第七話 疫病の未来(前編)
南部への道は、思ったより険しかった。
神殿のある中央部から南に向かうにつれ、道が細くなった。舗装された街道が途切れ、土の踏み固められた道になり、やがて山道に変わった。
風車レンは慣れた足取りで歩いた。
私は地図と帳面を抱えながら、なんとかついていった。
「荷物を持つ」
三時間ほど歩いたところで、風車レンが言った。
「大丈夫です」
「顔色が悪い」
「山道に慣れていないだけです」
「だから荷物を持つと言っている」
私は少し考えてから、帳面だけを渡した。地図は手放したくなかった。
「全部渡せ」
「地図は必要です」
「俺が地図を読む」
「私も読めます」
「お前が読まなくていい」
押し問答になりそうだったので、地図も渡した。
その後、歩くのが少し楽になった。
それは認めた。
最初の村に着いたのは、夕方だった。
川沿いの小さな村。家が二十軒ほど。田んぼと畑が川に沿って広がっている。
村長に挨拶して、まず川を見に行った。
川の色は、普通だった。
しかし川岸に近づいて、水を掬ってみると、わずかに濁りがあった。
「上流から何か流れ込んでいますか」
村長の老人に聞いた。
「そういえば、最近少し匂うことがある」
「いつ頃から」
「夏の終わりから、かな」
私は帳面に書いた。
次に井戸を見た。村の中心に一つ。水を引き上げて確認する。こちらは問題なかった。
「この村の人は、主に井戸の水を使いますか、川の水を使いますか」
「飲み水は井戸。農業用と洗い物は川」
「わかりました」
私は帳面に書き続けた。
川の水で洗い物をして、その手で食事を準備する。
川の水が傷んでいれば、そこから感染が広がる可能性がある。
リスクは、ある。
村に一泊した。
夜、村長の家で囲炉裏を囲みながら、村人の話を聞いた。
風車レンは無口だったが、村人たちが話しかけると短く答えた。その受け答えが、不思議と場を和ませた。威圧感がないわけではないのに、怖がられない。
「武官様は、神殿のお方と一緒に来られるとは珍しい」
村の男が言った。
「護衛です」と風車レンは言った。
「局長様は、大切なお方なんですね」
「大切かどうかは知らない。必要な人間だ」
私は囲炉裏の火を見ながら、その言葉を聞いていた。
必要な人間。
褒め言葉なのかどうか、わからなかった。
でも悪い気はしなかった。
南部を回り始めて、三日目の夕暮れだった。
川沿いの村をいくつか見てきたが、どこも似た傾向を示していた。
井戸の水を使っている村は被害が少なく、川水に頼る村ほど初期症状が多い。
そのあと、私たちは少し山側に入った小さな集落に立ち寄った。地図には名前すら載っていない、十軒ほどの集まりだった。
「この集落は、予定に入っていたか」
風車レンが聞いた。
「入っていません。ただ、川の上流に近いので確認しておきたくて」
集落に入ると、すぐに子どもたちが駆け寄ってきた。
その中に、見覚えのある顔があった。
丸い目。小柄な体。砂のついた足。
確か、ユズの村で粟束を抱えて走っていた子だった。あの秋、飢えを免れた村の子だ。
「巫女様!」
少女が私に向かって走ってきた。七つか八つくらいだった。
「ミヨだ。覚えてる? ユズ姉ちゃんの村にいた」
「覚えています」
私は膝をついて、目線を合わせた。ミヨは元気そうだった。でも頬が、前よりも少し薄かった。
「ここに引っ越したのですか」
「うん。お父さんが戦でいなくなって、お母さんとここに来た」
私は頷いた。戦後の移住者だ。記録通りだった。
「お母さんは元気ですか」
「最近、少しお腹が痛いって言ってる」
私の手が、止まった。
帳面を開かずに、止まった。
腹痛。
川の水を使っている集落。下流への汚染が確認されている地域。
「お母さんに、会えますか」
ミヨの母親は、三十代の細い女性だった。
症状を聞いた。三日前から腹が緩い。熱はまだない。川の水で洗い物をしていると言った。
