第二話 統計という異端
書庫には、誰も来なかった。
神殿の中で最も古く、最も埃をかぶった場所。石造りの壁に沿って棚が並び、そこに詰め込まれた台帳や巻物が、百年分の記録を眠らせている。
誰も来ない。
それが、私には都合よかった。
「白砂ミコトに農作状況を記録させよ」という王命が下って、三日が経っていた。
神殿の巫女たちは私を無視した。
神官の常盤は廊下ですれ違うたびに舌打ちをした。
見習いの花霞は、仲間たちと私の悪口を囁き合っていた。
気にしなかった。
気にしている暇がなかった。
やることが、山ほどあった。
台帳を広げる。
百年分の農作記録。
気温の記録。
雨量の記録。
川の水位の記録。
虫の発生数の記録。
作物の収量の記録。
前任の神官たちが几帳面につけていたそれらは、ただの「記録」として眠っていた。誰も、それを並べて比べようとしなかった。
なぜなら、未来は神が決めるものだから。
記録を読んでも、神の声は聞こえない。
だから記録は、記録のまま積まれていた。
私には、神の声が聞こえない。
けれど私には、記録が読める。
まず、変数を整理した。
頭の中で、前世の仕事を思い出す。
データ分析の基本は、目的を決めることだ。
今回の目的は「凶作・豊作の予測」。
そのために必要な説明変数は何か。
冬の平均気温。
春の雨量。
山の積雪量と雪解けのタイミング。
田植え期の川の水位。
夏の日照時間。
害虫の発生記録。
これらを、収量データと照らし合わせる。
紙に数字を並べる。前世ならエクセルで一瞬だが、今はすべて手作業だ。ひたすら書く、並べる、比較する。
蝋燭の火が一本燃え尽きた。
二本目に火をつけた。
まだ夜明けには早かった。
「こんなところにいたのか」
扉が開いたのは、夜が明けてしばらく経ってからだった。
風車レンだった。
昨日も書庫に来た。一昨日も来た。どうやらこの男、王からの命で私の動向を確認する役を担っているらしい。
「おはようございます」
「おはよう」
彼は私の前に座って、広げた紙を覗き込んだ。
「また数字か」
「数字しかないので」
「昨日からずっとここにいるのか」
「仮眠は取りました」
「何時間」
「……二時間ほど」
風車レンは少し黙った。
呆れているのか、心配しているのか、この男はいつも表情で判断させてくれない。
「それで、何がわかった」
私は蝋燭を引き寄せて、紙の一枚を彼に向けた。
「凶作になる条件が、ある程度絞れてきました」
紙に書いたのは、こういうことだった。
過去百年で、凶作か飢饉になった年は十四回。
そのうち、冬の気温が平年より低かった年が十一回。
春の雨量が平年比七割を下回った年が十回。
この二条件が重なった年は七回、そのすべてで凶作が起きている。
さらに、田植え期に川の水位が低かった年を加えると、該当する年はすべて深刻な飢饉になっている。
「この三条件が揃ったとき、凶作確率は限りなく百パーセントに近い」
風車レンは紙を見つめた。
「……なるほど」
「今年は、三つ全部揃っていました」
「だから飢饉だと言ったのか」
「はい」
彼はしばらく考えた。
「逆に聞く。この条件が揃わなければ、豊作になるのか」
私は少し考えた。
「完全にそうとは言えません。豊作の条件はまた別にあります。ただ、凶作を避けるためにはこの三つが最重要です」
「つまり」
「早い話、冬と春の気象を記録し続ければ、夏前に警告が出せます。田植えの前に、作付けを変える時間が作れる」
風車レンは、静かに頷いた。
「それは、使える」
私は少し驚いた。
この国で、私の話を「使える」と言った人間は、今のところこの男だけだった。
問題は、記録を取る人手がいないことだった。
私一人では、国中の気象データを集めることはできない。
書庫の台帳は過去のものだけで、今年から先のデータは誰かが現地で取らなければならない。
気温、雨量、川の水位。
それを定期的に測って、記録して、私のもとに送る。
そういう仕組みが要る。
「人を集めるのは難しいですか」
私は聞いた。
「難しいな」
風車レンは即答した。
「神殿の人間は動かせない。王命で動く人間を集めるには、王の許可がいる」
「王に話を通すことはできますか」
「俺から話すことはできる。ただ」
彼は少し間を置いた。
「今は神殿が騒いでいる。神託が外れたことへの言い訳と、お前への反発で手一杯だ。王が動けるのは、もう少し先になる」
私は頷いた。
「では今は、私が動ける範囲で続けます」
「無理をするな」
「無理ではありません」
私は次の台帳を引き出した。
「やることが決まっているのは、楽なことです」
その日の午後、神殿の廊下で呼び止められた。
「ミコト」
振り返ると、花霞が立っていた。
十六歳の見習い巫女。丸い目をした、顔立ちの愛らしい少女。
先日まで、私の陰口を叩いていた子だ。
「何ですか」
警戒しながら聞くと、花霞は少し躊躇ってから口を開いた。
「……神託が、外れたのは本当のことなの?」
私は少し考えた。
「田の様子を見れば、わかります」
「でも神託は豊作って言った」
「はい」
「それって……」
花霞は言葉を詰まらせた。
この子なりに、何かを考えているのだろう。
「神様が間違えたってこと?」
「私にはわかりません」
私は正直に言った。
「神様が間違えたのか、神様の言葉を読み違えたのか、そもそも神様の声が届いていなかったのか。それは私には判断できません」
「じゃあ、ミコトは何を言ってたの?」
「記録を読んでいました」
「記録?」
「過去百年の農作記録と気象記録を並べて、今年はどのパターンに近いかを見ていた。それだけです」
花霞はしばらく黙っていた。
それからぽつりと言った。
