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Page1 ——This is me?——

 春の朝は、どこか静かだった。


 車で登校して駐車した時、ふとそう思った。


 静か、というよりは音が遠い。人はいる。むしろ多い。久しぶりに見る顔、見覚えのある歩き方、変わらない校舎の白い壁。全てがそこにあるのに、どこか現実感が薄い。


 健康診断の日だからだろうか。


 授業が始まる前の大学は、いつも少しだけ不安定だ。目的を持った動きではなく、ただ「ここに来た」という事実だけで人が集まっているような、そんな空気がある。列をなして歩く学生たちの足取りは、どこか揃っていない。


 列の最後尾に並んだとき、初めて春の冷たさに気づいた。

 風が強いわけではない。ただ、肌の表面をなぞるような温度が、冬の名残を引きずっている。


 前に並ぶ学生の背中は、どれも少しずつ違っていた。

 背の高さ、肩の角度、リュックの重さのかかり方。人間は同じ形をしているはずなのに、こうして並ぶと微妙な差が浮き上がる。骨格の違いなのか、生活の違いなのか、それとももっと別の何かなのか。

 理由までは考えない。ただ、そう見えるという事実だけがそこにある。


 列はほとんど進まない。

 進んでいるはずなのに、動いている実感がない。人の流れというものは、こうして止まっている時間の方が長いのではないかと思う。目的のために動いているはずなのに、実際には待っている時間ばかりが積み重なっていく。


 周囲の会話は断片的に耳に入ってくる。


「春休みどうだった?」

「実習マジでだるくね?」

「え、別れたの?うそ」


 言葉は音として届き、意味になる前に消えていく。

 会話というものは、理解のためにあるのではなく、沈黙を埋めるために存在しているのかもしれない。そう考えると、人間は不思議な生き物だと思う。意味のない言葉を交わしながら、そこに安心を見出している。


 視力検査の案内が遠くで呼ばれる。

 誰かが前に進み、また列が詰まる。

 それを何度か繰り返すうちに、自分がどの順番にいるのかも曖昧になっていく。


 健康診断という行為は、社会が個人を測るための装置のように感じられた。

 身長、体重、視力、聴力。数値化された結果は、どこかで比較され、評価されるのだろう。健康であるかどうかさえ、結局は基準に照らされて判断される。

 人間は、生きているだけでは足りないのかもしれない。


 前に並んでいた学生が振り返り、何気ない視線をこちらに向けた。

 それだけで、少しだけ現実に引き戻される。


 僕はただ、順番を待っているだけだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 しばらくして、後ろから肩を軽く叩かれた。


