第三話 神託との対立
冬が来た。
神殿の中庭に薄く雪が積もり、巫女たちが白い息を吐きながら朝の掃き清めをしている。私は書庫の窓からそれを眺めながら、手元の帳面に数字を書き写していた。
雨宮ユズから、最初の報告が届いたのは十日前だった。
几帳面な字で、毎朝の気温と雨量と川の水位が記されていた。
思っていたより、ずっと丁寧な仕事だった。
私はその数字を、書庫の台帳と照らし合わせる。過去の記録と今年の記録を並べて、来年の春がどうなるかを推測する。
今年の冬は、寒い。
平年より気温が低い。
雪も多い。
春の雪解けが遅れれば、田植えの時期が後ろにずれる。夏の日照が不足すれば、稲の育ちが悪くなる。
来年も、油断はできない。
「ミコト」
扉が開いて、風車レンが入ってきた。
この男が書庫に来るのは、今日で何度目だろう。最初は私の監視役だったはずが、いつの間にか朝の習慣のようになっていた。
「おはようございます」
「ああ。また一晩中か」
「今日は四時間寝ました」
「進歩したな」
皮肉なのか褒めているのかわからない口調で言いながら、彼は私の向かいに腰を下ろした。いつもそうする。椅子を引いて、私の広げた紙を覗き込む。
「来年の読みは」
「まだ途中です。ただ、冬の気温が低いのは確かです。春の雪解けが遅れる可能性が高い」
「凶作になるか」
「今年ほどではないと思います。ただ、早めに種の配分を考えておいたほうがいい」
風車レンは頷いた。この男は私の話を遮らない。疑問があるときだけ聞く。それ以外は黙って聞いている。
話しやすい人間だと思う。
「それより、今日、月読様が神殿会議を開く」
私は手を止めた。
「内容は」
「お前のことだ」
神殿会議は、昼過ぎに始まった。
広間に神官と上位巫女が集められた。私は末席に座らされた。裁かれる側、というより、見世物にされている感覚があった。
広間は、重い沈黙に包まれていた。
常盤が声を張り上げる。
「白砂ミコトの行動は、神殿の秩序を乱すものだ」
神官たちが頷く。
「神託を否定し、民に独自の指示を出した。
これは神への反逆に等しい」
私は末席に座ったまま、黙って聞いていた。
予想していたことだった。
常盤が言う。
「よって白砂ミコトを神殿から――」
追放する。
そう言われる前に。
「待ってください」
私は立ち上がった。
広間の視線が一斉に集まる。
常盤が睨んだ。
「まだ何か言うのか」
「はい」
私は月読を見た。
「提案があります」
広間がざわめく。
「提案?」
「神託と統計。 どちらが未来を正しく読めるか――」
私は静かに言った。
「確かめませんか」
一瞬、空気が止まった。
常盤が怒鳴る。
「不敬だ! 最高巫女様を試すつもりか!」
「違います」
私は首を振った。
「私が間違っているなら、ここで証明されます。
それだけの話です」
広間がざわつく。
神官たちが互いに顔を見合わせる。
そして――
月読が、ゆっくり目を開いた。
「何をするつもりですか」
「次に雨が降る日を、予測します」
私は答えた。
「月読様は神託で。私は記録から」
沈黙。
長い沈黙。
やがて月読が言った。
「……面白い」
広間がざわめく。
「やりましょう」
常盤が慌てて声を上げる。
「月読様!」
「静かに」
月読は視線を動かさずに言った。
それだけで広間が静まり返る。
「条件をつけます」
月読は私を見た。
「妾が外れた場合、あなたの方法を神殿で認めます」
広間がざわつく。
「ですが」
その声は、静かだった。
「あなたが外れた場合」
「白砂ミコト」
「あなたは神殿を去りなさい」
空気が凍った。
私は少しだけ息を吸った。
つまりこれは、追放を賭けた対決だ。
怖くないと言えば嘘になる。
私は霊力ゼロの巫女。
神殿の外に出れば、ただの人間だ。
それでも。
「わかりました」
私は答えた。
広間がざわめく。
常盤が笑う。
「自分から追放を選ぶとは愚かな」
私は彼を見なかった。
ただ、月読を見た。
「では、妾は今夜、神託を受けます。あなたは、どうやって未来を読むのですか」
