第九話:渡江前夜
第九話:渡江前夜
決行の前夜。
長江の岸辺、葦の生い茂る秘密の集結地点に、呂蒙はいた。
月はなく、星々だけが、漆黒の水面に冷たい光を落としている。兵士たちは皆、武骨な商人の服装の下に、磨き抜かれた武具を隠し持っていた。彼らの顔に言葉はなく、ただ、決死の覚悟を目に宿し、静かに出撃の刻を待っていた。
呉の国家の命運を賭けた、壮大かつ危険な奇襲作戦の火蓋が、今まさに切られようとしていた。
最後の軍議を終え、呂蒙は一人、船の舳先に立ち、音もなく流れる長江の黒い水面をじっと見つめていた。
心は、嵐の前の海のように、不思議なほど静かだった。
(主君に与えられた学び。合肥で張遼に砕かれた誇り。魯粛殿に認められた喜び。兵たちの命の重さ。関羽という巨壁への恐怖。そして、勝利への、身を焦がすほどの渇望――)
あらゆる感情が、この黒い水面に溶けていくようであった。
彼は、もはや一人の武人・呂蒙ではなかった。呉という国家の意志、孫権の野心、そして死んでいった者たちの無念、その全てをその双肩に背負った、一つの巨大な「仕組み」そのものであった。
(ただ、為すべきを、為すのみ)
それは、合肥で見たあの張遼が放った閃光と同じ質の、極限まで研ぎ澄まされた魂の状態であった。個人の感情も、生死の念すらも消え去った、絶対的な静寂。
その静寂を、背後からかけられた一つの声が破った。
「子明」
呂蒙は、はっとして振り返った。そこに立っていたのは、簡素な旅装に身を包んだ、彼の姉であった。
「姉上、なぜこのような場所に…」
「お前の顔を見に来ただけさ」
姉は、無理に微笑みながらも、その眉は深くひそめられていた。彼女は、弟の青白い顔と、異常なほど冴え渡った瞳を見て、言い知れぬ不安を感じていた。
「鄧当殿も、お前のことをいつも気にかけている。決して、無茶はしてくれるなと…」
彼女は、そっと呂蒙の肩に外套をかけた。夜気は、存外に冷たい。
「子明、お前は少し、急ぎすぎているのではないかい。その目は、まるで何かに憑かれているようだ。武勲も大事だろうが、お前は、この呉にとって、かけがえのない人なのだよ。生きて、生きて帰ってくるのだよ」
その声は、弟の身を案じる、ただの肉親の声であった。
姉の言葉は、呂蒙の心の奥、絶対的な静寂の底に、小さな波紋を広げた。
(俺は、何をそんなに急いでいるのだろうか…?)
ふと、そんな疑問がよぎった。荊州を獲った後、俺は何を望むのか。その先にあるものは、一体何なのか。
しかし、彼はすぐにその問いを、心の隅へと押しやった。今は、感傷に浸っている時ではない。眼前の、この巨大な賭けに勝つこと。それだけが全てだ。
「…ご心配なく。必ずや、勝利と共に帰還いたします」
呂蒙は短く答えると、姉の顔を見ずに、再び長江の闇へと視線を戻した。その横顔は、もはや彼女の知る、あの腕白な弟のものではなかった。
姉は、それ以上何も言わなかった。
この弟が、もはや自分たちの手の届かぬ、遥か遠い場所へ行ってしまったことを、彼女は悟っていた。彼女は、ただ弟の背中の無事を祈りながら、闇の中へと静かに姿を消した。
やがて、出撃の刻を告げる、梟の鳴き声に似た角笛が、低く、短く、三度響いた。
「…行け」
呂蒙の静かな号令一下、偽装船団は音もなく岸を離れ、黒い龍のように、対岸の闇へと吸い込まれていった。
彼らの誰もがまだ知らない。この一夜が、三国鼎立の歴史を根底から覆す、永い夜の始まりになるということを。