「当たったのは、なんで」
「パターンが一致したからです」
「神様じゃなくて?」
「神様かどうかは知りません。ただ、数字が一致した」
花霞はまだ何か言いたそうだったが、廊下の向こうから別の巫女が呼ぶ声がして、小走りに去っていった。
私はその背中を見送って、書庫に戻った。
私の言葉は、その日のうちに村々へ広まったらしい。
数日後、私は村に出た。
王命の書状を持って、神殿から半日歩いた先にある農村に向かう。
私の話を信じて粟を作付けした村が、三つあった。
村長の老人が出迎えてくれた。
「あなたが、白砂の巫女様で」
「はい。少し調べたいことがあって来ました」
「稲はだめでした。でも粟は取れた。おかげで今年は食えます」
老人は皺だらけの顔で頭を下げた。
「ありがとうございます、巫女様」
私は少し困った。
礼を言われる立場ではない気がした。
「たまたま記録が合っていただけです」
「たまたまでも、助かりました」
村を歩いた。
子どもたちが走り回っていた。
女たちが粟を干していた。
男たちが来年の田を整えていた。
飢えた子どもの泣き声は、どこにも聞こえなかった。
それだけで、今年の計算は間違っていなかったと思えた。
隣村では、今頃人々が食料を奪い合っているという話を聞いた。
記録が、これを分けた。
数字が、これを分けた。
私は村の外れに立って、遠くの山を見た。
雪が少し残っていた。
来年の冬の気温が、今から気になった。
村長に頼んで、若い娘を一人紹介してもらった。
雨宮ユズ、十八歳。
利発そうな目をした、小柄な娘だった。
「字は書けますか」
「書けます」
「数字は」
「読み書きは。計算は少し」
「十分です」
私はユズに、簡単な計測道具と記録用の帳面を渡した。
「毎朝、気温と雨量と川の水位を測って、ここに書いてください。測り方は教えます」
ユズは帳面を受け取って、まじまじと見た。
「これを書いたら、何になるんですか」
「未来の凶作を防げるかもしれません」
ユズは少し考えた。
「……わかりました。やります」
あっさりした返事だった。
難しいことを聞かないところが、好ましかった。
神殿に戻ると、常盤が待ち構えていた。
五十がらみの神官。保守派の筆頭で、私を目の敵にしている男だった。
「白砂ミコト」
「はい」
「村に行ったそうだな」
「王命の書状を持って、記録の調査に行きました」
「民に何を吹き込んだ」
「何も。ただ帳面と計測道具を渡してきました」
常盤は眉をひそめた。
「貴様のやっていることは、神への冒涜だ」
私は彼を真っ直ぐ見た。
「どのあたりが冒涜に当たりますか」
「数字で未来を読もうとすること自体が、神の領域を侵している」
「記録をつけることも冒涜ですか」
「詭弁を言うな」
「詭弁ではありません」
私は冷静に言った。
「私は神の声を聞こうとしているのではありません。過去に何が起きたかを調べているだけです。農民が来年の種籾を残すのと、同じことをしているつもりです」
常盤は何も言わなかった。
言葉に詰まったというより、私と言い合うこと自体が不快なのだろう。
「月読様がお呼びだ」
それだけ言って、踵を返した。
最高巫女の部屋は、神殿の奥にあった。
月読は窓際に立っていた。
二十八歳。この国で最も強い霊力を持つと言われる女性。長い黒髪と、静かな双眸。
美しい人だと思う。
そして、怖い人だとも思う。
「座りなさい」
促されて、私は床に座った。月読は振り返らなかった。
「村に行ったそうですね」
「はい」
「民に、記録をつけさせると」
「はい」
しばらく、沈黙があった。
「あなたは、何がしたいのですか」
月読の声は静かだった。
怒っているのか、試しているのか、わからなかった。
「飢饉を防ぎたいのです」
「神託のやり直しですか」
「違います。私には霊力がありません。神の声も聞こえません。ただ、記録が読めます。数字が読めます。それを使って、民が餓えないようにしたい。それだけです」
月読がようやく振り返った。
「あなたは、神が不要だと言いたいのですか」
「そんなことは言っていません」
「では何を言っている」
「人にできることは、人がやればいい。それだけです」
月読はしばらく私を見つめた。
その目に何が映っているのか、私には読めなかった。
「……続けなさい」
最終的に、彼女はそう言った。
「ただし」
静かな声が続く。
「神殿の秩序を乱すことは、許しません」
「わかりました」
「わかっていないでしょうけれど」
月読は再び窓の外を向いた。
私は頭を下げて、部屋を出た。
書庫に戻って、蝋燭に火をつけた。
続けていい、ということだ。
今のところは。
次の台帳を開く。
今度は疫病の記録だ。
凶作の翌年は、栄養不足で免疫が落ちる。
疫病が流行る年が多い。
もし今年が本当に凶作なら、来年は疫病が来る。
だから今のうちに、記録を調べておく。
神に頼れないなら、自分で考えるしかない。
それは別に、苦しいことではなかった。
やることが決まっている。
数字は嘘をつかない。
それだけで十分だった。
蝋燭の火が揺れた。
夜が、また始まった。
その年の秋。
稲は壊滅した。
国の半分が凶作に見舞われ、神殿は静まり返った。
神託は外れた。
けれど私が事前に忠告した三つの村だけは、粟を多く作付けしていた。稲がだめになっても、粟が育った。
飢えた民が、その村に集まった。
人々は囁いた。
「神託ではなく、計算で未来を当てた巫女がいる」
「呪われた巫女が、村を救った」
私はその話を書庫で聞きながら、次の記録を書き続けた。
当てたのではない。
変えたのだ。
未来は、変えられる。
それを、これから証明していく。