私は帳面に書いた。
水質汚染による初期症状の可能性。熱がない段階で発見できた。今すぐ井戸の水に切り替えれば、悪化を防げる確率は高い。
「今から、飲み水も洗い物も、川の水は使わないでください。井戸の水だけにする」
「でも、井戸は遠くて」
「わかります。でも今は、それが一番大切なことです」
女性は頷いた。
私は立ち上がった。
集落の責任者を呼んで、全員に同じ指示を出した。川の使い方。手の洗い方。廃水の処理方法。昨日も一昨日も繰り返してきた説明を、また繰り返した。
夕方、ミヨが集落の外れまで見送りに来た。
「ねえ、お母さん、大丈夫?」
「今日から気をつければ、大丈夫だと思います」
「思います、って、絶対じゃないの?」
ミヨは首をかしげた。
私は少し考えた。
「絶対とは言えません」
正直に言った。
「今の状態なら、早く対処できた。でも、体は個人差があります。どうなるかは、確率でしか言えない」
「確率って、なに」
「百人の人がいたとして、そのうち何人が助かるかを予測すること、です」
ミヨは考える顔をした。それから、真っ直ぐに私を見た。
「じゃあ、お母さんは百人のうちの何人?」
私は答えられなかった。
答えは出ていた。頭の中では。
早期発見、症状が軽い、熱がない。
助かる確率は、統計上、高い。
でもその数字は、ミヨには何の慰めにもならない。
「できる限りのことを、します」
それだけ言った。
「……うん」
ミヨは頷いた。
納得した顔ではなかった。でも、これ以上聞かなかった。
子どもは、大人が思うより、多くを察する。
私たちは集落を出た。
山道に入って、少し歩いたところで、風車レンが口を開いた。
「確率では、答えられなかったな」
「はい」
「珍しい」
「確率は、正直です。でも正直なだけでは足りないことがある、と今思いました」
風車レンは黙っていた。
「統計で物事を見ると、一人一人が見えにくくなります。百人の中の一人。パターンの中の一例。でも、ミヨにとってはその一人が、全部です」
風車レンはまだ何も言わなかった。
「今日の対策は、正しかったと思います。数字の上では。でもミヨの問いに、私は答えられなかった」
「答えられなくていい」
風車レンが言った。
「え」
「お前が答えられることと、答えられないことは、別物だ。全部答えようとする必要はない」
「でも」
「お前ができるのは、確率を動かすことだ。百人を助けようとすることだ。その一人を確実に助ける約束は、誰にもできない」
私は歩きながら、その言葉を聞いていた。
「それでいいのですか」
「いいとは言っていない」
風車レンは前を向いたまま言った。
「苦しいことだと言っている」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
山道に夕暮れが差して、木々の影が長く伸びた。
私は帳面を抱えながら歩いた。
ミヨの顔が、頭から離れなかった。
七十パーセントの確率で、来年の春に疫病が来る。
その対策をしている。
対策をすれば、死ぬ人の数は減る。
減る、という言葉は、ゼロになるという意味ではない。
それでも動く。
動かなければ、確実に増える。
わかっている。
論理としては、正しい。
でも。
その夜、宿にした農家の片隅で、私は一人、帳面を開いた。
今日の記録を書く。集落の名前。水質の状態。指導内容。住民の対応。
最後に、小さく書いた。
ミヨの母親の症状。早期発見。経過観察が必要。
その一行を書いて、筆が止まった。
経過観察が必要、とは、私がここを離れたら確認できないということだ。
別の誰かに頼むしかない。遠くからできることには、限りがある。
それでも動く。
それしかできないから。
蝋燭の火が、風もないのに揺れた。
私は帳面を閉じて、目を閉じた。
ミヨの問いが、また頭の中で繰り返された。
お母さんは、百人のうちの何人?
