第5話
「はい、当院の救急病棟に入院されていますね」
時刻は丁度、昼を過ぎた頃。
雅兎と銀がアパートを出て、三軒目に訪れた救急指定病院。その受付で、二人はようやく柴石雅兎の所在を突き止めた。
「ありがとうございます」
優雅な仕草で事務員に礼を述べた銀は、ヒールの音を響かせながらエレベーターホールへ向かう。
雅兎は小走りでその背中を追いかけた。
すれ違う人々は、誰も雅兎に気づかない。
一方で、観海寺銀の際立つ美貌は、すれ違う男性たちの視線を強烈に惹きつけていた。
「すげぇ美人……」
「モデルか?」
そんな囁きが聞こえてくる。
けれど、誰も彼女の隣を歩く雅兎には目を向けない。
自分は本当に透明人間なのだと、雅兎は改めて実感させられた。
「そ、それにしても、よく教えてくれましたよね。個人情報とか、普通は教えてくれないと思うんですけど」
雅兎が何となしに呟くと、銀は前を向いたまま答えた。
「あれはわたしの力よ」
「力?」
「ええ。貴方、電車は乗る?」
「えっと、時々」
「貴方が満員電車に乗った時、ちょうど携帯電話に着信があったとする。どうする?」
「えと、次の駅で降りてかけ直すか、移動中だったら切ります」
「そうね。つまり、そういう事よ」
「……説明になってないですって」
煙に巻かれたような気分で雅兎が聞き直すと、銀はエレベーターのボタンを押しながら、「ならもう少しだけヒントを」と続けた。
「今、わたしと貴方が会話をしているわけだけど、周りの人から見ればわたしは独り言を喋っている変な女に見えるはずよね?」
「そうなりますね」
「なら、なぜ誰もその事を気にしないと思う? どれだけ小声で喋っていても、美女がブツブツ言っていたら目立つはずなのに」
チン、と到着音が鳴り、扉が開く。
銀は謎めいた笑みを浮かべたまま乗り込んだ。
結局、何も分からなかった。
フォーブル観海寺の管理人――観海寺銀。
彼女が一体何者なのか。考えれば考えるほど、深みにはまっていく気がした。
◇ ◇ ◇
三階。救急病棟のフロア。
消毒液の匂いが鼻をつく。
「ついたわ」
二人の目の前には、重厚な自動ドアが立ちはだかっていた。
銀がインターフォンを押す。
『はい』
「すみません、柴石雅兎さんの面会なのですが」
『……あ、はい。どうぞ』
ドアが開くと同時に、張り詰めた空気が肌を刺した。
ナースステーションで場所を聞き、二人は廊下の奥へと進む。
開けた部屋には幾つものベッドが並んでいた。
規則的な電子音。人工呼吸器のシュコー、シュコーという音。
そこは、生と死の境界線だった。
一番奥のベッド。
そこに近づいた瞬間、雅兎の心臓が早鐘を打った。
ベッド脇のパイプ椅子に、見知った人影が二つあったからだ。
通路側に座るのは、雅兎の育ての親である浜脇千代。
奥の椅子には、幼馴染の亀川亜李洲。
「……おや」
銀の気配に、千代が顔を上げた。
目の下には濃い隈があり、数年分老け込んだように見えた。
「どうも」
銀は眉尻を下げ、控えめに会釈をする。その静かな微笑みは、場に相応しい慎ましさを帯びていた。
亜李洲は俯いたままで、顔を上げようともしない。
「貴方は……」
「観海寺銀、と申します。柴石さんとは、大学の同級生でして」
流暢な嘘に、千代は立ち上がって深く頭を下げた。
「そうですか。わざわざ面会に来てくださって……雅兎も喜びます」
千代の視線が、ベッドに向けられる。
雅兎も、恐る恐る自分の「本体」を見た。
――酷い状態だった。
口からは太い管が差し込まれ、枕元の人工呼吸器に繋がっている。機械が空気を送り込むたびに、雅兎の胸が無理やり持ち上げられる。
ベッドの足元には巨大な装置が鎮座し、そこから伸びたチューブの中を、どす黒い鮮血が循環していた。
モニターには心電図の波形。
ピッ、ピッ、ピッ、と無機質な音が、命の綱渡りを告げている。
布団から覗く雅兎の手は白く、冷たそうだった。
千代は、その手にそっと触れた。
「……先生の話だと、運び込まれてきた当初から意識不明。すぐに自発呼吸も止まって、心肺停止状態になったらしいです。とても、厳しいと」
千代の落ち着いた声色に、亜李洲の肩がピクリと震えた。
「そう、ですか」
「手は尽くすと仰ってくださいましたから、わたしは信じたいと思います。……観海寺さんも、どうか、祈ってあげてください」
「はい」
看護師が持ってきた椅子に、銀も腰を下ろした。
三者三様の想いで、動かぬ肉体を見つめる。
重苦しい沈黙が支配していた。
「……どうします?」
不意に、銀が唇を動かさずに囁いた。
その声は雅兎にしか届いていないようで、千代たちに反応はない。
「ど、どうするって」
「今この身体に戻っても、最終的に助かるかどうかはわかりません。激痛に苦しむだけかもしれない。ならば、僅かでも回復の兆しが見えてから戻るというのも、選択肢の一つだと思いますよ?」
悪魔の囁きのような提案。
確かに、今の肉体に戻れば、地獄のような苦しみが待っているだろう。そのまま死ぬ可能性だって高い。
けれど。
雅兎は、首を横に振った。
「……今、戻りたいです」
雅兎は、憔悴しきった家族の顔を見つめた。
「例え僕の肉体がこのまま助からないのだとしても……このままじゃ、二人に最期の言葉も残せない。ありがとうも、ごめんねも言えないまま終わるなんて、嫌だ」
「そう」
銀は驚いた様子もなく頷いた。
試したな、と雅兎は思った。
この人は、雅兎がそう答えると分かっていて聞いたのだ。
「なら、自身の身体の胸に、手を押し当ててみなさい。肉体と魂が接触すれば、自然と一つに統合されるはずよ」
「わかりました」
雅兎はベッドに近づき、震える手を伸ばした。
包帯だらけの自分の胸板に、そっと掌を押し当てる。
ドクン、と。
吸い込まれるような感覚があった。
目を瞑る。
意識が闇に溶けていくのを待つ。
「…………」
しかし。
数秒経っても、数十秒経っても、何も起きなかった。
目を開けると、そこには変わらず、ベッドで眠る自分がいるだけだった。
雅兎は振り返って銀を見た。
銀は、珍しく眉をひそめていた。
「おかしいわね。いや、でも生霊となっている段階で、肉体と魂の間に何らかの壁ができている? そうなるとしたら、確かに接触だけでは元には戻らない……」
顎に手をあてて、ぶつぶつと考察を始める銀。
いや、困ってるのはこっちなんですけど!
