第九話 神の巫女との決戦
秋の終わり。
木々の葉が落ち、神殿の中庭に枯れ葉が積もる季節になった。
私は局の部屋で、いつも通り帳面を開いていた。
十二か所からの観測記録。今年最後の報告が出揃いつつあった。来年の春に向けた予測を始めなければならない。
そのとき、花霞が走り込んできた。
「ミコト」
息が切れていた。
「どうしましたか」
「月読様が、神託を下した」
私は手を止めた。
「内容は」
「三日後に、神罰が下る、って」
花霞は声を落とした。
「王の、死を意味するって」
神殿の広間が、騒然としていた。
私が着いたときには、すでに神官のほとんどが集まっていた。常盤が前に立ち、神託の内容を繰り返していた。
「三日後の夜、神罰が下る。王がその命を全うするためには、神殿への帰依を深め、神の道に従わなければならない」
神官たちが頷いていた。
私は広間の隅で、その言葉を聞いていた。
神罰。
三日後。
王の死。
頭の中で、ゆっくりと整理し始めた。
その夜、風車レンが局に来た。
珍しく、顔が硬かった。
「聞いたか」
「聞きました」
「お前はどう思う」
私は帳面を机に置いた。
「一つ確認させてください。王の身辺で、最近変わったことはありましたか」
「変わったこと?」
「人の出入り、食事の調達先、護衛の配置、王が使う部屋の変化。何でも」
風車レンは少し考えた。
「……一つある」
「何ですか」
「先月から、政務室に新しい給仕がついた。神殿から推薦された人間だ」
「神殿から?」
「ああ。月読様の直属ではなく、常盤の系列から来た人間だと聞いている」
私は少し間を置いた。
「その給仕は、今もいますか」
「いる」
「王の食事を、誰が調達していますか」
「通常は厨房。ただし、特別な席では給仕が直接手配することもある」
「三日後に、特別な席の予定はありますか」
風車レンの目が、わずかに鋭くなった。
「……神殿主催の秋の祭祀がある。王も出席する」
私は帳面を開いた。
「もう少し、調べたいことがあります」
深夜まで、私は考え続けた。
神罰が下る、という神託。
三日後。
王の死を意味する。
神託は、未来を告げるものだ。
しかし今回の神託は、少し違う形をしていた。
「神罰が下る」という言い方は、能動的だ。
天候や疫病とは違う。
それは自然が起こすものではなく、誰かが起こすものに近い。
そして神罰の回避条件として「神殿への帰依を深めること」が提示された。
これは、政治的な圧力だった。
神託を使って王を従わせようとしている。
もし王が従わなければ、神罰という名の何かが起きる。
その「何か」を、誰かが用意しているとすれば。
私は紙に書き出した。
三日後の秋の祭祀。
神殿から派遣された給仕。
常盤の系列。
点と点が、線になりかけていた。
翌朝、風車レンが来た。
私は昨夜書き出した紙を見せた。
「これを見てください」
彼は紙を受け取って読んだ。
その顔が、どんどん硬くなっていった。
「暗殺か」
「可能性として。神託は、予言ではなく宣言かもしれません」
「宣言?」
「三日後に神罰を下す、という宣言。実行する人間がいる前提で、神託の形を取っている」
「神殿が……王を殺そうとしているということか」
「神殿全体ではないと思います。常盤の系列の、一部の人間が」
風車レンは少し黙った。
「月読様は」
「関与しているかどうか、わかりません。神託を下したのは月読様ですが、その神託が暗殺計画と連動しているかどうかは別の話です」
「どういうことだ」
「月読様は、本当に神の声を聞いたのかもしれない。ただ、その声を利用した人間が、別にいる可能性がある」
風車レンは紙を置いた。
「確認する方法はあるか」
「給仕の素性を調べることと、祭祀の場での食事の調達経路を追うことです」
「俺が動く」
「お願いします。ただし」
「何だ」
「大げさに動かないでください。相手が気づけば、計画を変えられます」
「わかっている」
彼は立ち上がった。
「お前は」
「私は別の角度から調べます」
「何を」