「観察です」
「観察?」
「雲の形、川の水位、鳥の動き、煙の流れ。未来は神の気まぐれではありません」
広間が静まり返る。
私は続けた。
「同じ条件が揃えば、同じ結果が起きます。今年の雨も、例外ではありません」
月読は少しだけ目を細めた。
「……いいでしょう」
その夜、月読の神託が下された。
「三日後、雨が降る」
神殿はその言葉を信じた。
神託は絶対だからだ。
私は帳面に書いた。
五日目。
降雨確率、七十五パーセント。
そして――
三日目。
雨は降らなかった。
四日目。
まだ降らない。
神殿がざわめき始める。
そして五日目。
空が暗くなった。
雷が鳴る。
昼前。
雨が降り始めた。最初は、小さな一滴だった。
やがて雨脚が強くなる。
神殿の広間が、静まり返った。
雨の音だけが響く。
月読は、静かに言った。
「……見事です。神託よりも、先に未来を読んだ」
神官たちがざわめく。
「どうやって」
私は答えた。
「記録です」
「霊力を使ったのですか?」
「使っていません。観察しただけです」
「観察で、これだけの精度が出るのですか」
「パターンを知っていれば、出ます」
私は、帳面を閉じた。
月読はしばらく黙った。
広間の全員が、彼女の次の言葉を待っていた。
「約束通り」
月読が言った。
「あなたのやり方を、神殿内で認めます。神の声に背く勇気も、巫女の資質です」
常盤が立ち上がった。
「月読様、しかし――」
「常盤」
月読の声が、静かに彼を制した。
「約束は約束です」
常盤は口を閉じた。不満そうな顔のまま、座った。
月読が私を見た。
「ただし」
「はい」
「あなたが認められたのは、この一件だけです」
「わかっています」
「今後も、外れることがあれば、その時は――」
「もちろんです」
私は頷いた。
「七十五パーセントは、百パーセントではありません。外れる可能性は常にあります。それも含めて、続けていくつもりです」
月読は少し、目を細めた。
「……正直な人ですね」
「数字を扱う仕事は、正直でなければなりません」
広間を出ると、廊下で風車レンが待っていた。
「聞いていましたか」
「壁の向こうで」
彼は淡々と言った。
「認められたな」
「とりあえずは」
「月読様が約束を守るとは思っていなかった」
「私も少し驚きました」
廊下を歩きながら、私は雨の音を聞いた。
屋根を叩く、一定のリズム。
「あの人は、真剣に神を信じている」
風車レンが言った。
「はい」
「だからこそ、外れたことが許せなかったはずだ。それでも約束を守った」
「信念のある人は、筋を通すと思います」
「お前は怖くなかったのか」
私は少し考えた。
「怖かったですよ」
「そうは見えなかった」
「見せませんでしたから」
風車レンはそれを聞いて、また少しだけ口の端を動かした。
書庫に戻ると、花霞が立っていた。
珍しかった。この子が書庫に来たのは初めてだった。
「何ですか」
聞くと、花霞は少し赤くなった。
「……手伝えることはありますか」
「え」
「雨、当たったでしょう。だから……」
彼女は目を逸らしながら言った。
「わたし、ミコトのこと馬鹿にしてたから。その……謝りたくて」
私は少し考えた。
「謝罪は不要です」
「え」
「その代わり」
私は書庫の棚を指した。
「台帳を、日付順に並べ替えてもらえますか。バラバラになっていて、探すのに手間がかかっているので」
花霞は、きょとんとした顔をした。
それからゆっくりと、頷いた。
「わかりました……手伝わせてください」
「ありがとうございます」
私は机に戻った。
次の計算を始める。
今度は来年の春の予測だ。
雨が窓を叩いていた。
予測通りの雨が。
七十五パーセントが現実になった。
残りの二十五パーセントは、今回は来なかった。
次も、そうとは限らない。
それでも、やり続けるしかない。
数字は、積み重なるほど精度が上がる。
今日の雨も、明日の予測の材料になる。
私は蝋燭を引き寄せて、帳面を開いた。




