第六話 呪われた巫女
未来局が動き始めて、最初の月が過ぎた。
局といっても、最初は小さなものだった。
書庫の隣にある、使われていない小部屋を一つ割り当てられた。机が三つ。棚が四つ。窓が一つ。
それが未来局の全てだった。
局員は私を含めて四人。
花霞が記録整理と文書管理。
ユズが天候観測の取りまとめ。
そして新しく加わった鉄舟ゴウ、三十歳。元農民で、今は農政担当として農村からの報告を集める役を担っていた。
ゴウは大柄な男だった。日に焼けた顔に、ごつい手。言葉数が少なく、でも現場の知識は誰より深かった。
「土の色で、水分量がわかります」
最初の日、彼はそう言った。
「記録に残せますか」
「文字は書けます。数字は……少し苦手です」
「数字は私が読みます。土の色と状態を言葉で書いてください」
ゴウは頷いた。それ以来、毎週几帳面な報告書を送ってくるようになった。
問題は、外から来た。
未来局が正式に発足して二週間後。
神殿の常盤が神官会議に議題を提出した。
議題の名は「未来局の活動に関する神殿の見解」。
その内容が神殿内に広まった。
私のもとに持ってきたのは花霞だった。彼女は紙を両手で持ったまま、少し青い顔をしていた。
「ミコト、これ」
受け取って読んだ。
要点は三つ。
一つ。未来局の活動は、神託の権威を損なう。
二つ。白砂ミコトは霊力を持たない異端の巫女であり、神殿の名を冠する機関の長として不適切。
三つ。未来局の活動を神殿の監督下に置くか、神殿から切り離すべきである。
私は紙を机に置いた。
「わかりました」
「わかりましたって……ミコト、怒らないの?」
「怒っても数字は変わりません」
花霞は複雑な顔をした。
「でも、酷いじゃない。ミコトがどれだけ頑張ったか、みんな見てたのに」
「常盤様の言っていることは、間違っていません」
「え?」
私は窓の外を見た。
「未来局は神殿の権威と競合しています。それは事実です。霊力のない私が神殿機関の長というのも、確かに異例です」
「だから追い出されてもいいってこと?」
「そうは言っていません」
私は花霞を見た。
「事実を認めた上で、それでも続ける理由がある。それだけです」
翌日、常盤が直接局の部屋に来た。
珍しいことだった。この男がここに来たのは初めてだ。
部屋を見回して、机の上の帳面を一瞥してから私を見た。
「白砂ミコト。話がある」
「どうぞ」
「座らない」
「では立ったまま聞きます」
常盤は少し間を置いた。
「神殿会議の議題については、聞いたか」
「はい」
「どう思う」
「事実として正確な部分もあれば、私の立場からは同意しかねる部分もあります」
「どこが同意しかねる」
「未来局の活動が神の秩序を乱すという点です」
「乱していないと言うのか」
「神の秩序が何を指すかによります」
常盤の眉が動いた。
「民が餓えないこと、疫病が広がらないこと、戦に備えること。それが神の望みでないとすれば、私は神の秩序を乱しているかもしれません。でも、そうでないなら、私のやっていることは神殿の役割と同じ方向を向いているはずです」
「詭弁だ」
「論理です」
常盤はしばらく私を見ていた。
その目に、怒りだけでなく別の何かが混じっているような気がした。
恐怖、だろうか。
「お前のやっていることが広がれば」
彼は静かに言った。
「民は神託を信じなくなる」
私は答えなかった。
「神殿は、この国の柱だ。神託が信じられなくなれば、国の秩序が崩れる」
「それは……常盤様が、本当に恐れていることですか」
常盤は黙った。
「国の秩序のためか、神殿の権威のためか、それとも神を本当に信じているからか。どれですか」
返事はなかった。
常盤は踵を返して、部屋を出て行った。
三日後、神殿会議が開かれた。
私は呼ばれた。
広間には神官と上位巫女が集まっていた。月読が上座にいた。常盤が議題を進めた。
「白砂ミコトの未来局について、神殿としての結論を出す」
常盤は立ち上がった。
「未来局の活動は神殿の名のもとに行われているが、その内容は神託に基づかない。これは神殿の本義に反する。よって、白砂ミコトを神殿の籍から外し、未来局を神殿とは無関係の機関として切り離すことを提案する」
神官たちの多くが頷いた。
切り離す。
神殿の籍から外れれば、書庫の使用も制限される。神殿内の部屋も使えなくなる。長年集めてきた台帳へのアクセスも、交渉次第になる。
