第七話 疫病の未来(後編)
三日かけて、報告書をまとめた。
過去の疫病記録を読むと、いくつかのパターンが見えた。
凶作の翌年に流行が多い。これは栄養不足による免疫低下が原因だと推測できる。
川沿いの村で流行が広がりやすい。水質汚染の経路と一致する。
人口が密集した場所から広がる。感染経路として最も広がりやすい。
今の状況は、この三条件に近かった。
去年の戦後、農村の栄養状態は改善しきれていない。川の水質は上流から汚染が来ている。南部の村には戦後の移住者が増えていた。
確率は、六十パーセントから七十パーセントに上方修正する必要があった。
私は数字を見つめた。
七十パーセント。
来年の春から夏にかけて、来る可能性のほうが高い。
報告書を持って、王への謁見を申し込んだ。
二日後、政務室に通された。
王は報告書を読んだ。
風車レンも同席していた。
「疫病の可能性が七十パーセント」
王は顔を上げた。
「根拠は」
「南部の水質調査の結果と、過去の疫病記録の照合です」
私は説明した。川の汚染経路、過去のパターン、現在の農村の栄養状態。
王は黙って聞いていた。
「対策は」
「四つあります」
私は紙を広げた。
「一つ、井戸の掘り直しと清掃。特に南部の古い井戸は、深さが不足しているものがあります」
「二つ、手洗いの習慣化。食事の前と、川から戻った後に、必ず手を洗う」
「三つ、下水の整備。廃水を川に直接流さないための穴を、各村に掘る」
「四つ、栄養状態の改善。凶作の影響が残っている村への食料支援を継続する」
王は順番に聞きながら、書記に書き留めさせた。
「費用は」
「見積もりをまとめました」
次の紙を渡した。
王は数字を見た。
「大きくはないな」
「疫病が流行した後の対応より、はるかに安くすみます」
「もっともだ」
王は書記を見た。
「南部担当の官吏を呼べ。ミコトの報告書を元に、対策を進める」
「はい」
王が私を見た。
「よくやった」
「ありがとうございます」
「疫病が来なければ、それでいい」
「来なければ、対策が無駄だったと言う人が出るかもしれません」
王は少し目を細めた。
「構わない。来なければ成功だ」
「……そのようにお考えいただけると、助かります」
局に戻ると、ゴウが来ていた。
報告書を渡すと、ゴウは座って読んだ。読み終わってから言った。
「南部の村に、また行きますか」
「対策の進み具合を確認する必要があります。二ヶ月後に、もう一度回るつもりです」
「俺も行きます」
「農政担当の仕事が」
「一緒に確認できる。農村の状況と、水の状況は繋がっています」
私は少し考えた。
「お願いします」
「あと」
ゴウは少し間を置いた。
「手洗い、か」
「はい」
「それは、どこの村でも教えたほうがいいな」
「そう思います」
「南部だけじゃなく」
「できれば、全国で習慣にしたいです。ただ、すぐには難しい」
「少しずつやればいい」
ゴウは立ち上がった。
「来週、俺の担当している中部の村に行く。そこでも話してくる」
「ありがとうございます」
「仕事ですから」
彼はそれだけ言って、出て行った。
その日の夜、私は一人で机に向かっていた。
蝋燭の火が揺れていた。
窓の外に、月が出ていた。
丸い月。
雲がなく、よく見えた。
月を見ながら、私は考えていた。
来年の春が来る。
疫病が来るかもしれない。
でも今、できることをしている。
七十パーセントを六十パーセントに下げられれば、それで十分だ。
六十パーセントを五十パーセントに下げられれば、もっといい。
ゼロにはできない。
でも、下げることはできる。
それが私のやっていることの意味だ。
未来を当てることではなく。
未来を変えること。
扉が開いた。
「まだいたのか」
風車レンだった。
「はい」
「今日こそ早く寝ろ。八日間、ほとんど動きっぱなしだった」
「あと少しだけ」
「何を考えている」
「来年の春のことです」
風車レンは部屋に入ってきた。椅子を引いて、私の向かいに座った。
「疫病が来ると思うか」
「七十パーセントで来ます」
「来たとして、対策が効くと思うか」
「効果が出るのに時間がかかります。今始めたことが実を結ぶのは、三ヶ月から半年後です」
「間に合うか」
「ギリギリだと思います」
風車レンはしばらく黙っていた。
「お前は」と彼は言った。「怖くないのか」