「過去に、神託が政治的に使われた事例がないか、書庫を調べます」
書庫に入った。
埃をかぶった棚の奥に、政治記録が眠っていた。農作記録や気象記録ではなく、王と神殿の関係を記した文書。
ほとんどが、神官の視点で書かれていた。
私は日付順に読み始めた。
五十年前。当時の王が神殿の意向に反する政策を取ろうとしたとき、神託が下った。内容は「神罰の予告」。王は政策を撤回した。
三十年前。神殿への予算削減を検討した王に、同じ形の神託が下った。削減は中止された。
十五年前。神殿の土地を再配分しようとした王の側近が、謎の病で亡くなった。
私は手を止めた。
謎の病。
記録の続きを読む。その側近の死後、土地の再配分は撤回された。そして翌月、神殿から新しい給仕が王宮に派遣された、という一行があった。
給仕。
今回と、同じだった。
私は書庫を出た。
昼前に、風車レンが戻ってきた。
その顔を見て、わかった。
「何かわかりましたか」
「給仕の素性を調べた」
彼は声を落として言った。
「表向きは神殿の奉仕者。しかし出身を遡ると、神託派の貴族に繋がる」
「神託派貴族?」
「神殿の権威を守ることで、自分たちの政治的な影響力を維持している貴族の一派だ。未来局が正式な制度になって以来、彼らの動きが活発になっていた」
私は頷いた。
「書庫でも、似たようなパターンを見つけました。過去に何度か、神殿への圧力に対して同じ手口が使われています」
「神託を使った脅し、そして実力行使か」
「はい」
風車レンは腕を組んだ。
「三日後の祭祀まで、時間がない」
「はい」
「給仕を今すぐ拘束するか」
「それは待ってください」
「なぜ」
「給仕は末端の実行者です。拘束すれば、計画は止まるかもしれない。でも黒幕は逃げます。次の機会に、また動く」
「では」
「罠を張りましょう」
計画を立てた。
私が紙に書き、風車レンが聞いた。
「三日後の祭祀を、予定通り行います。ただし、食事の調達を密かに変える」
「別の経路から調達するということか」
「はい。給仕には知らせず、王が口にするものだけを、信頼できる厨房の人間が直接用意する」
「給仕には気づかれないようにするのか」
「気づかれれば計画を変えてくる。だから表面上は、通常通りに見せます」
「給仕が動いたとき、どうする」
「その瞬間を押さえます。動かなければ、計画が別のところにあります。その場合は別の対処が必要になる」
風車レンは少し考えた。
「万が一、間に合わなかった場合は」
「王に近づく全ての食事と飲み物を、信頼できる人間が事前に確認します。多重の備えです」
「お前らしい」
「一つで足りなければ、二つ。二つで足りなければ、三つです」
「確率を下げる、か」
「可能性をゼロにするのは難しい。でも限りなく下げることはできます」
問題は、もう一つあった。
月読だった。
彼女が神託に気づいているか、あるいは暗殺計画に関与しているか。それが不明なままだった。
「月読様に話すべきか」
風車レンに聞かれた。
「……悩んでいます」
「珍しいな。お前が悩むのは」
「確証がないことを、証拠なしに人に伝えるのは、私のやり方ではありません。でも月読様が無関係なら、彼女も危険にさらされている可能性がある」
「どちらだと思う」
「月読様は、神の声を信じています。神殿の権威を守ることと、王を直接害することは、彼女の中では別の話だと思います」
「関与していないと」
「しているとは思えません。ただ、彼女の神託が、暗殺計画に利用されたという可能性はある」
風車レンは少し考えた。
「俺も、月読様は関与していないと思う」
「根拠は」
「あの人は、正面からしか戦わない」
私はその言葉を聞いて、少し考えた。
「……話します」
「月読様に?」
「はい。証拠は出揃っていませんが、彼女が知らないまま計画が進むのは、彼女への不義理です」
「俺が同席するか」
「お願いします」
その夜、月読に面会を申し込んだ。
月読の部屋は、いつも通り静かだった。
