第四話 戦の予兆
春になった。
神殿の中庭に梅が咲き、巫女たちが花見の準備をしている。私は書庫の窓からそれを横目に見ながら、まったく別のものを見ていた。
塩の取引記録だ。
書庫には農作記録だけでなく、交易記録も保管されていた。誰も見向きもしない棚の奥に、埃をかぶって眠っていた台帳。商人の出入り、物資の流通、国境を越える荷の記録。
私はここ数週間、それを読み続けていた。
理由は一つ。
隣国・蒼嶺から来る塩の量が、昨年の秋あたりから、じわじわと減っていたからだ。
「塩が、減っている」
私は帳面に書き出した数字を並べた。
三年前。蒼嶺からの塩の輸入量、年間で標準値の百。
二年前。同じく九十八。ほぼ変わらない。
昨年前半。九十二。やや減少。
昨年後半。七十一。明確な減少。
今年に入ってから。五十三。
半分近くまで落ちている。
塩は食料の保存に欠かせない。戦時の兵糧にも必須だ。自国で消費するために輸出を絞るとすれば、理由は一つしか思い浮かばない。
備蓄している。
誰のために?
自国の軍のために、だ。
次に鉄の記録を調べた。
蒼嶺は鉄の産地として知られている。農具や日用品に使う鉄を、この国は長年蒼嶺から輸入していきた。
その鉄の輸出量も、同じ時期から落ちていた。
塩と鉄。
食料の保存と武器の材料。
どちらも戦争準備に直結する物資だった。
私は次に、国境に近い宿場の記録を調べた。商人の通行記録だ。街道を行き来する人の数、荷の種類、滞在日数。
昨年の秋から、商人の数が減っていた。
代わりに、荷を持たない旅人の数が増えていた。
荷を持たない旅人。
街道を観察している人間。
斥候、あるいは地図を作る者。
私は帳面を閉じて、天井を見上げた。
これは、戦争の前兆だ。
「風車さん」
その日の午後、私は風車レンを書庫に呼んだ。彼はいつも通り椅子を引いて座り、私の向かいで腕を組んだ。
「珍しいな。お前から呼ぶのは」
「急ぎの話があります」
私は帳面を開いて、数字を示した。塩の輸入量、鉄の輸入量、街道の通行記録。それぞれの推移を順番に説明した。
風車レンは黙って聞いていた。途中で一度だけ、私の手元の帳面を引き寄せて数字を確認した。それ以外は、じっと私の話を聞いていた。
「……蒼嶺が、戦の準備をしていると」
「そう見えます」
「いつだ」
「今の備蓄ペースから逆算すると、半年から一年以内だと思います。ただし」
私は少し間を置いた。
「私は軍事の専門家ではありません。物資の動きから推測しているだけです。実際の軍の動きを確認できれば、もっと精度が上がります」
風車レンは帳面を返しながら言った。
「国境付近に人間を出せるか、王に掛け合う」
「お願いします」
「お前の名前を出していいか」
「構いません。どうせ私がやったことになります」
風車レンは少しだけ口の端を動かした。
「正直だな」
「無駄な隠し事は、時間の無駄です」
三日後、風車レンから結果が伝えられた。
「王が動いた。国境の武官に確認の命が出た」
「どのくらいで結果が出ますか」
「早くて半月。遅くても一月」
「わかりました」
私は頷いて、また別の台帳を開いた。
待っている間にも、できることはある。
もし本当に戦が来るとして、この国に何が不足するか。食料、塩、薬草、人手。戦が始まれば農村から男が徴用される。農作業の人手が減れば、翌年の収量に影響が出る。
戦と農作は、連動している。
私は計算を始めた。
徴用される人数の推計。農作業に最低限必要な人数。不足分をどう補うか。女性と老人でできる農作業の種類と限界。
数字を並べていくと、見えてくるものがある。
戦に備えるだけでなく、戦後の農作にも今から手を打つ必要があった。
一方、神殿では別の動きがあった。
国境付近の状況について、神殿でも神託が求められたのだ。
月読が神託を下した。
「蒼嶺との間に戦は起こらない。両国の関係は安定している」
広間に安堵の空気が流れた。
神官たちが頷いた。
常盤が満足そうな顔をした。
私はその話を花霞から聞いて、帳面に書き留めた。
蒼嶺との間に戦は起こらない。
私の分析とは、真逆の結論だった。
「どう思いますか」
その夜、風車レンに聞いた。
「お前の数字と、神託が食い違っているということか」
「はい」
彼はしばらく考えた。