「怖いですよ」
「そうは見えない」
「見せていません」
「また、か」
私は月を見た。
「怖いからこそ、動いています。怖いと感じながら何もしないのが、一番怖い」
風車レンは少しの間、私を見ていた。
「……お前は」
「何ですか」
「不思議な人間だ」
「そうですか」
「霊力がなくて、神託も出なくて、それでも神殿で生き残って、局まで作った」
「生き残れたのは、助けてくれた人がいたからです」
「それを素直に言えるのも、不思議だ」
「事実ですから」
風車レンは少し笑った。
「早く寝ろ」
「はい」
「本当に寝るか」
「……あと一時間だけ」
「一時間後に確認に来る」
「来なくていいです」
「来る」
彼は立ち上がって、扉の方へ歩いた。
扉の前で一度立ち止まった。
「ミコト」
「何ですか」
「対策が効いたとして、疫病が来なかったとして」
「はい」
「それはお前のおかげだ。来なかったことは記録に残らないが、俺は覚えている」
私は少し驚いた。
何か言おうとしたが、言葉が出てくる前に扉が閉まった。
一人になった部屋で、私は蝋燭の火を見た。
来なかったことは、記録に残らない。
それは本当のことだった。
防げた飢饉は、飢饉として記録されない。
防げた戦の被害は、被害として残らない。
防げた疫病は、疫病の記録にならない。
だから誰にも見えない。
評価もされない。
それでいい、と思っていた。
でも今夜は少しだけ、見えない場所でも誰かが覚えていてくれるということが、悪くないと感じた。
私は帳面を閉じた。
今夜は、これで終わりにしよう。
また明日。
数字は、明日も待っていてくれる。
翌年、春。
最初の予測は六十パーセントだった。調査データを加えた結果、
七十パーセントまで上がった。
南部の村々で、軽い発熱と腹痛を訴える患者が出た。
しかし広がらなかった。
隣村への感染が、例年より明らかに少なかった。
ゴウが現場から報告を送ってきた。
「井戸の清掃を済ませた村では、患者が出ていない」
ユズからも報告が来た。
「手洗いを徹底した村の子どもたちは、熱が出ていない」
私は数字を集めた。
感染者数。
対策を取った村と取っていない村の比較。
回復した患者の数。
七十パーセントの予測は、当たった。
しかし被害は、過去の疫病流行と比べて明らかに小さかった。
報告書を王に提出した日、政務室に常盤が来た。
珍しいことだった。
彼は私を一瞥して、王に向かって言った。
「疫病が収まりましたな」
「ああ」
「未来局の対策が、効いたと」
「そう報告が来ている」
常盤はしばらく黙っていた。
それから、私の方を向いた。
「……今回は、認めよう」
私は少し驚いた。
「ありがとうございます」
「認めただけだ。神殿の立場が変わったわけではない」
「わかっています」
常盤はそれ以上何も言わず、政務室を出て行った。
王が小さく笑った。
「あれは、常盤なりの謝罪だ」
「そうなのですか」
「あの男は、頑固だが嘘はつかない。認めたということは、本当に認めたということだ」
私は頷いた。
局に戻ると、花霞とゴウとユズが待っていた。
ユズは南部の調査から戻ってきたばかりだった。旅慣れた顔をしていた。最初に会ったときより、少し大人びた顔をしていた。
「疫病、小さくて済みましたね」
ユズが言った。
「はい。皆さんのおかげです」
「私は記録をつけただけです」
「その記録があったから、動けました」
ユズは少し照れたような顔をした。
花霞が言った。
「ねえ、ミコト。今回、みんなで頑張ったじゃない」
「そうですね」
「だから今夜くらい、ゆっくりしようよ」
「やることが——」
「一日くらい、いいじゃない」
私は少し考えた。
帳面を机に置いた。
「……一日だけ」
花霞が顔を輝かせた。
「やった。じゃあ今夜、鍋にしよう。ゴウさん、野菜持ってきてくれる?」
「持ってくる」
「ユズちゃんは?」
「ワタシは魚が」
「じゃあ魚ね。ミコトは?」
「私は何も」
「じゃあミコトは薪割り」
「薪割りはできます」
鍋の話になると、急に賑やかになった。
私は薪割りをしながら、局の小さな部屋の前に立っていた。
夕暮れの空が、橙色に染まっていた。
雲の形を、無意識に確認した。
明日は晴れそうだ。
でも今夜は、数字はいい。
今夜は、ただここにいよう。