私たちが入ると、彼女は窓際に立っていた。振り返って、私と風車レンを見た。
「珍しい組み合わせですね」
「急いでお話しすることがあります」
私は直接、話した。
給仕のこと。書庫で見つけた過去のパターン。神託派貴族との繋がり。三日後の祭祀。
月読は黙って聞いていた。
途中で一度だけ、目を閉じた。
私は話し終えた。
沈黙が続いた。
「……妾の神託が、利用されたということですか」
月読が言った。
「可能性として。月読様が関与していると申し上げているのではありません」
「わかっています」
彼女の声は静かだった。しかし、その静かさの中に、何か違うものが混じっていた。
「神託は、妾には本当に見えたものです」
「信じています」
「でも、その神託を、誰かが別の目的に使った」
「そう思います」
月読は窓の外を向いた。
「常盤は」
「現時点では、直接の証拠はありません。ただ、給仕の素性を辿ると、常盤様の系列に繋がります」
「……そうですか」
長い沈黙があった。
月読が振り返った。
「妾に、できることはありますか」
私は少し驚いた。
「月読様が動いていただけるのですか」
「神託が暗殺に利用されたなら、神殿の名が汚れます。それは許せない」
私は頷いた。
「では一つ、お願いがあります」
「言いなさい」
「三日後の祭祀を、予定通り行ってください。変化があれば、相手が警戒します」
「通常通りに、ということですね」
「はい。ただし」
「何ですか」
「祭祀の場で、月読様が神殿の人間の動きを見ていてください。私たちが見えない角度から、何かが起きるかもしれない」
月読は少しの間、私を見ていた。
「……わかりました」
三日後。
秋の祭祀の日が来た。
神殿の広間が、飾りで彩られていた。白と金の布。香の煙。神官たちの白い装束。
王が到着した。
風車レンの部隊が、目立たない形で配置についていた。
私は広間の隅に立って、全体を見ていた。
給仕が動いた。
王の席に近づいた。食事の器を持っていた。
それは予定通りの動きだった。
しかし、私は一つ、違和感を感じた。
給仕の手が、わずかに震えていた。
私は風車レンを見た。彼も気づいていた。目が合った。
給仕が器を置こうとした瞬間、別の給仕が横から近づいた。
信頼できる厨房の人間だった。
「こちらに置いてください」
自然な動作で、器を受け取った。
最初の給仕が、一瞬固まった。
その瞬間を、風車レンの部隊が押さえた。
広間が騒然とした。
しかし王は座ったままだった。動じた顔をしていなかった。
風車レンが給仕を連れ出した。
残された器を、部下が確認した。
しばらくして、風車レンが戻ってきた。
「毒だ」
静かに、私に言った。
「器の底に仕込まれていた。量は少ないが、確実に効く種類だ」
私は頷いた。
「給仕は」
「話している。常盤の指示だと言っている」
「常盤様は今、どこに」
「広間にいる」
私は広間を見た。
常盤が、出口に近い場所に立っていた。その顔が、青くなっていた。
月読が、常盤の前に立った。
二人の間で、何か短い言葉が交わされた。
常盤が動こうとした。
月読が、静かに首を振った。
常盤は動けなかった。
王の命令で、常盤と給仕、そして神託派貴族の数人が拘束された。
広間がしんと静まった。
私は広間の中央に立っていた。
月読が近づいてきた。
「ミコト」
「はい」
「あなたが正しかった」
私は少し考えた。
「正しいかどうかより、王が無事でよかったです」
「……そうですね」
月読は広間を見回した。
「神殿が、汚れてしまいました」
「汚れたのは、一部の人間の行為です。神殿全体ではありません」
「そう言えますか」
「はい」
月読が私を見た。
「あなたは、神殿を恨んでいない」
「恨む理由がありません。私を認めてくれた方もいれば、守ってくれた方もいる」
月読は少しの間、黙っていた。
「……ありがとう」
それだけ言って、彼女は広間の奥へ歩いていった。
翌日、風車レンから報告が来た。
常盤の取り調べで、神託派貴族との繋がりが明らかになっていた。