痛い。
正直に言えば、かなり痛い。
でも。
「異議があります」
私は立ち上がった。
広間の視線が集まった。
「神殿からの切り離しについて、一つ確認させてください」
「何ですか」
「未来局の活動で助かった民は、誰の民ですか」
常盤が眉をひそめた。
「この国の民だ」
「この国の民は、神殿の神が守る民ではないですか」
「そうだ」
「では、その民が餓えないよう、疫病から守るよう、戦に備えるよう動くことは、神殿の役割と矛盾しないはずです」
「手法が問題だと言っている」
「手法より結果が重要だと、私は思います」
常盤は声を上げた。
「だから詭弁だと言うのだ。手法は神の道に沿わなければならない。どれだけ結果がよくても、神を蔑ろにする手法は認められない」
「では」
私は月読を見た。
「最高巫女様にお聞きします」
広間が静まった。
月読が静かに私を見た。
「私のやってきたことは、神を蔑ろにしていましたか」
長い沈黙だった。
誰も動かなかった。
月読はゆっくりと口を開いた。
「……蔑ろには、していない」
常盤が驚いた顔をした。
「月読様」
「神を否定していないと、この者は言い続けています。妾にはそれが嘘だとは思えない」
「しかし神託を——」
「常盤」
月読の声が、静かに彼を制した。
「神託が外れたのは事実です。それは妾の問題であって、この者の問題ではない」
広間がざわめいた。
月読が立ち上がった。
「未来局の活動は続けさせます。神殿の籍については、今すぐ決定する必要はない」
「月読様、それでは——」
「会議を閉じます」
それだけ言って、月読は広間を出て行った。
廊下に出ると、風車レンが待っていた。
「聞いていたか」
私は聞いた。
「聞いていた」
「月読様が、ああ言うとは思っていませんでした」
「俺も驚いた」
彼は歩き出した。私もその隣を歩いた。
「あの人は真剣だ」
風車レンが言った。
「神に対しても、約束に対しても。だから神託が外れたことを、誰より重く受け止めている」
「そう思います」
「お前を追い出せば楽になれる。でも、それをしなかった」
「なぜだと思いますか」
風車レンはしばらく黙った。
「お前が、正しいことをしているとわかっているからじゃないか」
私は少し考えた。
「怖いですね」
「何が」
「正しいことをしていても、こんなに抵抗がある。間違っていたら、もっと大変です」
「お前は間違っていない」
風車レンは静かに言った。
断言するような言い方だった。
「……根拠はありますか」
「ある」
「何ですか」
「結果だ」
彼は前を向いたまま言った。
「飢饉を防いだ。戦に備えた。それは事実だ。数字がどうとか神がどうとかより、事実が全てだ」
私は少しの間、彼の横顔を見た。
「風車さんは、わかりやすい人ですね」
「そうか」
「はい。白黒はっきりしている」
「お前よりはな」
「私はグレーを扱う仕事です。確率ですから」
風車レンはそれを聞いて、今日もわずかに口の端を上げた。
局に戻ると、花霞とゴウが待っていた。
花霞が心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「ミコト、どうだった?」
「とりあえず、続けられます」
「よかった」
花霞が息をついた。
ゴウが静かに言った。
「追い出されると思っていた」
「私もそう思っていました」
「月読様が、庇った」
「はい」
ゴウはしばらく考えた。
「……あの人も、民のことを思っているんだな」
「そうだと思います。手法が違うだけで、向いている方向は同じなのかもしれない」
ゴウは頷いた。
この男は余計なことを言わない。考えて、納得して、頷く。それだけだ。
私は机に向かった。
帳面を開く。
今日もやることがある。
その夜、遅くなってから、局の部屋に一人残っていた。
蝋燭の火が揺れている。
帳面を読み返す。ユズからの最新の観測記録。今年の夏は気温が高かった。雨量は少なかった。川の水位が下がりつつある。
私は数字を並べた。
気温上昇。
雨量不足。
人口が集中している南の村で、井戸の水位が下がっているという報告。
嫌な組み合わせだった。
前世の知識が、警告を鳴らしていた。
水質悪化。
栄養不足で免疫低下。
人口密集。
疫病の三条件が、揃いつつあった。
私は新しい紙を取り出して、書き始めた。