「すみません、面会時間は終わりです」
非情にも、看護師の声がかかった。
千代と亜李洲が立ち上がる。雅兎も、後ろ髪を引かれる思いで病室を後にした。
◇ ◇ ◇
家族控室。
三人がソファに腰を下ろすと、千代が深い溜息を吐いた。
「希望が持てるだけ、ましなんですよ」
静寂を破るような千代の言葉。
十数年共に暮らした雅兎でさえ、聞いたことのないような弱々しい声だった。
「雅兎と一緒に交通事故に巻き込まれた高校生の子は……亡くなってしまったらしいです」
ドクリ、と心臓が跳ねた。
雅兎の心が激しく揺れる。
――また、間に合わなかったのか。
あの時、助けようとしたあの子は。
自分のせいで、死なせてしまったのか。
悔しさと無力感がこみ上げ、雅兎は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みだけが、彼がここに存在している証だった。
「えっと、柴石さんのご家族の方はおられますか?」
「はい」
控室に入って来た看護師に、千代が応じる。
「先生から、またお話があるそうなので、少しよろしいですか?」
「ええ」
千代は亜李洲の肩を軽く叩き、「すぐに戻るから」と言い残して出て行った。 残されたのは、亜李洲と銀。そして、誰にも見えない雅兎だけ。
重苦しい静寂。
張り詰めた糸のような空気が、プツリと切れる音がした。
「っ、っぐ、っ……」
嗚咽。
今まで石のように固まっていた亜李洲が、崩れ落ちるように膝に顔を埋めた。
「ぁ……うぅ、っ……」
小さな背中が震えている。
地面に、ポトポトと涙の染みが広がっていく。
雅兎はたまらず駆け寄り、彼女の肩に手を伸ばした。
温かい感触。
触れられるのに、伝わらない。
「亜李洲」
名前を呼んでも、彼女は気づかない。
ただ、悲痛な泣き声だけが部屋に響く。
「っああ、っぐう、ぅあ……雅兎、ぉ……」
我慢の限界を超えたのか、亜李洲は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
銀の存在などもう目に入っていない。
ただひたすらに、大切な人を失いそうな恐怖に溺れていた。
「……管理人さん」
銀に背中を向けたまま、雅兎は絞り出すように言った。
「どうすれば、元の身体に戻れますか」
その時、千代が戻ってきた。
泣き崩れる亜李洲を見て、気丈に振る舞っていた千代の顔も歪む。彼女もまた、今にも泣き出しそうだった。
絶対に見たくなかった顔だ。
一番大切な人たちを、こんな風に悲しませたくなかった。
自分の無力が、不甲斐なさが、何よりも許せなかった。
「……わからないわ」
ドンッ! 雅兎は壁を思い切り殴りつけた。
拳が痺れるほどの衝撃。それでも、音ひとつ立てず、誰にも気づかれない。
絶望が胸を塗りつぶそうとした、その時。
「でも、可能性を見つける為の方法はある」
はっとして顔を上げる。
銀は、冷徹なまでに静かな瞳で雅兎を見据えていた。
「里見の仕事は退魔師。人間に危害を加える『魔』を滅するのが本業だけれど、それ以外にも、超常的な事件の解決も請け負っているわ」
銀は足を組み替え、淡々と続ける。
「この世の理から外れた事象には、必ず原因がある。里見と共に事件を解決していけば、今回のケースと類似する事例に出会うかもしれない。そこから、貴方が身体に戻るヒントが得られる可能性はあるわ」
「…………」
「勿論、わたしの方でも手段を探してはみるけれど……ただ待っているだけよりは、マシなんじゃないかしら?」
それはつまり、雅兎が里見の仕事を手伝うことで、活路を見出そうという提案だった。
確証なんてない。雲を掴むような話だ。
けれど。
雅兎はもう一度、泣きながら抱き合う家族を見た。
千代が亜李洲の背中を撫でている。その手もまた、震えていた。
――やるしかない。
少しでも、僅かでも可能性があると言うのなら。
雅兎は涙を拭い、銀に向き直った。
その瞳には、強い決意の光が宿っていた。
「手伝いでも、何でもやります。だから、」
「ええ」
銀は満足げに頷いた。
これが、柴石雅兎の不可思議な臨死体験の始まり。
そして、妖怪退治という非日常への入り口となった。
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