プロローグ
「……カトレア・ドリスタン。貴様の自分の悪行を自覚しているのか?」
――皇太子レオ・イグナティウスの言葉に、誰もが息を呑んだ。
学園の舞踏会場。ガラス張りの天井。夜空を映したシャンデリアが煌めく中、貴い血筋を引く子らの冷たい視線が カトレア・ドリスタンに注がれていた。
カトレア・ドリスタン――名門ドリスタン公爵家の令嬢で、皇太子の婚約者。
トワイライトのような鮮やかな紫の長い髪、日が落ちる直前の強く瞬く茜の瞳を持つ彼女は、恐れるどころか――ゆるりと微笑んでいた。
「……悪行?」
婚約者に言うにはいささか愛のない台詞を吐いた皇太子に、カトレアはまるで憐れむような目を向け、彼の前に立った。
「悪行なんてお戯れを。いったい何を言っているのか分かりませんわ」
「姉さん、この期に及んでまだとぼけるんですか? これ以上愚かな行為は控えてください」
嚙みついたのはレオの隣に控えていたカトレアの弟であるフリージア・ドリスタン。だが、カトレアは気にも留めず、ただ静かに嗤う。
「姉さん、裏で自分が何と呼ばれているか知っています? 悪役令嬢ですよ。ロマンス小説に出てくるような権利を振りかざす悪女……」
「わたくしはただ教育していただけですのに、とんだ言いがかりですわ」
そう言ってカトレアは皇太子とフリージアの後ろで守られていた令嬢に視線をやる。
「あら? 平民ごときが分不相応な格好をしていますけど、来る場所を間違えたのではなくて? ここは馬小屋じゃありませんわよ」
平民と言われ、罵られた令嬢――ステラは顔を俯き手を震わせる。生徒会長でもあるレオは一生徒である彼女を庇うように手を挙げて視線を遮る。
「学園の生徒なら皆等しく参加できる。ステラだって我が校の立派な生徒だ。カトレア、貴様こそ場をわきまえろ」
「失礼しました。わたくし、うっかりしていましたわ。ここは宮廷ではありませんものね」
カトレアの隠す気のない悪意に、周りの者たちは蔑視を向ける。
「今回は見逃す。ただこれが最後のチャンスだと思え。
もし、己の身のふるまいを正さないようなら、宮廷で開催されるデビュタントにて貴様との婚約を破棄する――」
「あら、たかが皇太子である殿下が、皇帝の決定を覆すおっしゃるのですか?
我らが太陽である皇帝の決定の下、わたくしと殿下は婚約をしたのですよ。
婚約破棄をするとしても我が家――ドリスタン公爵家よりも相応しい令嬢が現れないと……例えば聖女とか?」
ステラの肩が揺れる。そんな彼女の動揺を楽しむようにカトレアは満足げに目を細める。
「まぁ、申し訳ございません。別に聖女として一向に覚醒しない貴女を責めているわけではありませんわ」
「カトレア!」
皇太子の怒声が響き渡る。
つねに冷静で皆の憧れで非の打ち所がない完璧な存在であるはずの彼が感情を露にする。
ただ、彼の表情には怒りだけではない。悲しみや戸惑いのようなものもどこか混じっていた。
そんな彼を見透かしているのか変わらずの余裕ありげな所作でカトレアは微笑む。
「あら、皇太子としていつも正しく振る舞う殿下らしくないですわ。
殿下もご体調が悪そうですし、これ以上は退屈なだけかと思いますので、わたくしは先に帰らさせていただきますわ」
そう言葉を残して、カトレア・ドリスタンは最後まで反省する姿を見せず堂々と舞踏会場を後にした。
◆◇◆
その様子を、会場の端で拳を握りしめながら見つめていたとある青年は、外へと飛び出した。
誰もいない夜の庭園を青年は目的もなく駆ける。
「カトレア……どうして……っ!」
行き場のない感情を彼は持て余していた。
青年はかつてのカトレア・ドリスタンを知っていた。
不器用で、口下手で、人見知りで、だけど、誰よりも努力家で一生懸命な心優しいカトレア。そんな彼女がなぜこんなにも傲慢な令嬢になってしまったのか。
「あれは……本当にあなたなのか?」
いや、傲慢どころの変化ではない。
不器用が擬人化したような、対人関係拗らせを服に着たような、絶望的なまでに令嬢として不向きな少女だった。
たかが数年で改善できるはずがない。できたら、彼女はもっと生きやすかったはずだ。
今の傲慢と自信を塗り固めたような態度が信じられない。
青年が知っているカトレアなら、そんな態度を取ろうとしただけで、自己嫌悪と緊張と恐怖で嘔吐するか気絶するはず。
青年はおもむろに立ち止まる。
雲に隠れていた月が姿を現し、彼のこげ茶の髪と瞳を淡く照らす。
特徴もない目立つこともない平凡な容姿をした脇役にすらなれないような青年。
そんな彼が不相応なまでに決意に満ちた表情で、迷いのない瞳で、変わってしまった彼女を想う。
何があなたにあったのか。
何があなたをそうさせたのか。
何があなたのためにできるのか。
夜の静寂の中、青年はただ一人、月明かりの下、小さく呟いた。