「どちらを信じるかと言われれば」
「言わなくていいです」
私は遮った。
「信じる信じないの問題にしたくありません。どちらが正しいかは、事実が決めます」
「では、お前はどうしたい」
「王に直接、話を持っていきたい」
風車レンは少し眉を上げた。
「神託と違う情報を、王に持っていくということか」
「はい」
「神殿を敵に回すことになる」
「わかっています」
私は帳面を閉じた。
「でも、もし本当に戦が来るなら、備えなければ民が死にます。神託が正しいかもしれない。私の計算が間違っているかもしれない。それでも、可能性がある以上は伝えなければなりません」
風車レンはしばらく私を見ていた。
「……俺が取り次ぐ」
「ありがとうございます」
「ただし」
彼は立ち上がった。
「王は賢い人間だ。だが周囲に神殿の人間がいる。上手く話さないと、握り潰される」
「どうすれば上手く話せますか」
「俺が一緒に行く」
私は少し驚いた。
「よろしいのですか」
「お前一人を行かせるつもりはない」
それだけ言って、彼は書庫を出て行った。
私は再び帳面を開いた。
王に話すための資料をまとめなければならない。数字の羅列では伝わらない。わかりやすく、簡潔に、そして反論が来ても崩れない形で。
蝋燭を引き寄せた。
また長い夜になりそうだった。
王への謁見は、五日後に設定された。
私は生まれて初めて、王の政務室に足を踏み入れた。
日輪王。四十代の男。噂には聞いていたが、実際に見るのは初めてだった。
想像より、静かな人だった。
派手さがない。声が大きくない。座っているだけで場を支配するような威圧感もない。ただ、目が鋭かった。何かを測るような、静かな目。
傍らには常盤を含む数人の神官が立っていた。神殿側の監視、ということだろう。
「白砂ミコトとやら。話を聞こう」
王の声は落ち着いていた。
「はい」
私は用意した資料を広げた。
説明は、できるだけ簡潔にした。
まず塩の輸入量の推移。数字を示して、減少傾向を説明する。次に鉄の輸入量。同じく減少。最後に街道の通行記録と、荷を持たない旅人の増加。
「これらを合わせると、蒼嶺が何らかの形で物資を国内に溜め込んでいると推測できます。戦争準備と合致するパターンです」
王は黙って聞いていた。
「時期の見立ては」
「半年から一年以内と思います。ただし、これは物資の動きからの推測です。実際の軍の動きを確認できれば、より精度が上がります」
「国境の武官から報告が来ている」
王が言った。
「蒼嶺の国境付近で、兵の数が増えているとのことだ」
私は頷いた。
「それは、私の推測と一致します」
神官の一人が口を開いた。
「しかし神託は、戦は起こらないと申しております。月読様の神託を疑うのですか」
「疑うのではありません」
私は答えた。
「神託と私の分析が食い違っている、という事実を申し上げているだけです。どちらが正しいかは、今の段階ではわかりません。ただ、戦が来る可能性がある以上、備えておくことは損ではないはずです」
王が少し身を乗り出した。
「備えるとは、具体的に?」
「兵糧の確保、塩の国内備蓄、農村からの徴用人数の上限設定です」
私は次の紙を広げた。
「特に農村からの徴用は、来年の農作に直接影響します。戦が長引けば、翌年の食料不足につながります。戦と農作を切り離して考えることはできません」
王は紙を受け取って、黙って読んだ。
神官たちが不満そうな顔をしていた。常盤は今にも何か言い出しそうだった。
しばらくして、王が顔を上げた。
「念のため、備えよ」
政務室を出ると、廊下で常盤に呼び止められた。
「白砂ミコト」
振り返ると、彼の顔は怒りで赤くなっていた。
「月読様の神託を、公然と否定したな」
「否定していません。可能性を申し上げただけです」
「王を動かすために、神託を利用した」
「利用したのではなく、備えが必要だと申し上げました」
「詭弁だ」
常盤は一歩、前に出た。
「覚えておけ。神殿はお前を認めていない。王が何と言おうと、神の秩序を乱す者を、我々は許さない」
私は彼を真っ直ぐ見た。
「神殿が私を認めなくても、構いません」
「なに」
「ただ、もし戦が来たとき、備えがあるかないかで、死ぬ人間の数が変わります。それだけのことです」
常盤は何も言わなかった。
私は会釈して、廊下を歩き出した。