答えは、出ない。
数字にならないものが、世の中にはある。
それでも私は、明日また数字を集める。
集めた数字が、次の誰かの命に繋がると信じて。
それが、私にできる唯一のことだから。
その夜ばかりは、数字が慰めにならなかった。
翌日からも、村を次々と回った。
気になる傾向が出てきた。
上流から下流にかけて、川の水質が段階的に悪化していた。上流の村ではほぼ問題なし。中流から水の濁りが出始め、最下流の村では明らかに色が変わっていた。
「上流で何かが起きています」
四日目の夜、宿にした農家で、私は風車レンに言った。
「何だと思う」
「上流に新しい集落ができたか、あるいは古い集落が大きくなったか。人が増えれば、生活廃水が増えます」
「確認するか」
「明日、上流に向かいたいです。予定より一日増えますが」
「構わない」
風車レンはあっさり言った。
「ありがとうございます」
「礼はいい。で、もし上流に問題があった場合、どうする」
「川に直接流さない方法を教えます」
「それで解決するか」
「完全には解決しません。でも、下流への影響は減らせます」
「根本的な解決は」
「上下水道の整備ですが、それは長期の話です。今できることを、今やります」
風車レンは頷いた。
五日目、上流の村に向かった。
山を一つ越えた先に、その集落はあった。
予想通りだった。
去年の戦で故郷を失った人々が移り住み、小さな集落が新しくできていた。家々は急ごしらえのように並び、川岸の近くに炊事場と洗い場が集まっていた。
それを見た瞬間、原因ははっきりした。
集落の責任者らしき中年の男に話を聞いた。
「川を使っているのは知っていたが、下流に影響が出るとは思わなかった」
「悪意があったわけではないのはわかります。ただ、このままだと下流の村に病気が広がる可能性があります」
「どうすればいい」
「川岸から少し離れたところに、廃水を流す穴を掘ってください。川に直接流さないだけで、かなり違います」
「穴を掘るだけでいいのか」
「まずはそれで十分です。深さは……」
私は土の質を見ながら説明した。
男は真剣に聞いていた。
悪い人間ではなかった。
知らなかっただけだった。
知らなければ、防げない。
知っていれば、防げる。
それだけのことだった。
六日目、下流の村に戻った。
最も水質の悪かった村だ。
村人を集めて、話をした。
「川の水に、上流から汚れが流れ込んでいます。上流は対策をしてもらいましたが、しばらく時間がかかります。その間、川の水を飲み水や料理に使うのは控えてください」
「じゃあ何を使えばいい」
「井戸の水を使ってください。手洗いも、できれば井戸の水で」
「洗い物は」
「川でも構いません。ただし、洗い物をした後は必ず井戸の水で手を洗う」
「そんなに大げさな話か」
村の男が言った。懐疑的な顔をしていた。
「今すぐ病気になるわけではありません」
私は正直に言った。
「ただ、来年の春から夏にかけて、この地域で疫病が流行する可能性があります。その確率を下げるために、今から動いています」
「来年の話か。そんな先のこと、わからんだろう」
「確かにわかりません。六十パーセントの可能性、という意味です。必ず来るとも、来ないとも言えない」
「六十パーセントって」
「コインを投げて、表が出る確率よりは高いです」
男はしばらく考えた。
「……まあ、井戸の水を使うだけなら、損はないか」
「その通りです」
七日目の朝、中央へ向けて出発した。
帰り道は来た道と同じだったが、荷物の中身が違った。
各村の水質記録。住民の健康状態の記録。廃水処理の指導内容と、各村の対応状況。
帳面が一冊、増えていた。
山道を歩きながら、私は数字を整理していた。
リスクの高い村が三つ。中程度が四つ。低リスクが五つ。
対策を取れた村と、まだ説明が不十分な村。
次にやるべきことが、頭の中で並んでいく。
「ミコト」
風車レンが言った。
「何ですか」
「歩きながら考えるな。足元を見ろ」
私は足元を見た。石が多かった。
「すみません」
「考えるのは休憩の時にしろ」
「でも、頭の中で整理しておかないと——」
「転んで足を挫いたら、三日は動けなくなる。その三日のほうが損だ」
「……合理的ですね」
「当然だ」
私は足元を見ながら歩いた。
それでも頭の中では、数字が動き続けていたが、それは口には出さなかった。
神殿に戻ったのは、出発から八日後だった。
局の部屋を開けると、花霞が飛び出してきた。
「おかえり!遅かったじゃない、心配したよ」
「一日予定が延びました」
「何かあったの」
「上流の調査が必要になって」
「疫病は」
「リスクは確認できました。対策も始めました」
花霞は少しほっとした顔をした。
「過去の疫病記録、全部出しておいたよ。棚の三段目」
「ありがとうございます。助かります」
「ゴウさんも、南部の農村の報告をまとめてくれてる」
「ゴウさんも来ていましたか」
「毎日来てた。ミコトが帰ったら渡すって」
私は棚から記録を引き出した。
花霞がまとめてくれた過去の疫病記録。几帳面に年代順に並べられていた。
ゴウの農村報告。現場の状況が、簡潔だが的確な言葉で書かれていた。
この二つに、今回の調査結果を合わせれば、全体像が見えてくる。
私は机に座った。




