第19話
雅兎の知らない女性だった。
背丈は雅兎と同じくらいで、女性としては長身だ。
日本国内ではまずお目にかかれない、腰まで届く天然の赤毛。その美しさは人間離れしていて、どこか幻想的な魅力を醸し出している。
サツキの美しさが「精巧な彫刻」なら、この女性のそれは「完成された絵画」に近い。
「え、えっと……」
しかし、雅兎にはその美貌を楽しむ余裕などなかった。
雅兎という生霊が見えて、声をかけてきた段階で、ただの人間であるはずがないからだ。
女性はにこり、と笑って言った。
「キミ、美味しそうだね」
低音ながら美しい声。
その台詞に、雅兎の背筋が粟立つ。
ザッ! 刹那、雅兎と女性の間に影が躍り出た。
里見だ。その手には、黒塗りの刀が握られている。
「さ、里見。こんな人通りのある所で」
言いかけて、雅兎は口を噤んだ。
辺りを見渡すと、先程まで溢れかえっていた人混みが、嘘のように消え失せていた。
モールには、もう誰も居ない。
景色全体がくすみ、色調が現実の世界よりもずっと暗い、セピア色に染まっている。
「これが、貴方の狩り場ね」
里見は、刀の切っ先を女性へと向けた。
当の女性は楽しげに高笑いすると、両腕を広げて見せた。
「正解」
軽快な口調。余裕の表れだ。
「キミは? 見たところ退魔師のように見えるけど、私の力ぐらい推し量れるんじゃないの?」
「そんな貴方は、吸血鬼、って所かしら?」
――吸血鬼。
それは、伝説上に語られる「最強」にして「最凶」の化け物の一角。
「ばれた? ふふ、少しだけ、相手をしてあげるよ。退魔師さん」
バサッ! 女の背中から、巨大なコウモリの翼が二つ、広がった。
爪は十本が等しく鋭利に伸び、凶器へと変貌する。
初撃は、吸血鬼からだった。
一息で里見の懐にまで飛び込み、そのままの勢いで右腕を振るう。
里見はバックステップで回避し、即座に斬りかかった。
だが。
「遅いね」
振るわれた刀身の先に、吸血鬼の姿はもう無い。
背後に迫る殺気。
里見は戦慄した。
これまでの経験で培ってきた第六感が、彼女をその場で屈ませる。
ヒュンッ! 頭上を通り抜けていく、死の爪。
里見はそのまま、吸血鬼の足を払おうとする。
「ふふ」
しかし、吸血鬼は翼をはためかせ、軽々と宙に逃げた。
里見もまた、空気を足場にして高くジャンプする。空中戦は、彼女の十八番だ。
だが。
「その程度かい?」
追いすがる里見を、吸血鬼はあざ笑うかのように翻弄した。
空中での格闘戦。それは赤子の相手をするかの如く、一方的な蹂躙だった。
里見の攻撃は尽く弾かれ、避けられる。
初めて見る里見の焦った表情が、雅兎の心を鷲掴みにする。
「そんな――」
里見が大振りで刀を振るった、その瞬間。
吸血鬼の掌底が、鳩尾に深く突き刺さった。
ガハッ! 里見が吐血し、そのまま空中から落下する。
「里見!」
雅兎は全力で走り、すんでの所で彼女をキャッチした。
ドサァッ!
「ぐげぇ」
超高所から落下した人体を受け止め、雅兎の腕が嫌な音を立てて折れた。
激痛。
しかし、数瞬後には身体が光り、痛みは消え失せていた。能力が自動で発動したのだ。
「弱々しいなあ、人間は」
「さ、里見!」
上空から降り注ぐ、威圧的な声。
雅兎は気絶した里見をそっと寝かせ、立ち上がった。
首を傾げ、吸血鬼と対峙する。
「私は吸血鬼。夜を統べ、空を統べ、魔を統べる者。人間なぞに後れはとらない」
大きく広げられた翼。赤く光る眼球。
背中に背負った月が妖しく瞬く。
歴然たる力の差。
雅兎は震える脚を叱咤し、大地を踏みしめた。
吸血鬼はそんな雅兎を見て、面白そうに目を細めた。
「人間……ではないか。なるほど、生霊か。珍しい物を見たね」
「…………」
雅兎は無言だった。
単純に、震えて声が出ないのだ。
口を一文字に結び、両手を広げて里見を庇う。
絶対に、触れさせはしない。
「良い気概だ。……でも」
ヒュッ。
上空から滑空してくる姿は見えていた。
しかし、目で追えただけだ。雅兎の身体は一歩も動けない。
ああ、ここで終わりか。
柴石雅兎という人間は、ここぞという時に、思考ばかり冷静になる人間だった。
カキィン! 不意な金属音。
雅兎が目を見開くと、目の前に小さな背中があった。
盾を構えたドールが、吸血鬼の爪を受け止めていたのだ。
「お、お前……」
ドールは、その小さな体躯からは想像も出来ぬ力で吸血鬼を押し返した。
吸血鬼は余裕の表情を崩さぬまま、顎に手をやる。
「人形……珍しい業だ。テレキネシスの一種かな? でも――」
振るわれた右腕。
今度は受け止める事もかなわず、盾は無残に粉砕された。
吸血鬼の表情が緩む。
ドールはしかし、これを好機と見た。
盾を捨て、両手で剣を構え直し、吸血鬼の胸元に飛び込む。
「遅すぎるよ」
宵闇の王の前で、その程度の動きは子どもの遊びだ。
吸血鬼はドールを鷲掴みにし、そのまま握りつぶした。
バキバキバキッ。
無惨な音が響く。
「ふぅむ……」
残骸を捨てた吸血鬼は、里見の前から動かない雅兎を見つめた。
そのまま雅兎の右腕を掴み、持ち上げる。
「な、なにを――」
「っん」
吸血鬼は雅兎の指先を口に含むと、甘噛みをした。
チクリとした痛みと、熱い感触。
ちゅうちゅうと、指先から生き血を啜られる音が響く。
振り払おうとして、雅兎は気づいた。
金縛りにあったように、身体が全く動かない。
「な、」
吸血鬼は恍惚な笑みを浮かべ、「美味しい」と吐息を漏らした。
「なるほど、キミの血液は純粋な霊体。道理で濃厚な味わいだと思った」
頬に触れる冷たい指先。
雅兎は吸血鬼に見つめられたまま、意識が遠のいていくのを感じた。
雅兎は崩れ落ち、吸血鬼の腕の中に抱きとめられた。
吸血鬼は雅兎を抱え上げ、気絶したままの里見を見下ろした。
「この美味しい子に免じて見逃してあげるよ。でも、二度目はないから。肝に銘ずることだね」
そう言い残し、吸血鬼は夜空へと羽ばたいていった。
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