予測。来年の春から夏にかけて、南部の村で疫病が流行する可能性。確率、六十パーセント。
六十パーセント。
高くはないが、無視できない数字だった。
やるべきことを書き出す。
井戸の深掘りと浄化。
手洗いの習慣化。
下水の整備。
栄養状態の改善。
どれも、すぐにできることではない。
でも、今から動けば間に合う。
扉が開いた。
「まだいたのか」
風車レンだった。
「はい。少し気になることがあって」
彼は入ってきて、私の書いた紙を覗き込んだ。
「疫病?」
「可能性として。まだ六十パーセントです」
「何が原因だ」
「水です。気温が上がると水が傷みやすくなります。栄養状態が悪い人間は、それで倒れやすい」
「去年の凶作の影響か」
「それも関係しています。戦後の農村は、まだ完全に回復していない村がある」
風車レンは腕を組んだ。
「何をすればいい」
「まず井戸の状態を確認したいです。南部の村を回って、水質を調べる」
「水質をどうやって調べる」
「色、匂い、沈殿物の有無。簡易的な方法ですが、傾向はわかります」
「いつ行く」
「来週、準備が整えば」
「俺も行く」
私は彼を見た。
「南部は、少し遠いですよ」
「知っている」
「三日はかかります」
「知っている」
私は少し考えた。
「……お願いします」
「ああ」
彼は椅子を引いた。
「今夜中に、行く村のリストを作れるか」
「できます」
「なら手伝う。俺は地理がわかる」
私は地図を広げた。
風車レンが隣に座って、地図を指さした。
「南部はここからここまで。村の数は十二。このうち川沿いの村が六つ。井戸が主な水源の村が四つ」
「川沿いの村を優先します。上流で何かあれば、下流に影響が出やすいので」
「なら、この順番で回るのが効率的だ」
彼は指で地図の上を動かした。
私は帳面に書き留めた。
二人で地図を見ながら、村の巡回順を決めていった。
蝋燭の火が揺れた。
窓の外は暗かった。
でも手元には、次にやるべきことが並んでいた。
翌朝、私は王への上申書を書いた。
疫病リスクの可能性と、その根拠となる数字。対策として必要なこと、かかる費用と時間の見積もり。
王はその日のうちに読んで、返答をよこした。
「南部への調査、許可する。必要な費用は未来局の予算から出せ」
短い返答だった。
でもそれで十分だった。
出発前の夜、花霞が局に来た。
「お土産、何がいい?」
「土産は不要です。その分、記録の整理をお願いします」
「もう、ミコトはそういうことしか言わない」
花霞はむくれた顔をしたが、すぐに真剣な顔になった。
「疫病って、本当に来るの?」
「六十パーセントの確率で、来年の春に可能性があります」
「六十パーセントって、どのくらい怖い?」
「コインを投げて、表が出たら疫病が来るくらいです」
花霞は少し青い顔をした。
「それ、怖いじゃない」
「だから今から動きます」
「わたしは何をすればいい?」
「局にいる間に、過去の疫病記録を全部出しておいてください。どの年に、どの地域で、どのくらいの規模で流行したか」
「わかった。やる」
花霞は頷いた。
それから少し躊躇ってから、言った。
「ミコト」
「何ですか」
「気をつけてね」
私は少し驚いた。
「道中のことですか」
「それもだけど、全部」
花霞はうまく言葉にできないような顔をして、続けた。
「ミコト、最近すごく忙しそうで、ちゃんと寝てるか心配で……神殿会議とかも、怖かったと思うし」
私はしばらく、彼女を見ていた。
「ありがとうございます」
「お礼じゃなくて、ちゃんと答えてよ」
「……少し、怖かったです」
「でしょ」
「でも、やめようとは思いませんでした」
花霞は何も言わなかった。
代わりに、少し笑った。
翌朝、南部への出発。
空は晴れていた。
私は地図と帳面を抱えて、局の扉を閉めた。
扉に、未来局という札が掛かっていた。
自分でつけた札ではない。
ゴウがつけてくれた。
見るたびに、少し不思議な気持ちになる。
呪われた巫女と呼ばれた私が、局長になった。
でも、呼ばれ方が変わっても、やっていることは変わらない。
数字を集める。
パターンを読む。
動ける人間に動いてもらう。
それだけだ。
私は歩き出した。
風車レンが、隣を歩いていた。
空を見上げた。
雲の形を確認した。
今日の天気は、問題ない。
では行こう。
次の数字を、集めに。




