第七話:白衣渡江
第七話:白衣渡江
建安二十四年(二一九年)、秋。
天の時は、満ちた。
荊州に鎮座する武神・関羽は、魏の樊城を攻略すべく、その持てる兵力の大半を率いて、大規模な北伐を開始した。その武威は中華全土を震撼させ、魏の曹操ですら、あまりの勢いに恐れをなし、都を遷すことさえ検討するほどであった。
関羽の眼は、もはや完全に北へ、そして過去の栄光へと向けられていた。彼の背後にある江東の隣人たちのことなど、その誇り高い意識の中には、もはや一片たりとも存在しなかった。
その報は、呉の都・建業に激震をもたらした。
「好機!天が我らに与えた好機ぞ!」
「今こそ長年の懸案であった荊州を奪還し、関羽の無礼に報いる時!」
朝廷は沸き立った。若き将たちは功にはやり、老臣たちも雪辱の機会に気勢を上げる。
その熱狂の渦の中心で、呉主・孫権は、ただ一人、冷静に玉座に座していた。彼の視線は、居並ぶ将帥たちではなく、列の末席近くで静かに目を閉じている一人の男に注がれていた。
「…子明。そなたの意見を聞こう」
孫権の声に、議場は水を打ったように静まり返った。全ての視線が、呂蒙へと集まる。
呂蒙は、ゆっくりと目を開き、静かに立ち上がると、中央へと進み出た。
「陛下。諸将の申す通り、これは千載一遇の好機にございます。…ですが」
呂蒙の声は低く、しかし議場の隅々にまで響き渡った。
「好機であると同時に、最大の危機でもあります。関羽は百戦錬磨の猛将。些かの油断も禁物。我らの真意を悟られれば、彼の怒りの矛先は一気にこの呉へ向き、我が軍は壊滅的な打撃を受けましょう。…生半可な覚悟で臨めば、虎の尾を踏み、逆に食い殺されることになりましょうぞ」
その言葉には、合肥で張遼に敗北した者だけが持つ、本物の恐怖と戒めがこもっていた。浮ついていた将たちの顔から、血の気が引いていく。
そして呂蒙は、居並ぶ将帥たちの度肝を抜く、大胆かつ緻密な作戦計画を披瀝した。
「まず、この呂蒙は重病と称して前線を退きます。後任には、まだ若年で実績もなく、関羽に全く警戒されておらぬ陸遜殿を。陸遜殿には、徹底的に関羽を持ち上げ、へりくだり、その慢心を天まで届くほど煽っていただきます」
名指しされた陸遜は、表情を変えぬまま、静かに一礼した。
「その間に、私は密かに精鋭を選りすぐり、兵たちに商人の衣服を着せます。武器は全て船底に隠し、夜陰に乗じて長江を渡り、荊州の心臓部である江陵と公安を、音もなく、影もなく、直接奇襲いたします」
呂蒙は、地図の一点を指さした。
「作戦名――『白衣渡江』。白衣とは、すなわち、武人にあらぬ商人の姿。我らは武人であることを捨て、影となりて、武神の喉元に刃を突き立てるのです」
そのあまりの大胆さ、そして細部にまで計算され尽くした計画に、歴戦の将たちすら息を呑んだ。それは、戦というよりは、一つの巨大な謀略であった。
孫権は、呂蒙の揺るぎない自信に満ちた双眸に、江東の未来を賭けた。
「…分かった、子明。全てをそなたに一任する」
「御意」
軍議の後、呂蒙は、直ちに計画の準備に取り掛かった。
彼はまず、後任となる陸遜を私室に招いた。部屋には、二人きり。
「陸遜殿。この作戦の成否は、君が関羽の目をどれだけ欺けるかにかかっている。頼めるか?」
陸遜は、静かに頷いた。その瞳は、氷のように冷徹であった。
「お任せを。関羽殿が、私を赤子同然と侮るよう、完璧に演じてご覧にいれましょう。…ですが呂蒙殿、一つだけ、お尋ねしてもよろしいか」
「何だ」
「この策は、呉と蜀の同盟を完全に破壊いたします。その後の天下、どのようにお考えか?荊州を取った後、我らは魏と蜀、二つの大国を同時に敵に回すことになりはしませぬか」
その問いは、陸遜の、そして彼が代表する江南豪族たちの、現実的で、長期的な視点に立った問いであった。
しかし、呂蒙の答えは、あまりに短く、そして断定的だった。
「まずは荊州を取る。その後のことは、荊州を取ってから考える」
呂蒙は、窓の外の暗闇を見つめていた。その横顔に、合肥以来の焦燥が、濃い影となって浮かんでいるのを陸遜は見逃さなかった。この人は、あまりに道を急いでいる。荊州という一つの目標のために、あまりに多くのものを犠牲にしようとしている。
陸遜は、それ以上何も言わなかった。
(この策が成功しても、失敗しても、呉は大きな代償を払うことになる。だが、賽は投げられた…)
彼は、自らに与えられた困難な役目を、完璧に演じきることを心に誓った。そして、呂蒙のこの危うい賭けがもたらすであろう未来を、冷静に見極めようと決意した。
二人の天才は、互いの役割を胸に、それぞれの持ち場へと向かった。
呉の国家の命運を賭けた、壮大にして危険な奇襲作戦の幕が、今、静かに上がろうとしていた。