未来局の正式制度化を機に、神殿の影響力が低下することを恐れた貴族たちが、常盤を通じて計画を立てていた。
月読の神託は、利用されたのだった。
月読自身は関与していなかった。
「月読様は、今どうしていますか」
私は風車レンに聞いた。
「部屋に閉じこもっている。誰とも会おうとしない」
「そうですか」
「お前が会いに行くか」
「……少し、時間を置きます」
「なぜ」
「今は一人でいたい時間だと思います。自分の神託が利用されたことを、整理しなければならない」
風車レンは少し考えた。
「お前は、あの人のことをよく見ているな」
「観察するのが仕事なので」
「人の感情も観察するのか」
「数字にはなりませんが、傾向はわかります」
三日後、私は月読の部屋を訪ねた。
月読は座っていた。
目が少し、疲れていた。
「来ましたか」
「少し、遅くなりました」
「いえ。ちょうどよかったです」
私は彼女の前に座った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何ですか」
「月読様が見た神託、三日後に神罰が下るという言葉は、本当に見えたものでしたか」
「はい」
「その神罰が、暗殺だとは思いませんでしたか」
月読は少しの間、黙った。
「……思いませんでした。神罰は自然なものだと、思っていました」
「そうですか」
「妾は、利用されました」
「はい」
「それが、悔しいのではなく、神の言葉を、人の悪意に使われたことが、許せない」
私は頷いた。
「月読様」
「何ですか」
「神殿はこれからどうなりますか」
月読はしばらく考えた。
「常盤とその系列が去れば、神殿は小さくなります。影響力も落ちます」
「それは」
「わかっています。でも」
月読が私を見た。
「汚れたまま大きいより、清いまま小さいほうがいい」
私は少し驚いた。
「月読様は、思っていたより柔軟な方ですね」
「そうでもありません。ただ」
彼女はかすかに笑った。
「あなたを見ていて、少し変わりました」
「私が?」
「霊力がなくても、神殿で生き残った。神託がなくても、民を助けた。それを見ていて、妾が守ろうとしていたものは何だったのかと、考えるようになりました」
私は答えなかった。
月読が続けた。
「神の声は、本物です。でもその声を正しく使うのは、人間の仕事です。妾はそれを、あなたに教えてもらいました」
局に戻ると、花霞とゴウとユズが待っていた。
花霞が飛びついてきた。
「よかった、無事で。心配したよ」
「心配をかけました」
「王様は本当に大丈夫なの?」
「はい。無事です」
「毒って聞いて、ぞっとした」
ゴウが静かに言った。
「局長が気づかなかったら、どうなっていたか」
「気づいたのは私だけではありません。風車さんが動いてくれたし、月読様も助けてくれた」
「でも、最初に気づいたのは局長だ」
「数字があったから気づけました。書庫の記録がなければ、過去のパターンが見えなかった」
ゴウは頷いた。
ユズが言った。
「記録って、本当に大事ですね」
「はい」
「農作だけじゃなく、こういうことにも使えるんだ」
「記録は、あらゆることに使えます。積み重なれば積み重なるほど、見えるものが増えます」
その夜、私は一人で書庫に来た。
今回使った文書を、棚に戻した。
五十年前の記録。三十年前の記録。十五年前の記録。
これらが残っていたから、今回のパターンに気づけた。
記録を残した人間のことを、考えた。
当時の神官が、几帳面につけていた台帳。それを誰も見ないと思っていたかもしれない。でも残していた。
そのおかげで、今夜の王が生きている。
記録は、すぐに役立つとは限らない。
でも、いつか役に立つ。
だから残し続ける意味がある。
私は書庫の棚を見渡した。
百年分の記録。
農作、気象、交易、政治。
この国の人間たちが積み重ねてきたもの。
私は書庫を出た。
廊下の窓から、夜空が見えた。
星が出ていた。
明日も、記録する。
明後日も、記録する。
それが、続いていく。




