第五話 神を超える予測
戦が終わって、最初の春が来た。
神殿の梅が散り、桜が咲き、そして散った。書庫の窓から見える中庭の木々が、日ごとに緑を濃くしていく。
私はその変化を、美しいと思いながらも、別の意味で見ていた。
気温の上昇。
花の開花時期。
虫の発生。
すべてが、記録の対象だった。
戦後の農村立て直しは、想定より時間がかかった。
徴用された男たちが戻ってきたのはよかった。しかし三ヶ月の空白は大きかった。田の手入れが遅れた村では、今年の収量が平年の七割程度になると推測された。
私はその計算を王に提出した。
対策として提案したのは三つ。
一つ、不足する村への食料の再配分。備蓄から一定量を放出し、収量の少ない村に回す。
二つ、翌年に向けた種籾の確保。今年収量が落ちた村でも、来年の種だけは絶対に残す。
三つ、農作業の効率化。女性と老人でもできる作業を洗い出し、人手不足を補う。
王はすべてを承認した。
神殿の常盤は、また不満そうな顔をした。
私はもう、常盤の顔を気にするのをやめていた。
「最近、神殿の外に出る機会が増えたな」
ある朝、風車レンが書庫に来て言った。
「村回りが増えましたから」
「一人で行くな」
「護衛は不要です」
「俺が行きたいと言っている」
私は顔を上げた。
彼は普通の顔をしていた。何でもないことのように言っていた。
「……お時間があれば、お願いします」
「いつでも時間はある」
「武官の仕事は」
「お前の護衛が仕事だ」
私はそれを聞いて、少し考えた。
「王命ですか」
「俺の意思だ」
それ以上聞くのをやめた。
この男は、余計なことを聞くと黙る。
村回りで気づいたことがあった。
農民たちは、経験則を持っていた。
「この山に霞がかかると雨になる」
「燕が低く飛ぶ日は天気が崩れる」
「川の水が濁ると上流で雨が降っている」
私が観察指標として使っていたものと、ほぼ同じだった。
違うのは、彼らはそれを「記録していない」ということだった。
経験として体に覚えている。でも数字にしていない。だから他の村に伝えられない。次の世代に正確に引き継げない。
私は村を回るたびに、老農夫たちの話を聞いて、帳面に書き留めた。
彼らの経験は、百年分の記録よりも詳細な場合があった。
「面白いものを見つけました」
ある日の夜、私は風車レンに帳面を見せた。
「農民の経験則と、書庫の記録を照らし合わせると、かなりの精度で一致しています」
彼は帳面を覗き込んだ。
「つまり」
「農民たちは、記録せずに統計を取っていた。体の記憶として」
「それを文字にすれば」
「精度が上がります。しかも、地域ごとの特性も取り込める。山間部と平野部では、同じ気象でも作物への影響が違います」
風車レンは少し考えた。
「村ごとに、記録をつける人間が要るな」
「そう思っています。ユズのような人間を、各地に置きたい」
「人を育てるということか」
「そうです」
私は帳面を受け取った。
「記録は、続けることに意味があります。一年のデータより十年のデータのほうが精度が高い。私一人の観察より、百人の観察のほうが抜けが少ない」
風車レンは腕を組んだ。
「仕組みを作りたいということだな」
「はい」
私は頷いた。
「予測する人間が一人いるより、記録する人間が百人いるほうが、国は強くなります」
その話を聞いていた人間が、もう一人いた。
花霞だった。
彼女は最近、台帳の整理だけでなく、私の計算の補助もするようになっていた。数字の写し間違いを指摘したり、台帳の中から特定の年のデータを素早く探し出したり。
思っていたより、几帳面な性格だった。
「ミコト」
花霞が顔を上げた。
「記録をつける人を育てるって、神殿の外の人に教えるってこと?」
「はい」
「神官様たちが怒らない?」
「怒るかもしれません」
「大丈夫なの」
「王命があれば、動けます」
花霞は少し考えた。
「わたしも、教えることはできる?」
私は彼女を見た。
「どういう意味ですか」
「その、村の人に記録のつけ方を教えるの、わたしでもできる?」
花霞は少し照れたような顔をした。
「わたし、ミコトの手伝いをしてて、記録の読み方が少しわかるようになってきた。だから、役に立てるかなって」
私は少しの間、考えた。
「やってみますか」
「え」
「来月、北の村に行きます。一緒に来ますか」
花霞の顔が、ぱっと明るくなった。
「行く。絶対行く」
問題は、別のところから来た。
神殿の月例会議の場で、常盤が議題を提出した。
「白砂ミコトの活動範囲の拡大について」
私は呼び出されて、広間の末席に座った。
常盤が言った。
「神殿の書庫記録を用いて、村々に独自の指導を行い、さらに観測員の配置を計画しているとの報告がある。これは神殿の管轄を大幅に超える活動だ」
神官たちが頷く。
「白砂ミコトの活動は、もはや一見習い巫女の範疇を超えている。規制が必要だ」
月読が上座で黙っていた。
私は立ち上がった。
「一つ、確認させてください」
「何ですか」
「神殿は、民の暮らしを守るためにあるのですか。それとも、神殿の秩序を守るためにあるのですか」
広間が静まり返った。
常盤の顔が赤くなった。
「言葉を選べ」
「選んでいます。私がやっていることは、民が餓えないようにすること、戦が来たときに備えること、疫病が広がらないようにすること。それが神殿の役割と矛盾するなら、どう矛盾するのかを教えてください」
「神の権威を損なっている」
「どのように」
「民が神託でなく、計算を信じ始めている」
「民が助かっていれば、十分ではないですか」
常盤は言葉を詰まらせた。
月読が口を開いた。
「ミコト」
「はい」
