夜風が入ってきた。
星が出ていた。
星の動きも、記録してある。
季節の予測に使える。
でも今夜は、ただ見ていた。
記録しない夜も、あっていい。
花霞がそう言いそうだと思った。
私は少しだけ笑って、窓を閉めた。
明日も、やることがある。
でも今夜は、ここで終わりにしよう。
秋になった。
西部の日照不足の影響は、局所的な収量減で留まった。事前に作付けを調整していた村では、ほぼ平年並みの収量が確保できた。
王への報告書を提出した日、風車レンが廊下で待っていた。
「どうだった」
「無事に提出できました」
「王の顔色は」
「良かったと思います」
「それはよかった」
二人で歩いた。
「なあ、ミコト」
「何ですか」
「未来局が制度として定まれば、お前は何をしたい」
私は少し考えた。
「今と同じことです」
「変わらないのか」
「やりたいことは変わりません。記録を集めて、パターンを読んで、次の最悪の未来を防ぐ」
「局長という立場が変わっても」
「私がやるべきことは変わりません」
風車レンは少し考えた。
「……欲がないな」
「欲の方向が違うだけです」
「どういう意味だ」
「出世したいとか、有名になりたいとか、そういう欲は薄い。ただ、精度の高い予測がしたい、より多くの民を助けたい、その欲は人並みより強いと思います」
風車レンはそれを聞いて、また少し笑った。
「正直だな、本当に」
「正直でなければ、数字が読めません」
「数字の話にするな」
「癖が出ました」
「何度目だ」
「数えていません」
風車レンは笑った。
今日ははっきりと、声を出して笑った。
珍しかった。
私も少しだけ笑った。
その夜、局の小さな部屋で、私は新しい帳面を開いた。
表紙に書く。
未来局 制度整備記録 第一号
ここから、また始まる。
仕組みを作ること。
仕組みを残すこと。
私がいなくても続くものを作ること。
それが、今の私のやるべきことだった。
未来を当てることではない。
未来を変えることだ。
そして変えた未来が、また次の記録になる。
記録が積み重なれば、また次の予測ができる。
その繰り返しが、続いていく。
私は蝋燭を引き寄せた。
書き始めた。
夜が、また始まった。




