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第八話:忍び寄る影

第八話:忍び寄る影、揺れる心

呂蒙の「白衣渡江」の計は、水面下で、まるで川底を流れる暗流のように、着々と進められた。

彼は計画通り重病を装い、建業の自邸に引きこもった。呉の名医が昼夜問わず屋敷に出入りし、その門前には呂蒙の病状を案ずる者たちの見舞いの品が山と積まれた。その噂は、間者を通じて、樊城の関羽の耳にも届いていた。

「呂蒙、病に倒れるか。あの男も、合肥の傷が癒えておらなんだと見える。ふん、天罰よ」

関羽は、長年の宿敵の凋落を、せせら笑った。


その後任として陸口に赴任した陸遜は、関羽に対し、これ以上ないほど謙虚で従順な態度で接した。

彼の送る書状は、麗筆で綴られ、その一文一文が、関羽の武勇と威光を最大限に称賛し、呉が微塵も敵対する意志がないことを繰り返し強調していた。

『武神・関羽殿の武威は、遠く江東の地まで轟いております。若輩のこの陸遜、ただただ、将軍の背中を仰ぎ見るばかり。願わくは、ご指導ご鞭撻のほど、伏してお願い申し上げます』

その卑屈とも言える文面に、関羽は完全に油断した。

「陸遜とは、陸氏のただの若造よ。呂蒙とは器が違うわ。これならば、背後の憂いはなし」

彼は荊州の兵力の多くを樊城攻略に集中させ、呉との国境に近い南郡や公安の守備は、驚くほど手薄になっていた。

慢心は、最も堅固な城壁をも内から崩す。呂蒙と陸遜は、その人の心の理を、冷徹なまでに利用していた。


その間、病床にあると見せかけていた呂蒙は、影のように動き続けていた。

彼の密室には、江東全域から集められた情報が、昼夜を問わず運び込まれる。兵力配置、兵糧備蓄、烽火台の位置、そして、荊州の将たちの人物評。彼は、まるで熟練の棋士が盤上の駒を動かすように、膨大な情報を整理し、奇襲部隊の進撃路を定めていく。


そして、呂蒙は、もう一つの、より深く、より暗い場所に刃を差し込んだ。

人の心、である。

彼は、弁舌に長け、人の心の隙間に入り込む術に長けた腹心・虞翻(ぐほん)を密かに荊州へ送り込んだ。その目的は、南郡太守・麋芳(びほう)と公安の将軍・士仁(しじん)の調略であった。


南郡の太守府。麋芳は、関羽から送られてきた督促状を前に、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

『兵糧の輸送が遅れておる。このままでは、軍規をもって処断する』

その文面には、労いの言葉一つなく、ただ冷たい命令だけが記されている。

(俺は、劉備様の義理の弟だぞ!それを、まるで下人のように扱いおって…!)

麋芳も士仁も、劉備が蜀に入る前からの古参であったが、関羽の厳しい扱いに、長年不満を募らせていた。関羽にとって、彼らは「皇后の兄」というだけの、頼りない身内に過ぎなかった。


その夜、虞翻は、商人に化けて、密かに麋芳の寝室に現れた。

「麋芳様。夜分に失礼いたします」

虞翻は、深々と一礼すると、静かに語り始めた。

「我が主・孫権様は、麋芳様のご境遇に、深く同情しておられます。関羽殿の麾下では、貴殿方の才能は永遠に埋もれたまま。しかし、我が呉の孫権様は、貴殿方を国士としてお迎えし、正当に評価なさるお方。万戸侯の位と、黄金千斤を、お約束いたしましょう」

破格の条件であった。麋芳の喉が、ごくりと鳴った。

虞翻は、懐から一つの小箱を取り出した。

「これは、我が主君からの、ささやかな手土産にございます」

箱の中には、世にも美しい夜光の杯が、妖しい光を放っていた。

「…賢明なるご決断を、お待ち申し上げております。もし、我らの手に乗るのであれば、呂蒙様の本隊が近づいた折、城門をお開きくだされば、それで結構。もし、このことを関羽殿に報告なさるのであれば…」

虞翻は、ふっと笑みを浮かべた。

「…その時は、この虞翻、潔く首を差し出しましょう。ですが、そうなれば、関羽殿は貴殿をますます疑い、いずれ些細なことで命を奪うやもしれませぬな」


虞翻は、甘言と脅しを巧みに織り交ぜ、麋芳の心に毒を注ぎ込んだ。

関羽への恐怖と、呉からの甘い誘惑。劉備への忠誠と、己の保身。麋芳の心は、二つの巨大な石臼の間で、すり潰されそうになっていた。士仁もまた、同じ苦悩の淵にいた。


呂蒙が張り巡らせた見えざる網は、刻一刻と、油断しきった荊州の守将たちの喉元へと、音もなく忍び寄っていた。

武神の足元で、巨大な蟻の一穴が、静かに、しかし確実に穿たれようとしていた。

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