「あなたのやっていることは、神殿の外にまで広がっています。それは認識していますか」
「認識しています」
「それだけ広がれば、神殿の影響力は相対的に下がります」
「それは、そうなるかもしれません」
私は月読を見た。
「ただ、私の目的は神殿の影響力を下げることではありません。民の暮らしを安定させることです。もし神殿がそれを担えるなら、私は手を引きます」
静寂。
「神殿が担えますか」
また静寂。
月読は、それ以上は何も言わなかった。
会議の後、廊下で月読に呼び止められた。
二人きりだった。
「少し、話しましょう」
月読は私を中庭に連れ出した。春の風が吹いていた。
彼女はしばらく、桜の散り残りを見ていた。
「妾はね、神の声が、本当に聞こえるのですよ」
「はい」
「信じますか」
「信じます」
月読は少し驚いたような顔をした。
「意外ですね」
「あなたが嘘をついているとは思っていません」
「でも、神託は外れた」
「聞こえた声を、正しく解釈できなかったのかもしれません。あるいは、神の言う豊作と人間の言う豊作が、違うものだったのかもしれない」
月読は桜を見続けていた。
「……あなたは、神を否定していない」
「していません」
「でも、神に頼らない」
「頼れないので」
私は正直に言った。
「霊力がありません。神の声が聞こえません。だから自分でできることをやるしかない」
月読はしばらく黙っていた。
「妾にはね、あなたの数字が、どうしても理解できない」
「そうだと思います」
「でも」
月読が私を見た。
「あなたが民を助けようとしていることは、わかります」
私は少し驚いた。
「……ありがとうございます」
「常盤を抑えることは、妾にはできません。でも」
彼女は視線を桜に戻した。
「月読の名で、あなたを神殿から追い出すことは、しません」
「それで十分です」
私は頭を下げた。
夏の終わり。
王からまた呼び出しがあった。
政務室に入ると、今日は風車レンもいた。それから初めて見る顔の官吏が数人。
「白砂ミコト」
王が言った。
「お前の仕事を、正式な形にしたい」
私は少し、息を呑んだ。
「天候の観測、農作の管理、疫病の監視、交易物資の記録。これらを束ねる機関を作る」
王は静かに続けた。
「名を、未来局とする」
私は何も言えなかった。
「その長を、お前に任せる」
帰り道、廊下で風車レンと並んで歩いた。
「驚いたか」
「はい」
「俺は驚かなかった」
「なぜですか」
「王は合理的な人間だ。使えるものを使う。お前はこれまで何度も結果を出した。当然の流れだ」
私は少し考えた。
「未来局の長、というのは」
「偉くなったということだ」
「そういう意味ではなく」
「わかっている」
風車レンは歩きながら言った。
「責任が増えるということだ。これまでは失敗してもお前一人が追放されれば済んだ。これからは、局全体の話になる」
「怖いですね」
「正直だな」
「でも」
私は前を向いた。
「やります」
「わかっている」
彼はそれ以上何も言わなかった。
廊下の窓から、夕暮れの空が見えた。
雲の形を、無意識に確認していた。
明日は晴れそうだ。
書庫に戻ると、花霞がいた。
今日も台帳を整理していた。
「ミコト、顔色が変だよ。何かあったの」
「未来局というものを作ることになりました」
「みらいきょく?」
「私が長になります」
花霞は目を丸くした。
「え、長って、局長ってこと?」
「そういうことになります」
「すごい」
花霞は台帳を持ったまま、ぽかんとしていた。
「じゃあ、わたしは」
「未来局の一員として、引き続き手伝ってもらえますか」
花霞の顔が、また明るくなった。
「もちろん。絶対やる」
それから少し考えた顔をして言った。
「ねえ、ミコト」
「何ですか」
「最初、わたしミコトのこと馬鹿にしてたじゃない」
「はい」
「あの時のこと、まだ根に持ってる?」
私は帳面を机に置いた。
「持っていません」
「ほんとに?」
「あなたが毎日台帳を整理してくれているおかげで、私の作業が三割は速くなっています。それで十分です」
花霞は少し赤くなった。
「……三割って、具体的だね」
「数字で言えるものは、数字で言います」
その夜、私は一人で書庫に残った。
蝋燭の火が揺れる中、これまでの帳面を読み返した。
最初に書庫に来た日。誰も見向きもしない台帳を、一人で読んでいた。
雨の予測が当たった日。神殿の広間で、月読が「続けなさい」と言った。
戦の前兆を読んだ日。風車レンが「俺が取り次ぐ」と言った。
農村を回って、老農夫の話を聞いた日。
ユズが几帳面な字で記録を送ってきた日。
花霞が「手伝えることはありますか」と言いに来た日。
すべて、数字が積み重なってきた日々だった。
豊作の神託は外れた。
蒼嶺との戦が起こらないという神託も、外れた。
二つの外れは、偶然では説明しにくい。
だから私は、決めた。
未来局。
私一人の観察を、仕組みにする。
私一人の計算を、組織にする。
それは私がずっと、やりたかったことだった。
でも、一人ではできなかった。
風車レンが動いてくれた。
花霞が台帳を整理してくれた。
ユズが毎朝記録をつけてくれた。
老農夫たちが経験を話してくれた。
王が信じてくれた。
月読が、追い出さないでいてくれた。
私は窓の外を見た。
夜空に星が出ていた。
星の動きも、記録すれば季節の予測に使える。前世の知識では、北極星の位置と季節の関係がある。この世界でも同じはずだ。
また一つ、やることが増えた。
私は蝋燭を引き寄せた。
新しい帳面を開いた。
表紙に書く。
未来局 観測記録 第一号
ここから始まる。
神に頼らず、人の知恵で未来を読む。
いや、違う。
未来を、作る。