「お、やっぱいたか」


 振り返ると、高瀬が立っていた。

 変わらない顔だ。少しだけ髪が短くなった気がする。


「久しぶり」


「久しぶりってほどでもないけどな。春休み何してた?」


「普通にバイトと勉強」


「お前らしいな」


 そう言って笑う。その笑い方も特に変わっていない。


 列はまた少し進んだ。


「3年だぞ、もう」


「そうだなあ」


「そろそろ就活とか考えてる?」


「大学院だな」


「出たよ」


 高瀬は呆れたように笑ったが、否定はしなかった。

 そういうところは嫌いではない。彼は現実的だが、他人の選択を過剰に踏み込んでくることはない。


 少し遅れて三浦も合流した。相変わらず落ち着いた雰囲気だ。


「人多いな〜」


「健康診断だからな」


「春って感じがしない」


 三浦のその言葉に、僕は少しだけ共感した。春というのはもっと軽やかなもののはずだ。だがここにあるのは、どちらかといえば重さに近い。


 その後、検査をいくつか回り、気づけば昼過ぎになっていた。解放された空気の中で、人の流れは一気に散っていく。


 その頃になって、西野たちから連絡が来た。


「夕方空いてる?ご飯行かない?」


 特に断る理由もなかったし、2人も行こうと言ってきたので、行くことにした。


 車で男2人を連れ、指定された場所に向かう。

 夕方の街は、昼間よりも現実的だった。店の前に並ぶ看板、車の音、歩く人の速さ。全てが目的を持って動いているように感じられた。


 店の前で一度、足が止まった。

 暖簾の隙間から漏れる光はやや黄色く、外の夕暮れとは別の時間が流れているように見える。扉を開けると、油と醤油の匂いが混ざった空気がゆっくりと流れ出てきた。


「おーい、こっち〜!」


 西野の声は店の奥から真っ直ぐ届いた。

 人の多い場所でも遠慮なく声を出せるのは、ある種の才能だと思う。視線が一瞬こちらに集まり、すぐに散っていく。


 席に着くと、まだ少しだけ余白のある空間が残っていた。注文も、会話も、どこか探り合うように始まる。箸の袋を開ける音、グラスが机に置かれる音、メニューをめくる紙の擦れる音。小さな音ばかりがやけに鮮明に耳に残った。


 西野はよく喋る。

 それは変わらない。話題は春休みの出来事から始まり、実習の不安、将来の話へと流れていく。誰かが笑い、誰かが相槌を打ち、また別の誰かが話を継ぐ。その循環は滑らかで、どこにも引っかかりがない。


 ただ、その中にいる自分だけが、少しだけ浮いているような感覚があった。


 料理が運ばれてくる頃には、店内のざわめきも一段落していた。隣の席の会話は断片的にしか聞こえない。だが、その断片さえも、どこか似たような響きを持っている。恋愛の話、仕事の話、誰かの不満。人が集まる場所では、話題は自然と似通ってくるものらしい。


「ねえ、好きな人とかいないの?」


 西野の視線はまっすぐだった。

 問いかけというより、確認に近い響きがあった。


 少しだけ間が空いた。

 答えを探していたわけではない。ただ、適切な言葉がすぐに見つからなかっただけだ。


「……よくわからん」


 自分でも曖昧な返答だと思った。

 だが、それ以上の説明をする気にはなれなかった。


 場の空気がほんの一瞬だけ静まり、その後すぐに別の話題が差し込まれる。誰かの笑い声が重なり、さっきまでの沈黙は跡形もなく消えていった。


 それでいい。

 問題はないはずだった。


 店を出た瞬間、夜の空気が思ったより冷たかった。

 さっきまでの室内の温度が、まだ皮膚に残っている。車のドアを閉めると、外の音は急に遠くなった。


 エンジンをかける。

 振動が足元からゆっくりと伝わってくる。その感覚が、現実に引き戻す役割を果たしているように思えた。


 信号待ちの赤が、やけに長く感じられる。

 前の車のテールランプだけをぼんやりと見ていると、時間の流れが曖昧になる。目的地は決まっているはずなのに、そこへ向かっている実感が薄い。


 今日一日を思い返してみる。

 特別な出来事があったわけではない。むしろ、どこにでもあるような日だったはずだ。健康診断があって、久しぶりに顔を合わせて、食事をして、他愛のない会話を交わした。それだけのことだ。


 それなのに、どこかに微かな引っかかりが残っている。


 誰かと同じ空間にいたはずなのに、自分だけが少し離れた場所に立っていたような感覚。話をしていなかったわけではない。笑っていなかったわけでもない。ただ、そこにいたという実感が薄い。


 必要とされている、という感覚はある。

 それは確かだ。求められれば応えることができるし、それに対して不満もない。むしろ、役割が与えられている状態は心地よいとさえ思う。


 だが、それとは別の種類の繋がりがあるらしい。

 それが何なのかは、まだよくわからない。


 恋愛という言葉でまとめられる感情は、どこか輪郭が曖昧だ。理屈として説明しようとすればできる。人間の本能や社会的な構造の話として理解することもできる。だが、それを自分の感覚として捉えることができない。


 だからといって、否定したいわけではない。

 ただ、そこに自分が存在しているイメージがうまく描けないだけだ。


 車窓の外を流れる街灯の光が、一定の間隔で視界を横切っていく。

 その規則的なリズムを見ていると、自分の考えさえもどこか機械的に感じられた。


 僕はうまくやれているはずだ。

 それは事実だと思う。


 それでも、どこかで少しだけ、置いていかれているような感覚が消えない。


 理由はわからない。

 きっとすぐに答えが出るものでもない。


 ただ、ふと思った。


「これは、本当に僕か?」と。

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