第一話 未来が見えない巫女
「神託は、外れます」
神殿の広間が静まり返った。
巫女たちの白い袖が、風もないのに揺れる。
この国では、未来は神が決める。
そしてそれを伝えるのが、巫女の役目だった。
だからこそ、誰も言わない。
神の言葉が間違っているなどと。
――けれど。
「今年は豊作ではありません」
私は古い農作記録を閉じて言った。
「飢饉になります」
その瞬間、広間の空気が凍りついた。
神託を否定する。
それはこの国では、神への反逆と同じ意味だった。
神託に逆らった巫女は、歴史上一人もいない。
少なくとも、記録に残っている限りでは。
神殿の広間には、白と金の光が満ちていた。
磨き抜かれた石畳。天井から垂れる白布。正面の祭壇には神鏡が据えられ、その前に最高巫女・月読が立っていた。
今日は年に一度の豊穣神託の日だった。
国中の神官と巫女が集い、今年の農作を占う。その言葉一つで、作付けが決まり、税率が決まり、民の暮らしが決まる。
神託とは、それほどの重みを持つものだった。
月読が目を閉じる。彼女の神託は、二十年外れたことがない。
長い沈黙のあと、彼女の唇が動いた。
「今年は豊作。民は飢えを知らぬ」
広間に安堵の空気が流れた。
巫女たちが深く頭を垂れる。神官たちが筆を走らせる。これでよし、これで決まり、あとは神の思し召しに従うだけ。
誰もが、そう思っていた。
私を除いて。
「……申し上げます」
声が出た瞬間、自分でも少し驚いた。
広間の視線が一斉に集まる。末席に座る、一番位の低い見習い巫女。それが私だった。
白砂ミコト。年齢十七。神殿に仕えて三年。
神託が一度も降りたことのない、この国で唯一の「霊力ゼロの巫女」。
陰では「呪われた巫女」と呼ばれていた。
「なんですか、ミコト」
月読の声は静かだった。だが、冷たかった。
「神託に、異議があります」
今度こそ、広間が完全に凍りついた。
少し、説明をしなければならない。
私はこの国の生まれではない。
正確に言えば、この体はこの国で生まれた。けれど中身は、現代日本から来ている。
前世の私は、都内のIT企業でデータ分析の仕事をしていた。売上予測、在庫管理、顧客行動のモデリング。数字を読んで、パターンを見つけて、確率を計算して、「次に何が起きるか」を予測する、そういう仕事だ。
気がついたら、この世界にいた。
気がついたら、巫女の格好をしていた。
気がついたら、霊力がゼロだった。
最初の一年は混乱した。
次の一年は観察した。
そして三年目に、ようやく気づいた。
この国の「神託」は、当たることもある。けれどその仕組みは、霊感でも神の声でもなかった。
それは、経験の蓄積だった。
長年の記録から生まれる、無意識のパターン認識だった。
そして私には、それを意識的にやれる技術があった。
「異議、とは」
月読が一歩、前に出た。
その眼差しは穏やかではなかった。
「今年の神託は豊作と出た。それを否定するというのですか」
「否定ではありません」
私は膝の上に置いた冊子を、静かに開いた。
神殿の書庫から借り出した、過去百年分の農作記録。誰も見向きもしない、埃をかぶった古い台帳だった。
「数字を、ご覧いただきたいのです」
広間がざわめく。神官の一人が「無礼な」と呟いた。
構わず、私は続けた。
「今年の冬の気温は、過去十年の平均より三分低うございました。春の雨量は平年比で六割。山の雪解けが早く、田植え期の水量は不足しました。この三条件が重なった年を、過去百年で調べますと――」
私は台帳の一ページを、神官席に向けて広げた。
「七回ございます。そのうち六回が、凶作か飢饉になっております」
沈黙。
「確率にして、八十六パーセント」
さらに沈黙。
「今年は、飢饉になります」
当然、処罰された。
広間から引き出されて、神官詰め所の小さな部屋に閉じ込められた。
罪名は「神託否定の言動」。本来なら神殿追放に値する重罪だという。
部屋の隅で膝を抱えながら、私はため息をついた。
わかっていた。言えば罰せられる。それでも言わなければ、子どもが餓える。
この国では神託は絶対だ。それを公の場で否定すれば、どうなるか。三年間、ずっと黙っていたのに。
けれど今年の数字を見たとき、どうしても黙っていられなかった。
飢饉が来る。
子どもたちが餓える。
それをわかっていて、何も言わないことのほうが、私にはできなかった。黙っている方が、罪だった。
「……馬鹿だな、私」
呟いたとき、扉が開いた。
入ってきたのは、見知らぬ男だった。
年の頃は十九か二十か。黒い武官装束に、腰に剣。神殿内では珍しい、武人の格好だった。
涼しい顔をしていた。
感情が読めない顔、というより、感情を出す習慣がないような顔。
「白砂ミコト」
名前を呼ばれた。
「はい」
「王直属の武官、風車レンだ」
男は部屋に入ってきて、私の正面に膝をついた。
同じ目線になって、真っ直ぐに私を見た。
「あの台帳の話、もう少し詳しく聞かせてもらえるか」
私は目を瞬かせた。
「……怒らないのですか」
「俺は神殿の人間じゃない」
彼は言った。
「神託がどうとか、神への冒涜がどうとか、そういう話をしに来たわけじゃない。俺が聞きたいのは、お前の計算が正しいかどうかだ」
私は少しの間、彼の顔を見た。
真剣な顔だった。
笑っていない。馬鹿にもしていない。ただ純粋に、答えを求めている顔だった。
「……正しいと思います」
私は答えた。
「八十六パーセントの確率で、今年は凶作か飢饉になります。これは神の声ではありません。過去の記録から導いた、数字の話です」
風車レンは少し考えた。
「八十六パーセントなら、備えるべきだな」
私は、また目を瞬かせた。
「……そう思われますか」
「当然だろう」
彼はあっさりと言った。
「雨が降る可能性が八割あるなら傘を持つ。戦になる可能性が八割あるなら兵を動かす。飢饉になる可能性が八割あるなら食料を備蓄する。それだけの話だ」
私は初めて、この世界に来てから、少しだけ笑った気がした。
その夜、風車レンは王のもとへ報告に上がった。
翌朝、神殿に王の使者が来た。
罰の取り消し。
そして奇妙な命令。
「白砂ミコトに、今後の農作状況を記録させよ」
月読はそれを聞いて、唇を一文字に結んだ。
神官の常盤は「神への冒涜だ」と声を荒げた。
見習い巫女の花霞は「なんで霊力もない子が」と囁いた。
私はただ、台帳を抱えて書庫に戻った。
まだ始まったばかりだ。
神への反逆とか、呪われた巫女とか、そういう話は後でいい。
今は次の数字を集めなければならない。
夏の気温、川の水位、虫の発生数。
今年の秋が来るまでに、できることをやる。
未来は神が決めるかもしれない。
けれど私は、数字を見る。
なぜなら数字は、嘘をつかないから。
私は未来を読む巫女ではない。
未来を計算する巫女だ。
未来は、神だけのものではない。