それから半年が経った。
秋の終わり。
蒼嶺の軍が、国境を越えた。
神殿の広間が、今度は別の意味で凍りついた。
「戦は起こらない」という神託が、外れた。
月読は表情を変えなかった。
ただ、その背中が少し、小さく見えた。
常盤は黙っていた。
王の使者が神殿に来て、備蓄の状況を確認した。塩、兵糧、薬草。半年前に私が提案した備えが、すべて整っていた。
農村からの徴用も、上限の範囲内に収まっていた。
戦は三ヶ月続いた。
長引けば食料が尽きる、と私は懸念していた。けれど備蓄が十分だったおかげで、兵糧は持ちこたえた。
農村の人手も、かろうじて確保できた。翌年の種まきに間に合った。
私は書庫で、戦中も記録を取り続けた。
消費された塩の量。失われた人手。農作業の遅れ。疫病の兆候。
戦が終わった後に、何が必要になるか。それを今から計算しておく必要があった。
講和が結ばれた日の夜、風車レンが書庫に来た。
彼は戦の間、国境付近に出ていた。久しぶりに見る顔だった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
彼は椅子を引いて座った。少し疲れた顔をしていた。
「備蓄が役に立ったと聞いた」
「はい。想定の範囲内で収まりました」
「お前の計算通りだったな」
「運もありました」
「運じゃない」
風車レンは静かに言った。
「備えがあったから、持ちこたえた。備えがなければ、三ヶ月で食料が尽きていた」
私は帳面に目を落とした。
「終わったことより、次のことを考えています」
「何を」
「戦後の農村の立て直しです。人手が減った村がある。来年の種まきが遅れている村もある。個別に対応しないと、来年の収量に響きます」
風車レンはしばらく私を見ていた。
「……休まないのか」
「休む理由がありません」
「お前は、本当に」
彼は少し笑った。今度ははっきりと、笑った。
「何ですか」
「いや」
彼は首を振った。
「続けろ。俺も手伝う」
翌日、王から呼び出しがあった。
政務室に入ると、王は一人だった。神官も侍女もいない。珍しいことだった。
「白砂ミコト」
「はい」
「此度の備えは、お前の進言あってのことだ」
「恐れ入ります」
「神託は外れた。お前の計算は当たった」
王は私をまっすぐ見た。
「なぜ、当たる」
私は少し考えた。
「当たっているのではありません」
「ほう」
「備えたから、最悪の事態を避けられた。備えていなければ、もっと悪い結果になっていたかもしれません。未来を当てているのではなく、最悪の未来を防いでいるだけです。備えは、予言よりも強いのです」
王は少しの間、黙っていた。
「……面白いことを言う」
彼は立ち上がって、窓の外を見た。
「神託は未来を告げる。お前は未来を変える、ということか」
「そのつもりで、やっています」
王は振り返った。
「続けよ。必要なものがあれば言え」
「一つ、お願いがあります」
「言ってみよ」
「記録を集める人間を、もう少し増やしたいのです。国境付近の物資の動きも、定期的に確認できる仕組みが作れれば、次の備えがより早くできます」
王はしばらく考えた。
「人を出そう。必要な数を、風車に伝えよ」
「ありがとうございます」
書庫に戻ると、花霞が台帳の整理をしていた。
あの日から、彼女は毎日来るようになっていた。
「ミコト、戦が終わったね」
「はい」
「怖かった」
「そうですね」
「また来る?」
花霞が聞いた。不安そうな目だった。
私は少し考えた。
「来るかもしれません。でも」
帳面を机に置いた。
「次は、もっと早く気づけます。記録が増えれば、もっと早く」
花霞は少し安心したような顔をした。
「ミコトがいれば、大丈夫ってこと?」
「私だけではありません。記録をつけてくれるユズも、村の人たちも、風車さんも。みんなで集めた数字があるから、見えてくるものがある」
花霞はそれを聞いて、また台帳を手に取った。
「じゃあわたしも、ちゃんとやらなきゃ」
「お願いします」
私は机に向かった。
蝋燭に火をつけた。
次の記録を始める。
戦は終わった。
でも、次の何かはもう、どこかで始まっているかもしれない。
数字は、正直だ。
隠しようがない。
積み重なれば、必ず見えてくる。
だから私は、今日も書き続ける。




